日本では明治維新後に近代化が進められ、急速に社会が変容しました。それにともなう大衆文化の西洋化も著しく、1920年頃にはアメリカで誕生したジャズが輸入されるように。ジャズに合わせて踊るダンスホールが次々と開業し、1940年にダンスホールが営業できなくなるまでの約20年間、その人気は社会現象といっても過言ではないほどの盛り上がりを見せます。
日本における戦前のジャズとダンスホールの文化は、これまで東京を中心に語られてきましたが、関西にも数々の資料が残されています。これらの資料をもとに研究を進めているのが関西大学社会学部教授の永井良和先生です。2025年4月1日からはじまった関西大学博物館の春季企画展「ジャズとダンスのニッポン」(5月31日まで開催)では、永井先生の資料提供により戦前期のジャズやダンスホールの展開を紹介。今回、永井先生とともに展示を見学し、戦前日本のジャズとダンス文化の変遷についてお話を伺ったのでご紹介します。
日本のショービジネスに革命をもたらした最先端の音楽・ジャズ
日本でのジャズの始まりにはさまざまなルートがありますが、1920年代初頭に海外のバンドが東アジアツアーを行い、日本公演を行ったことが決定的な要因と考えられています。東京や横浜だけでなく、京都や大阪でも公演が組まれたことで、その人気は全国に広まっていったそうです。
「ジャズはアメリカから直接輸入されたのではなく、ハワイのホノルルやフィリピンのマニラ、中国の上海での公演を経由して日本に伝わってきました。ジャズバンドのツアーはセルフプロデュースで回るケースがあったため、あまり詳しい記録が残っていませんが、数少ない資料や証言からは各地のホテルで公演が行われたことがわかっており、100年前にはアメリカなどでショービジネスの仕組みが完成され、日本をふくむ東アジアもそこに組みこまれていたことが伺えます。
明治から昭和初期にかけて活躍した奇術師の松旭斎天勝(しょうきょくさい てんかつ)も一座のアメリカ公演で出会ったジャズバンドを日本に引き連れてツアーを行い、ジャズの認知度を高めました」

松旭斎天勝がアメリカからジャズバンドのカール・ショーを伴って行ったツアーのパンフレット(中)と絵葉書(右)
この時期にはヴァイオリニストの波多野福太郎によって結成されたハタノ・オーケストラがダンスバンドとしてジャズを演奏し始めるなど、日本人のプレイヤーも育っていました。また当時、人気が高まっていた宝塚少女歌劇団(現在の宝塚歌劇団)や松竹ガクゲキ団(後の松竹歌劇団)も、ジャズの普及に大きく貢献したといいます。

展示物について解説する永井先生。貴重な資料も多く、収集のために各地を奔走した
「宝塚少女歌劇団と松竹ガクゲキ団は、ほぼ同時期にジャズを取り入れるのですが、宝塚はクラシックを重視していたことから保守的な部分があり、一時期ジャズを排除して数年後に容認するという変遷を辿っています。一方、松竹は積極的にジャズに取り組み、ジャズを中心に据えたレビューショーの他、ジャズバンドだけが演奏するプログラムもあり、見せ方もバラエティーに富んでいました。道頓堀ジャズと呼ばれた大阪のジャズ文化にも大きな影響を与えたと考えられています」

松竹座のジャズダンスの告知チラシ。左ページにはバンドメンバーも記載されており、ジャズに積極的に取り組んでいたことがうかがえる
ジャズの流行は急速な盛り上がりを見せ、関西や関東の主要都市ではジャズ演奏で踊るダンスホールが誕生。サラリーマンや金銭面に余裕のある学生など、中間層よりやや上の層の遊びとして定着しました。1920年には横浜郊外の鶴見にあった遊園地・「花月園」の中に民間初の常設の営業ダンスホールがオープンします。
「当時、ジャズという言葉は音楽のジャンルだけでなく、“最新の”という意味合いを持っており、ジャズの流れるダンスホールは最先端のスポットとして人気を博していました。関東では東京・赤坂の『フロリダ』というダンスホールが特に有名で、外国人向けのツアーガイドにも『夜はフロリダに行け』と書かれていたほど。チャップリンもお忍びで訪れるなど、東京でも指折りの社交場として知られていました」
警察に睨まれ続け……享楽と倫理の間に生まれた日本のダンス文化

性風俗や古川柳の研究家・広田魔山人のチケットコレクション。大阪の千日前「ユニオン」や京都新京極の「ローヤル」の名前が見られる
日本でダンスホールが誕生した背景には、都市部の人口増加により男性のための娯楽施設が必要になったことが挙げられます。当時、社交ダンスは高級ホテルでの舞踏会など一部の人しか参加できないものでした。ダンスホールは社交ダンスを一般庶民に普及させるきっかけになった一方、大きな逆風にさらされることになります。
「日本に根づいていた儒教の倫理観からすると、夫婦でもない男女が一緒に肌を触れ合わせて踊るなど、とんでもないこと。それを娯楽やビジネスにするとなると、当然ながら反感を覚える人もいます。斎藤茂吉の妻・輝子のようにダンス教師とのスキャンダルに発展した事例もあり、ダンスホールは創業当時からずっと警察に睨まれ続けていました」

ダンス・パレスの支配人だった髙橋虎男が所有していた寄せ書き帳より、漫画家・挿絵画家の細木原青起がダンスホールの様子を描いたスケッチ
ジャズの流行に合わせて、男性客がホールの女性ダンサーにチケットを渡して踊る「タクシーダンスホール」のスタイルが登場。これは、アメリカの金山で働く鉱夫が居酒屋で女性スタッフと踊るという業態から発展したもので、1921年にはシカゴで最初のタクシーダンスホールが誕生しました。函館の呉服店の跡取りだった加藤兵次郎は、デパート経営のための研究視察でアメリカを訪れた際にタクシーダンスホールを知り、そのノウハウを日本のダンスホールに紹介します。
「当時、ホテルで催されていた舞踏会は、食事や交通費なども含めると、当時の金額で一晩10円。一方、タクシーダンスホールの場合、ダンサーに渡すチケット代が1枚10銭、もしくは10枚つづりで1円ぐらい。より幅広い層がダンスホールで遊べるようになりました。
日本では見知らぬ男性と踊ることに抵抗を持つ女性が多く、男性のパートナーとなる女性の数が足らなかったため、花柳界やダンサーをめざす女性たちに暫定的にホール専属のダンサーとなってもらうことで開業にこぎつけました」

花隈ダンスホールの冊子『ダンセ・ハナクマ』より、ダンサー・村田静江の1日を追った記事
ダンスホールのダンサーは、当時、同じく新しい職業であったカフェーの女給と並んで大きな注目を集めます。カフェーの女給が給仕の範疇を超え、現在のクラブのホステスのような接客を行うようになったことに対し、ダンサーは酒の相手をせず、踊る時以外は客と話さないなど技術を売ることに徹していました。服装もドレスを着ることを恥ずかしがり、当初は大半のダンサーが着物姿で踊っていました。
「当時のダンサーは、雑誌などで華やかな仕事として紹介されていましたが、実際は実力至上主義の世界。売れっ子であれば一般の職業の何倍もの収入がありましたが、基本的に客からもらったチケットの枚数による歩合制なので格差は大きなものでした。彼女たちは大半が家計を支える男性を失った家庭の出身で、借金を返し終えてある程度お金が貯まると、自分の飲食店を持ったり、ファッションデザイナーになるなど、違う道に進む人が多かったようです。中には終戦後、海外にわたり、最新技術を身に付けて日本でダンス教師として活躍したダンサーもいました」

ダンスホールの広告媒体として制作されたマッチラベルの展示も。喫煙者が多い時代だったこともあり宣伝効果が高かった
文豪も通ったダンスホール

関東大震災の影響でダンス文化が一時的に関西に集中し、複数の専門雑誌が発行されていた
全国的に広がりを見せてきた日本のダンスホール。1923年に関東大震災が起こり首都圏のダンスホールは壊滅的な打撃を受けますが、それは同時に新たなムーブメントを生み出すきっかけとなります。震災で仕事を失ったジャズミュージシャンが関西に拠点を移し、それを受け入れるためのダンスホールも増えていったのです。しかし警察による締めつけは強まり、1927年には大阪でダンスホールの営業が禁止に。公序良俗の乱れだけでなく、警察と親密な関係にあった当時の花柳界が、新興勢力のライバルを排除したいという目的もあったようです。
「警察も直接潰しにかかるわけではなく、建築が基準にそぐわないから改修しなさい、できないなら営業許可は出せないというやり方で締め付けていきました。しかし、中には今回、図面を展示している『パウリスタ』と『ユニオン』のように改修を実行した店もありました。もともと許可する気がなかった警察は、あれこれ難癖をつけて、結果的にパウリスタは営業ができなくなり、ユニオンは震災から復興を遂げた東京へと移転します。ユニオンは、加藤兵次郎がアメリカから持ち帰って大阪で定着させていたタクシーダンスホールのスタイルを東京に移植し、これが全国的に広まっていきました」

1930年、尼崎に竣工した「阪神会館ダンスパレス」の復元模型(所蔵:尼崎市立歴史博物館)
大阪で営業できなくなったダンスホールの経営者たちは、隣接する兵庫県の小田・尼崎地区へと移転。1927年の「尼崎ダンスホール」に続き、「杭瀬ダンスホール」「キングダンスホール」「阪神会館ダンスパレス」などの店舗が次々とオープンしました。この地域は関西ダンス文化の中心地となり、阪神国道(国道2号のうち大阪市から神戸市に至る区間)が開通したことも相まって、自家用車やタクシーでダンスホールへ行くスタイルが定着。
また、専門雑誌や教則本、伴奏用の曲を収めたレコードが発売されるなどダンスのメディアミックスが盛んになり、文豪や映画俳優といった著名人もこぞってダンスホールに足を運ぶようになりました。

菊池寛の小説を原作とした映画『勝敗』の広告。ダンスを扱った当時の映画はフィルムの現存数が少なく、文字の記録とスチル写真のみが情報を知る手立てとなる
「菊池寛のダンスホールを舞台にした新聞の連載小説『勝敗』が後に映画化され、その主題歌「町子姉妹の唄」の作詞も菊池が担当するなど、多くの創作の素材にされています。谷崎潤一郎は関西に移住後、さまざまなダンスホールに通い、ユニオンでは後の妻となる根津松子とダンスを踊っていました。当時の大流行作家であった奥野他見男もダンスホールでの見聞をエッセイに残しています。
地方の人たちは、こういった情報からダンスホールを知り、上京した際に訪れる観光スポットのようになっていたようです。俳優の佐野周二(関口宏の父)も多くの店に通い、チケットのコレクションが今回、展示されています」
戦争による終焉

映画『踊るジャズ』ポスター。公開された1939年に映画法が制定されたことで米英の映画は公開本数が激減
1930年代後半に入ると日本が軍事力を拡大したことでアメリカとの間で緊張感が高まり、アメリカ発の文化は徐々に日本から締め出されていきます。ジャズやダンスホールをテーマにした映画も以前はさかんに上映されていましたが、人気の高さとは裏腹に次々と上映が縮小されるようになりました。
「人気の高かったアメリカ映画も映画法の制定で大幅に数を減らします。劇場ではさまざまな作品と抱き合わせることで、なんとか上映を続けていました。一方でドイツ・オーストリアなど同盟国や、アルゼンチンなどとの友好関係は継続していたので、この時期、日本ではアルゼンチン・タンゴがブームとなり、それまでダンスホールでよく踊られていたコンチネンタル・タンゴ(ヨーロッパで改変されたタンゴ)は下火になっていきました」
1937年以降は、長期化する日中戦争の影響により、日本では社会全体で娯楽を制限する動きが加速。1937年末に内務省がダンスホールを閉鎖するとの強い方針を打ちだし、翌1938年以降、ダンスホールも次々と営業を終了したことで、ジャズによってもたらされた日本のダンス文化は、いったん終焉を迎えます。
「中国大陸での戦闘が激化し、旧満州の支配が世界的に問題視されたことで、日本としては状況を覆すためのプロパガンダが必要でした。イギリス・アメリカなど敵性の娯楽は日本人には合わないとして排除。国内のダンスホールは客足の減少や営業時間の短縮、ダンサーの退職などが相次ぎ、とても継続できる状態ではありませんでした。一部の店舗は出火不明の火災によって焼失するなど、ダンスの文化は戦争によって抹殺されました」

1938年発行の雑誌『愛国婦人』。ダンスホールでは愛国婦人会の分会が結成され、ダンサーたちは軍事教練も受けていた
敗戦後、アメリカの文化が再び流入するようになり、ダンスホールも営業を再開します。しかし、その形態は戦前とは大きく異なり、酒を提供するなどキャバレーに近い業態で、ダンサーもホステスのような立ち位置となっていました。
「戦前のダンスホールで働いていたダンサーは、戦後、『今のダンサーと自分たちを同じように見ないでほしい』としきりに語っていたそうです。ジャズも高度経済成長期ぐらいまではビッグバンドの演奏が主流でしたが、時代とともにジャンルが細分化され、ダンスホールでダンスをたのしむ人たちと、ジャズ音楽をライブやレコードで聴く人たちとがはっきりと分かれるようになりました。
1920年前後から1940年まで、ジャズとダンスホールが蜜月的な関係を築いた約20年間は他に類似するものがなく、日本の文化史において非常に独特な時代であったといえるでしょう」
大正時代に日本に伝わってきたジャズはダンスと繋がったことで大きく発展し、新たな文化を生み出しました。約20年というわずかな期間で終焉を迎えたダンス文化でしたが、後世への影響は大きく、映画や出版を巻き込んだメディアミックスなど、この時代が現代まで続く日本のショービジネスやエンターテインメントの礎を築いたといっても過言ではないでしょう。
永井先生が資料を提供した春季企画展「ジャズとダンスのニッポン」は、日本芸能史のミッシングリンクともいえる戦前のダンス文化を知る絶好の機会となっており、当時の関西・関東の風土や急速に国際化を遂げた日本の動きについても学ぶことができます。100年の時を超えた展示物からは、私たちの想像を超えて、遥かに豊かだった当時の社会・文化が見えてくることでしょう。