時代の変化とともに生きた歌舞伎作者 早稲田大学演劇博物館「没後130年 河竹黙阿弥―江戸から東京へ―」展をレポート!
毎回、意欲的な企画展が開催される早稲田大学演劇博物館(通称:エンパク)。全国の数ある大学博物館の中でも、演劇に特化した珍しい博物館です。そして、この秋冬には、「没後130年 河竹黙阿弥―江戸から東京へ―」が開催されています。幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎作者の河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ)をテーマにした企画展です。「江戸から東京へ」と副題にある通り、黙阿弥が社会の変化にどう対応し、その人生と作品を捧げたかを時代順に展示しています。
企画を担当したのは、前回「推し活!展」も手がけられた赤井紀美先生(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館 助教)。特別に解説してもらったので、順を追ってご紹介しましょう。
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今年は黙阿弥の没後130年にあたり、エンパクとしては30年ぶりとなる大々的な展覧会だそうです。さらに今展は国立劇場との共催により、黙阿弥関係の資料が一堂に会するまたとない機会とのこと。展示は以下の章立てで構成されています。
◉第一章 狂言作者以前
◉第二章 勝諺蔵・柴晋輔時代から立作者昇進まで
◉第三章 大震災と市村座時代の黙阿弥
◉第四章 明治維新の波と黙阿弥時代
◉第五章 晩年と黙阿弥没後の河竹家
◉第六章 没後の受容と上演
歌舞伎との出会い
黙阿弥は、文化13(1816)年江戸日本橋の商家に生まれました。実家を継いでいれば堅実な人生だったのかも、と赤井先生は語ります。
「もともとお父さんが湯屋(銭湯)の株(営業権)を持っており、人気のない湯屋の経営を立て直してから転売するというような商才のあった人です。最後は芝に転居して質屋を始めました」
黙阿弥は14歳で芸者遊びを覚え、歌舞伎を好み、当時流行していた茶番(こっけいな即興寸劇)に夢中になる困った息子だったようです。貸本屋の手代となり、歌舞伎の楽屋にも出入りしました。その後実父が死去し、本来は家督を継ぐ立場でしたが、弟に譲り、自分は歌舞伎作者の見習いになりました。
出世するも歌舞伎の危機が
黙阿弥は鶴屋孫太郎(後の五代目鶴屋南北)に入門し、順調に昇進していきました。
「当時の歌舞伎は合作制度をとっており、歌舞伎の作者(狂言作者)には明確な序列がありました。三枚目、二枚目作者と徐々に軽い幕を書き、最後は立作者といって全体の責任を持つ役割になります。地位が上がると『顔見世番付(かおみせばんづけ)』(毎年11月の顔見世興行の前に、次の一年間に出演する俳優やスタッフなどを位順に番付にしたもの)で徐々に名前が大きくなっていきます」
ところが天保12(1841)年、老中水野忠邦による天保の改革が起きると奢侈(贅沢)が禁じられ、歌舞伎は厳しく規制されました。それまで市街地にあった劇場街は、当時郊外だった浅草の猿若町に移転させられました。
アウトローを主人公に
さらなるピンチが歌舞伎界に訪れます。安政2(1855)年、安政の大地震が江戸を襲い、浅草猿若町の芝居小屋はすべて焼失しました。
黙阿弥は四代目市川小団次と組み、目覚ましく活躍しました。町人を題材に『世話物(せわもの)』を数多く書き下ろし、盗賊などの悪事を働く人間を主人公にした『白浪物(しらなみもの)』で人気を博しました。
特に安政7(1860) 年初演の『三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)』は、いずれも吉三郎(きちさぶろう)という名の3人の盗賊が出会い、義兄弟の契りを結ぶものの、百両の金と名刀をめぐる因果応報により刺し違えて死ぬまでを描いた物語。30年ほど経って『三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ)』として再演され、大評判となりました。でも、江戸歌舞伎は勧善懲悪が魅力のはず。なぜアウトローを描いた白浪物が人気になったのでしょう?
「安政の大地震の後に、町を復興する職人層や庶民層が力を持ってきたのが大きいかもしれません。観客層に変化があったとも言われています。幕府が瓦解しつつある時代において、自分たちのルールで生きるアウトロー達が観客には魅力的にうつったのかもしれません。それまでの歌舞伎では基本的に大儀や自分の主人のために動くというルールでしたが、黙阿弥作品に登場する人々はそうしたルールを基準にはしていません」
「有名な『三人吉三』も、すべての因果を自分たちで断ち切り、最後は自らの死によって解消しようとします。観ているこちらは『そこまで責任を負わなくていいよ!』『死ななくてもいいよ!』となるんですが(笑)。『自分の責任は自分で取る』という感覚は、従来の歌舞伎にはない新しさだったと思います」
確かに自己責任で追い詰められていくドラマは、現代にも通じるアクチュアルな感覚がありますね。
時代の変化にも適応
明治になると、江戸幕府の規制が緩和され、国は民衆の教化のために歌舞伎を利用し欧化する「演劇改良運動」が始まります。黙阿弥は改良運動自体に関わる立場ではありませんでしたが、それでも時代に適応して、史実に忠実な歴史劇である『活歴物(かつれきもの)」や、新時代の様相と人々を写した『散切物(ざんぎりもの)」を多く手がけました。
演劇博物館の創設者で文学者の坪内逍遙は、黙阿弥の良き理解者で、300近くの多種多様な作品を生んだ「江戸演劇の大問屋」と評しました。
レガシー(遺産)を受け継いだ人たち
黙阿弥は晩年に引退し、今でいう“終活”をして明治26(1893)年に満76歳で亡くなりました。長女の糸(糸女)が家を継ぎ、坪内逍遙の弟子が彼女の養子となり、後継者として黙阿弥の作品を守り続けました。それが演劇博物館の館長を長らく務めた河竹繁俊(かわたけ しげとし)です。
「歌舞伎の台本というのは本来残らないものですが、河竹繁俊は黙阿弥作品を書籍の形で出版し、後の世に残そうとしました」
展示品には年季の入った葛籠(つづら)があります。日頃から黙阿弥の遺品を入れておいたもので、大正12(1923)年の関東大震災でもこれだけは持って逃げたため、貴重な資料が残ったそうです。
再評価によるリバイバルブーム
大正期に入ると黙阿弥が再評価され、リバイバルブームが起こりました。
「大正期に入ると、小山内薫と久保田万太郎、永井荷風を中心とした古劇研究会が、黙阿弥に対して高い評価を与えます。耽美派のデカダンスと江戸趣味が結びつき、黙阿弥の作品に「悪の美」というような魅力を見出します。古劇研究会には河竹繁俊も参加していました」
「自然主義文学に対して生まれた耽美派の文学者たちは江戸趣味と異国情緒を持ち合わせ、都市のなかの幻想や頽廃に美を見出しました。江戸の狂言作者と隅田川の江戸情緒を礼賛します。ちょっと過剰な礼讃でもあるんですが(笑)。二長町の市村座で黙阿弥作品が上演され評判になったこともあり、黙阿弥作品のリバイバルブームが起きます。この時のブームはその後の黙阿弥作品の上演にも影響を与えています」
他ジャンルへ波及する黙阿弥作品
さらに映画や現代演劇になったアダプテーション(翻案)の紹介コーナーもあります。展示品で特に目を引いたのは、サイレント時代の映画スター尾上松之助らのブロマイド。映画スチールから作ったものなのかな!?
「『白浪五人男』というタイトルがついています。松之助の映画でこのタイトルのものは今のところ記録としては残っておらず、詳細は不明です」
このほか、展覧会の最後には貴重な舞台映像の上映コーナーもあり、時間をかけてゆっくり見たい展示がたくさんありました。赤井先生も思わず力がこもってしまうほど。軽妙にして情熱的な解説を本当にありがとうございました!