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女の子の「盛る技術」を支援する、シンデレラテクノロジーの世界をのぞいてみよう!成城大学の公開講座をレポート

2021年11月25日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

自分の顔を少しでもかわいく見せようと、化粧で頑張って「盛ろう」としたり、写真加工アプリでちょっと「盛り」すぎたりした経験はありませんか?
今回レポートするのは、女性たちにとって身近な「盛り」にまつわるシンポジウムです。

「盛り」を支援する技術=シンデレラテクノロジーという、一風変わったテーマを掲げたシンポジウムが成城大学で開催されると聞き、オンラインで聴講しました。


女の子の「盛り」を支援するシンデレラテクノロジー

今回参加したのは、成城大学グローカル研究センターが主催する全5回のシンポジウム「ポストヒューマニティ時代の身体とジェンダー/セクシュアリティ」の第4回。
「女の子たちのメタモルフォーゼ ——シンデレラテクノロジーのその先へ」というテーマで開催されました。

【第1回のレポート】スポーツにおける多様性とは?成城大学の公開講座でLGBTについて考える。
【第2回のレポート】いま注目が集まるフェムテック。その可能性とわかりやすさゆえの罠とは?
【第3回のレポート】不妊治療大国・日本における生殖技術の課題と可能性とは?成城大学の公開講座をレポート
シンポジウムのポスター

シンポジウムのポスター

登壇者プロフィル

久保先生

久保友香さん

フリーランス。博士(環境学)。専門分野はメディア環境学。シンデレラテクノロジー研究者として多数のメディアに出演するほか、著書に『「盛り」の誕生 女の子とテクノロジーが生んだ日本の美意識』(2019年)がある。

 

関根先生

関根麻里恵さん

学習院大学文学部助教。専門はジェンダー研究、表象文化論。共著に『ポスト情報メディア論』(2018年)、共訳に『ファッションと哲学』(2018年)などがある。

 

田中先生

田中東子さん

大妻女子大学文学部教授。専門はジェンダー研究、メディア研究、カルチュラル・スタディーズ。著書に『メディア文化とジェンダーの政治学 ―第三波フェミニズムの視点から』(2012年)、共著に『足をどかしてくれませんか』(2019年)などがある。


シンデレラテクノロジーはどうやって始まった?

最初に登壇したのは、メディア環境学者の久保友香さん。今回のテーマであるシンデレラテクノロジーという言葉の生みの親である久保さんは、「なぜ、シンデレラテクノロジーなのか」と題し、シンデレラテクノロジーの成り立ちから語り始めました。

 

「シンデレラテクノロジーがどういった技術の流れを汲んでいるかというと、このシンポジウムにオンラインで参加している皆さんが、今まさに使っている技術、つまり顔画像コミュニケーション技術です。今皆さんが画面越しに見ているのは、リアルな外見の私ではなくバーチャルな外見の私です。メディア空間上でバーチャルな外見を使ってコミュニケーションをする技術は、コロナ禍で急速に日常化しました」

 

このような技術を日常的に使えるようになったのは、つい最近のことだと久保さんは続けます。

 

「顔画像コミュニケーション技術は、テレビ電話のための技術として1960年代から試みがありましたが、当時はアナログ電話回線であり、デジタル通信になっても、通信容量などの問題があり、今のように簡単に動画を送受信できるようになるまでにはかなりの年月がかかりました。その間に、この過程で発展した顔認識の技術を他のことに応用しようとして始まったのが、バーチャルな外見を美人顔に変換する技術の開発です」

 

美人顔に変換する技術とは、冒頭でもふれた写真加工アプリなどに、現在では使われている技術。この技術開発のために、工学分野では下記スライドに示した物差しが美人顔の評価として標準的に使われてきました。

工学分野では、標準的に①平均性、②対称性、③性的二元性という3つの基準をもとに、美人顔が評価されている

工学分野では、標準的に①平均性、②対称性、③性的二元性という3つの基準をもとに、美人顔が評価されている

 

「先行研究でこれら評価の物差しが使われているのを見て、本当に正しいのかな?とすごく疑問に思ったんです。これは生物の配偶者選択のための基準として作られた物差しですが、そもそもみんなが配偶者選択において性能の高い外見、つまりモテる外見になりたいと思っているのでしょうか? これが本当にすべての人に役立つような物差しになっているのかなと疑問でした」


美人画やプリクラを研究してたどり着いた答え

そこで久保さんが始めたのが、美人画の研究です。配偶者選択という物差しに基づいた美人顔変換技術への反論として、美人画に基づいた変換装置を作ろうと計画します。

 

奈良時代の仏教画や江戸時代の浮世絵から、近年の漫画やアニメまで、「美人画」を広い意味で定義して収集・分析。これらを大きく四期に分け、特徴を抽出して数式化し、顔画像を当時の美人画に基づいた美人顔に変換する装置を作成しました。

奈良時代から現代までを、Ⅰ:700年~/Ⅱ:1700年~/Ⅲ:1900年~/Ⅳ:1950年~の四期に分類し、その時代の美人顔に変換(シンポジウムで使用したスライドから抜粋)

奈良時代から現代までを、Ⅰ:700年~/Ⅱ:1700年~/Ⅲ:1900年~/Ⅳ:1950年~の四期に分類し、その時代の美人顔に変換(シンポジウムで使用したスライドから抜粋)

 

こうして見てみると、たとえばⅡ期の江戸時代の浮世絵は、つり目におちょぼ口で鼻が大きく、前掲のスライドで性的二元性として示された「目や口が大きく鼻が低い」という基準には当てはまっていません。一方、Ⅳ期は極端に目が大きく、時代によって全然違うことがわかりますね。

 

「これまでの工学分野の物差しでは、時間が経っても変わらない普遍的な美人顔の基準があることを前提にしていましたが、実際には時代を超えて大きく変化していることがわかりました」と久保さん。次に、これまでの工学分野の物差しには従わない物差しで顔変換の技術を作っている事例として、プリクラに注目します。

久保さんがプリクラ機メーカーの倉庫を訪れ、過去5年間の機械で自ら撮影

久保さんがプリクラ機メーカーの倉庫を訪れ、過去5年間の機械で自ら撮影

美人画の研究と同様に、過去25年間のプリクラの特徴を分析して五期に分類

美人画の研究と同様に、過去25年間のプリクラの特徴を分析して五期に分類


プリクラと言えば、肌をきれいに、目を大きく見せるという程度の印象しかありませんでしたが、ここまで変化しているとは……。

 

「メーカーの開発者がユーザーの望む顔を考えて出した答えが、これだけ変化しているんだということがわかります。美人画やプリクラの変遷から、やはり普遍的な基準で美人顔を考えるのは間違っていると考えました」

 

しかし、評価基準がなければ技術開発を進めることができません。「普遍的な基準がない中でも、何か普遍的なものを見つけなくてはいけない」と悩んだ久保さんは、女の子のインタビューと行動観察を始めます。

 

2012年に行われたプリクラ写真のコンテストで、最終選考に残った女の子たちに話を聞いて、あることに気づいたと久保さんは語ります。

 

「ある女の子の『“すっぴん”を褒められてもうれしくない。“盛り”を褒められたい』という言葉を聞いて、ハッとしました。女の子が努力と試行錯誤の末に作り出しているバーチャルな外見は、彼女たちにとって“作品”なんだと気づいたんです。化粧をして画像処理をして作ったバーチャルな外見を、メディア空間に展示するという“作品”づくりをしているんだとわかりました」

 

これまで工学分野で用いられてきた物差しはすっぴんを評価することを前提としていましたが、すっぴんではなく作品を評価する物差しで技術開発を進めていくべきではないか。そう考えた久保さんは、配偶者選択という物差しに基づいた従来の美人顔変換技術とは差別化するため、彼女たちの作品づくりを支援する技術を「シンデレラテクノロジー」と名付けます。

①プラスチックコスメとは、つけまつげやカラーコンタクトなど。それを②セルフィ―マシン=プリクラなどで撮影し、③ソーシャルステージ=SNSなどで発表する

①プラスチックコスメとは、つけまつげやカラーコンタクトなど。それを②セルフィ―マシン=プリクラなどで撮影し、③ソーシャルステージ=SNSなどで発表する

 

インタビューと行動観察によって、女の子たちがバーチャルな外見をどうしたいかがわかってきたと語る久保さん。

 

「バーチャルな外見に何を求めるかと聞くと、『自分らしくあるため』とか『個性』という言葉が必ず出てくるんです。プリクラの女の子たちの顔が私にはそっくりに見えていたので、この答えに最初はとても驚きました。でも、彼女たちはまず属したい集団と同じ様式で外見を作って、その上でちょっと差異を作るというところに自分らしさを求めているんだと、徐々にわかってきました」

 

さらに、盛れば盛るほど良いのかと思ったらそうではなく、「盛れすぎは盛れていないのと一緒」という彼女たちの言葉から、たくさん加工していくと急に別人感が高まるところがあり、その直前あたりを狙っていることがわかったと言います。

「盛れすぎは盛れていないのと一緒」「盛れすぎの坂」といった独特のフレーズに、他の登壇者から笑い声があがる

「盛れすぎは盛れていないのと一緒」「盛れすぎの坂」といった独特のフレーズに、他の登壇者から笑い声があがる

 

その後、技術開発のために再度数値化に挑戦しようと「盛り」の計測装置を製作し、全国の女の子たちを訪ねてまわった久保さん。しかし、この実験はなんと失敗に終わったそうです。

 

「装置を作るのに2年くらいかかってしまったんです。その間に、自撮りやデカ目の時代が終わってしまった。顔ではなくシーンを作って撮影する、いわゆるインスタ映えの時代に変わっていたんです。シーンとなるとパラメータが多すぎるので分析が難しくて、途方に暮れたまま現在に至ります(笑)。今回、シンポジウムのテーマが『シンデレラテクノロジーのその先へ』ということで、私自身もまさにその先が知りたいところです」

 

また、久保さんはシンデレラテクノロジーというネーミングについても、「シンデレラと名付けてしまったせいで、王子様に出会うための技術だと勘違いされてしまうことがあるので、ちょっと後悔している」とも話していて、時には失敗や後悔もして悩みながらも研究を続けている姿が伝わってきました。


ラブドールになりたい女の子たち

続いて登壇した学習院大学の関根麻里恵さんは、「自分の身体を愛でる/取り戻す体験:人間ラブドール製造所を例に」と題して発表しました。

 

ラブドールとは、2000年代前半までは主にダッチワイフと呼ばれていた、男性の性処理を目的とした等身大愛玩人形。しかし最近では、その道具的な関係から、精神的な安らぎや心の拠り所を求めるような関係へと変容してきていると関根さんは説明します。

 

さらに、ラブドールを題材とした映画作品が国内外問わず登場していることや、 2017年に渋谷で行われたラブドールの老舗メーカーによる展示会に多くの女性が来場したことなどを挙げ、「男性だけの独特な文化ではなく間口が広くなっている」と語ります。

2020年に公開された『ロマンスドール』では、高橋一生がラブドール職人を演じた

2020年に公開された『ロマンスドール』では、高橋一生がラブドール職人を演じた


関根さんが今回取り上げる「人間ラブドール製造所」は、人間がラブドールになりきる体験を提供しているサービスです。2017年に東大阪でスタートし、2021年10月現在までに170人以上が体験。体験者の約4割が女性で、最近特に女性の割合が増えつつあると言います。

 

「今回の発表では、人間ラブドール製造所における一連の工程を、シンデレラテクノロジーを駆使した女の子たちの実践例とみなすことが可能ではないかと仮定し、そこでの実践が体験者にどのような影響を与えているかについて検討してみたいと思います」


「人間がラブドールになりきる体験」と聞いてもあまりイメージができないのですが、いったいどんな体験なのでしょうか。疑問に思っていると、「言葉で説明してもわかりづらいと思うので、実際の工程をお見せしていきます」と、関根さんが自ら体験した様子を見せながら説明してくれました。

メイクや着替えの間は、自分自身の姿を鏡で見ることは一切できないのだとか(シンポジウムで使用したスライドから抜粋)

メイクや着替えの間は、自分自身の姿を鏡で見ることは一切できないのだとか(シンポジウムで使用したスライドから抜粋)


まず初めに、説明を聞いて作業服に着替える①人間界からの離脱が行われます。続いて、②眼球入れ替え=カラーコンタクトレンズを装着し、③顔面製造=メイクとウィッグの選定。④衣装着用を終えると、⑤製品お披露目・命名の儀式が行われ、ラブドールとしての名前が与えられます。

 

「眼球入れ替え」「顔面製造」といった言い回しに思わず笑ってしまいますが、独特の世界観が作られていることが伝わってきます。

 

⑥梱包・開封の儀では、全身をビニールで覆われて開封が行われます。⑦製品撮影の後、画像が仕上がるまでは⑧ひとり遊びの時間。多くの体験者がこの時間に自撮りを楽しむそうです。⑨製品写真確認を終え、⑩人間界への誘いとして着替えやメイク落としを行い、体験が終了します。

 

メイクや着替え、撮影など、すべての工程は女性スタッフによって行われ、体験中はずっと褒められ続けるのが不思議な感覚だったと話す関根さん。

 

「普段では考えられないような、自己肯定感が爆上がりする言葉をいっぱい浴びさせてもらえます(笑)。日常生活では謙遜したり抵抗感を覚えたりするような褒め言葉でも、ここではなぜか受け入れてしまうという不思議な体験でした」


ポジティブな側面と危うさが同居する人間ラブドール体験

続いて、体験者に行ったアンケート調査をもとに、感想などのコメントも紹介。「普段こんなに褒められることがないのでうれしかった」「自分が自分でなくなる体験が楽しかった」といった声を取り上げました。さらに、体験者の多くがSNSに写真や感想を投稿していることや、その投稿に対して肯定・称賛するやりとりが行われていることから、ビジュアルコミュニケーションを介して承認欲求が満たされる経験につながっていると解説します。

 

また、SNS上での公開について「自分のような欲望を持つ人に対して同志がいることを発信して勇気づけたい」「自分らしさを受け入れてくれる場があることを知ってほしい」といったコメントがあり、エンパワーメントの役割も担っていると語ります。

 

関根さんは体験者の身体的コンプレックスにも言及し、「自分には性的な魅力がないという身体的コンプレックスがあったが、ラブドールになりきる体験を通してコンプレックスを解消し、自分自身を肯定できた、自分の身体と向き合ったことで自信を持てた、などのポジティブな効果がもたらされている傾向が見られます」と説明します。

 

しかし、こうしたポジティブな効果が見られる一方で、性的なものになるがゆえに生じる懸念事項もあると続けます。

 

「性的な要素が多分に含まれるラブドールという形象であるため、体験者はそれになることで性的な眼差しを向けられることを甘受しているように見受けられます。そういった危険性を考慮するよりも、ラブドールへの憧れやなりたいという願望のほうが勝っているという価値観があるのではないでしょうか。人間ラブドールの写真をSNS上で公開することは、体験者当人の意図にかかわらず、第三者からポルノグラフィの類に入れられかねないこと、自分の表象物が他者に明け渡される可能性があることを念頭に置く必要があります」

 

こういった危険性を指摘しつつも、関根さんは最後に次のようにコメントし、発表を終えました。

 

「男性の目線に取り込まれてしまう部分はありつつも、人間ラブドール製造所のサービスがすべて女性によって行われ、大半の体験者が女性であることを考えると、女性たちが男性の目線を奪い返して、「安全」な状態で自身の欲望を満たせる体験と 捉えることができるのではないでしょうか」


女性研究者による新たな人文学へのアプローチ

二人の発表の後、コメンテーターとして登壇した大妻女子大学の田中東子さんは、まず久保さんの発表内容について次のように語ります。

 

「久保さんが扱っているのは、今まで人文社会科学の中で調査や研究が行われてきたテーマですが、そこに工学的な手法を入れてきて新たな分析を行うというのが面白い。ヒューマニティの調査・研究方法が大きく変わりつつある今、とても先端的な研究だと思います。その反面、江戸自体から現代までの日本人が一つのカテゴリとして存続しているという前提が、人文学的な知見からすると、保守的な日本人論に回収されてしまう危うさがあると感じました」(田中さん)

 

この指摘に対して久保さんは「江戸時代から現代まで一貫して見るというのは、とても雑なことをやっているなと自分でも感じています」と言いつつ、「これまでやってきたデータを集めて数値化するという手法だけではやはり限界があるので、研究方法を変えていく必要がある。人文科学的なやり方も取り入れるために、これから勉強していきたいです」と語りました。

 

続いて田中さんは、関根さんの発表についてもコメント。

 

「関根さんが研究対象としている人形愛の分野は、人文学の中では男性の研究者や評論家が好んで取り組んできたテーマ。それを女性研究者が取り返そうとする試みとして、人文学の拡張や新しい人文学の形成につながっていくと感じました。関根さんも久保さんも、自らの身体を使って調査・実証している点も含めて、新たな知見の発見につながる研究であると感じます」(田中さん)

 

さらに関根さんへの質問として、「女の子が性的なモノとして眼差しを向けられることについて、関根さんの研究がどのような批判性を持つのか、お考えを聞かせていただきたいです」と投げかけました。

 

関根さんは「ずっと考え続けている根幹の部分なので、まだ明確な答えは出ていないんですけど」と前置きしつつ、次のように語りました。

 

「サブカルチャー研究の中で、女の子たちの実践が女の子によって語られることがまだまだ少ない状況ですので、 まずはどんどん研究結果を出していって、それを最終的にどうまとめ上げることができるのか、長い目で考えていきたいと思っています。なぜ女性の身体だけがずっとセクシュアルなものとしてみなされているのかという根本的な問題が私の関心でもあるので、今後もトライ&エラーを繰り返しながら引き続き頑張ります」(関根さん)

さらに、参加者からのコメントやそれに対するディスカッションが続き、あっという間に予定の2時間が終了。まだまだ議論は尽きず、田中さんが「非常に興味深い質問をたくさんいただいているので、シンポジウムの内容を報告書など何かの媒体にまとめる際に、三人で回答したいと思います」とコメントされていたので、また別の機会も楽しみに待ちたいと思います。

 

久保さんも関根さんも、研究テーマのユニークさはもちろん、自ら体を張って実証していく姿が印象的で、筆者も女性の身体を持つ者としての実感を持ちながらお話を聞ける楽しいひとときでした。また、コメンテーターの田中さんも含め、研究者の方たちが現在進行形で悩んだり試行錯誤したりする様子が垣間見えたのも興味深かったです。「シンデレラテクノロジーのその先」がどうなっていくのか、先生方の研究に今後も注目していきたいです。

不妊治療大国・日本における生殖技術の課題と可能性とは?成城大学の公開講座をレポート

2021年10月28日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

不妊を心配したことがある夫婦は3組に1組(※)。
そんなデータがあるほど、不妊治療は私たちの身近な存在になっています。
でも、不妊治療の現状を詳しく知っているのは当事者や関係者だけで、それ以外の人はなかなか知る機会がありません。

不妊治療を含む生殖技術の世界では今何が起こっていて、そこにはどんな課題や可能性があるのでしょうか。
改めて考えてみる機会になればと、「生殖技術を問い直す」をテーマとする成城大学のオンラインシンポジウムに参加しました。

※国立社会保障・人口問題研究所の調査

生殖技術の課題や可能性を考える

今回参加したのは、成城大学グローカル研究センターが主催する全5回のシンポジウム「ポストヒューマニティ時代の身体とジェンダー/セクシュアリティ」の第3回。
トランスジェンダーアスリートについて取り上げた第1回、フェムテックについてサイエンス・スタディーズの視点から考えた第2回に続き、第3回は「生殖技術を問い直す:その倫理的・政治的課題と可能性をめぐって」と題して開催されました。

【第1回のレポート】スポーツにおける多様性とは?成城大学の公開講座でLGBTについて考える。
【第2回のレポート】いま注目が集まるフェムテック。その可能性とわかりやすさゆえの罠とは?

シンポジウムのポスター

シンポジウムのポスター

登壇者プロフィル

山本先生

山本由美子さん

大阪府立大学人間社会システム科学研究科准教授。専門は倫理学、科学技術社会論、医療社会学。共著に『知と実践のブリコラージュ―生存をめぐる研究の現場―』(2020年)などがある。

 

重田先生

重田園江さん

明治大学政治経済学部教授。専門は現代思想、フーコー研究。著書に『フーコーの風向き 近代国家の系譜学』(2020年)、『ミシェル・フーコー 近代を裏から読む』(2011年)などがある。


不妊治療の現状とその背景にある女性の苦痛

はじめに、明治大学政治経済学研究科教授の重田園江先生が「生殖技術の現在地」をテーマに登壇。重田先生は、自身が不妊治療に注目したきっかけとしていくつかの事由を挙げます。

 

まず、生殖技術が非常に複雑であり、当事者や関係者以外は何が起きているか全く知らないということ。当事者の知識とそれ以外の人の知識の差が激しく、重田先生自身も調べ始めるまで知らなかったことがたくさんあったと言います。
さらに、「赤ちゃんがほしい」という思いには際限がなく、それを批判するのは難しいこと、日本では少子化という状況の中で容認されてきたこと、女性の身体への負担が非常に重いこと、個人の自由や選択の問題と社会的倫理との両立が難しいことなど、さまざまな問題を孕んでいることを指摘します。

 

続いて、日本の不妊治療の現状を示す一例として、生殖補助医療の治療成績(治療とそれによる妊娠の結果)に関する2つのグラフを紹介。


1つ目は年齢別の治療件数と、治療による生産率(出産に至る割合)・流産率を示したグラフ。このグラフから、日本の不妊治療は生産率が低く流産率が高い40代の患者が多いことがわかります。

重田先生のスライドから(前掲「エコノミストOnline」より)

重田先生のスライドから(前掲「エコノミストOnline」より)

 

2つ目は、世界各国の生殖補助医療の実施件数と出生率のグラフ。日本は実施件数が多いにもかかわらず出生率が低く、医療が出生率に結びついていないという現状があります。

重田先生のスライドから

重田先生のスライドから

 

「政府は今、不妊治療への保険適用を打ち出して助成拡大を進めていますが、この政策の効果はかなり限定的になると推察されます。その一番の理由は、日本で不妊治療を受ける人は生産率の低い40代が多いこと。なぜそうなのかは日本の社会システム全体の問題なのに、補助金を出せば子どもを産むと思っていることに憤りを感じてしまいます。一件、一件の不妊治療の背後に、治療者、とりわけ女性の膨大な苦痛があることに想像力を働かせる必要があるのではないでしょうか」

 

重田先生は、不妊治療の種類についても解説してくれました。

 

重田先生のスライドから

重田先生のスライドから

 

一つひとつの種類の説明はここでは割愛しますが、不妊の原因は男性側にもあるケースが約半数であること、それにもかかわらず検査や治療でかかる負担は圧倒的に女性側であること、特に女性は検査の種類が非常に多く、通院のために仕事を続けられなくなるケースも少なくないことなどがよくわかりました。

 

印象に残ったのは、不妊治療の一つであるタイミング法の説明の流れで触れられた、性教育についてのお話。

 

「女性は基礎体温表を見たことがある人が多いと思いますが、大学で生殖医療について話していると、男子学生たちは月経周期のことを全然知らないんです。学校で教わって見たことはあってもまるっきり覚えていないし、いつ性交をすると妊娠するのかも全くわかっていない。実は学生だけでなく中年男性も知らない人が多くて、私と同世代の男性に『女の人って何歳まで妊娠できるの?』と聞かれてびっくりしたこともあります。日本の性教育は今すぐに変えないとまずいんじゃないかと感じています」

 

筆者自身、性教育の時間に男子・女子で分かれて授業を受けた記憶はありましたが、男子がどんな授業を受けて、月経周期や妊娠についてどの程度理解しているのかあまり考えたことがなかったので、そこまで知らないものかと驚いてしまいました。


生殖技術が人を苦しませるツールに?

重田先生は、不妊が「治療」の対象であることについて次のように指摘します。

 

「不妊はクリニックでは『治療』の対象、医療行為の対象であって、病気と同じように扱われます。不妊を『治療』する患者のゴールは妊娠です。そのため、妊娠できない人や質の良い卵子が取れない人は『ダメな患者』『劣等生』というレッテルを自らに貼ることになってしまいます。でも、そもそも妊娠できないこと自体は病気ではありませんよね」

 

このように、本来は健康な人をまるで病気であるかのように医療の対象とする状況を、重田先生は「身体の医療化」という言葉で説明します。

 

「同じ身体のケアでも、昨今増えている医療とそうでないものの境界事例、たとえば美容整形やサプリメント、ドーピング、エイジングケアなどと似た現象だと考えています。不妊治療も、病気でないものが医療の対象となり、生活全体が医療化されていく現象の一つではないでしょうか。不妊治療をしていると、日々の服薬や注射、検査など生活の全てが医療のデータに取り囲まれ、生活の医療化、身体の医療化がもたらされます」

 

なるほど、不妊治療と美容整形が似た現象だとは考えたこともなかったですが、確かに病気でもないのに「治療」をするという意味では近いのかもしれません。

 

さらに、重田先生は生殖医療の知のあり方について次のように警鐘を鳴らします。

 

「一般の人と超最先端技術がいきなり結びついてしまうという不思議な現象が起きている。素人と最先端が結びつき得るということは、健康保険対象外の技術をビジネスチャンスと捉える人々も現れ、ゲリラ的にいろいろなことが起きます。これが非常に恐ろしく、でも起こりやすい状況だというのが、生殖医療の知の独特のあり方じゃないかと思います」

 

ゲリラ的な現象としては、精子提供のドナーを称するSNSアカウントが複数存在していることや、日本では登録施設でしか認められていない着床前診断を行うためアメリカに送って検査する代行業者が横行していることなど、発表の中でさまざまな事例を紹介していました。

 

最後に重田先生は、「そもそも生殖技術の進展は、不妊治療だけでなく、人間のさまざまな可能性、多様性へと開かれたものとしても利用しうるのでは?」と、いくつかの可能性を提示しました。

重田先生のスライドから

重田先生のスライドから

 

しかし残念ながら、現状ではさまざまな産み方や育て方があり得るという多様性にはつながっておらず、むしろ一夫一婦制、産む=育てる、産む性=女性、若さの無条件的価値づけ、良い卵子/良い精子と悪い卵子/悪い精子の振り分け、障害を持って生まれてくることをできるだけ早く医学的介入で避けるべきとの価値観などにつながってしまっていると語ります。

 

「生殖技術が人を苦しませたり人を排除したりする新しいツールになってしまっているのが、大きな傾向ではないかと思います。これが、生殖技術の現在地として私が感じていることです」と重田先生は発表を締めくくりました。


生殖と身体をめぐる統治とは?

続いて登壇したのは、大阪府立大学人間社会システム科学研究科准教授の山本由美子先生。「生殖と身体のテクノロジーをめぐる統治性 ―ポスト・ヒューマニズムという技法を考える」と題し、①生殖と身体をめぐるテクノロジーについて、その賛否や規範的な議論ではなく、その統治の権力のありようを読み解く、②そのことがポスト・ヒューマニズムを考える際に、どんなパースペクティブを提示しうるか素描する、という2つの目的を掲げて発表が始まりました。

 

山本先生は生殖技術について次のように説明します。

 

「生殖技術は、人工授精や体外受精といった『子をつくる技術』と、着床前診断や出生前検査(羊水検査、NIPT:新型出生前診断など)といった『子を選別する技術』に二極化し、表裏一体化しています。そこには生殖と身体をめぐる“統治”が機能しています」

 

統治という言葉を聞いてもピンと来ないのですが、いったい誰が何を統治しているのでしょうか。山本先生は、以下のスライドで説明します。

山本先生のスライドから

山本先生のスライドから

 

スライドに示されたさまざまな身体は、いずれも「専門家」による知と技術を介した生殖の統治の対象となっていると言います。

 

「生殖の統治はヒューマニティや家族のあり方にさまざまな規範性を持ち込むものです。さらに、ピラミッド的な単一方向の統治ではなく、受動的でも強制的でもないところに力の作用が働いています」

 

山本先生は一例として、NIPT:新型出生前診断をめぐる統治性について説明します。

 

「NIPTでは、妊婦身体の統治が行われています。『カウンセリング』という妊婦の交渉の場で、優生的な思想を徹底的に個人化した上で産むか産まないかを検討させている。言い換えるなら、『あなたの個人的な決断をサポートしましょう』というわけです。国家は優生的な表象や概念をみじんも用いることなしに、また、なんら強権的な力も及ぼすことなしに、人口管理を機能させることができてしまうのです」

 

日本は選択的中絶を法的には認めていないにもかかわらず、NIPTによってそれを個人に選択させる社会的作用が働いていると山本先生は指摘します。

 

「産まないことを『選ばされている』のではなく、選んでいるのです。国家や専門家集団は、選択的中絶を巧妙に、個人のより良い生のなかに包摂したわけです。それは胎児の質ではなく自らの生、つまり自らの人生のありようを妊婦が選ぶ形で、選択的中絶が再配置されているのです」

 

私たちは結局、選ばされているのか、選んでいるのか。個人のより良い生の中に巧妙に包摂されたという言葉にドキッとさせられます。

 

さらに山本先生は、別の角度から考えると、「生殖年齢にある」と恣意的にカテゴライズされた女性たちは、潜在的な顧客かつ巨大な市場とまなざされていると指摘します。それはフェムテックも例外ではないという山本先生の言葉に、シンポジウムの第2回で語られたフェムテックと資本主義の関係や、「すべての身体が搾取の対象、資本主義の対象とされている」という話が思い起こされました。


生殖技術とポスト・ヒューマニズム

山本先生は本シンポジウムのテーマであるポスト・ヒューマニズムの役割について、いくつかの問いを投げかけます。

 

「倫理すら、統治と資本創出の稼働装置となりかねない現代においては、ヒューマニズムにこそ差し迫った重要な役割があるのではないか。人間概念を解体してその終焉を思考すること。具体的には、今ある規範や身体をめぐる価値観のなかで、自らを把握したり定義したりすることをやめること。そして、支配からずれ、支配しなければならないような状況からもずれることではないか」

 

「ポスト・ヒューマニズムの技法とは、『自分と異なる存在を序列化して他者とまなざすおのれは何者か』を考えることから始まります。支配を無効化するために支配的諸価値からずれたのち、これまでなんら疑念ももたず他者とみなしてきたさまざまな存在との重なりを、いかにしておのれに見出すか、具体的に考えることです。〈(普遍的・主体的な)人間になる〉から〈他者になる〉とは、このことを言うのではないでしょうか」

 

「今ある規範や価値観で定義することをやめる」「支配からずれる」といった言葉が強く印象に残り、これからの時代を生きる上で必要なことだと感じます。でもまだ少し抽象的でつかみにくい気もします。

 

山本先生は、「抽象的な議論ではなく、今ここにある問いとしていくつか挙げられる」と続けます。

 

「選択的中絶を最終的には女性が決めてくれて、安堵しているのは誰なのか。専門家の創設したシステムに乗ってくれて、『利益』を得ているのは誰なのか。生殖とテクノロジーをめぐる、無自覚な『健常異性愛優越的主体性』はなぜ不問のままなのか。総じて、テクノロジーの進展が『逸脱』の事象をもたらしているとするなら、それは既存の規範自体に内包されている矛盾や不平等こそを、浮き彫りにしているのではないでしょうか」

 

山本先生が指摘する矛盾や不平等は、重田先生が語った「生殖技術の進展が人間の多様性につながっていない」という問題と同様に、テクノロジーが浮き彫りにしている大きな課題だと感じました。


問題が解決されないまま進んでいく生殖技術の現在

続いて、シンポジウムの司会を務める竹﨑一真さん(成城大学グローカル研究センターPD研究員)も交え、3人でのディスカッションが行われました。

 

竹﨑さんは、「どちらのお話も、いわゆる『新しい優生学』に通ずる話が多かった」とコメント。近代社会以降にダーウィニズムと共に出てきた従来の優生学とは異なる、個々の自己決定権に委ねるような、現代社会のリベラルな優生学、新しい優生学についての考えを伺いたいと二人に投げかけました。

 

重田先生は「新しい優生学についての話は一時期すごく言われていましたが、最近あまり言われなくなりました。それは問題が解決されたからではなくて、生殖技術に関する問題はいつもそうなんですけど、現実が議論よりも先に行ってしまって、問題が解決されないまま技術がどんどん進んでいるという状況だと思います」とコメント。

 

一方山本先生は、「徹底的に優生思想が個人化されているのがここまでの流れで、最近はそれがより強化されている。女性が産む産まないを決めるけれども、良い子を産むためのゲートキーパーのような役割を担っているわけではけしてないということを強調すべきなんですが、そこもなし崩し的に自由主義的な流れに行ってしまっているのが現状だと思います」と話しました。

 

さらに重田先生は、「どうしてもナチスなどのイメージになってしまうので、優生学という言い方はあまりピンと来ない。たとえばルッキズムやダイエットなど、違う社会現象と結びつけたほうが理解しやすいし、どうしたら良いのかという方向にもつながっていくのでは」とも語りました。

 

続いて、チャットに書き込まれた参加者からの質問やコメントも紹介。「ゲイのカップルやアセクシャルの方、自分の身体での出産を希望しない女性など、さまざまな事情の方が代理出産を希望する際、不妊として扱われることに違和感を覚える」という声や、「男性の基本的な性教育が十分でない、そこを変えていかないといけない」という声があり、三人がそれぞれの意見を語り合いました。

 

参加者の意見や三人のディスカッションを聞いていて、重田先生が話していたように、どんどん進んでいく技術に対して議論が追いついていないという現実を改めて実感すると共に、流されずに一度立ち止まって考えるべき問題がたくさんあると感じました。

いま注目が集まるフェムテック。その可能性とわかりやすさゆえの罠とは?成城大学の公開講座をレポート

2021年9月28日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

テクノロジーで女性の健康問題を解決するフェムテック(Femtech)。
2020年は日本の「フェムテック元年」と呼ばれ、ここ1~2年で急速に市場が拡大しています。
ほとんど0円大学もこの動きに注目し、2021年1月にはフェムテックに関する活動を行う学生団体を取材して紹介しました。
【紹介記事】お茶の水女子大学生の学生団体『まめでんき』に聞いた!フェムテックを通じて伝えたいこと

 

最近はファッション誌で取り上げられるほど身近になりつつありますが、まだまだ目新しい分野であるフェムテックを、成城大学がシンポジウムのテーマとして取り上げると聞き、オンラインで聴講しました。


フェムテックの可能性や課題について考える

今回参加したのは、成城大学グローカル研究センターが主催する全5回のシンポジウム「ポストヒューマニティ時代の身体とジェンダー/セクシュアリティ」の第2回目。
「フェムテック」について語るべきこと——サイエンス・スタディーズからの視点、というテーマで開催されました
【第1回のレポート】スポーツにおける多様性とは?成城大学の公開講座でLGBTについて考える。

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シンポジウムのポスター

 

シンポジウムの企画・コーディネートを務める成城大学の竹﨑一真さん(成城大学グローカル研究センターPD研究員)より、「フェムテックという新しいテクノロジーの現象が人間と結びつくことによって、どういった可能性や課題が見えてくるのか。さまざまな問題点を出し合いながら、どういった方向性で考えていくべきかディスカッションしていきたい」と主旨説明があり、シンポジウムがスタートしました。

登壇者プロフィール

渡部麻衣子

渡部麻衣子さん

自治医科大学医学部総合教育部門講師。専門は科学技術社会論。共編著に『出生前診断とわたしたち「新型出生前診断」(NIPT)が問いかけるもの』(2014年)、共著に『人と「機械」をつなぐデザイン』(2015年)などがある。

 

標葉靖子

標葉 靖子さん

実践女子大学人間社会学部准教授。博士(生命科学)。化学系民間企業での新事業開発・研究企画管理業務を経て、現在は「科学技術と社会」や科学コミュニケーションに関わる教育・研究を行っている。

 

隠岐さや香

隠岐さや香さん

名古屋大学大学院経済学研究科教授。専門は18世紀科学技術史。日本学術会議連携会員。著書は『科学アカデミーと「有用な科学」――フォントネルの夢からコンドルセのユートピアへ』(2011年)など。


フェムテックの核となる新しさとは?

最初に登壇した自治医科大学医学部講師の渡部麻衣子先生の発表テーマは、テック系ベンチャー「女性化のジレンマ」。渡部先生は、まず初めにフェムテックの定義と種類について、次のように説明します。

 

フェムテックは女性(Female)とテクノロジーを掛け合わせた造語で、2013年にドイツで月経周期管理アプリの提供を始めたアイダ・ティン氏が、自身のサービスのビジネスカテゴリを称するために作った言葉。女性の健康における課題をテクノロジーで解決するサービスやプロダクトを総じてフェムテックと呼びます。
たとえば、月経カップや吸水ショーツといった生理用品、ピルの飲み忘れを防ぐデバイスや授乳を助けてくれるデバイス、プレジャートイと呼ばれるプロダクトなど、その範囲は情報工学系だけでなく非情報工学系も含み、多岐にわたっています。

 

渡部先生はフェムテック産業の発展状況についても解説。2017年には世界で50社しかなかった関連するスタートアップの数が、2021年には1550社にまで広がっていると聞いて、その勢いに驚きました。

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2020年の484社から2021年は約3倍に

 

急速に発展してきたフェムテック産業。でも、たとえば生理用品や婦人体温計など、女性の健康問題を解決するプロダクト自体は昔からあったはず。月経周期管理アプリも、10年以上前から身近にあったような……。

 

筆者がそんな疑問を抱いていると、今フェムテックと呼ばれているものにどのような新しさがあるのか、1.テック系、2.女性起業家、3.ビッグデータという3点を挙げて解説してくれました。

 

「1点目は、最初に出てきた時は明らかにテック系、アプリとして登場したということ。2点目は、女性起業家が多く活躍していること。3点目はビッグデータ、つまり、女性の身体情報を収集してそれをもとに新たな知見を提供していることです。この3点がフェムテックの核となる新しさだと考えています」

 

特に渡部先生が注目しているのは、テック系の女性起業家が多く活躍していることだと言います。それはなぜでしょうか。

 

「世界の先進国の共通課題として、STEM領域(科学技術・工学・数学分野)における女性の割合が非常に低いという問題があります。STEM領域の学部を卒業する女性がそもそも少ないためです。なぜそれが問題かというと、テック系企業が世界の情報を集めて社会に還元していく上で、女性が少ないということは集める情報にジェンダーの偏りが生じてしまうからです」

 

このような課題に働きかけていけるのが、フェムテックの領域であると渡部先生。フェムテックはテック系イノベーションの「女性化」を図ることができるという意義があるのではないかと話します。


フェムテックが抱えるジレンマ

続いて渡部先生は、フェムテックについての議論のための問題枠組みをいくつか提示しました。中でも興味深かったのは、フェムテックのジレンマについて。

 

「フェムテックが『生理の貧困』の文脈の中で語られることは、しばしば見られます。実際、女性の身体に生じる不利益を何らかの形で解決していこうという動きの中でフェムテックをとらえることもできるのですが、一方でここにはジレンマがあって。フェムテックとして販売されている商品は価格帯が高いものが多いんです。つまり、買える人と買えない人の間で、同じ身体を共有しているにもかかわらず、課題を解決できる人とできない人を分断してしまう危険性がある。これはフェムテックのジレンマと言えるのではないでしょうか」

 

確かに、吸水ショーツなどを見て「高いな」と思った経験は筆者にもあるため、買える人と買えない人の分断はすでに起こっているのかもしれないと感じました。さらに、「女性の身体を市場のフロンティアとして位置付けてしまうような危険性も、フェムテックははらんでいる」という渡部先生のお話を聞いて、ビジネスにうまく利用されている面もあるのかも?とちょっと複雑な気持ちになりました。

 

渡部先生は発表の中で、フェミニズム運動の歴史や、「#MeToo」運動で加速した近年のフェミニズムの波にも触れ、フェムテックは「女性の身体の主体化」の流れともつながっていると説明していたのも印象的でした。

 

最後に渡部先生は、本シンポジウムのテーマであるポストヒューマニズムにおけるフェムテックの意義について、「これまで知られていなかった多くの<女性>の身体情報を集めてきて、それを視覚化できるというところに、ポストヒューマニズムに貢献できるフェムテックの意義を見出しています。<女性>の身体の多様さを共有できるプラットフォームをフェムテックが提供することで、『<女性>の身体の主体化』を進化させていくことができるのではないかと考えています」と述べ、発表を締めくくりました。


教育におけるフェムテックの可能性と意義

続いて登壇したのは、実践女子大学人間社会学部准教授の標葉靖子先生。「フェムテックは科学技術への市民参加のきっかけになりうるか?」と題し、フェムテックというフレームが持つインパクトを、科学技術への市民参加、とりわけこれまで科学技術に低関心だった人々の参画につなげていけるのかという観点からお話されました。

 

標葉先生は、大学の授業の中でフェムテックを取り入れています。たとえば、産学連携型のPBL(問題解決型)授業では、フェムテック関連の企業と連携。月経カップ、企業向け不妊治療保険、スマートバイブレーターといったフェムテック商品を日本のマーケットに進出させるにはどうすれば良いかという課題を入り口に、学生たちが議論していく授業を行ったと話します。
また、学生の問題意識を出発点とするPBL授業では、学生たちが自主的に取り上げた社会課題の多くが「女性の問題」とされるものであり、出てくるアイデアにはフェムテックのフレームに当てはまるものも多かったそうです。

 

「科学技術への市民参加を考える上で、そもそも科学に関心がない人にはなかなかリーチできないという非常に難しい課題があります。低関心層にいかにして関心を喚起させるかというところで、これまで多くの工夫や苦労をしてきましたが、フェムテックというフレームは非常に良いフックになるという実感を得ています。学生たちは女性の健康問題に対する関心が高く、自然に興味を持って議論に参加しようとする姿が見られました」

 

標葉先生は、授業の中で学生から出たアイデアや意見も紹介。たとえば「月経痛を数値化して有給休暇取得をしやすくする」というアイデアや、それに対して「痛みを証明しないと休めないのは変じゃない?」「テクノロジーで解決することではなく、そもそも誰もが気軽に休暇を取れるようにするべき」といった議論が展開するなど、フェムテックを入り口として科学技術やその背景にある社会についても思考を巡らせている様子がよくわかりました。

 

また、標葉先生のお話で興味深かったのは、フェムテックの多様性について。TwitterとInstagramでのフェムテックの取り扱われ方の違いについて紹介し、「フェムテックが多様性を持ち始めていることが見て取れます。立場や属する集団によって、フェムテックの解釈がかなりずれている。そのずれが非常に重要」と話していたのが印象的でした。

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Twitterでは月経カップや吸水ショーツについての話題が多く、「女性のための」という言い回しや価格帯の高さへの疑問や不満も見られるのが特徴。一方Instagramでは月経カップや吸水ショーツだけでなく美容コスメや健康食品にまつわる投稿が多く含まれ、フェムテックというある種のブームに便乗しているようなものも散見されるそう

 

さらに標葉先生は、国の成長戦略(「経済財政運営と改革の基本方針2021」「成長戦略フォローアップ」)でフェムテックが言及されていることも紹介。フェムテックがかなり積極的に推進されている現状を知り、少し意外に感じていると、標葉先生から次のようなお話がありました。

 

「女性特有の悩みによる経済的損失がいかに大きいかということを算出して、それを根拠に国として推し進めようという言説が見られます。今までこうした領域に予算配分がなされてこなかったという背景を考えるととても良いことである反面、経済を推し進めるためのイノベーションという面が過度に強調されていることには注意が必要かもしれません。また、先端的なテクノロジーによって月経を管理することが当たり前になり、それが新しい規範になってしまうことに対する、懐疑的な視点の投げかけは必要だと思います」


わかりやすさゆえの罠や危険性

二人の発表の後、コメンテーターとして登壇した名古屋大学経済学研究科教授の隠岐さや香先生は、「フェムテックは多様であるにもかかわらず、とてもわかりやすいものとして受け止められて広まっている。わかりやすさゆえの良い面と悪い面がある」と語ります。

 

隠岐先生は、良い面として、渡部先生の発表にあったフェムテックの新しさや意義、標葉先生が紹介した教育面での可能性について触れ、続いて悪い面、わかりやすさゆえの罠や危険性について、3つの論点に絞って指摘します。

 

1つ目は、フェムテックという名前への批判。「フェム=女性という言葉を使うことによって、トランスジェンダーを排除しているのではないか」という参加者からの指摘にも触れながら、生殖する身体を自分のものとして違和感なく受け入れているようなアイデンティティを持つ人、狭い女性像をターゲットにしているのではないか、そしてそのことが新たな規範の形成につながってしまうのではないかと問題提起します。さらに、規範の話に関連して、国の対応についても指摘します。

 

「私が非常に興味深く思ったのは、自民党や経済産業省といった日本の主流派が、ずいぶん早くからフェムテックに反応していること。それはなぜか。私の仮説としては、日本の社会では男女という二元論の規範を維持するものが推進される傾向があると感じています。フェムテックを推進する上で経済的損失を強調していますが、たとえば夫婦別姓が実現しないことによる経済的損失もあるわけですよね。でもその問題はなかなか進まない。フェムテックは男女二元論の規範を維持したい人たちに訴える技術なのかなと、個人的に思ってしまいました」

 

なるほど、標葉先生の発表の中で国の成長戦略を知った時に、筆者がまず抱いた違和感の正体もこれだったのかもしれない……と思わず頷いてしまいます。

 

2つ目は、資本主義の関わり。フェムテックには女性を市場のターゲットとして囲い込むという側面があるのではないかという指摘です。男性向け商品よりも女性向け商品の価格が高いと言われる「ピンク・タックス」問題にも触れ、そういった商売の構造により一層女性を巻き込むのではないかと語ります。

 

3つ目は、疑似科学的なものへの接近に対する懸念。ジェンダーや多様性をとらえた研究やサイエンスに、フェムテックは貢献するのか。逆に、敵対的な関係性になってしまわないかという懸念を挙げました。

 

以上3点を挙げた上で、「参加者の皆さんからの質問で一番多かったのは、資本主義との関わり、女性の身体の市場化の問題。その点についてコメントをいただければ」と、渡部先生と標葉先生にバトンを渡しました。

 

渡部先生は、「市場のフロンティアとして女性の身体が搾取されていく構造は、実際に見ることができます。でも一方で、男性の身体も同様に、市場原理の中で搾取されている。すべての身体が搾取される中、フェムテックにおける新たな搾取をどうとらえるかという問題が出てきている」とコメント。
標葉先生は、「渡部先生がおっしゃるように、すべての身体が搾取の対象、資本主義の対象とされている。そのなかで女性の場合、生殖する身体としての女性ばかりが取り上げられているようにと思います。いずれにせよそこから新しい規範がより強固に作られてしまうことに対する警戒を、利用者や開発者が強く持ち続けることが重要」と語りました。
2人のコメントを受け、隠岐先生は「すべての身体が搾取されている中で、女性固有の搾取のされ方があるのか、分析する段階に入っているのかもしれません」と話しました。

 

さらに、参加者からのコメントやコーディネーターの竹﨑さんも交えたディスカッションが続き、あっという間に予定の2時間が終了。最後に隠岐先生は、「フェムテックは科学技術や女性の問題だけではなく、イノベーションそのものの問題。ダイバーシティやジェンダー、トランスヒューマンやポストヒューマンの話とも関わってくるので、広い文脈とつなげて議論していくことが大事」と締めくくりました。

 

フェムテックに興味を持ち、もっと詳しく知りたいという好奇心で聴講しましたが、先生方のお話から想像以上にさまざまな文脈とつながっていることを実感しました。標葉先生の授業に参加した学生たちがそうだったように、フェムテックは多くの問題について考えるための入り口になりうると感じました。

児童図書の世界をのぞいてみよう!こども本の森 中之島×大阪大学のイベントに参加してみた。

2021年9月16日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

画像:こども本の森 中之島

 

2010年代半ばから続いている「絵本ブーム」。
それまでは「1万部売れたらベストセラー」と言われていた絵本市場で、10万部を超えるヒット作品が続々と生まれています。
普段はあまり絵本を手に取らないけど、最近話題になっている作品は読んでみたという方も多いのではないでしょうか?

 

今回は、大阪・中之島にある「アートエリアB1(ビーワン)」で児童図書にまつわるトークイベントが開催されると聞いて、気になる絵本や児童図書の世界をのぞいてみるべく、参加してきました。

「こども本の森 中之島」館長と大阪大学准教授による対談イベント

今回のイベントは、中之島にある14施設によるプロジェクト「クリエイティブアイランド中之島」の一環。こども本の森 中之島と、大阪大学が京阪電車、NPO法人ダンスボックスと協同で運営するアートエリアB1(ビーワン)のエクスチェンジ企画として開催されました。
タイトルは「児童図書の役割~18世紀ドイツ児童文学の成立ちから」。こども本の森 中之島の館長を務める前川千陽さんと、18世紀ドイツの児童文学を手がかりに、印刷メディアと子どもの読書の関係を研究する大阪大学文学研究科准教授の吉田耕太郎さんによる対談が行なわれました。
イベントはアートエリアB1で開催され、オンラインでも同時配信。筆者はオンラインで参加しました。

本の世界へといざなう「こども本の森 中之島」

最初に登壇したのは前川千陽さん。前川さんが館長を務めるこども本の森 中之島について、施設の概要やこれまでの取り組みを写真と共に紹介しました。

画像提供:アートエリアB1

画像提供:アートエリアB1

 

こども本の森 中之島は、建築家の安藤忠雄さんが設計し、建物を大阪市に寄贈する形で2020年7月に開館しました。前川さんのスライドでは、壁一面に絵本の表紙が並ぶ様子や、開放感のある空間で子どもたちが自由に本を楽しむ姿が見られ、写真を見ているだけで「行ってみたい!」とわくわくした気持ちになります。

前川千陽館長のプレゼンテーション資料(写真:伊東俊介)

前川千陽館長のプレゼンテーション資料(写真:伊東俊介)

 

前川さんのお話を聞いてまず驚いたのは、こども本の森 中之島は図書館ではなく文化施設であるということ。

 

「図書館だと思って来られると、カウンターも検索機もないので驚く方もいらっしゃいますね。コンセプトとしては、好きな本を探して好きな場所で読んでくださいねとお伝えしています」

 

こども本の森 中之島の特徴の一つは、本の表紙を見せて展示していること。

 

「お父さんやお母さんが、自分が小さい頃に読んだ本の表紙を見つけて、子どもに紹介してあげているシーンをよく見かけます。本の顔が見えるというのは、とっても良いことだと思いますね」

 

館内に入ると、「わーすごくたくさんの本がある!」という第一声がよく聞かれるそうですが、蔵書は約1万8000冊。一般的には小規模な図書館でも30~40万冊ほどの蔵書があり、こども本の森 中之島の蔵書数は実はかなり少ないそうです。それでも「たくさんある!」と感じられるのは、冊数ではなく見せ方による効果が大きいのだとか。

 

ちなみに筆者は壁一面の展示を見て、上の方にある本は飾られているだけになってしまうのでは?とちょっと心配になってしまったのですが、展示している本は下の棚にまとめて置いてあり、そこから手に取れると聞いてほっとしました。

前川千陽館長のプレゼンテーション資料(写真:伊東俊介)

前川千陽館長のプレゼンテーション資料(写真:伊東俊介)

 

こども本の森は、本の分類方法も特徴的です。日本の図書館で広く使われている十進分類法をベースにした、独自の分類で本が並べられています。「自然とあそぼう」「体をうごかす」「食べる」「生きること/死ぬこと」といった12のテーマの選書は、ブックディレクターの幅允孝さんが手がけています。

 

他の図書館にはない斬新な分類で、子どもたちの興味・関心が刺激されそうです。他にも館内のプロジェクションマッピングなど多彩な「本へのいざない」があり、大人も子どもも惹きつけられます。

前川千陽館長のプレゼンテーション資料

前川千陽館長のプレゼンテーション資料

 

前川さんは、作家を招いたイベントや伝統芸能とのコラボレーション企画など、さまざまな試みも紹介。館内だけでなく館外での企画も多く、「館を飛び出したり、今日のようにいろいろな方のお話を聞いたりして、本に対する思いがより強くなり、その思いを子どもたちに還元できればいいなと思っています。館の外での取り組みはこれからもたくさんしていきたいですね」と発表を締めくくりました。

出版の黎明期に「子どもの本」はなかった

続いて、吉田耕太郎さんのプレゼンテーションへ。18世紀ドイツ語圏の文化や思想を専門とする吉田さんは、ここ数年は特に児童文学というジャンルの成立について研究しています。

画像提供:アートエリアB1

画像提供:アートエリアB1

 

まず吉田さんは、子どもの本の歴史を説明するため、数冊の本をスライドで紹介しました。それは、統治者の心構えが書かれた『君主の鏡』と呼ばれる本や、ラテン語の教科書、アルファベットの教科書。子どもが読む本にはあまり見えないような……?

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吉田耕太郎准教授のプレゼンテーション資料

吉田耕太郎准教授のプレゼンテーション資料

 

「今の子どもが手に取って読む本とは、明らかに違いますよね。子どもの本の歴史を遡ると明らかになってくるのは、出版の黎明期には『子どもの本』はない、ということなんです」

 

本が出版されるようになった16~17世紀は、そもそも今のような「子ども」という概念はなかったと、吉田さんは説明します。つまり、子どもたちは身分や住んでいる地域、親の職業などによって区別され、一定の年齢による「子ども」という区分はなかったというのです。
先に紹介された「君主の鏡」や語学の教科書は、大貴族の家に生まれた子どもたちが教育のため読み聞かせをされていたものだと聞き、なるほどと納得します。

 

「子どものための」とタイトルに付けられた本がたくさん出始めるのは、18世紀中ごろから。この頃には子どもという概念が定着し、子どもという新しい読者が生まれたと言います。

時代背景を表す「読み手」の変遷

吉田さんのお話で興味深かったのは、当時読み聞かせをするのは主に父親だったということ。子どもの読み聞かせというと、まずお母さんを思い浮かべてしまいますが、当時はお父さんが中心だったそうです。

 

「たとえば新ロビンソン物語は、船で航海するとはどういうことなのか、羅針盤の仕組みはどんなものかなど、ロビンソンの冒険譚を通して自然科学の知識を得ていくような作りになっています。本の中には、『今日は何章から読むよ』など読み手の父親のセリフも書かれていて、父親がそのまま読み聞かせることによって教育の現場が再現できるようになっているんです」

吉田耕太郎准教授のプレゼンテーション資料

吉田耕太郎准教授のプレゼンテーション資料

 

当時出版された新ロビンソン物語の銅版画を見ると、父親が子どもたちに囲まれて読み聞かせをする様子が描かれています。当時は、物語を通して父親が子どもを教育するものだったんですね。

 

時代と共に語り手は母親や祖母へと変化していき、グリム童話が出版される頃になると、おばあちゃんが読み聞かせをする銅版画が見られるそうです。この頃には、父親が教育をする文化がなくなり、女性たちが育児や教育を担うようになっていたのでしょうか。語り手の変遷から、当時の教育観やジェンダー観も垣間見えるようです。

 

読み聞かせではなく、子どもが自分で手に取って読めるような、いわゆる絵本が出てくるのは、19世紀から。日本でも翻訳されている『もじゃもじゃペーター』は、1845年にドイツで発表されたそうです。

吉田耕太郎准教授のプレゼンテーション資料

吉田耕太郎准教授のプレゼンテーション資料

 

「それまでは、子どもたちにとって物語は『聴く』ものでした。絵に短いテキストが付いた絵本のスタイルが登場することで、『聴く』だけのものから自分で『読む』『見る』ものに変化していきました」

 

とはいえ、『もじゃもじゃペーター』が出版された頃は印刷技術がそれほど発達しておらず、本はかなり高価なものだったため、一般に広く普及するのはまだ先の話とのこと。そう考えると絵本の歴史はそれほど長くなく、誰もが気軽に絵本に親しめるようになったのはごく最近のことなんですね。

読み聞かせの歴史と現在、そして自由な読書へ

前川さんと吉田さんのディスカッションでは、まず父親の読み聞かせが話題に上がりました。「読み聞かせを始めたのは父親だというのは知らなくて、びっくりしました」と前川さんが話すと、「さすが、鋭いですね」と吉田さん。

 

「実は、その前に読み聞かせをしていたのは乳母なんです。でも、乳母は魔女や妖精の話を子どもに聞かせるから教育上良くないという意見が出てきて、じゃあお父さんが真面目でためになる話をしましょうという流れになった。それで18世紀の本では、父親が読み聞かせをする姿が前面に押し出されているんです」(吉田さん)

 

なるほど、父親による読み聞かせは自然に起こってきたことではなく、意図的に作り出されていたんですね。

 

吉田さんの説明を聞いて、「こども本の森では、お父さんの読み聞かせを見かけることが多いんですよ」と前川さん。最近の子育て世代は、父親か母親のどちらかがするもの、という壁は特に感じていないのかもしれません。読み聞かせの光景が時代と共にさまざまに変化しているのが面白いですね。

 

ディスカッションの後半では、参加者からの質問も。「庶民が絵本を読めるようになったのはいつ頃から?」「絵本の中での絵とテキストの割合は、時代によって変化している?」「子ども視点の物語はいつ頃から書かれるようになった?」など次々と質問が寄せられ、一つずつ丁寧に回答されていました。

 

子どもの本がなかった時代から、教育のために読み聞かせをする時代を経て、子どもが自分で自由に本を手に取って楽しめる時代へ。そんな背景を知った上で改めて、こども本の森 中之島で壁一面の本から自由に本を選ぶ楽しみを味わいたくなりました。

スポーツにおける多様性とは?成城大学の公開講座でLGBTについて考える。

2021年7月13日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

性的マイノリティの総称としてよく使われるLGBTやLGBTQ+。

ここ数年は日本でもこの言葉を目にする機会が増え、法整備についても議論されています。

また最近では、トランスジェンダー選手が東京オリンピックの出場権を獲得し、スポーツの世界でもジェンダーの問題に注目が集まっています。

 

しかし日本ではまだまだ理解が進んでいないのが現状。LGBTという言葉は知っていても、自分が本当に理解できているのか自信がないという人も多いのではないでしょうか。

今回は、トランスジェンダーとスポーツをテーマとするシンポジウムが成城大学でオンライン開催されると聞き、少しでも深く知るきっかけになればと聴講を申し込みました。


ジェンダー/セクシュアリティの視点からポストヒューマニティを考える

「ポストヒューマニティ時代の身体とジェンダー/セクシュアリティ」は、成城大学グローカル研究センターが主催する全5回のシンポジウム。第1回「トランスジェンダーアスリートとスポーツにおける性別二元制」が2021年6月16日に開催されました。

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シンポジウムポスター

 

登壇者はトランスジェンダーでありフェンシング元女子日本代表でもある杉山文野さんと、スポーツとジェンダー/セクシュアリティの関係性について研究する立命館大学産業社会学部教授の岡田桂さん。司会は成城大学グローカル研究センターの竹﨑一真さんです。

登壇者プロフィール

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杉山 文野さん

株式会社ニューキャンバス代表・元フェンシング日本代表選手。社会的活動/LGBT プライドパレード主催団体NPO法人東京レインボープライド共同代表理事。日本初となる渋谷区・同性パートナーシップ条例制定に関わり、渋谷区男女平等・多様性社会推進会議委員も務める。

 

profile2

岡田 桂さん

立命館大学産業社会学部教授。専門領域:スポーツ社会学。研究テーマは主にスポーツとジェンダー/セクシュアリティの関係性、スポーツ/フィジカル・カルチャーと身体の理想像、二十世紀初頭の英米における柔術ブームなど。

 


 

初めに、全5回のシンポジウムの企画・コーディネートを務める竹﨑さんから、「テクノロジーの進展によって私たち人間の在り方が大きく変わりつつある。人類のターニングポイントとも言えるポストヒューマニティの時代について、とりわけ身体とジェンダー/セクシュアリティの視点にこだわって議論していきたい」と主旨説明があり、シンポジウムがスタートしました。

トランスジェンダーの当事者として

まず登壇したのは杉山文野さん。「スポーツ界の多様性を考える ~LGBTの視点から~」と題し、トランスジェンダーである自身の経験を中心にお話されました。

 

「フェンシングの元『女子』日本代表です。そんな髭面で何を言っているんだと言われますけど」とまず自己紹介をした杉山さんは、自身の経歴を写真と共に振り返ります。

 

スカートを履くのが嫌でたまらなかった幼少期。思春期には体が女性として成長していく一方で、内面では男性としての自我がより鮮明になり、「女体の着ぐるみを身に付けているような感覚。体と心が引き裂かれるという言葉では言い尽くせない」と当時の気持ちを表現します。軽快な口調で明るく話す杉山さんですが、こんなふうに笑顔で話せるようになるまでには、ここでは語り切れない苦労があるのでしょう。

 

自己紹介に続いて、多様な性の存在について解説。「性はいくつかの要素が組み合わさってできている」と説明します。

カラダの性(法律上の性)、ココロの性(性自認)、スキになる性(性的志向)、そして表現する性(言葉遣い・服装・仕草など)がある

カラダの性(法律上の性)、ココロの性(性自認)、スキになる性(性的志向)、そして表現する性(言葉遣い・服装・仕草など)がある

 

LGBTと聞くと頭の中で混同してしまいそうになることもありますが、こうして図表化すると、複数の要素があり、さらにグラデーションになっていることがよくわかります。

 

「性には無限の組み合わせがあり、この表で考えること自体にも限界がある。これだけ多様に考えられる性の在り方を男女という2つの箱に押し込めて考えるのは、ちょっと窮屈じゃないかと思います」

 

近年、LGBTに代わって使われることも増えた「SOGI(ソジ)=Sexual Orientation and Gender Identity(性的指向と性自認)」についても次のように説明します。

 

「LGBTという言葉だと、どうしてもマイノリティの人たちに限定されてしまいますが、誰を好きになるのか、自分の性をどう認識するか、これはみんなに関わる課題ですよね。そこで、マイノリティ/マジョリティに関係なく、性的志向と性自認を表すSOGIが使われるようになってきています」

スポーツ界におけるLBGTの現状と課題

杉山さんは自身とスポーツの関わりについて次のように語ります。

 

「小さい頃から体を動かすことが好きでしたが、水泳は水着がどうしても嫌で、バレエは衣装やお化粧が嫌で辞めてしまった。そんな中で出会ったのがフェンシングでした。フェンシングは男女でユニフォームの差がない。それが続けられた唯一の理由でした」

 

衣装の問題に限らず、少しでも体力がない男子がいれば「お前はオカマか」と嘲笑するようなシーンが日常茶飯事だったり、合宿ではお風呂やトイレに気を使ったりと、LGBTの当事者はスポーツの世界で居場所を作りづらく、早い段階で排除されてしまっているのが現状だと杉山さんは話します。さまざまな理由から、幼少期や学生時代にスポーツ自体を諦めてしまう人も多いのでしょう。

 

杉山さんは10歳でフェンシングを始め、大学院時代には日本代表として世界選手権に出場。しかし、男性中心主義的なスポーツ界では常に居心地の悪さがあり、結局はフェンシングも辞めてしまいます。

 

「自分の身近な先輩にも、フェンシングが好きだったのに続けられなかったゲイの選手がいました。同じようなことが世界中で、特に日本のスポーツ界では数えきれないほど繰り返されているんじゃないかと思います」

 

LGBTにまつわるスポーツ界の課題や現状について紹介し、課題解決のための最近の取り組みについてもいくつか事例紹介(セクシュアリティに関係なく参加できるスポーツ大会・ゲイゲームス、東京プライドハウスの設立等)をした杉山さん。今年行われる東京オリンピックのビジョンである「多様性と調和」に触れ、発表を締めくくりました。

 

「本当に『多様性と調和』を実現させるのか、言葉だけに終わってしまうのか。世界中から注目が集まっています。誰もがスポーツを楽しめる社会を作っていくために、皆さんと意見交換をしていきたいです」

杉山さんが紹介した「プライドハウス東京」はセクシュアル・マイノリティや多様性に関する情報発信を行う施設。アスリートやその家族や友人、観戦者や地元の参加者が、自分らしく、多様性をテーマとした大会を楽しめるように活動するとともに、次世代の若者が安心して集える常設の居場所づくりに取り組んでいる

杉山さんが紹介した「プライドハウス東京」はセクシュアル・マイノリティや多様性に関する情報発信を行う施設。アスリートやその家族や友人、観戦者や地元の参加者が、自分らしく、多様性をテーマとした大会を楽しめるように活動するとともに、次世代の若者が安心して集える常設の居場所づくりに取り組んでいる

スポーツと性的多様性を考える上で大切なこと

続いて登壇した立命館大学教授の岡田さんは、まずオリンピックにおけるトランスジェンダーアスリートの歴史を振り返り、特にトランスジェンダー女性がバッシングされ、スケープゴート化している現状を指摘します。

 

「一番の問題はスポーツ自体のジェンダー格差。近代スポーツの発祥がイギリスのエリート男子校だったこともあり、スポーツという土俵がそもそも男性優位に作られている。だからこそ起きる問題であって、当事者であるトランス女性を矢面に立たせるのは筋違い。スポーツ自体のジェンダー格差や社会全体の男女平等にこそ目を向けるべきです」

 

スポーツと性的多様性を考える上で、岡田さんは2つの可能性を提示します。

 

「一つは、近代スポーツの解体。今のスポーツはあまりに男性優位で性別二元制をもとに作られているので、現在のような問題が起こっている。そのため近代スポーツの仕組み自体を緩めるか解体するという方向性があります。たとえばオリンピックにeスポーツや武道の型といった男女差の少ない種目を取り入れようとしているのは、この試みの一つと言えます。もう一つは、今あるスポーツの範囲内で最大限の平等を目指すという方向性。近代スポーツ自体をなくしてしまうのはやはり難しいため、後者が一つの現実的な解になると考えています」

これまで100年ほどの間でスポーツ界も模索を続けてきたが、まだまだ課題も多い

これまで100年ほどの間でスポーツ界も模索を続けてきたが、まだまだ課題も多い

 

いずれにせよ、欧米と日本では現状に大きな開きがあると岡田さんは続けます。

 

「日本では性的マイノリティへの法整備もいまだにされておらず、そもそも男女格差が先進国の中でも非常に大きい。ジェンダー平等の度合いが高い社会ほど、性的多様性や他のマイノリティに対する受容度が高いと言われています。性的マイノリティを受け入れていくスポーツ文化を作るためには、まずはジェンダー平等から進めていかなければなりません」

 

「ジェンダー平等なくしてはトランスジェンダー平等も成り立たない」と、何度も繰り返し強調した岡田さん。日本はまだまだその段階か……と現状を感じつつも、根本的な課題を再認識することができました。

誰もが自分ごととして向き合うために

シンポジウムの最後には、杉山さんと岡田さん、司会の竹﨑さんの3人でディスカッションが行われました。

左から竹﨑さん、杉山さん、岡田さん

左から竹﨑さん、杉山さん、岡田さん

 

竹﨑さんから岡田さんへ、「スポーツを緩める・解体する方向と、身体のデータを取ることによって際限なく平等化していく方向があると思うのですが、ポストヒューマニティの時代においてどちらの可能性があるのでしょうか」と水を向けると、「正直わからない」と岡田さん。

 

「スポーツからジェンダー格差や男性中心主義的な考え方を取り除いて、その後に残るスポーツの魅力とは何なのか。果たしてそれがあるのか。近代社会そのものがジェンダー化されている中で、それを取り除いてスポーツを残すことができるのかというと、あまり想像できないです」(岡田さん)

 

「たとえば『速く、高く、強く』というオリンピックの標語がありますが、そういう男性中心主義的なスポーツを女性たちも楽しんでいるからこそ普及してきた側面もある。それを解体するのはなかなか難しいですね」(竹﨑さん)

 

ここで杉山さんは、「男女の枠が悪い、男らしさ女らしさが悪いということではなく、スポーツは社会的な影響力が強いのが問題」と指摘します。

 

「たとえばスポーツで良い成績を収めると進学や就職で有利になるなど、スポーツが社会と密接に関わっていることによって、問題が複雑化しているように思います。だからこそ、スポーツの世界からある属性の人が排除されてしまうことは非常に問題。スポーツから排除されてしまうことで、社会からも排除されてしまうんです」(杉山さん)

 

岡田さんが「具体的にどんなサポートが必要なのでしょうか」と問いかけると、「一番の問題はどこにも悪気がないこと」と杉山さん。

 

「知らないがゆえに差別や偏見が生まれている。結局知ることからしか始められないんです。特に指導者の方たちが正しい知識を身に付けること。まずは議論できるだけの最低限の知識を得る必要があります」(杉山さん)

 

「当事者だけではなく、シスジェンダーも含めていろんな人が語れるような環境ができていくと良いと思います。当事者性に価値を置くと、話せる人が限られてしまいますね」(岡田さん)

 

「多様性の議論をする時に、当事者と非当事者、健常者と障害者といった二元論で考えても、どちらかの側面だけにいる人っていないと思うんです。みんなに二面性がある。誰だっていつかは高齢者になるし、事故にあって明日から車イス生活になるかもしれない。自分がLGBTの当事者でなくても、生まれてくる子どもがそうかもしれない。『みんなが多様な人』だと捉えて、自分ごと化して向き合っていくことが、どんな課題においても大事だと感じています」(杉山さん)

 

多様性というとマイノリティの存在ばかりを意識していましたが、「みんなが多様な人」という杉山さんの言葉から、当たり前のことに改めて気付かされました。自分ごととして捉えることで、あらゆる社会的課題の見え方が変わってくると感じました。

別府市×BEAMS×市内大学生が制作したタブロイド紙に注目!「越境が起きるまち・別府」の魅力とは?

2021年6月24日 / 大学の地域貢献, 学生たちが面白い, 大学を楽しもう

日本屈指の温泉街として知られる大分県別府市。

別府大学と立命館アジア太平洋大学(以下、APU)という2つの総合大学を擁する学生街でもあります。

 

そんな別府のまちで、これまで商品開発を通じて別府のものづくりの魅力を全国に発信してきた株式会社ビームスが、別府市と共に新プロジェクト「BEPPU*Local Paragraphs」を立ち上げました。このプロジェクトは、別府で暮らす人々の生活や経済活動、学びに焦点を当て、別府のカルチャーとその未来について考えるというもの。市内大学生と編集者がリサーチ、ワークショップ、コンテンツ制作に取り組み、タブロイド紙『BEPPU* Local Paragraphs 2020-2021』が生まれました。

 

タブロイド紙を実際に手に取ってみると、想像以上に読み応えのある内容にまず驚きます。別府を訪れたことがない筆者ですが、読み進めるうちに温泉街だけではないさまざまな一面が見えてきて、別府のまちをもっと知りたくなりました。制作に携わった皆さんは、プロジェクトを通じてどんなことを感じたのでしょうか?

3名の学生と編集者の瀬下翔太さんにお話を伺います。

 

越境を受け入れる寛容さがまちの強みに

 

別府大学とAPUに通う学生たちとゲスト編集者が共に制作したタブロイド紙『BEPPU* Local Paragraphs 2020-2021』は、2021年3月末から別府市内で配布されています。

公衆浴場についてのリサーチ成果を掲載し「PUBLIC」特集

公衆浴場についてのリサーチ成果を掲載した「PUBLIC」特集

 

このタブロイド紙のメインテーマは「越境すること」。なぜ「越境=境界を越える」というキーワードに注目したのでしょうか。

ゲスト編集者の瀬下翔太さんは「別府は越境が起きているまち」だと語ります。

 

「別府には世界中から学生がやって来ますし、昔から湯治場として全国から多くの人が訪れていた歴史もある。こういったハード面での越境、実際に人が動いてくることだけでなく、たとえば別府大学には「温泉学概論」という分野の垣根を越えた学問があるなど、ソフト面でも領域を越えた動きが起こっています。別府には越境を受け入れる土壌があり、それがまちの強みになっているんです」(瀬下さん)

瀬下さんは鳥取県で高校生の下宿の運営をしたこともある稀有な編集者。NPO法人bootopia代表理事。批評とメディアのプロジェクト・Rhetoricaを運営

瀬下さんは鳥取県で高校生の下宿の運営をしたこともある稀有な編集者。NPO法人bootopia代表理事。批評とメディアのプロジェクト・Rhetoricaを運営

 

なるほど、歴史的な背景も含めて、とても「別府的」なテーマなんですね。

 

今回のタブロイド制作では、越境というメインテーマに対して、瀬下さんを含め3名のゲスト編集者がそれぞれ「パブリック」「ナラティブ」「ラーニング」を切り口に企画を立て、学生たちは各グループに分かれて誌面づくりに取り組んだと言います。

「パブリック」では別府市内に点在する公衆浴場を取り上げ、公共の未来について検証・提案。「ナラティブ」では個人店が持つ機能や可能性、ポテンシャルについて検証し、「ラーニング」では寮や下宿といった暮らしの場から学生街の未来を考察しています。

学生の皆さんは、各テーマに取り組むことで何を感じたのでしょうか?

 

「パブリック」のページを担当したAPUの岡本大樹さんは公衆浴場について取材し、その特殊性を実感したと語ります。

学長のツイートでこのプロジェクトの存在を知ったAPUの岡本さん

学長のツイートでこのプロジェクトの存在を知ったAPUの岡本さん

 

「公衆浴場はいろんな年代の人が混ざり合って、文字通り裸の付き合いになる場所。公共施設の中でもかなり特殊だと感じました。だからこそ単なる入浴施設を越えた役割を担える可能性を持っているという新しい発見がありました」(岡本さん)

 

誌面では、公共の未来を補完する場所として新しい共同温泉の形が提案されていて、とても興味深い内容でした。

別府のまちに関しても、何か新たな発見はあったのでしょうか。

 

「取材した方が実は知り合いの知り合いだったとか、この人とこの人がつながっているんだ!ということが頻繁にあり、いろんな人たちが関わり合って生活しているまちだなと実感しました。別府はコミュニティが良い意味で狭い感じがします」(岡本さん)

 

「ナラティブ」のページで個人店について取材したAPUの幸田華子さんも、別府ならではのコミュニティに魅力を感じたと言います。

自身の別府愛を大いに語ってくれたAPUの幸田さん

自身の別府愛を大いに語ってくれたAPUの幸田さん

 

「別府ではお店同士がとても密に関わり合っていることを知りました。移住者の方がウェルカムに受け入れてもらえる雰囲気があるとおっしゃっていたのも印象的でしたね。私たち学生も温かく受け入れてもらっていると感じますし、別府って本当にあったかいまちだなと思います」(幸田さん)

 

下宿や寮を取り上げた「ラーニング」のページを担当した別府大学の甲斐麻奈未さんは、取材時のエピソードを教えてくれました。

タブロイド紙が完成した時に誰よりもおじいちゃんが喜んでくれたと嬉しそうに語る甲斐さん

タブロイド紙が完成した時に誰よりもおじいちゃんが喜んでくれたと嬉しそうに語る甲斐さん

 

「アーティストの方たちが暮らしている清島アパートを取材した時の話なんですけど。アパートの住民の方で、勝手に部屋のドアを開けてくるすごく積極的なおじさんがいるらしくて……」(甲斐さん)

 

それはちょっと「越境」が過ぎるかも……(笑)。

 

「別府にはそういう人が多いんです(笑)。どんどん人に話しかけるみたいな。でもそういう人が身近にいるのがいいなって思いました。私は実家暮らしなので、みんなで一緒に生活することでいろんな価値観を学べて視野が広がるのがいいなって羨ましく感じました」(甲斐さん)

 

皆さんのお話から、別府というまちの寛容さや大らかさが伝わってきて、どんどん興味が湧いてきます。

 

別府のまち全体が学びの場

 

編集者の瀬下さんは、別府のまちや学生たちに対してどんなことを感じたのでしょうか。

 

「学生と一緒に取材や制作を進めるなかで、大学生との距離が近いまちだと感じました。別府大学周辺の民間下宿は、開学とほぼ同時期にできたところが多くて、まさに大学と歩みを共にしている。地域と大学や学生の連携がずっと行われてきたのだなと。あとは何よりも、さっき甲斐さんも話してくれたように、取材を通じて学生の目線が変わっていくのがすごく面白かったですね」(瀬下さん)

 

甲斐さんはプロジェクトを通じて起きた心境の変化をこう語ります。

 

「私は今まで、どちらかというと人間関係は深く狭くというタイプだったんです。でも今回のプロジェクトに参加して、人と人とのつながりの大切さを知りました。これからはもっとたくさんの人たちと関わって、話してみたいなって思うようになりました」(甲斐さん)

 

取材を通じて多くの人と触れ合い、視野が広がっていく。そんなまちでの学びは、今回のプロジェクトに限らず別府ではごく自然に生まれているようです。

 

「別府の人たちは学生に対してすごく寛容で協力的なんです。僕が以前にアート作品の展示を企画した時も、場所を無償で提供してくれる方や、フライヤーを快く置かせてくれる方がたくさんいて。別府の人たちが協力してくれるからこそ、学生もやりたいことに対してもっと積極的になれる。経験値を積ませてもらえる場所だと思います」(岡本さん)

 

「別府で自分のビジネスを試してみる学生も多いです。学生と商店街がコラボレーションして青空マーケットを開催したり、空き店舗で学生がコーヒーショップを運営したり。別府の人たちは、まだ学生だからとか立場に関係なくボーダーレスに接してくれる。学生がやりたいことを後押ししてくれるまちですね」(幸田さん)

 

お話を聞いていると、別府はまちと学生の距離がとても近いと感じます。まち全体が学びの場であり、学生が成長できる場になっているんですね。

 

別府を起点につながり広がっていく

 

タブロイド紙が完成した後も、学生たちや別府の人々との交流が続いているという瀬下さん。

 

「制作が終わったいまも連絡をくれる学生もいます。大学卒業後は別府を離れる学生も多いですが、ネットワークやコミュニティが残っていればいつかまた一緒に何かできるかもしれない。そういう関係性が作れたのは良かったなと思っています」(瀬下さん)

 

タブロイド紙が配布されると、別府の人たちから反響があったと言います。

 

「別府で仲良くなった人たちからは『次は自分も載せてよ』と連絡があったり(笑)。また一緒に何かやりましょうと話をしています。前の号を読んだ人と、次はこんなことをやりたいねって話せるのは、すごく良い状態だと思うんです。何年も継続していく意味は、そこにあると思うので」(瀬下さん)

 

『BEPPU* Local Paragraph』」は、今年度も企画が進んでいるとのこと。タブロイド制作を軸にしつつ、オフラインでのイベントやインターネットラジオなど、新たな展開もアイデアとして挙がっているそうです。

 

「個人的には、この活動をきっかけに学生主導で新しいプロジェクトが勝手に出てきたら面白いなと思っています。そういう動きが生まれてきそうな雰囲気を作っていきたいですね。別府を起点にいろんなことが起きてくるといいなと思います」(瀬下さん)

 

別府のまちでどんどん新しい取り組みが生まれたり、いつかは別府以外のエリアでもプロジェクトを展開したりする可能性も?と想像が膨らみます。別府を起点にこれからどんなことが起こっていくのか、今後がますます楽しみです。

建築家・塚本由晴さん×音楽家・小林武史さんが語る「社会の中の利他」とは?東京工業大学の「利他学会議」に参加してみた。

2021年4月6日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

「利他」をテーマに掲げ、2020年2月に誕生した東京工業大学「未来の人類研究センター」。センターの立ち上げがくしくもコロナ禍に重なり、「利他」という言葉への注目が高まりました。(センターの設立経緯や活動内容について、センター長の伊藤亜紗さんにお話を伺った記事はこちら

今回は、センターの1年間の研究成果を公開し、さらに「利他」について広く議論する場を設けるために、2日間にわたってオンラインカンファレンス「利他学会議」を開催すると聞き、ウェビナーに参加しました。

あらゆる視点で利他を考える2日間

利他学会議は2021年3月13日、14日の2日間、オンラインで開催。プログラムは分科会1「利他的な科学技術」、分科会2「自然と利他」、エクスカーション「分身ロボットとダンス」、分科会3「社会の中の利他」と、総まとめの全体会 によって構成されています。

利他という言葉から、「他者のために行動する」というちょっと偽善的なイメージを持ってしまう方もいるかもしれませんが、未来の人類研究センターがテーマとしている利他は少し違います。正義や善意の押し付けになってはいないかと一度立ち止まって、あらゆる視点から利他について考えるのが、このセンターが取り組んでいる利他学の特徴です。

利他学会議のポスター。多彩なゲストが招かれた photo by 石川直樹、designed by SEWI

利他学会議のポスター。多彩なゲストが招かれた
photo by 石川直樹、designed by SEWI

 

 

 

 

 

 

 













筆者が聴講した分科会3のゲストスピーカーは、建築家ユニット「アトリエ・ワン」の塚本由晴さんと音楽家の小林武史さん。同じ千葉県をフィールドに、農村と都市を結ぶ新たな働き方やサステナブルな農業のあり方について、実際に手を動かしながら実験している2人と共に考えるという内容です。

初めに塚本さんと小林さんがそれぞれの活動内容についてプレゼンテーションを行い、その後にセンターのメンバーである先生方を交えてディスカッションするという流れで行われました。

プロフィール紹介

塚本 由晴さん

東京工業大学 環境・社会理工学院 教授。1992年に貝島桃代さんと共にアトリエ・ワンの活動を始め、建築、公共空間、家具の設計、フィールドサーベイ、教育、美術展への出展、展覧会キュレーション、執筆など幅広い活動を展開する。

 

小林 武史さん

音楽家として数多くのアーティストのプロデュースや楽曲制作、映画音楽などを手掛ける。2003年に“サステナブルな社会のために”をテーマに非営利団体「ap bank」を設立し、音楽の枠組みを超えた社会活動も行っている。

建築の概念に捉われないアプローチの数々

まずは塚本さんのお話からスタート。建築家として知られる塚本さんですが、その活動は建物の設計だけにはとどまりません。たとえば、東日本大震災をきっかけに深く関わるようになった宮城県・牡鹿半島での活動。漁業の担い手を育てる「牡鹿漁師学校」や、暮らしの知恵を学び実践できる宿泊施設「もものうらビレッジ」など、活動範囲は多岐にわたります。

 

特に印象的だったのは、塚本さんが現在拠点を置く千葉県・鴨川の棚田集落での取り組み。里山の再生に関わる中で、塚本さんはあることに気付いたと言います。

 

「農村には都会からは見えない小さな仕事がいっぱいあるんです。脱穀や木割り、鶏の餌やりといった農作業などを朝や夕方にちょっとだけやるので、私たちは『ちょこっと仕事』と呼んでいます。この『ちょこっと仕事』に都会の人がもっとアクセスできるようになれば、これまでよりも一歩進んだ都市農村交流ができるのではないかと考えました」

 

そこで塚本さんが始めたのは、「ちょこっと仕事」を目録化しカレンダーに入れて、それを見た人が都市から手伝いに来ることができる仕組みづくり。「ちょこっと仕事」を集落の地図に落とし込んだドローイングを見せながら、こんなふうに話してくれました。

 

「建築の図面やドローイングとは全く違いますが、私にとって建築は今こういうところに来ている。資源へのアクセシビリティを作り出すことが重要だと考えています」

 

資源へのアクセシビリティを高める、つまり人々が自分で資源にアクセスできるようにすることを目指しているという塚本さんのお話を聞いて、これまでの持っていた建築へのイメージが覆されたような気がしました。

音楽の枠を超え広がっていった社会活動

続いて、小林さんのプレゼンテーションへ。音楽家である小林さんが様々な社会活動を行うようになったきっかけは、2001年のアメリカ同時多発テロ事件だと言います。

 

小林さんは2003年に非営利団体「ap bank」を設立。野外音楽イベント「ap bank fes」の開催、「Bank Band」としての音楽活動などに派生していきます。さらに、2007年の「ap bank fes」開催中に新潟県中越沖地震が起きたことがきっかけで、災害復興支援活動にも取り組み始めます。

 

東日本大震災で関わるようになった東北で根を下ろして活動していく中で生まれたのが「Reborn-Art Festival」。アート・音楽・食をテーマとする総合芸術祭です。次回は2021年夏と2022年春に会期を分けて開催を予定しています。

 

「次回のテーマは『利他と流動性』。震災後、特に東北では利他のセンスが爆発的に増えました  が、時間が経つとともに薄れていく面もあります。震災から10年を経た今こそ利他を考えたい。また、安定しない地盤や多くの水害に昔から向き合ってきた東北は、不安定な流動性を抱えた場所。そんな流動性の中でこそ生まれる化学反応を起こしていきたいと考えています」

 

さらに小林さんは、2010年から千葉県で農場を始め、2019年にサステナブルファーム&パーク「KURKKU FIELDS」をオープンしたことなど、農業に関する取り組みも紹介されていました。

 

「ap bank」の活動をされているのは知っていましたが、小林武史さんと言えばやはり音楽プロデューサーというイメージが強かったため、芸術祭や農業など音楽の枠組みを超えた様々な取り組みを改めて知って驚きました。

2人に共通する「巻き込まれる力」

ここからはセンターの先生方を交えてのディスカッションへ。センター長の伊藤亜紗さん(東京工業大学 未来の人類研究センター 准教授)は、2人のお話を聞いて「巻き込まれる力を感じた」と語ります。

 

「偶然出会ってしまった困難に自分が巻き込まれて、勝手に体が動いていって、現場と出会う中でその人の可能性もどんどん引き出されて利他が起こっていく。2人のお話からそんな感覚を持ちました。さらに、ただ現場の問題を解決するだけではなく、もっと大きな問題につながっていることをどんどん掘り進めている。その姿にものすごく感動しました」(伊藤さん)

 

「巻き込まれる力」とは興味深いキーワードです。2人はこの言葉をどのように受け止めたのでしょうか。

 

「寄り添うっていう言葉が震災後よく使われましたが、寄り添うだけでなく自分自身も変わっていかなきゃいけないと思う。私たちは被災した当事者にはなれないけれど、自ら変わることによって当事者性を自分に宿らせることはできると考えています」(塚本さん)

 

「人のせいにばかりしているのはカッコ悪いという思いがあった。自分で関わるからこそわかることがあって、そこから数珠つなぎになって活動が広がっていったと思います」(小林さん)

 

2人のコメントから「巻き込まれる力」の強さを改めて感じます。中島岳志さん(同センター 教授)は、2人の「巻き込まれる力」を「NHKのど自慢で、おじいちゃんがどんなに自分のペースで歌ってもリズムを合わせていく演奏家たちのよう」と表現していて、思わず笑ってしまいました。

 

中島さんは「2人のお話に共通しているのは、流動性とサステナビリティの問題。この2つは一見逆の概念のように見えますが、流動性があるからこそサステナブルだっていうことだと思います。変わりながら継続していくという、流動性とサステナビリティの関係性が非常に重要」とも話していました。

新しい形で地方と都市を結ぶ

國分功一郎さん(同センター 特定准教授)は、塚本さんの「ちょこっと仕事」のお話に言及しました。

 

「塚本さんが取り組んでいる『ちょこっと仕事』の見える化マップは、とても大きなヒントになると思います。今は労働がどんどん細分化されていて、自分がやっている仕事が全体の中でどう役に立っているのか全然わからない。『ちょこっと仕事』は単にボランティアとして手助けするのではなくて、自分の仕事が全体の中で有機的にどう関わっているかわかるという点が重要だと思いました」(國分さん)

 

「確かにボランティアとは少し違っていて、都市の人にとってはある意味レジャーなんです。ただしレジャーの新形態で、利他的なレジャー。やればやるほど自分が関わった場所が良くなっていって、自分も気持ちが良い。やるほどに自分の場所になっていくんです」(塚本さん)

 

自分の仕事が確実に役に立っていると実感できれば、楽しく取り組めて充実感も得られそうです。確かにある種のレジャーであり、居場所づくりでもあるのかもしれません。

 

「二拠点、三拠点の生活なども含め、今は段階的に移行している時代だと感じます。塚本さんの『ちょこっと仕事』も、僕たちの『Reborn-Art Festival』や『KURKKU FIELDS』も、都市と地方をシームレスに行き来するところから始まっていく。次に移行する段階としてはすごく良いのかなと思います」(小林さん)

 

地方移住や多拠点生活は少しハードルが高く感じてしまいますが、「行き来するところから始まる」と聞くと自分にとっても身近な話に思えてきます。

それぞれの取り組み、専門性を交えながらのお話は、利他が無限に広がっていくのを感じました

それぞれの取り組み、専門性を交えながらのお話は、利他が無限に広がっていくのを感じました

 

センターの先生方だけでなく、参加者からのチャット画面での質問に2人が答える場面もあり、ここには書ききれないほどもりだくさんの内容であっという間に90分が過ぎていました。

 

最後に中島さんが「仏教との親和性がとても高いお話だった。確たる何かを作ろうとする設計的なあり方を越えて、外からやってくる大きな力、つまり『縁』に自己の生成を委ねていく。利他の世界と密着する重要な考え方だと思う」とコメントしていたのも印象的でした。

 

大きな「縁」の力に導かれ、「巻き込まれ」て自分を変えていく。寄り添うだけでなく自分自身も変化させていくのは勇気のいることですが、そんな意識を持って利他を考えていきたいと思いました。

 

【アーカイブ動画】以下のチャンネルに期間限定で公開中!(2021年9月末頃まで)
未来の人類研究センター YouTubeチャンネル

“涙の卒業式”はなぜ生まれたの?『卒業式の歴史学』の著者に聞く、日本特有の文化が育まれた理由。

2021年3月25日 / この研究がスゴい!, 大学の知をのぞく

3月は卒業式シーズン。みんなで共に歌い、感動し、涙する。卒業式と聞けば、そんなシーンを思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。

でも、私たちが春の風物詩のように感じている“涙の卒業式”は、実は日本特有の文化なんです。

私たちはなぜ卒業式で涙するのか?なぜ歌うのか?そんな疑問を追究し、卒業式をテーマに研究する立教大学文学部教授の有本真紀先生にお話を伺います。

練習を重ねて作り上げる、日本特有の卒業式

『卒業式の歴史学』の著者であり、卒業式をテーマに研究してきた有本先生ですが、もともとの専門は音楽科教育。なぜ卒業式に注目したのでしょうか?

 

「私は小学校の教員養成課程で音楽科教育の授業を担当しています。そこで気になったのが、模擬授業を割り振られた学生の多くが、卒業式の歌を好んで教材に選ぶこと。自分が式で歌ったあの曲をぜひみんなで歌いたいと言うんです」

先生のご著書『卒業式の歴史学』(有本 真紀著 講談社選書メチエ 2013年)。明治初期の軍学校から全国の小学校卒業式まで、史資料から歴史社会学として紐解く一冊

先生のご著書『卒業式の歴史学』(有本 真紀著 講談社選書メチエ 2013年)。明治初期の軍学校から全国の小学校卒業式まで、史資料から歴史社会学として紐解く一冊

 

みんなで歌って涙した、感動の卒業式。そんな思い出を語る学生たちを見て不思議に感じたという有本先生。

 

「私にとっての卒業式は、特に感動的な思い出ではなかったんです。小学校から中学校に上がる時は同じ敷地内だったので、あまり感慨もなかったですし(笑)。だから学生たちの感覚とはかなりギャップがありました」

 

実は筆者も同じく、卒業式にそれほど思い入れはなかったので、先生が先に言ってくださって少しホッとしました。

改めて思い返してみると、感動のシーンで泣かないといけないような妙なプレッシャーを感じて、なんとなく居心地が悪かった記憶があります。あと、何度も練習させられてちょっと面倒だった思い出が…。

 

「入退場や卒業証書の受け取り方の練習、あとは呼びかけの練習ですね。『楽しかった運動会』とか一人ずつセリフを読んで、みんなで復唱して、途中で歌を挟んで盛り上げていく。私自身は一度もやったことがないんです。想像するだけでも気恥ずかしくて…やらされなくて良かったと思ってます(笑)」

小学校や中学校では、なぜこんなにするのかというくらい、練習した記憶が・・・(写真はイメージ)

小学校や中学校では、なぜこんなにするのかというくらい、練習した記憶が・・・(写真はイメージ)

 

お話を聞いているだけで、あの恥ずかしさが蘇ってきました…。呼びかけからの卒業ソング、入退場や証書授受の所作。この私たちにとってお馴染みの卒業式は、実は日本独特のものだと有本先生は指摘します。

 

「いろんな国の留学生にも聞いてみたんですが、同じような卒業式はないですね。日本特有の学校文化です。そもそも義務教育段階の卒業にあたって特別なセレモニーなど存在しない国も多いです。日本ではどうしてこういう形式の卒業式をやっているんだろう?と疑問に思ったところから、研究が始まりました」

“涙の卒業式”が作られてきた歴史

そもそも卒業式という儀式は、いつ頃から日本で行われているのでしょうか?

 

「日本で最も古い卒業式の記録は、1876(明治9)年に陸軍外山学校で観兵式とともに行われた生徒卒業式。翌年の1877(明治10)年には東京大学の第一回卒業式が行われ、他の官立・公立学校でも行われるようになっていきました」

 

軍の学校から始まり、普及していったんですね。当時の卒業式はどんなものだったのでしょうか。

観兵式を描いた錦絵「各隊整列之図」(1877年、国会図書館蔵)

観兵式を描いた錦絵「各隊整列之図」(1877年、国会図書館蔵)

 

「黎明期の卒業式は、成果発表の意味合いが大きいです。今で言う卒論発表のようなスピーチもありましたし、体操の演技や軍楽隊の演奏なども行われていました。近代教育の成果を披露する場ですね。だから父兄や関係者以外にもチケットを配って一般公開する学校もありました」

 

テレビやラジオといった娯楽もまだない時代。地域の人々にとっては、物珍しさもあって楽しいイベントだったのでしょう。現代の“涙の卒業式”とはかなりイメージが違うようです。

 

「“涙の卒業式”の原型ができてくるのは明治の終わり頃ですね。特に小学校の卒業式で式次第が定型化し、学校生活の集大成として卒業式が位置づけられるようになっていくのが明治30年代。儀式として形を整えていく過程で、形だけではなく感情も伴うものにしなくては、という意識が強まっていきます」

 

もう一つ、教育勅語の影響もあったと有本先生は指摘します。

 

「教育勅語発布の翌年には、祝日大祭日儀式が行われるようになります。卒業式だけでなく、天皇への忠誠を誓うための様々な儀式を行うようになったことで、儀式における感情教育の色合いが濃くなっていきます」

 

天皇への忠誠、感情教育といった言葉の不穏な空気に、少しおののいてしまいます。卒業式にそんな一面があったとは…。

ただし、「より感動的な卒業式を目指す傾向は、むしろ戦後に強まっていきます」と有本先生は続けます。

 

「戦後、国家主義的な意味合いを帯びた儀式は廃止され、学校儀式の数は激減します。その中で、卒業式は学校生活最大の節目としてより重視されるようになり、やがて感情調達装置として成熟していきます」

 

感情調達装置とは、なかなかのパワーワード!筆者がかつて感じた、泣かないといけないようなプレッシャーは、こうして色々な要素が絡み合ってできていったんですね。

卒業ソングがあふれる時代へ

「卒業式と涙の関係において、歌は特別な意味を持っています。卒業式の歌がこれほどたくさん存在する国は、日本をおいて他にありません」と有本先生。卒業ソングの歴史についても聞いてみました。

 

「昭和30年代までは、卒業式の歌と言えば≪蛍の光≫と≪仰げば尊し≫。≪仰げば尊し≫のほうが歌も伴奏も難易度が高いという事情もあって、特に≪蛍の光≫が圧倒的に多いです」

 

今のように卒業ソングが豊富になるのはいつ頃からでしょうか?

 

「やっぱり金八先生からですね。≪贈る言葉≫が謝恩会などで歌われるようになり、やがて式の中でも取り入れられました。涙や感動と卒業式との結びつきは、フィクションによって強められた面も大きいです」

≪贈る言葉≫は教科書にも載っていた記憶がありますし、金八先生の影響は根強いですね…(写真はイメージ)

≪贈る言葉≫は教科書にも載っていた記憶がありますし、金八先生の影響は根強いですね…(写真はイメージ)

 

その後はどんな歌が人気を集めたのでしょうか。

 

「最もブレイクしたのは≪旅立ちの日に≫。中学校の先生が作った曲で、1990年代に全国に普及していきました。いわゆる卒業式の歌ランキングが毎年発表されるようになるのは、2004年からなんです。≪旅立ちの日に≫が定番曲になった頃から新しい卒業ソングがさらに増えていき、ランキング化されるほど充実するようになりました」

 

毎年3月になるとテレビやラジオで卒業ソングが流れるのを恒例行事のように感じていましたが、これほどバリエーション豊富になったのは意外と最近だったんですね。

当たり前を疑ってみることから始まる

現在、有本先生が新たなテーマとして興味を持っているのは入学。「卒業式をやったので、今度は入学をやろうかと」と笑います。

 

「入学式ではなく入学。1年生を対象とするのはなぜかというと、社会集団が新参者をどう受け入れるのか、どう扱うのかということに興味がある。学校の中での社会化、学校的社会化という文脈でとらえたいんです」

 

学校的社会化とはどういうことでしょうか…?

 

「学校には独特のルールがありますよね。たとえば名前を呼ばれたら、手を挙げて返事をする。家で親が子どもを呼ぶときには必要のない所作、学校的に社会化されたふるまいです。でも今では、逆に社会のほうが学校化しているんです。まだ言葉も覚えていないような小さい子どもに『○○△△さん』と呼んで、『ハーイ』とさせたりしますよね。学校的なふるまいを親が無意識にさせている。学校的社会化と社会の学校化、次はそんなことを研究したいと思っています」

 

筆者も先日友人宅で、1歳半の子どもが『○○くん』『ハーイ』を披露しているのを見たばかり。その光景を当たり前のように受け入れ、何の疑問も持たずにいましたが、学校的社会化という言葉に思わずハッとさせられました。

 

「私たちは何を当たり前とし、それをどのようにして成り立たせているのか。それを明らかにすることが、結局私がやりたいことなんだと思います。卒業式でも入学でも同じ。でも、当たり前だと思っていたものがそうではなかったと暴くだけでは、面白いトリビアで終わってしまう。事実や経緯を明らかにするだけではなく、私たちがどうしてこういうことを感じたり考えたりするんだろうという視点から追究していきたいです」

 

卒業式をはじめとする日本特有の学校文化を改めて知ることで、私たちが当たり前だと思ってきたことが実はそうでもないと気付かされました。

当たり前を疑ってみることから、新しい視点や考え方が生まれてくる。それが学問の面白さなのかもしれません。

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