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大阪・阿倍野橋から半径2kmを学際的に徹底考察! 大阪大学の船越幹央先生らと自由に語らう“イタチバー”に潜入

2026年2月17日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

大阪・阿倍野橋から半径2kmの範囲内を、文化や歴史の側面から掘り下げる「アベノバシ半径2kmプロジェクト」。大阪大学総合学術博物館の副館長で教授の船越幹央先生をはじめとしたメンバーで、該当エリアの低湿地から台地までを含む起伏に富んだ一帯の地域的な特色を掘り下げています。2025年に開始されたプロジェクトには都市論、民俗学、歴史学、美術史などの専門家が参加。幅広い学問分野を横断し、研究会やフィールドワークなどを行っています。

 

一連の活動は、話題提供型のフリートークイベント「イタチバー」へと発展。研究者と一般の方が膝を突き合わせ、打ち合わせなしの自由闊達な意見交換を繰り広げてきました。イベント名の由来でもある大阪市浪速区を東西に流れていた鼬川(いたちがわ)についてや、大正から昭和にかけて活躍した日本画家・矢野橋村が開いた大阪美術学校などをテーマに、会を重ねてきたイタチバー。締めくくりの3回目となる「大阪ウエットランドダイバー ―大阪低湿地文化論序説―」の模様をレポートします。

イタチは土木技術者? 鼬川にまつわる幻想をひも解く

イタチバーの会場は、阿倍野橋から半径2km圏内に位置する「イチノジュウニのヨン」。西成に根差した酒場でありつつ文化サロンのような機能を果たしています。こぢんまりとした規模かつ定員は10名強とあって、おのずと登壇者と参加者の距離が近くなるのが特徴。普段はなかなか接する機会のない研究者と気軽に言葉を交わせる催しです。最終回となる今回は、近隣の山王集会所が会場に。それでも「バー」と銘打っているだけあって、いつもの「イチノジュウニのヨン」のフードとドリンクが提供される形で、会はスタートしました。

地域の生業や人と動物の関わりから民俗学を研究する俵さん

過去に「イチノジュウニのヨン」で開催された際のイタチバー

 

最初に登壇したのは大阪歴史博物館の学芸員で、民俗学が専門の俵和馬さん。生業と信仰をキーワードに、大阪の低湿地帯に暮らす人々がどのように生活を営んできたかを「妄想民俗学」と題して、あらゆる角度から考察しました。まず俵さんが着目したのは、阿倍野橋から半径2kmの低湿地で栽培されてきた伝統野菜。文化年間(1804年~1818年)に刊行された『五畿内産物図会』によると水はけのよい土地を好むアブラナ科の野菜が目立つことから、低湿地においては水路とうねを築いて水を抜く工夫がなされていたのではと推察していました。さらに大阪において水車の開発が盛んだったことは、低湿地ゆえの水害の多さに起因しているとの指摘もありました。

 

多岐におよんだ話題のなかでは、飛鳥時代に建立されたと伝える願泉寺(浪速区)の縁起に残るイタチにまつわる逸話も紹介。創建者で聖徳太子に仕えた小野多嘉麿がある日、老いたイタチと出会って四天王寺建立のための巨木を運搬する目的で、鼬川を開墾するよう告げられたというのです。もちろん、この話はフィクションですが、当時は地位の低い民が動物や妖怪になぞらえられるケースは珍しくなかったとのこと。俵さんは妖怪や民間信仰を研究する文化人類学者・小松和彦氏の論考も引き合いに、このイタチは土木工事に長けた技術者ではないかとの興味深い説を展開していました。

浮世絵の名作に描かれた題材から史実を再検証

続いては船越先生が登壇。幕末期の浮世絵『浪花百景』から、往時の阿倍野橋周辺に広がっていた風景を推察しました。取り上げられたのは、いずれもいまの浪速区を描いた「長町裏遠見難波蔵」「廣田社」「今宮蛭子宮」「廣田星カ池稲荷」「鐡眼寺夕景」の5作。これらを詳細に絵解きしつつ、史実や文楽、同じ土地を画題にした別の絵画と突き合わせて、整合性が取れるかどうかを検証しました。

前職の大阪歴史博物館では俵さんの同僚だった船越先生

風景や暮らしが描かれた浮世絵「浪花百景『長町裏遠見難波蔵』」(大阪市立中央図書館所蔵)

 

たとえば、現在の日本橋筋にあたる長町付近は傘の産地でした。近景に長町裏、遠景に幕府の米蔵を配した「長町裏遠見難波蔵」を見れば、確かに強風で空に舞う傘が描写されているのがわかります。また、同地が紀州街道の通る交通の要衝でもあったことも、別の浮世絵に登場する旅人の姿から理解できることが紹介されました。

 

話はさらに膨らみ、人形浄瑠璃『夏祭浪花鑑』で泥まみれの決闘が繰り広げられる長町は「実際には川砂を利用した耕作地が広がっていたはずで、矛盾があるかもしれない」との推理も。船越先生いわく「文字資料ではなく絵画に描かれた題材を見ていけば、さらに細かい歴史的な情報をくみ出す手がかりになる」とのこと。絵師の視点から読み解くかつての大阪の姿は、歴史理解にさらなる厚みを加えてくれることを予感させるものでした。

予測不能だからこそおもしろい参加者との“セッション”

2人の発表が終わり、休憩時間を挟んだあとはイタチバーの醍醐味である参加者とのディスカッションへ。約1時間にわたって、さまざまな意見や質問が飛び交いました。浪速区で干瓢(かんぴょう)の生産が盛んだったとの船越先生の説明に対し、文楽に造詣の深い参加者からは「『夏祭浪花鑑』では干瓢の原料になる夕顔が描かれていますよね」との指摘も。そこから発展する形で「長町裏遠見難波蔵」に見られるかぼちゃは、夕顔と同じ土壌でも育つので土地利用のあり方としてリアリティがあるといった具合に議論が深まっていきました。

 

「仏敵と見なされ、負のイメージを持たれていたイタチが四天王寺の建立を助けたとされる伝承は、まだまだ研究がなされるべき」と語った俵さんには、率直に「確かにおもしろいですね」という感想が。すると「そもそもかつての日本においては、イタチとタヌキは同じ動物として扱われてきた」とのトリビアも飛び出ました。このように、よい意味で予測不能な方向に話が転ぶのがイタチバーのおもしろさ。学識経験者と聴講者がはっきり分かれる講座とは異なり、双方向で情報のやりとりができる和やかな場がそこにありました。

オリジナルのコースターとともにデリバリーされたおつまみセット

後半からは登壇者の2人もドリンクを片手にリラックスムードで進行

学問が取りこぼしてきた“周縁部”に光を

会が終わったあと、船越先生と俵さんに話を聞きました。船越先生によれば「阿倍野橋から半径2kmを射程に定めたのは、あくまでもひらめき」なんだそう。しかし、エリアをしぼり込んだことがかえってプロジェクトに関わるメンバーの専門性、いわば「持ちネタ」を披露するうえでうまく機能しているようです。

 

また、俵さんが「妄想民俗学」を標榜したことからも明らかなように、必ずしも学術的な裏づけが確定していない自由な発表ができるのも、研究者にとって大きな刺激になっているといいます。実際、2人と参加者との肩の力が抜けたコミュニケーションからは、既存の大阪論とはまた異なる実験的な視座が生まれているようでした。

 

今回、低湿地をテーマに据えたこと自体も、研究のスポットライトが当たりにくい都市周縁部への関心があったからとのこと。俵さんは「大阪では庶民の多くが低湿地に暮らしていた反面、じゅうぶんな歴史的記録は残されていない。だからこそ、数少ない『食材』を煮込む余地があると思います」と、独特の表現で語ってくれました。人口のうえではより多くの人々が暮らしながらも、歴史が拾い上げてこなかった領域に光を当てる試みが持つ意味は、決して小さいものではないでしょう。

 

研究を生業とする人と学問に関心を寄せる人とが、同じ場所で思うままに学びを深める――イタチバーは、従来の研究という枠組みにとどまらない一種の「サードプレイス」といえるかもしれません。なおこの3月、アベノバシ半径2kmプロジェクトでは、1年間にわたる活動を振り返るシンポジウムを開催予定。気になる人はぜひ、足を運んでみてください。

※2026年3月8日(日)に開催のシンポジウムの詳細はコチラから

 

 

(編集者:稲田妃美/ライター:関根デッカオ)

水の都を彩る“八百八橋”の歴史と魅力とは? 「ブラタモリ」でガイドも務めた大阪大学の船越幹央先生に聞いてみた

2026年1月29日 / この研究がスゴい!, 大学の知をのぞく

大小たくさんの河川が流れ、「水の都」とも称される大阪。その都市構造から、おのずとそこかしこに橋が架けられることともなり、それらはあまりの数の多さから「八百八橋(はっぴゃくやばし)」の愛称で古くから親しまれてきました。大幅な市域拡張がなされた昭和初期には、大阪市内に最大で1600もの橋が渡されていたとする説も。数のうえでいえば、808のおよそ2倍もの橋を市民が往来していたことになります。

 

何気なく歩いていると通り過ぎてしまいがちですが、現代もさまざまな形で個性を主張する大阪の橋。この記事では、これほどまでに多くの橋が架けられるに至った地理的条件、豊臣秀吉の大胆な都市開発の影響、そして近代以降の街づくりの一環としての架橋に至るまで、大阪の都市文化に詳しい大阪大学総合学術博物館 副館長の船越幹央先生に話をお聞きしました。さらに橋を通して「いまの大阪」をより深く楽しむ鑑賞法についても教えていただきました。

 

それでは、知られざる大阪の橋の世界へ眼差しを向けてみましょう。

 

※冒頭の写真は天満橋(筆者撮影)

お話を伺った船越幹央先生

八百八橋の形成に至る“地理的前史”と“ゼネコン武将”

そもそもなぜ、大阪には多くの橋が架けられることになったのでしょうか? 前提として、かつて大阪市内のほとんどが海だったことが挙げられると船越先生は指摘します。その要因は縄文時代、氷河期に形成された氷が溶けて海面が上昇したこと。奈良県との府県境にあたる生駒山麓付近までが海となり、河内湾と呼ばれる湾が形づくられます。そこに半島として突き出していたのが、大阪平野のなかでも標高の高い上町台地でした。このころはまだ、梅田やなんばといった繁華街も海の底だったのです。

 

「私が勤務する大阪大学総合学術博物館に近い阪急曽根駅近くにも崖が残されていますが、そこはかつての海岸線です。古墳時代の5世紀ごろに入ると、河内湾は淀川と大和川から運ばれてくる砂によって、徐々に湖になっていきました。同時に周辺には、土地が低く水はけの悪い低湿地帯が目立ち始めます。ここが内陸都市である京都や奈良との大きな違いで、むしろ河川から堆積した土砂で形成された沖積平野に発展した江戸と共通する特徴があるといえます」

 

大量の土砂が流れ込むにつれ河内湾はやがて河内湖となり、中世に入ると上町台地の東側には少しずつ村落が形成。さらに明応5年(1496)に浄土真宗の僧・蓮如が上町台地の北端、現在の大阪城付近にのちに大坂本願寺となる御坊の建立を始めると、一帯には寺内町が発展するようになりました。船越先生によれば、ちょうどこの時期が大坂が大都市としての歩みを始めたころ。本願寺が織田信長との石山合戦に敗れ、入れ替わるように天下人となった豊臣秀吉が伏見から大坂に入って、本願寺の跡地に大坂城の建設を始めると、その流れはますます加速します。

 

「大坂城を中心に都市開発を進めた秀吉は、聚楽第の建設や備中高松城の水攻めといった経歴からも分かるように、土木工事の名手でもありました。秀吉が目をつけたのは標高の低い上町台地の西側。大坂城から大阪湾に向かうように、新たな街をつくるべく土地造成に乗り出したのです」

現在の大阪市周辺。秀吉が造成した上町台地北端の西側には人工の河川が整備され、多くの橋が架かる(国土情報ウェブマッピングシステムより作成)

 

ダンプカーなどない秀吉の時代の城下町開発は、いわば「地産地消」。城の防衛を固めるため、丘陵部を下った低湿地に堀川を築くにあたっては、その場で掘削した土砂を水分を多く含んだ「緩い土地」の地盤固めに充てました。大坂城の西を南北に貫く東横堀川を開削する際は、自然のくぼみを利用したといいます。江戸期に入って完成した道頓堀川の上流が川幅約30メートルなのに対し、下流では50メートルにもおよぶ理由は、海に近い土地の方が土地改良により多くの土砂を必要としたからとも推定されます。

 

こうやって人工的にできた新たな「川」には、自然と橋を架ける必要が生じることに。橋は、大坂の都市成長と並行してその数を増やしていったのです。一方で船越先生からは、こんな興味深い指摘も。

 

「古代から、人やモノが行き交う街道沿いの整備は重要でした。しかし、長らく熊野詣に利用されてきた熊野街道は、標高の高い上町台地の上を通過していたため、川が通る余地はなかった。反面、歴史の浅い紀州街道は台地の下に位置する堺筋を経由していた。秀吉が登場する以前、街道に小さな橋が架かっていたとしても不思議ではないですね」

 

八百八橋の原型を築いた「ゼネコン武将・秀吉」以前にも、大坂には橋の街としての歴史の萌芽があったのかもしれません。

江戸から昭和にかけて大輪の花を咲かせた“橋の都”

大坂の陣を経て権力が徳川の手に渡って以降も、西国統治の最重要拠点として大坂では旺盛な都市開発が続けられました。江戸堀川、長堀川など、現在も地名に名を残す堀川が開削され、長堀川と西横堀川との交差点にはその名の通り4つの橋からなる四ツ橋が架橋。また、大坂城の周囲には天満橋、高麗橋など幕府が直接管理する12の公儀橋(こうぎばし)が架けられ、城の守りを固めました。また、京街道の起点だった京橋や紀州街道が延びる日本橋も、公儀橋に指定されました。

 

一方そのころ、江戸や京都では100を超える公儀橋が建設されていたとのこと。比べると、大坂のそれはずいぶん少ないようにも感じられます。それもそのはずで、大阪は武家以上に町人が力を持った街。町人が維持・管理する町橋(まちばし)の数が圧倒的に多かったと船越先生はいいます。橋のありようは、そのまま都市の性格ともリンクしているというわけです。いずれにしても、秀吉が遺した大坂という街の「形」が八百八橋の土台になっていそうです。

 

「人工の河川である堀川は川幅も狭く、橋が架けやすい条件が整っていたともいえます。それに加えて、江戸時代に入ると土木技術も飛躍的に進展してきた。当時の最先端技術で、いまにたとえるならAIの進歩をイメージするといいかもしれません。大坂においても川幅の広い大川(旧淀川)にも、難波橋、天神橋といった200メートル級の長大な橋が建設されるようになりました」

 

現代の中之島でも存在感を放つ難波橋、天神橋は天満橋とともに「浪華三大橋」と称され、浮世絵の連作『浪花百景』に観光名所として紹介されるほどに。堀川とは異なる川幅を持つ自然の河川を渡るには、渡し船が当たり前の時代にあって人々はさぞ驚いたことでしょう。

 

「江戸後期には現在の大阪市北区、中央区、西区に該当する大坂三郷と呼ばれる狭いエリアに、808には遠くおよばないものの200以上もの橋が架けられていました。これらの橋は江戸後期に出版された『浪華橋々繁栄見立相撲』に掲載され、相撲の番付表になぞらえる形で東の大関は天神橋、西の大関は難波橋といったように、通行量の多さをもとにしたランクづけがなされています」

 

時は流れ、大阪市内の橋の数がピークを迎えるのは昭和10年代。度重なる市域拡張で、市政が敷かれたころと比べると12倍もの面積を持つようになった「大大阪」は、その市内になんと1600以上の橋を数えるまでになっていました。もっともこれらは、戦後のがれき処理や高速道路の整備といった戦後復興に伴う堀川の埋め立てにより、姿を消していくことになりますが、ほんの一瞬であっても大阪の街が八百八橋を倍近いスケールで体現できたことは、日本を代表する水都として特筆すべきことでしょう。

 

ちなみに八百八橋の呼び名が定着した時期については、まだ確定的な資料が出ていないそうです。興味をそそられる部分ですが、江戸の八百八町と対になるように八百八橋は明治時代になって呼び習わされるようになったのか――今後の研究が待たれます。

フィールドワークの一環として街歩きイベントを開催する船越先生。写真は心斎橋にて

“橋マニア”が教えるおすすめブリッジ3選とその鑑賞法

ここまで大阪の橋の歴史をひも解いてきました。続いては令和のいまも見に行ける橋の魅力について話を聞いてみることに。構造や歴史的価値などさまざまな側面から、日々フィールドワークを重ねる船越先生の視点で「おすすめ」を語ってもらいました。

 

天神橋

「浪華三大橋の一つ。現在のものは昭和9年(1934)に架橋されたものです。このころに架けられた橋には、行政主導によるヨーロッパの設計思想が息づいているのも特徴。アーチを道路の下に持ってきて橋上の眺望をよくするスタイルは天神橋に限らず、中之島の中心にある多くの橋で踏襲されており、都市景観までトータルデザインされていたことがよく分かります」

中之島をまたぐように架かる天神橋

 

高麗橋

「東横堀川に架かる高麗橋は、橋の西詰にあった櫓屋敷を模した親柱が特徴です。橋の下部のアーチは、東京の聖橋を思わせるすかし構造となっており、軽快な印象を与えるのもポイント。この橋の東詰にかつて里程元標が置かれていた事実からは、地理的に重要な位置を占めていたこともうかがえます。全長約3キロの東横堀川には14の橋が架かっていますが、下流の平野橋をはじめ見どころはたくさんあります。大阪の橋を気軽に楽しむうえで、またとないエリアではないでしょうか」

高麗橋。現在は直上を交差するように阪神高速が走る

 

なみはや大橋

「港区と大正区を結ぶ全長1740メートルもの長大橋。自動車専用と思いきや、歩行者も歩いて渡ることができ、高い位置から港湾部の工業地帯を見下ろすことができます。高度経済成長期の大阪を感じられるという意味では、上田正樹の『悲しい色やね』の世界観に通ずるものもありますね(笑)。同様に、めがね橋として親しまれる千本松大橋も往時の活気を感じられるスポット。夜景も美しく、界隈を走る無料の渡船と組み合わせて訪ねるのもいいかもしれません」

工場地帯を見下ろすなみはや大橋

 

土木構造物は、100年選手でも当たり前。大阪には「近い過去」を感じさせてくれる橋が、まだまだたくさん残されています。それらをより深く味わうには「自らの足を使って橋上だけでなく、側面や裏面まで見ることで構造や形式を知ることが大切」と船越先生。ここ最近は人や車が通れない水管橋にも注目しているそうです。八百八橋の何よりの魅力は、いずれもが「見放題」であるということ。土木遺産が見直されつつあるいま、水の都ならではの構造美を見つけに出かけてみるのはいかがでしょうか。

 

 

(編集者:谷脇栗太、稲田妃美/ライター:関根デッカオ)

日食の日は働かなくていい? 北大人文学カフェで「暦」が日本人に与えてきた影響を知る

2025年9月4日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

立春、夏至、秋分、大寒――二十四節気に代表されるように、現代人も折に触れて気にかける暦。ところが、古代から近世にかけての日本人は、いま以上に暦を重視した暮らしを送っていたそうです。

 

飛鳥時代から明治維新に至るまで暦の作成をつかさどってきたのが、朝廷に置かれた暦博士(れきはかせ)と呼ばれる官職です。陰陽寮(おんみょうりょう)という役所に勤務した彼らは、暦の作成を通じて政治や人々の行動に大きな影響を与えました。実際、日食は不吉な予兆とされ、貴族のなかには仕事を取りやめて邸宅に閉じこもる人もいたといいます。

 

暦博士たちが扱った太陰太陽暦が1873年(明治6年)に廃止され、現代まで続く西洋由来の太陽暦(グレゴリオ暦)が採用されて150年あまり。かつての暦に基づく価値観とはどういったもので、暦づくりの専門技能はどのように継承されてきたのでしょうか。第35回北大人文学カフェ「古代の「夜食」は日食の話です ―暦博士とたどる日本のこよみ―」の模様をレポートします。

天皇が時間・空間を支配するための暦

今回の講師は北海道大学文学研究院 日本史学研究室 講師で、日本古代史、天文暦算史を専門とする吉田拓矢先生。最初に強調されたのが、いにしえの日本に中国からもたらされた太陰太陽暦が、天皇による時間と空間の支配の象徴であるということでした。

 

暦博士は、中国由来の計算法で太陽と月の動きを算出し、現在でいうカレンダーにあたる書物、「具注暦(ぐちゅうれき)」を作成。原本から書き写した166巻もの具注暦が天皇の名において都から全国に配布され、日付の共有と同時に朝廷の権威づけの機能を果たしていました。

日付や曜日、天体に関わる現象が細かく記された具注暦(国立国会図書館デジタルコレクションより)

 

これらの作業には相当な労力が費やされていたと吉田先生は語りますが、その中心人物である暦博士は朝廷における官位相当が下から数えた方が早かったそう。出世が望めないため、暦を学ぶ人は慢性的な人手不足という問題を抱える一方、天皇の統治を広く知らしめるためには必要不可欠というジレンマが生じていたというこぼれ話もありました。

 

また具注暦の具体的な使い方として、日付に加えて吉凶や日常生活における行動指針、天体の情報などが書き込まれていたことも紹介されました。平安時代の貴族・藤原師輔(ふじわらのもろすけ)が公卿としての心得を記した『九条殿遺誡(くじょうどのゆいかい)』には、暦書から吉凶を知り、暦書を使って年中行事のスケジュール管理をし、暦書に日記を記すべきとの記述が見られます。

 

それでは、暦とは貴族以外の立場からするとどのようなものだったのでしょうか? 情報量の多い具注暦を必要としない地方の官人の間では、月の日数のみ把握できる木簡が用いられていたことが出土品によって判明しています。吉田先生は「税の納付期限を把握してもらうなどの意図があったのでは」と、その目的を推察していました。

 

ところで、そもそも暦とは時の流れを測って数える方法です。人間は天体運動や自然現象の周期を手がかりに1日や1ヶ月という単位を形成しようと努力してきました。昼と夜で1日、月の満ち欠けで1ヶ月、春夏秋冬から1年を算出することを思えば、納得もいくはずです。

 

太陰太陽暦における1ヶ月は、新月から次の新月までのおよそ平均29.5日。1ヶ月が29日なら小の月、30日なら大の月とされていました。したがって、太陰太陽暦では12か月は約354日となり、年を追うごとに暦と季節との間にずれが発生します。現代の暦では4年おきに閏年を挟みますが、当時は二十四気における中気(一年を24等分したとき、立春から数えて偶数番目の節目)のない月を閏月とし、19年に7回のペースで1年が13ヶ月となる年をつくることで、このずれを調整していました。

太陰太陽暦では、たとえば、新月から次の新月までの間に中気「雨水」を含む月が正月となり、同じように中気「春分」を含む月が2月となる。だが、年によっては月の満ち欠けの周期が中気と中気の間にすっぽり収まり、どちらの中気も含まない月が生じる。これを閏月とすることで、暦と季節のずれを調整した

 

太陽暦と比べると複雑にも感じますが、その反面、新月を月の始まりとするため月の大きさを見ればだいたいの日付が分かるというメリットも。暦博士が作成した権威ある暦に頼らずとも、市井の人々は大まかに1ヶ月を把握することができたようです。

日食・夜食は不吉の予兆? 暦に見る吉凶判断と専門技能の継承

『九条殿遺誡』にあるように、暦は単に日付を知るためだけに使われていたわけではありません。暦博士は、いわば陰陽道の教えの実践者でもありました。陰陽道において縁起の悪いとされる方角に移動するのを避ける方違(かたたがえ)という習わしも、暦にのっとって行われていました。たとえば、具注暦に書き込まれた「大将軍還東」という記述は「神様が東に帰る」という意味合い。これを見た貴族は、東への移動をはばかったといいます。また、吉凶の判断に基づいて入浴や爪切りの日まで規定されてもいました。つまり暦には、日常生活や身体に深く関わることが記述されていたのです。ここに現代人の感覚とは異なるものを見出せるかもしれません。

 

不吉な出来事を避けるうえで特に重視されたのが、日食です。太陽が月に隠される天体現象は古くから忌み嫌われ、すべての政務を休みにして自宅で過ごす貴族もいたほどです。それゆえ、暦博士は飛鳥時代から日食予報に力を入れてきました。中国でも同様の動きは見られましたが、日本の場合は中国と違い、太陽の見えない夜間に生じる「夜食」についても懸命に予報を実施していました。

 

中国には、天を卵殻にたとえてその表裏には水があり、地はその内部に卵黄のように位置するとする渾天説(こんてんせつ)という宇宙観があります。渾天説によれば、昼は太陽が「地上」に姿を表している時間帯。一方で夜は「地下」に沈んでいる時間帯です。ではなぜ、日本の暦博士は地上では見られない天体現象を熱心に予測しようとしたのでしょうか。そのわけを吉田先生は「暦博士らが大陸に渡航することなく、中国からもたらされた書物による独学で知識を得たからでは」と推測します。中国には「見えないものを予報しても仕方がない」という常識があったものの、書物頼りではそこまで読み解くことができなかったようです。

当時考えられていた夜食とは、太陽が地下に沈んでいる間に起こる日食のこと。直接目で見ることはできないが、計算上では予測され、政務に影響を与えていた

 

もっとも、夜食に関する予報は10世紀初頭の暦博士・葛木宗公の進言によってあっけなく廃止。実はこの時期、計算の間違いによって本来の2倍の件数の日食予報が出されていたのだそう。その結果、政務に当てる日数が減って年中行事などが本来の日程で開催できなくなったため、夜食はカウントしないという判断に至ったのだろうというのが、吉田先生の見立てです。

 

同時期になると、暦学の分野では暦、天文、占いと陰陽道のいずれにも長けた賀茂保憲が台頭し、権勢を振るうように。11世紀には賀茂氏の独占状態となり、書物を読むだけでは誤解や誤読が生じていた具注暦の作成や日食計算といった専門技能が、親の代から子の代へと伝えられていくようになりました。ちなみに、暦の作成自体において実務を担うのは基本的に1人で十分だったそう。吉田先生いわく「複数人で行うと、計算や解釈の正しさを巡ってけんか別れになるのが常でした(笑)」とのことで、専門家同士でも意見が割れるほど繊細な作業だったようです。

 

16世紀に入ると賀茂氏の嫡流が断絶し、土御門家が暦博士を兼務するように。江戸時代には暦の計算は幕府の天文方の仕事となりました。ただ、それでも暦が朝廷の力を示すための役割を果たしていた事実は変わりません。暦の計算は幕府、決定した暦に占いの要素を加えるのは朝廷の暦博士という分業で、最終的には天皇が定めるという形が明治時代に至るまで継続しました。

明治維新を経て時代は太陰太陽暦から太陽暦へ

かくして1873年(明治6年)、長らく続いた太陰太陽暦は明治新政府により世界標準の太陽暦に移行します。これには当時の政府が月給制を敷いており、閏月のある旧暦では負担が増えるとの裏話もあったようです。反面では太陽暦の採用決定が移行の約2ヶ月前と直前だったこともあり、カレンダー制作の現場は大混乱。維新直後らしいかなりの強硬策でしたが、同時に時刻表示も十二時辰制から24時間制に移行し、日本は近代国家への道のりを歩み始めたのです。

 

さて、ここまで古代から近世にかけての日本人が暦に寄せてきた価値観、暦の作成や技術伝承についての苦労などについて講座を振り返ってきました。吉田先生の話を聞いて印象的だったのは、現代では機械的に流れているように感じられる暦や時間も、多くの人の手によって支えられ、それが多くの人に影響を与えてきたということ。「史料を通して古代の人と話が通じた気分になれるのがやりがい」という言葉は、大いに共感を持てるものでした。

 

 

(編集者:谷脇栗太/ライター:関根デッカオ)

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