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SFを通して考える学問の未来。応用哲学会シンポジウム「学問をSFする」を聴講してみた。

2020年10月27日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

小説や映画で描かれるSF、サイエンスフィクションと聞いてあなたは何を思い浮かべるだろうか。AI? 宇宙人? はたまたディストピア……? 夢物語と捉えられがちなSFと、客観的事実を追求する現実の学問はどのように関わりあっているのだろうか?

 

哲学・倫理学を軸に多分野にまたがる学際研究をすすめる学会組織・応用哲学会で、SF作家と研究者たちが垣根を越えて語り合うシンポジウムが開催されると耳にした。題して「学問をSF する―新たな知の可能性?」。YouTube Liveで誰でも視聴できるということなので、気になるその様子を覗いてみた。

 

※トップ画像は応用哲学会ホームページより引用。作成者:松崎有理

トンデモではない! 学問とSFの未来を探求する 

「まず初めに宣言しますが、この企画は『トンデモ』ではありません!」

 

そう口火を切ったのは、企画者で司会進行役の大庭弘継さん(京都大学大学院文学研究科 研究員)。学問の世界では、SFという言葉は必ずしも前向きな意味には取られないという。「あの研究はSFだよね」と言われると、すなわち現実離れした「トンデモ」だという揶揄のニュアンスが含まれる。ところが、過去を振り返ればSFは最先端の学問に影響を与え続けていることも忘れてはならない。アシモフの描いたロボットを始め、通信衛星、核分裂エネルギーを利用した原子爆弾まで、SFが科学を先取りしてきた革新的な発明は数知れない。

 

翻って、現在のSFと科学技術との関係はどうだろうか。AIの進歩がもたらすシンギュラリティ(技術的特異点)、生命工学が到達しつつあるデザイナーベイビー、火星の植民地化という大胆なアイデアまでが現実味を帯びて語られている。果たしてそれらが実現してしまったとき、社会はどう変わってしまうのか? その行く末を先取りして考えることができる想像力こそがフィクションの力、すなわちSFの出番というわけだ。「今、学問は変容を迫られています。SF的な想像力を取り入れつつも『トンデモ』に陥らずに学問が発展していくにはどうしたらよいのか。その上で、どんな新しい学問が生まれてくるのか。そんな将来像を考えることが本日のテーマです」。

上段左から大庭弘継さん(司会・京都大学)、柴田勝家さん(SF作家)、松崎有理さん(SF作家)、下段左から大澤博隆さん(筑波大学)、稲葉振一郎さん(明治学院大学)

上段左から大庭弘継さん(司会・京都大学)、柴田勝家さん(SF作家)、松崎有理さん(SF作家)、下段左から大澤博隆さん(筑波大学)、稲葉振一郎さん(明治学院大学)

SF作家が描く学問のディストピア

発表の前半戦は、2人のSF作家がそれぞれの考える学問の未来を大胆に語った。

 

トップバッターはSF作家の松崎有理さんだ。「頭の中では常に新しいディストピアのことを考えている」という松崎さんは、研究者にも容赦ないディストピアを用意している。それは例えばこんなふうだ。

 

  • 3年以内に論文を提出しないと研究職を追放されてしまう架空の法律「出すか出されるか法」が施行された世界の、新しい職業とは?(『代書屋ミクラ』光文社文庫)
  • AIが研究職を手がける未来で、人間にしかできない「研究」は?(『イヴの末裔たちの明日』創元日本SF叢書)
  • 研究不正が横行する架空の世界で、デタラメな論文を提出し続けると……?(『架空論文投稿計画 あらゆる意味ででっちあげられた数章』光文社)

 

こうして設定を聞くだけでも、どんな酷いことが起こるのか(!?)ワクワクしてこないだろうか。荒唐無稽な架空理論が次々と飛び出す松崎さんの作品は、エンタメでありながら学問というものの脆さや危うさを捉えた優れたアイロニーでもある。(ちなみに、松崎さんの公式サイトでは『架空論文投稿計画』所収の通称「ぶぶ漬け論文」が公開されています。是非。)

 

それでは、現実の学問がめざすべき未来はどこにあるのか? 松崎さんは「その研究、何の役に立つんですか?」という定番のツッコミを引き合いに出し、「役に立たないこと、面白いことを追求できるのは人間だけなんです」と断言する。多様な研究が盛んに行われる土壌として、ニッチな分野に挑戦しやすい在野の研究者の存在や、学際研究の広がりがますます重要になるだろうということだ。その点、日本はノーベル賞だけでなくイグ・ノーベル賞受賞常連国であることをもっと誇っていくべきかもしれない。

とにかく楽しそうにディストピアについて熱弁を振るう松崎さん

とにかく楽しそうにディストピアについて熱弁を振るう松崎さん

科学と信仰を橋渡しするSFの想像力

つづいては、元民俗学者という異色の経歴をもつSF作家の柴田勝家さんが登壇。柴田さんはそもそも学問の「正しさ」に揺さぶりをかける。柴田さんの作品は、信仰や伝承と最先端のテクノロジーが溶け合った唯一無二の世界観が魅力。例えば最新短編集『アメリカン・ブッダ』(ハヤカワ文庫)所収の「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」は、VRゴーグルを装着したまま生涯を送る架空の少数民族の暮らしを報告書という体裁で描き、現実はひとつではないということを問うた異色作だ。柴田さんは、科学と信仰はどちらも人間が物理現象を理解しようとする枠組みである点で変わりはないのだという。

 

例えば火という現象は古代では神の力とされていたが、現代の科学では酸素の燃焼とされている。その時々の都合で解釈を選びとっているわけだ。今は科学的解釈こそが正しいということになっているが、その正しさは時代や個人によって変わりうる「心理的事実」に過ぎないのだ。柴田さん曰く、観測できる物理現象の外側には、人間が理解し得ない空想の領域が存在する。それを何とか説明しようとするのが信仰であり科学だ。SFはまさにそんな空想の領域を縦横無尽に駆け回ることができる。科学と信仰、異なる体系の想像力の橋渡しをできるのがSFであるとも言える。

 

この先科学技術がどこまで進んでも、世界のありかたを説明してくれる物語を欲する人の心そのものはあまり変わらないのだろう。だからこそ、SFを通して科学も信仰も俯瞰できるような想像力をもつことが健全なのかもしれないと考えさせられた。

物腰柔らかな口調と「ワシ」という一人称がチャーミングな柴田さん

物腰柔らかな口調と「ワシ」という一人称がチャーミングな柴田さん

学問としてのSF研究の最前線

後半戦は、学問の側に身を置く研究者が、SFの可能性について語る。

 

大澤博隆さん(筑波大学システム情報系 助教)は人工知能の研究者。専門用語でヒューマンエージョントインタラクション(HAI)という、人間らしい見た目や振る舞いをそなえたインターフェースを専門的に研究されているという。

 

その大澤さんが最近手掛けているのが、ズバリSFの研究だ。SFが科学技術に影響を与えてきたことは冒頭でも触れたが、最近は企業や大学、学会、政治の現場に至るまで、SF的発想を積極的に取り入れる動きが活発になっているらしい。例えば、SFの発想を製品開発に役立てる「SFプロトタイピング」という分野がそれだ。半導体大手のインテルには、SFをベースに未来予測を行いビジョンを立案する専門の研究員がいたという。

 

様々な側面からSF的想像力が社会実装されつつあるが、大澤さんは注意点も指摘する。一つは、娯楽作品としてのSFが現実の問題点を見えづらくする可能性だ。SFでお馴染みの展開にAIが暴走して人間に危害を加えるというものがあるが、AIの進歩によってもたらされる現実の危険はむしろ、それを使う人間の側の適性によるところが大きいだろう。もう一つは、SFが描く未来像が先入観を助長する危険性だ。特に公共性の高い場面では、SFといえど人々に馴染み深いステレオタイプな未来像が描かれやすい。しかし、実社会の価値観の方が古典的な未来像よりもはるかに急速なアップデートを求められているのは周知の通りだ。

 

とは言え、SFのもつ跳躍力、社会を挑発するような大胆なビジョンはやはり魅力的である。SFをどのように取り入れ、現実の問題を突破する力に変えるのか。それは取り入れる側次第だと言えそうだ。

「SFは社会の共有資本」。揮毫して会議室の壁などに張り出しておきたい素敵なフレーズだ

「SFは社会の共有資本」。揮毫して会議室の壁などに張り出しておきたい素敵なフレーズだ

SFとは何か? 現実と融け合うその極限 

最後の登壇者は、稲葉振一郎さん(明治学院大学社会学部 教授)。著書の『宇宙倫理学入門』(ナカニシヤ出版)では、人類が人工知能化して宇宙に飛び出す未来を真っ向から論じたツワモノだ。発表題目は「考えられないことを考える」。ここではSFというジャンルについて弁証法的な考察が展開された。

 

SF、ファンタジー、リアリズム小説。一括りにフィクションといってもさまざまなジャンルが存在する。ではまず、リアリズム小説とSF、ファンタジーとの違いは何だろうか?

 

リアリズム小説は、調度品ひとつをとっても現実と変わらない世界を描く。物理法則やそこに存在する生物種も現実と同じだ。そこに虚構の個人(キャラクター)が配置され、虚構の出来事が起こる。いわば、虚構の物語を経由することで現実のある側面を伝えるということこそ、リアリズムのめざすものである。翻ってSFやファンタジーは、現実世界とは異なる物理法則や生物種を描くことで、個別の物語よりもその世界観を楽しむという側面に重点が置かれる。SFやファンタジーがRPG(ロールプレイングゲーム)と相性がいいのはこのためだ。さらに言えば、SFやファンタジーは物語である必要すらなく、松崎さんや柴田さんが試みているような架空の論考という形でも成立する。別の言い方をすれば、SFやファンタジーは架空の世界観のシミュレーションなのだ。

 

それでは、ファンタジーと比較したときのSFの特徴は? その答えのひとつは、架空の世界観と現実との関係性にあるという。SFで語られる世界観や理論は架空のものであるが、それは現実世界でまだ検証されていない科学的仮説や技術構想と見分けがつかないのではないかと稲葉さんは指摘する。架空と未検証の本質的な違いとは……? そんなことに頭を悩ませなければならないのがSFなのではないかということだ。

 

SFとは何かを問うていくと、その先端では現実との境界が曖昧に溶け合っていた。柴田さんが語った「心理的事実」や大澤さんが語ったSFの社会実装を、別角度から裏付けするような話ではないか。

稲葉さんの考察はさらに深部へと踏み入ってゆき、筆者は自分が今どこにいるのかわからなくなってくる。そうか、これは大学の講義を受けている感覚だ

稲葉さんの考察はさらに深部へと踏み入ってゆき、筆者は自分が今どこにいるのかわからなくなってくる。そうか、これは大学の講義を受けている感覚だ

SFが描く多様な未来。私たちは何を選び取るか? 

つづいてのディスカッションでは、司会の大庭さんが用意した設問や聴講者からリアルタイムで寄せられたコメントに4名の登壇者が答えた。大学のあり方や最先端の技術について非常に興味深い議論が交わされたが、ここではとても紹介しきれないので、気になる方はYouTubeの録画配信を是非チェックしよう。

 

最初に「SFと学問」と聞いて、筆者の頭に真っ先に浮かんだのは「SF的なアイデアを最新の研究に取り入れること」だった。これはある意味ではもう当たり前になりつつあり、今後さらに加速していきそうだということが今回確認できた。また、現代社会の寓話としてのディストピアSFが突きつける未来には、私たちはますます注意深く向き合っていかなければならないだろう。この2点だけでもSFと学問の未来を考えるのには十分すぎるほど多様な議論がある。しかし、SF的な想像力はさらに思いもよらないところで学問や科学技術を補完し、私たちが多様な視点から未来を選び取る架け橋になるのではないだろうか……そんな予感に胸が熱くなる3時間だった。

 

最後に、大庭さんがコメント欄から引用した「今日の宿題」を紹介しよう。みなさんも一緒に考えてみていただきたい。

 

「SFが多様な現実の可能性を描くものだとすれば、これまで描かれてきたさまざまなディストピアは人類の失敗の反復練習だ。その失敗を乗り越えて、この先、本当のユートピアSFは現れるのだろうか?」

研究者の質問バトン(2):犬はどこまで人間の言葉がわかるの?

2020年10月22日 / 大学の知をのぞく, この研究がスゴい!

素朴な疑問を専門家の先生にぶつけて解説してもらい、今度はその先生の抱えている素朴な疑問を別の専門家にぶつけに行くリレー企画。

 

第2回となる今回は「犬はどこまで人間の言葉がわかるの?」。動物行動学の専門家である麻布大学獣医学部の菊水健史先生に、犬の能力と人間との長くて深い関係を教えていただきました。

犬は人間の言葉をよく聞いている

まずは前回のおさらいから。タイムマシンについて解説してくださった大阪工業大学の真貝寿明先生からおあずかりした質問がこちらでした。

 

“私の家には犬がいるのですが、歳をとってきて、最近は歩かずに寝てることが多くなりました。こっちが構って欲しくて、「散歩に行こう」とか「シャンプーしよう」とか言うと、ソーシャルディスタンスを取ろうとして、ソファの下に隠れてしまいます。どこまで人間の言葉をわかっているのでしょうか。結構理解している気がします。また、分からない言葉を使うと首をかしげますが、その反応は一般的なのでしょうか。興味深いです。”

 

――ということなのですが菊水先生、実際のところ、犬はどこまで人間の言葉がわかっているのでしょうか?

 

「はい、実は単語レベルではかなり理解していて、人間が指定したモノを隣の部屋から取ってこさせる実験では300~400単語ほどを識別できた例があります。この課題が得意なのはボーダーコリーという犬種で、人の声や口笛を聞き取って動く牧羊犬として知られています。音を聞き分ける能力が高く、人の命令に従うのが大好きな性格です。」

 

――300~400単語ですか! 犬種や個体による差はあるにせよ、散歩やお風呂、ご飯、家族の名前といった日常的な単語は簡単に把握できていそうですね。

 

「言葉を理解するうえで、もうひとつ重要なのは抑揚ですね。人間は耳から入ってきた言葉の意味の情報を左脳で、抑揚に込められた感情の情報を右脳で処理しますが、犬の場合も人間の言葉を聞いたときに脳内で同じことが起こっていることがわかっています。同じ名前を呼ぶ場合でも、優しい声色と叱責するような声色をちゃんとわかっているんですね」

名称未設定のアートワーク 6

名称未設定のアートワーク 1

 

――長文はどうでしょうか? 理解できないだろうと思いつつ、犬に長々と語りかけてしまうこともありますが……。

 

「言葉の意味は通じなくても、その時の人間の感情は読み取っているでしょうね。加えて、犬は人間がいつもの様子と違うということを敏感に察知して、その後にどんなことが起こるのかを予測するために人間を注意深く観察します。この様子が、人間から見れば犬が話を聞いてくれているように見えることはあるかもしれません。

 

僕らも犬に共感性があるかどうかという実験をしたことがあります。飼い主さんにちょっとした心理ストレスをかけて、その時の気持ちの動きを心拍計で計測します。同じタイミングで犬も心拍計で計測すると、飼い主さんと同じように気持ちが動いていることがわかったんです。ただし、こうした共感性が見られるのは飼育期間が長い場合に限られます。一緒に生活する中で徐々に感情の動きがわかってくるんですね」

 

――難しい意味はわからなくても気持ちは伝わっているわけですね。ある意味、話し相手としては人間よりも優秀かも。

それでは、知らない単語を聞いた時に小首をかしげるのはどういう意味があるのでしょうか?

 

「これは『音源定位』という行動ですね。人間も犬も、二つの耳から入ってくる音によって音源の位置を特定しますよね。音がよく聞き取れない時、左右の耳の位置をずらすことによってどこから音がしているのかを突き止めようとします。要するに、犬が小首をかしげるのは人間の言葉をしっかり聴き取ろうとしている、『何言ってるの?』というサインとして読み取れます。お馴染みのビクターのロゴを思い出していただくと、犬がスピーカーに向かって小首をかしげていますよね。あれは、そこにいないはずの飼い主の声がスピーカーから聞こえて不思議がっている様子です」

 

――どこか人間らしいしぐさにも見えますが、まさしく「耳を傾ける」行動だったんですね。

名称未設定のアートワーク 5

 

犬が私たちの言葉をがんばって理解しようとしてくれていると思うと、一層愛おしく感じます。逆に私たちは犬の言葉にちゃんと耳を傾けられているか、振り返ってみるべきなのかも。

 犬と人間の長い関係 

――さて、そんな犬と人間との関係は、他の動物と比較してどんなところが特別なのでしょうか?

 

「犬ほど人間と長い時間を共にしてきた動物は他にいません。ネコが家畜化されたのは6000~8000年前と言われていますが、犬は3万~5万年前。アフリカから進出してきた人類は、ユーラシア大陸で現在のイヌの祖先と出会い、共に世界中に散らばっていったと考えられます。

 

イヌと人間は同じ空間で暮らすだけでなく、狩りに出たり縄張りを守ったりといった活動を共同でやるようになります。そこには高度なコミュニケーションが必要ですから、それだけ人間の意図を読み取る能力に長けていたことは間違いありません。そして人と生活する中で、あるいは人為的な品種改良を経る中で、より人間とのコミュニケーションが円滑になるような進化、あるいは家畜化が進んできたといえるでしょう。

 

一方で、人間の方はどうでしょうか。これはまだ明確な答えが出ていないのですが、人間も犬と暮らすことによって変化してきたのではないかと私は考えています。犬と共に狩りを行うことで人間は安定して食料を確保できるようになり、犬が番をすることで人間は夜ぐっすり眠れるようになりました。そうした安定した生活環境を手に入れることで、人間は野生動物本来の攻撃性を手放していったのではないかと考えられます。これをヒトの自己家畜化、また別の表現をするならネオテニー(幼形成熟)ともいえるでしょう。犬と人間は共に暮らすことで同じようにネオテニー化の過程を辿ってきたのではないか、今はそのように考えています。ただ、調べてみても、世界中で歴史的にイヌを飼ったことがない部族というものが見つからないので、犬と共にいることが人間にどんな影響を与えたのかを比較して説明するのは難しいのですが」

 

――犬が人間と暮らす中で変化してきたように、人間もまた犬と暮らすことで人間らしさを育んできたのかもしれませんね。知れば知るほど、犬と人間は切っても切れない深い関係だということがわかってきました。

 

先生の研究室にもワンちゃんたちがいますが、かれらは先生にとってどんな存在でしょうか?

 

「彼らは私の飼い犬で、実験にも積極的に協力してくれますが、私生活でもかけがえのないパートナーです。犬を飼うのは大変なこともたくさんありますが、それ以上にお互いに一緒にいることが楽しいですし、たくさんのものを与えてくれます」

 

――ありがとうございました!

菊水先生と4頭の犬たちは公私ともに支え合うパートナーだ

菊水先生と4頭の犬たちは公私ともに支え合うパートナーだ

 

菊水先生の疑問は? 

――さてそれでは、菊水先生が疑問に思っていらっしゃることを教えていただけますか?

 

「ずばり、ネアンデルタール人はなぜ絶滅したのか? です。

 

先ほどの話とも関わってくるのですが、ネアンデルタール人が絶滅したとされる頃、我々ホモサピエンスはすでに犬と生活していました。そうすると、もしかしたらネアンデルタール人が滅んで私たちが生き残った理由に、犬が関わっているのでは? と想像してしまうんです。専門家の方にネアンデルタール人に関する最新の知見をお聞きしたいです」

 

――もし犬のおかげで今の人類が生き残れたとすると……なんとも興味深いミステリーです。第3回では、「ネアンデルタール人はなぜ絶滅したの?」を専門家の方にお聞きしてみます。

ウナギはなぜ減っている? 中央大学と日本自然保護協会が開発した「ウナギいきのこりすごろく」を子どもたちと遊んでみた。

2020年10月20日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

日本の食生活に馴染み深いウナギ。7月の土用の丑の日に食べるイメージがありますが、本来の旬は脂の乗った秋から冬にかけてなのだそう。香ばしく焼き上げたウナギの蒲焼きを白ごはんと一緒にいただくところを想像すると…たまりませんよね。

一方で、天然のウナギは激減していて、完全養殖の手段も確立されていないことから、絶滅危惧種に指定されているということはご存知でしょうか。ウナギがなぜ減っていて、私たちにはどんなことができるのでしょうか? 日本自然保護協会と中央大学がニホンウナギの生態を学習できるすごろくを作ったと聞いて、さっそく子どもたちと遊んでみました。

 海から川へ、また海へ…波乱万丈のウナギの旅を体験

 ということで、今回遊ぶのは「ウナギいきのこりすごろく」。ウナギを題材にして私たち人間の経済活動と環境保全や資源の持続的利用を考えるきっかけを提供するという目的で、日本自然保護協会とウナギ保全の専門家の海部健三先生(中央大学法学部 教授)が共同開発した「遊んで学べる」すごろくです。学校や子供向けのワークショップで広く活用できるように、公式サイトからすごろくキットの貸し出しを行っているほか、無料でダウンロードしてご家庭でも遊ぶことができます。

「ウナギいきのこりすごろく」公式サイトより

「ウナギいきのこりすごろく」公式サイトより

 

今回は小学4年生と5年生の4人の子どもたちに集まってもらいました。みんなウナギは好きかな? ときくと、3人が元気よく「「「はーい!」」」。もうひとりは小骨が気になるから苦手とのこと。

まずは公式に用意されている動画でウナギの生態を予習。ニホンウナギは南の海でタマゴから稚魚が孵化し、川を遡上しながら大きく成長して、また産卵のために海へと帰ってゆきます。しかしその道中には危険がいっぱい。果たして無事に海まで帰り着くことができるのでしょうか?

やさしい言葉でテンポよく進む動画に、やんちゃ盛りの男子たちも釘付け

やさしい言葉でテンポよく進む動画に、やんちゃ盛りの男子たちも釘付け

 

このすごろく、4人で勝敗を競うわけではなくて、25匹からスタートしたウナギがゴールにたどり着くまでに何匹生き残れるか、どうして減ってしまうのか、みんなで話し合いながら進めるところがミソ。サイコロを振って出目の数だけ進むと、ウナギが成長したり、いろいろな原因で数が減ったりしていきます。

ちなみに本来、学校やワークショップで使用する場合はA0サイズを推奨。今回は家庭やコンビニのコピー機でもプリントしやすいA3サイズのサンプル版を使用しました

ちなみに本来、学校やワークショップで使用する場合はA0サイズを推奨。今回は家庭やコンビニのコピー機でもプリントしやすいA3サイズのサンプル版を使用しました

「レプトセファルス幼生」から「シラスウナギ」に成長!

「レプトセファルス幼生」から「シラスウナギ」に成長!

「カードをひらく」マスに止まると……

「カードをひらく」マスに止まると……

 

「カードをひらく」というマスに止まったらイベントが発生します。河口でシラスウナギを待ち受けていたのは網を持った人間……シラスウナギ漁です。捕まったシラスウナギは養殖場で育てられ、お店や食卓に並びます。これがいわゆる「養殖ウナギ」。養殖とは言っても、元は野生のシラスウナギなんですね。ウナギに卵を産ませて大人まで育てて出荷する、完全養殖の方法はまだ確立されていません。

子どもからは「知ってる! 社会科で習った!」の声も。えらい、ちゃんと勉強してるじゃないか。

人間に捕られたり、他の生き物に食べられたりしたウナギはこうして容赦なく減ってい

人間に捕られたり、他の生き物に食べられたりしたウナギはこうして容赦なく減っていく

鳥たちが待ち受ける難関。ちなみにこのすごろくのサイコロは1、2、3の目しかないので、ここで必ず減ってしまう

鳥たちが待ち受ける難関。ちなみにこのすごろくのサイコロは1、2、3の目しかないので、ここで必ず減ってしまう

 

ウナギ漁を生き延び、その後に立ちはだかる河口堰もなんとか乗り越えたシラスウナギたちは成長して黄ウナギに。しかしここで難関が。住宅地にさしかかると川はコンクリートで護岸され、ウナギたちは隠れる場所がなくカワウやアオサギの餌食になってしまいます。まるで銃弾の飛び交う戦場を丸裸で駆け抜けるよう。子どもたちからも「ぜったい減るやん!」とブーイングが飛びます。

ここで助け舟かと思いきや…?

ここで助け舟かと思いきや…?

 

ずんずん減っていくウナギの数に精神を削られていると、ここでイベント発生。ウナギの放流です。商品にならなかった養殖ウナギが川に放流されて、これで少しは数も増えるのかと思いきや……弱ったウナギが病気を媒介したり、食べ物が減ったりしてウナギの数は結局プラスマイナスゼロ。放流にどれほどの効果があるか、実際にはよくわかっていないようです。

ようやく大人の「銀ウナギ」まで成長した

ようやく大人の「銀ウナギ」まで成長した

最後の難関……ダム。発電機に巻き込まれたり、魚道があっても水が流れていなかったりしてじわじわと減っていく

最後の難関……ダム。発電機に巻き込まれたり、魚道があっても水が流れていなかったりしてじわじわと減っていく

 

大人になったウナギを待ち受ける最後の難関は、ダム。洪水や水不足から人々の生活を守る大切なダムですが、海へ向かうウナギにとっては行く手を阻む巨大な障害です。魚の通り道として設置された魚道に運よく進めないと、ここでじわじわと数が減っていきます。 

ダムをなんとか抜けると、ゴールである故郷の海に向かって一直線! さてさて何匹残ったかな?

優秀なウナギたちでした

優秀なウナギたちでした

 

残ったのは12匹でした! スタート時から半分に減ってしまいましたが、全滅してしまうパターンもあるようなので大健闘ではないでしょうか。

ウナギが減った理由、そして私たちにできること

 すごろくを通してウナギの波乱万丈な生態を学ぶことができましたが、大切なのはそこから問題を洗い出して、私たちに何ができるかを考えること。実は「ウナギいきのこりすごろく」には、振り返り用のまとめシートも用意されているんです。

 それでは、ウナギはなぜ半分まで減ってしまったのかな?「人間に捕まった!」「他の生き物に食べられた!」「ダムにひっかかった!」みんなで思い出しながら、まとめシートに書いていきます。

子どもたちが考えた対策は「ウナギのかわりにアナゴなどを食べる」。代わりになる食品を見つけるというのは賛成だけど、ではアナゴは減っていないのか調べてみたいところ

子どもたちが考えた対策は「ウナギのかわりにアナゴなどを食べる」。代わりになる食品を見つけるというのは賛成だけど、ではアナゴは減っていないのか調べてみたいところ

 

遊んでみてわかったのは、ウナギが減っている原因はいろいろあって、人間の営みがさまざまな形で関わっているということでした。たとえば美味しいウナギを気兼ねなく食べられる生活も、ダムに守られた安心な生活も、私たちにとってはどちらも大切。だからこそ正しい知識を身につけて、豊かな生活を子どもたちに伝えていきたいですね。

ハラハラドキドキ遊んで学べる内容もさることながら、事前学習から復習までバッチリフォローされている教材としての質の高さにも脱帽の「ウナギいきのこりすごろく」。もちろん大人でも新しい発見がたくさんあるので、家族でチャレンジしてみてはいかがでしょうか?

集合写真

 

路上から社会が見えてくる。関西大学の永井良和先生に聞く、考現学と「街歩き」のススメ

2020年9月17日 / コラム, 大学の知をのぞく, この研究がスゴい!

考古学と聞けば、インディ・ジョーンズのような太古のロマンあふれるイメージに胸踊る人も多いだろう。それでは、「考現学」ということばがあるのはご存知だろうか?

 

「古い時代を考える学問」が考古学なら、考現学は「現在を考える学問」ということになる。なんでも、遺跡の発掘や古代文字の解読のかわりに、現在の街に繰り出して風景や文化からさまざまなものを読み取る学問らしい。

 

都市社会学・大衆文化史がご専門の永井良和先生(関西大学社会学部教授)によれば、日常に考現学の視点を取り入れると、街を歩くだけでもいろいろなことを発見できてしまうという。それってすごく楽しそうではないか。

 

ということで、いつも見ている街の景色がちょっとしたアドベンチャーになるかもしれない「考現学」の視点の持ちかたと、永井先生が25年以上にわたってゼミで続けてこられた「街歩き」についてお話を伺った。

変化する現代をとらえる「考現学」 

amazonで「考現学」と名のつく本を調べてみると、『お風呂考現学』、『トイレ考現学』、『地下鉄考現学』、『居酒屋ほろ酔い考現学』といったタイトルが目に入る。街中のさまざまなものが「現在を考える学問」を着込んで気取っているようにも、ちょっと気のいい「考現学さん」が街に繰り出して、興味の赴くままにあちこちに首を突っ込んでいるようにも見えるけど、その輪郭は判然としない。

 

それでは永井先生、考現学とはどんな学問なんでしょうか?

 

「考現学はアカデミックな学問というよりも、在野の研究者の間で実践されてきた『民間学』です。

 

現在までいろいろな人がそれぞれに実践されてきたので、はっきりと定義できるものでもないのですが……考古学者が遺跡から掘り出されたものから当時の生活を想像するのに対して、考現学は現在の日常生活で目にするものを起点に社会について考えます。街に出て、身の回りの対象に目を向け、記録し、そこにどんな背景があるのか考えを巡らせる。そういった現実との向き合い方こそが考現学のポイントだと思います」

 

考古学ならば地道な発掘作業が大きな発見につながるのだと思いますが、考現学では街に出て風景を見たり、写真に撮ったりするだけで何か発見があるのでしょうか?

 

「たとえばインスタ映えするからといって写真に撮るだけでは不十分で、少し前と比べて今はどう変化しているか、という比較の視点が大切ですね。

 

そもそも、考現学という言葉を生み出したのは、昭和初期に日常生活のなかの衣食住を研究していた今和次郎(こん わじろう)という人物です。考現学の原点は、関東大震災の破壊し尽くされた東京で、次々と建てられていたバラック(仮設建築)をスケッチしたことでした。また、彼の有名な研究に『銀座街風俗』というものがあります。この研究で彼は、銀座の街頭を歩いている人の服装や髪型を分類してその数を記録し、イラストでも残しました。

1925年、今和次郎は銀座の街を行き交う人々の服装や髪型を記録した。ファッションが和装から洋装に移り変わる途上にあったことがわかる(「東京銀座風俗記録 統計図索引」工学院大学図書館所蔵)

1925年、今和次郎は銀座の街を行き交う人々の服装や髪型を記録に残した。ファッションが和装から洋装に移り変わる途上にあったことがわかる(「東京銀座風俗記録 統計図索引」工学院大学図書館所蔵)

 

今和次郎はなぜそんなことをしたのでしょうか? それは、彼がそうした光景に時代が変化する気配を感じ取ったからでしょう。災害の後に街が生まれ変わろうとする様子、人々の服装が和装から洋装へ変わってゆく様子、そうした社会の大きな変化を路上に見出したことが、彼が後に考現学と名付ける活動を始めた動機だったわけです」

 

なるほど、街の変化を感じ取ることが考現学の第一歩ということですね。ちなみに、今和次郎が始めた考現学は、その後どんなふうに展開していったのでしょうか?

 

「今和次郎のフィールドワーク的な研究手法や身近な対象に目を向ける視点は、研究者や文化人の間でゆっくりと根付いていきました。考現学の流れを汲んだものとして有名なのは、第2次世界大戦後のことになりますが、1970年代から80年代に美術家で作家の赤瀬川原平氏や建築家の藤森照信氏らが主導した路上観察の活動ですね。街中に残された遺物を『超芸術トマソン』と名付けて観察する活動をご存知の方も多いでしょう。私も当時注目していて、路上観察学会関係の書籍はすべて読みました。ただ、路上観察学は発見者のセンスが重視されるような、芸術に軸足を置いたアプローチなんですね。私自身はというと、1976年に発足した現代風俗研究会という民間の研究会に長く参加しています。街に出て都市風俗を研究するという点で考現学の流れに位置づけることができますが、こちらはどちらかというと歴史学的なアプローチを重視しているといえます。そんなふうにいろいろな人や団体が考現学的な視点を取り入れて独自の活動を展開してきたので、どれが考現学だ、と線引きするのが難しいんです。

美術家の赤瀬川原平らは、建築物などの不動産に付随し、意味や用途を超越した遺構や痕跡を「超芸術トマソン」と名付けて収集・類型化した。こちらは取り壊された建物の痕跡が隣の建物の外壁に影のように残っているもの

美術家で作家の赤瀬川原平らは、建築物などの不動産に付随し、意味や用途を超越した遺構や痕跡を「超芸術トマソン」と名付けて収集・類型化した。こちらは取り壊された建物の痕跡が隣の建物の外壁に影のように残っているもの

 

トマソンをはじめとする路上観察には今も根強い愛好者がいますが、「考現学」ということば自体はあまり耳にする機会がありません。

 

「最近はむしろ、わざわざ考現学を標榜しなくても考現学的なアプローチが当たり前になってきたと言えるのではないでしょうか。大学における学びでも、哲学書や外国語の文献を読み漁るような従来の王道的な学問だけでなく、私たちの生きる現代社会の身近な問題を対象にする研究が増えてきましたよね。大学全体が社会連携に力を入れて積極的に社会との接点を広げていこうという流れもあります。身の回りの細部に目を向けて面白がるということが特別なことではなくなってきたわけです」

 

言われてみれば、テレビなどでも日常の中のちょっとヘンなものに改めて面白みを見出すというような番組は人気です。考現学的な視点は私たちの中にしっかり浸透しているのかもしれませんね。

街の風景と個人の経験が重なったところに研究が生まれる

ところで永井先生は都市社会学・大衆文化史が専攻ということですが、これまで扱ってこられたテーマは社交ダンス、探偵、プロ野球とじつに多種多様ですね。こうした研究テーマには考現学的な視点が関係しているのでしょうか?

 

「どのテーマも私自身が街で出会った実体験がきっかけになっているという意味では、考現学的な眼が働いているといえるかもしれません。私のアプローチは歴史研究が主体なので、目の前にあるものをつぶさに観察してスケッチするような今和次郎の考現学とは少し違いますが……。

 

プロ野球をとりまく文化に関する研究(『南海ホークスがあったころ 野球ファンとパ・リーグの文化史』橋爪紳也氏と共著 2003年 紀伊国屋書店、2010年に河出書房新社より文庫化)をまとめたのは、ファンだった南海ホークスが福岡ダイエーホークスに転身し、本拠地・大阪球場がなくなっていくのを目の当たりにしたことがきっかけでした。大阪球場は野球場としての役目を終えた後、一時期はグラウンドの中に住宅展示場ができてヘンな景観が生まれ、最終的に完全に取り壊され、現在はなんばパークスという商業施設になっています。その過程を目にしていたので、なんばパークスのあたりの景観を見ていると大阪球場がダブって見えるんです。

017f絵葉書(大阪球場)

南海ホークスの本拠地であった大阪球場(大阪スタジアム)と、その跡地にできたなんばパークス

南海ホークスの本拠地であった大阪球場(正式名称は大阪スタヂアム)と、その跡地にできたなんばパークスを望む景観

 

そんなふうに自分が体験した原風景といま目の前にある現在の風景が重なりあった時に、『これは研究の素材になるんじゃないか』と考えてしまうんです。ゼミの学生たちと一緒に歩いているときにそんな風景に出会って立ち止まると、『先生また私たちに見えへんもん見てはる』と呆れられますね(笑)」

 

個人的な体験を社会の中に位置付けて考えてみると、研究すべきテーマが見えてくるわけですね。風景がそのきっかけになるのも面白いです。

永井ゼミ流、街歩きのススメ

さて、それではここからは考現学的な視点の実践編として、永井ゼミの「街歩き」についてお聞きしたいと思います。1994年から「街歩き」を続けているそうですが、どんな活動なんですか?

 

「だいたい2カ月に1回ぐらい、時間と場所だけを決めてゼミ生たちと無目的に街を歩いて、見つけたものを各自で写真に撮ったりメモしたりしています。何かおもしろいものが見つかる場合もあれば、空振りの場合もある。街歩きは授業の一環でもなんでもなくて、参加するかどうかは学生の自由です。最近はコロナで中断してしまっていますが……」

2017年1月の街歩きの様子。「細かいことを決めず、なりゆきまかせだからこそ25年以上も続けてこられました」とのこと

2017年1月の街歩きの様子。「細かいことを決めず、なりゆきまかせだからこそ25年以上も続けてこられました」とのこと

 

そう聞くとかなりユルくて楽しそうですが、街歩きで見つけたものが卒論のテーマにつながったりはしないんでしょうか?

 

「みんなで探せば何かが見つかるというものでもなくて、街を歩いていろいろ目にした経験が下地になり、個人の体験として蓄積されてゆきます。そして自分一人で歩き出したときに何かを見つけるわけです。だから、街歩き自体はほとんど無駄。無駄に歩いて、喋って、お酒を飲んで、それでいいんです。

 

さらに言えば、卒論のテーマにつながらなくても、街歩き続けているうちにそれがその人のライフスタイルになる。就職して、結婚して、子育てを始めても、考現学的な目は衰えません。道端にいろいろなものを見つけてしまうんですよ。5年に一度、OB・OGを招いて永井ゼミの大同窓会というのを行うのですが、それは5年の間に各自が見つけた面白い写真を持ってきて報告し合うという会なんです。もう中年になった元ゼミ生の報告などを聞くと、街歩きがそれぞれの人生にしっかり根付いていることがわかって嬉しくなります」

街歩きや調査活動に必須のフィールドノート。永井先生の長年にわたる調査記録がびっしり書き込まれている

街歩きや調査活動に必須のフィールドノート。永井先生の長年にわたる調査記録がびっしり書き込まれている

考現学的街歩き、3つのコツ

日常が新しい発見に満ちていると人生が豊かになりそうですね。私もさっそく街歩きを実践してみたくなってきました! ということで、考現学的な目を育てる街歩きのコツを教えていただけませんか?

 

「ひとつは、大きく見ようとせずに、とにかく細部にこだわるということ。名古屋に今和次郎の考現学の研究スタイルをまさに実践していらっしゃる岡本信也さん、岡本靖子さんというご夫妻がおられますが、おふたりの研究に、物干し竿の支柱の上に帽子のようにかぶせてある缶詰の空き缶を調査したものがあります。昔は木製の支柱や杭がよく使われていましたが、雨で腐ってしまうので空き缶を被せて傷みを防いでいたんです。そういったものを調査してみると、缶詰食品が減ったり、庭のある家が減ったりといった変化の中で街の風景から『缶詰の帽子』が姿を消してゆく。普通に歩いていると見過ごしてしまいそうな細部から、食生活や住宅事情の変遷が垣間見えるわけです」

 

棒にかぶせてある缶、たしかにどこか懐かしい情景ですが、そんな細部からも突き詰めれば社会の変化を読み取ることができるんですね。

 

「もうひとつは、ツッコむ精神。街で何か普通じゃないものを目にした時に、かすかな違和感を覚えますよね。それを無視して通り過ぎるのではなく、二度見するのが大事なんです。街歩きの初心者は前ばかり見てガツガツ進んで『何も見つかりませんでした』と言うのだけど、振り返ったところにこそ大きな発見があるわけです。それで、見つけたら『なんやこれは!』『なんでこんな風になってるんや!』と声に出す。いちいち声に出していると愉快な気分になってきます。一人だと変にハイになっていきますが、みんなでやればこわくない。

 

たとえばこの写真を見てください。どこかおかしくないですか?」

 

えーっと……何の変哲もない駅そばですが……

街歩きで発見された阪急梅田駅「阪急そば」の看板だが……(現在は「若菜そば」として営業中)

街歩きで発見された阪急梅田駅「阪急そば」の看板だが……(現在は「若菜そば」として営業中)

 

あっ、これ写真がうどんですね!「阪急そば」って書いてあるのにうどんだ!

 

「おかしいでしょ? 毎日見てると全然気が付かないんですが、留学生が気づいたりする。で、実際に調べてみると関西の駅そばで売れているのはほとんどがそばじゃなくてうどんなんです」

 

なるほど、実は私も毎日のように目にしていましたが、全く気が付きませんでした。調べるとそこにもちゃんと意味があるわけですね。

 

「そして最後のコツですが、見つけたものを人に話すこと。この写真もいろんな人に見せると、その人の使っている沿線の駅そば情報を教えてくれたりして、話が展開していくんです。それもSNSで完結させるのではなくて、外に出て人に会って話すと一層手応えがあると思います」

 

街歩きのコツをまとめると、「大きく見るのではなく、細部にこだわる」「気になるものを見かけたら、立ち止まって振り返る」、そして「発見を人に伝えてみる」ということですね。

 

「それができれば、誰でも一生楽しめる娯楽が身につきます。お金もかからず友達も増えますよ」

 コロナ時代の考現学

ここまで考現学の楽しみ方について教えていただきました。最後に少し堅い話題になってしまうのですが、コロナでまさに街の様子が大きく変わろうとしている今、考現学的なアプローチはどんな風に役立つでしょうか?

 

「とても大切なポイントですね。今まで私たちは、街の様相が大きく変わった節目を幾度か経験してきました。今和次郎が目撃した関東大震災もそうですし、関西でいうと、戦時中の空襲で大阪や神戸は焼け野原になり、阪神大震災でも街は一変しました。街の風景として見えてくる部分だけを切り取っても、コロナはそれらに匹敵するぐらい大きな変化をもたらすでしょう。短期的には、潰れてしまったお店が入れ替わる。長期的にはもっといろいろな変化が出てくるでしょう。住居や公共空間がソーシャルディスタンスに対応して作り変えられるかもしれません。そうした変化が現に起こりつつあるということを皆さん体感していますよね。

 

そこでまずは、今まで私たちが生きてきたコロナ以前の原風景も忘れないでいただきたいです。これまでの経験と比べることで、今後の社会がどう変化していくのかをしっかり見定めてほしい。そして、それぞれの身の回りの変化を記録することが大切です。写真でも日記でも構いません。記録が残っていれば、何十年と経った後からでも、コロナで何が変わって何が変わらなかったのか、社会はいい方向に進んでいるのか、あるいはその逆か、見極める大切な材料になるはずです」

 

原風景ということばが非常に重いですね……。細部に目を配ることで、大きな流れを冷静に見定めることができる。まさに今、考現学的な視点が大切になりそうですね。

 

 

一生涯付き合える娯楽にもなり、もしかしたら貴重な歴史資料にもなるかもしれない考現学的街歩き。通勤通学やちょっとした買い物の時、いつもの風景の小さな変化に気をつけてみると思わぬ大発見がひそんでいるかもしれない。3つのコツを意識して、今日からはじめてみてはいかがだろうか。

哲学×映画『メッセージ』:私たちは未来を予期して生きている? 傑作SFを哲学で読み解く

2020年9月8日 / 大学の知をのぞく, この研究がスゴい!

映画や小説、アニメ、漫画…サブカルの世界を学問の視点で掘り下げるシリーズ第3弾。

 

今回は、異星人と人類との邂逅を描いた傑作SF映画『メッセージ』。哲学的な問いが満載の本作を哲学者の視点で味わってみると、映画に込められた力強いメッセージが見えてきた。

(メイン画像のクレジット © 2016 Xenolinguistics, LLC. All Rights Reserved.)

 

  • この記事は映画『メッセージ』のネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。

未知の他者、時間と言語

『メッセージ』(原題:Arrival)は、ドニ・ヴィルヌーヴ監督によるSF映画。日本では2017年に公開された。原作であるテッド・チャンのSF小説『あなたの人生の物語』をご存知の方も多いだろう。まずは、本作のあらすじを簡単におさらいしておこう。

 

世界各地12か所に一斉に「殻」と呼ばれる未知の飛行物体が現れる。言語学者である主人公ルイーズは物理学者イアンとともに軍に召集され、「殻」の主である異星人ヘプタポッドの言語を解読してその目的を探り出すという役割を与えられる。ヘプタポッドとの対面を重ねてルイーズはその言語を次第に理解し、コミュニケーションが取れるようになっていくが、それと同時に、まだ生まれていない自分の娘と過ごす日々を幻視するようになる。一方、協力して研究を進めていた各国は、ヘプタポッドの示したある言葉をきっかけにバラバラに対立し、軍事的緊張感が広がってゆく。

 

知覚できる世界が異星人の言語によって変容するというSF的想像力、そして結果、主人公が引き受けることになるある運命。この映画が提示するテーマをもっと深く掘り下げるため、新潟大学の宮﨑裕助先生に、哲学の視点からこの映画をどのようにみることができるかお聞きした。

映画『メッセージ』を絶賛する宮﨑先生。「なぜ今回、私がお話しすることになったかもよくわかります(笑)」

映画『メッセージ』を絶賛する宮﨑先生。「なぜ今回、私がお話しすることになったかもよくわかります(笑)」

 

未知の他者とのコミュニケーションは成立するか?

まずは率直に、映画『メッセージ』をご覧になった感想はいかがでしたか?

 

「掛け値なしに素晴らしい映画だと思いました。未知の異星人との遭遇、タイムループといったSFの古典的な主題だけでなく、宇宙人の未知の言語で未知の他者といかにコミュニケーションをはじめるか、といったこれまでのSF映画ではあまり描かれなかった点に踏み込んでいて、他者論、言語論、翻訳論、時間論等の哲学的問題にまで深く入り込むものとなっています。それだけではなく、他者が引き起こす集団心理や国家主権がはらむ政治的な問い、なによりも、不幸を背負って生まれてくる子どもをなぜ産むのか、傷つくことが分かっていてなぜ家族をつくるのか、といった家族や世代の倫理的な問いへの応答も読み取ることができますね。とにかく、さまざまに思考を誘発する点でも素晴らしいと思います」

 

外見も思考様式も地球人とは全く異なる異星人ヘプタポッドが現れ、主人公ルイーズは言語学者として対峙することになります。この異星人を先生はどのようにご覧になりましたか?

 

「未知の他者、そもそも言語をもつかどうかもわからない他者といかにコミュニケーションが可能になるのか、これは哲学における古典的な問いなのですが、往々にして人間同士、人類のなかでの議論に限定されがちでした。もちろん人間以外の動物とのコミュニケーションに関する議論もなされてきましたが、しかし異星人というのは、地球上の生物ですらないまったく異なる思考様式をそなえているわけで、想定しうる限りもっとも遠い他者なわけです。

 

この映画の素晴らしいところは、〈もっとも遠くてもっとも想像不可能な他者といかにコミュニケーションをはじめることが出来るのか〉というきわめて哲学的な問いを、異星人というモチーフを使うことで具体的に映像化して提示してみせている点です。とくに異星人が操る文字を映像として具現化させたのは感動しましたね。異星人の言語はこのように示せるのか、と」

Amy Adams as Louise Banks in ARRIVAL by Paramount Pictures

墨絵を彷彿とさせるヘプタポッドの言語。表音文字でも表意文字でもない「表義文字」とされる
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円形をした異星人の文字は本当に見事なデザインでしたね。その言語でコミュニケーションが成立していく過程が感動的でもあり、またそこに大きな誤解が生まれることが歯がゆくもありました。異なる言語をもつ他者と理解し合うことはやはり難しいのでしょうか。

 

「その前に、まずはコミュニケーションとは何かを考えてみましょう。映画のなかでは、〈原地語では『あなたはなにを意味しているのか』を意味する『カンガルー』が、誤解によってひとつの動物の種類を指すようになった〉という有名な逸話(都市伝説)が引用されていましたね。この逸話のポイントは、双方で誤解があったことがあとで分かったとしても、コミュニケーションはそれとして成り立ってしまうということです。

 

通じ合えたと思っても、実は誤解が積み重なってたまたまつじつまが合っていただけかもしれない。しかしこれは異なる未知の言語が相手の場合だけでなく、同じ言語を話している者同士のコミュニケーションでも起こりうることですよね」

 

たしかに、誤解が重なって思わぬメッセージが伝わっている状況は日常的にもよく目にします。理解し合うというのは人間同士でも難しいことです。

 

「しかしだからと言って、悲観する必要はありません。この不可能性こそ、むしろコミュニケーションにとって必要な条件なのです。逆に、まったく誤解を生じない透明なコミュニケーションを想像してみてください。なんでも言いたいことが完全に伝わるとすれば、そもそもコミュニケーションする必要すらなくなるでしょう。誤解と齟齬のない理想状態のコミュニケーションとは、実のところコミュニケーションの死なのです」

 

つまり……、もともと完全にはわかりあえない他者同士が、それでも何かを伝えようとする能動的な行為こそがコミュニケーション、ということですね。

 

「はい。さて、それでは異星人とのコミュニケーションは可能なのか。コミュニケーションの本質は誤解と齟齬ですから、まったく共通点のない異星人とのあいだでももちろん可能です。他者という概念に注目した20世紀フランスの哲学者ジャック・デリダによると、そのとき最低限必要なのは、その他者からの呼びかけに振り向くことだけです。デリダはこの他者の呼びかけへの応答を、『ウィ、ウィ(フランス語Oui, Oui──英語ではYes, Yes)』という二重の肯定として表しました。つまり呼びかけをたんに音として聞き取るだけでなく、再認し反復可能な言語として肯定し直すわけです。実際、この映画はこうしたことを丁寧に描いているからこそ、感動的なわけです。

Amy Adams (right) as Louise Banks in ARRIVAL by Paramount Pictures

映画では単語の応答を繰り返すことで異星人の文字と意味の対応を推測し、次第に会話が可能になっていく。しかし、結論を急ぐ各国はヘプタポッドのある言葉を誤解し、互いに不信感を深めることに……
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そこで私たち自身を振り返ってみると、往々にして忙しい日常に没入して他者の呼びかけにしばしば振り向くことができない。と同時に、SNSのような過剰な応答によって成り立つコミュニケーションのなかで、他者の本当に切実な呼びかけをおろそかにしてしまう。厄介なのは、そうした他者の呼びかけがどこからくるか、あらかじめわからないし予期することもできないという点です」

 

映画では異星人とコミュニケーションの第一歩を踏み出すことができた一方で、地球人どうしの不信と対立が通信回路の切断という形で描かれていました。「他者」はいつもこちらの都合に合わせてくれるわけではありませんが、だからこそその時どのように向き合うことができるのかを問われている気がします。

言語が世界の見え方を変える?

映画のなかで主人公は、異星人の言語を修得することでだんだんと時間の流れを超越して世界を認識できるようになってゆきます。実際に、世界の見え方は言語によって変わるものなのでしょうか?

 

「近代哲学の礎を築いた哲学者カントの認識論では、『感性』や『悟性』という能力のことが論じられています。『感性』は物事を知覚する能力、『悟性』は論理や概念を把握する能力です。カントはこれらの能力を可能にする枠組み、形式が、個々の経験や文化の差異にかかわりなく、人間に共通してあらかじめ定まっているのだと考えました。例えば感性の形式としては等質的で一様に延び拡がる時間や空間が想定されています。同じく悟性であれば論理学の形式が想定されています(ただしこれはあくまで全ての『人間』に共通の形式として考えられたもので、人間以外の動物やましてや宇宙人は想定されてはいません)。

 

しかし20世紀になると、哲学思想の中で『言語論的転回』と呼ばれる動きが起こります。言語そのものが認識、つまり世界の現れ方に作用するという見方が広くなされるようになったわけです。例えば、虹に含まれる色は日本語では7色であらわされますが、英語では6色、さらに世界を見渡すともっと少ない色で虹をあらわす言語もあると言われます。7色の虹と6色の虹の違いは、文化ごとの色のあり方や色彩感覚と無関係ではありません。色の語彙をたくさん持っている人は、それに応じて色の微細な違いを繊細に認識し説明できると言えます。ボキャブラリーの多寡が世界認識、カント哲学でいう『悟性』の領域に関わってくるわけです。

 

私自身の話をすると、20代半ばではじめて留学してホームステイしたとき、外国語の拙い語彙しか使いこなせなかったことで、言葉だけでなく人格までも幼くなってしまった気分を味わいました。これも世界認識が言語に依存するという実例になるでしょう。

 

そのうえで、時間についてはどうでしょうか。言語の違いが時間感覚までも変えてしまうのかどうかということは、いま言った虹などの例(悟性)と同様には扱うことはできないでしょう。しかし、時間の感覚はあらかじめ定まっているとするカントに対して反論はできます。フッサールやベルクソンといった哲学者が探究したように、時間はそもそも単線的で等質的な流れのモデルで捉えることは出来ず、個々人によって質的に多様でありうる。このことは経験に照らしてもわかることでしょう。楽しい時間はあっというまにすぎてしまいますが、退屈な時ほどなかなか時間が経たないですよね」

 

子どもの頃はとても長く感じた1年が、大人になるとあっという間に感じたり……身に覚えがあります。時間の流れが相対的なものだとすると、映画で描かれたように時間の感覚が決定的に変化してしまうことは「ありうる」ということでしょうか?

 

「この映画で主人公ルイーズはヘプタポッドの言語をマスターすることでループするような時間感覚を得て未来をも予知できるようになるわけですが、これは実際にはありそうにもないことです。ヘプタポッドたちが時空を超えて世界を認識していようとも、少なくとも、人間にはそのままそれをあてはめることはできないでしょう。というのも、人間は依然として既存の時間概念に依存して有限な生を生きているからであり、そのなかでこそ世界を認識しているからです。地球言語が母語であり、いったん世界がそれによって構築されてしまった以上、いくらヘプタポッドの言語に精通しても、パソコンのOSを切り替えるようにして別の世界に行けるわけではないでしょう。あくまで既存の時間の破れ目から、ヘプタポッド時間を垣間見るだけであり、未来予測が自在に可能になるということにはならないと思います」

(L-R) Jeremy Renner as Ian Donnelly and Amy Adams as Louise Banks in ARRIVAL by Paramount Pictures

映画では、ヘプタポッドの言語を解読・習得するうちにルイーズ(右)は未来を見通す能力を手に入れることになる 
© 2016 Xenolinguistics, LLC. All Rights Reserved.

未来を見通せてしまうことは悲劇か、それとも?

ルイーズが未来を見通せるようになるというストーリーは、SF的な誇張というかデタラメということになりそうですね。もちろん、そのデタラメこそがSF作品の魅力とも言えるわけですが。

 

「ルイーズの予知能力に設定上無理があるとしても、ストーリー全体がデタラメだというわけではありません。むしろこう考えるべきではないでしょうか。私たちはつねに今という経験を反復されたものとしてしか生きることができず、二度目以上の世界を生きているのだ、と」

 

……どういうことでしょうか?

 

「はじめて経験したことなのに、かつて味わったかのようにとらわれる感覚をデジャヴュといいますね。私はある意味であらゆる経験がこうしたデジャヴュに浸されていると考えています。本当にまったく未知の出来事が自分の身に起こったとすると、これまでの経験をもとにその出来事を知覚したり言語化したりすることができないわけですから、その出来事をたった今、経験したことすらわからないはずです」

 

つまり、自分の身に初めて起こった経験であっても、それまでに予め知識として触れていたりそれまでの似た経験から想像したりという形で、すでに予期していた出来事に当てはめて認識しているということでしょうか。

 

「そうですね。意識しようがしまいが、私たちはそのような仕方でつねにすでに未来を先取りしてしまっている。未来予知のような明確な認識ではないにせよ、ある意味では『予め知っている』わけです。逆に、通常新しいようにみえることは相対的な新しさにすぎず、つねにどこか遅れてしまっているとも言えます。デリダはこのことを、言語論の文脈で、反覆可能性という概念によって説明していますが、私はそれを拡張して、つねにすでに二度目を生きているというこの感覚を『超越論的デジャヴュ』と呼んでいます。だから本当の意味で『今、この瞬間』を生きている人間はいないのです」

 

―なるほど……。映画に即して考えてみると、これから子どもをもつ親にとって、子どもが健康で幸せに生きられるかという未来を先取りした不安は常につきまとうでしょうし、もっと言えば、生まれてきた子どもがいつかは必ず死ぬということをどんな親でも「知っている」。ルイーズの予知能力もそうした延長線上にあるものとも解釈できるかもしれませんね。

 

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未来を見通せるようになったルイーズの脳裏にフラッシュバックする、娘ハンナとの未来の思い出 
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そこで、この物語の結末についてですが、ルイーズは未来を見通すことで、将来産まれる子どもを若くして亡くし、将来夫になるイアンとも別れるという運命を知ったうえで家庭を持つことを選択します。これはハッピーエンドなのかバッドエンドなのか、どのようにご覧になりましたか?

 

「主人公が選択したというより、『そうせざるをえないということを知っている』ということでしょう。我が子の死が訪れてしまうことを避けられないという意味ではバッドエンドなのかもしれません。しかし、それを避けて俯瞰した視点から別の人生を選択し直すこともできないがゆえに、そしてそのことをはじめからよくわかって受け入れているがゆえに、いまここにあるみずからの生を肯定的に享受しているという点で言うなら、私はハッピーエンドと言いうると思います。

 

現代の思想で反出生主義という立場があるのをご存知でしょうか。かれらは現代社会に生まれることの不幸をあらかじめ見通して、子どもは新たに生まれてこないほうがよいことを主張しています。映画の結末を観て、もしかしたらこの考え方に近い感想を持った方もいらっしゃるかもしれません。しかし本当にそうでしょうか?

 

仮にデータを網羅して世界全体の人間の幸不幸を算出することが可能になれば、これから生まれてくる子どもの不幸が統計的に証明できるかもしれません。しかしそれは、ある一人の子どもが歩む一度きりの人生が不幸であるという証明にはなりません。人間にとって生は、俯瞰して統計的に扱えるものではなく、『誰にとっての』生か、個別の状況でいかに生きるかということと切り離して考えることはできません。そうした個別的な意味を切り離してしまうと、そもそも生そのものに意味がなくなってしまうのです。誰だって、自分の生を完全に俯瞰することはできません。統計データを取ったり、それを根拠に語ったりする人でさえそうなのです」

 

―幸せか不幸かは他人が決められることではなく、まさにその人がどう生きるかにかかっている。生きる指針が揺らいでしまいがちな現代を生きる私たちへの、切実なメッセージのようにも思えますね。

あなたの人生の物語

「最後にもうひとつ、この映画を読み解く鍵が残っています。それは、先ほどの反出生主義への反論にも関わります。

 

ルイーズは自分の娘をハンナと名づけますね。はじめから読んでも逆から読んでも『Hannah』と読めるこの名前はもちろん、循環した時間性を生きるヘプタポッド時間に重ね合わされているわけですが、Hannahといえば私はある人物を思い浮かべます。それは、20世紀のユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントです。アーレントは、新しい生命がこの世に生まれることこそが世界のはじまりをなす絶対的な条件だとして、みずからの哲学の中心に据えました。アーレントにとっては人間が誕生するということは、統計的な計算に委ねうる選択問題ではなく、そこから意味や価値そのものが生まれてくる揺るぎがたい事実性そのものなのです」

 

たまたまかもしれませんが、そんな哲学者と同じ名前がつけられたのは非常に象徴的ですね。生まれることからはじまるというのはまさに本作の重要なテーマです。

 

「人間の生がたんなる計算可能な可能性ではなく存在の事実性であるということは、ハイデガー以降の実存思想という立場が追求してきた事柄です。私はここでたんに実存主義を強調するだけでなく、自分の研究しているデリダに即して次のようにお答えしておきたいと思います。

 

私のこの生はつねに挫折し後悔を繰り返してきましたし、未来に向けても先取りした過ちを繰り返さざるをえない。そんな生はけっして幸福ではありえないとも言えます。映画ではこのことは未来の我が子の死という喪のイメージを通して示されていました。しかし、こうしたやり直しのきかない有限性こそが生の条件なのです。この有限性をもし取り払うことができたとしても、失敗もなければ成功もない、生きることの意味や目的そのものも失った、生きるに値しない生にしかならないでしょう。そうではなく、こうした有限な生を肯定するところにむしろ生きるべき生、生き延びの生があるのです。

 

このことを、私は近著のデリダ論『ジャック・デリダ──死後の生を与える』のなかでデリダの思考に即して探究しています。ぜひご笑覧いただけると幸いです」

『ジャック・デリダ――死後の生を与える』(岩波書店)

宮﨑先生の著書『ジャック・デリダ――死後の生を与える』(岩波書店)

 

2時間足らずの映画のなかから、作者も意識していなかったであろう部分を含めてこれだけ豊かなメッセージを読み取ることができることに改めて驚くばかりだ。映画を観たあとの言葉にできない感動を哲学で解きほぐすことで、物語の中の出来事が決して特別ではなく、自分自身のこととして受け取ることもできた。

 

さてこれを読んでいるあなたは、人生の物語をどんなふうに紡ぎますか?

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オンラインでお話をお聞きしたのだが、画面越しに向き合う構図が劇中の異星人との対話シーンそっくりで、内心興奮していた筆者であった

 

『メッセージ』発売中 Blu-ray	2,381円(税別) 発売・販売元:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント

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研究者の質問バトン(1):タイムマシンって本当に作れるの?

2020年9月1日 / 大学の知をのぞく, この研究がスゴい!

ある日の編集会議、ネタ出し中に編集長がこんな一言を漏らした。

 

「タイムマシンって本当に作れるんかな?」

 

タイムマシンは作れるのか? ほとぜろではこのところ壮大な宇宙の話なども扱うので、タイムトラベルだってなんとかなりそうな気がしてしまうが、できないならばできないで何か理由があるはず。なんともロマンがあって、誰かに解説してほしい疑問だ。

 

素朴な疑問にはその人の考え方や興味が表れるのでおもしろい。ラジオでは子どもたちが研究者の先生たちに鋭い質問・突飛な質問を投げかける番組も人気だ。ならば、その先生たちにも素朴な疑問があるのではないだろうか?

 

……ということで、新連載『研究者の質問バトン』がはじまります。素朴な疑問を専門家の先生にぶつけて解説してもらい、今度はその先生の抱えている素朴な疑問を別の専門家にぶつけに行く。そんなふうに、研究者の方々の疑問をリレーしていきます。どんな回答と疑問が飛び出すのでしょうか!?

 

第1回は、「タイムマシンって本当に作れるの?」という質問を、物理学者である大阪工業大学の真貝寿明先生にお聞きしました。それではどうぞ。

先生、タイムマシンって本当に作れるんですか?

――真貝先生、そもそも物理学ではタイムマシンも研究対象に入るのでしょうか?

 はじめにお断りしておきますが、私は「タイムマシン」を研究しているわけではなく、「相対性理論」を研究しています。


 タイムマシンは、時間を超えて移動する想像上の乗り物ですね。時間と空間を取り扱う物理学はアインシュタインのつくった「相対性理論」です。アインシュタインは、『質量の大きな物体があると、その周囲の時間や空間がゆがむ』という理論をつくりました。つまり、時間の進み方はどこでも一定なのではなく、観測する場所によって、はやく進んだり、ゆっくり進んだりするのです。これを表現するのに、タイムマシンという言葉はとても分かりやすいものだと思います。


 私自身は、ブラックホールや重力波を研究しています。ブラックホールは、質量が大きすぎて空間がゆがみすぎ、破れたトランポリンのようになっている領域です。重力波は、空間のゆがみが波となって伝わってくる現象で、トランポリンの振動を想像してもらえればよいでしょう。お互いの重力で引っ張り合っている複数のブラックホールが合体すると、強い重力波を発生させます。その重力波を観測することで、ブラックホールのでき方や、銀河のでき方がわかり、宇宙の膨張の速さも分かります。私は、アインシュタインの理論がどこまで正しいのかを解明するために、重力波の波を観測データから上手く取り出す方法を研究しています。

――なるほど、まさに時間や空間のゆがみを研究対象にされているのですね。相対性理論をヒントにすれば、実際に未来に行ったり過去に行ったりできるのでしょうか?

 未来に行くタイムマシンは理論上可能です。相対性理論は、速く移動していればいるほど時間の進み方がゆっくりになり、光速で移動すると時間が進まないということを予言しています。つまり、ものすごく速いロケットに乗って地球に帰還すれば、自分だけ歳をとらず、未来の世界に行けるのです。浦島太郎のような話が現実のものとなるわけですね。ただし、人類が作った最も高速の乗り物は、いまのところ国際宇宙ステーションで、秒速 7.8kmです。この速さではまだまだ時間のずれは小さく、1年間乗務しても0.01067秒だけしか地表より未来に行けません。時速900km(秒速250m)の旅客機に10000時間乗務しても、0.000012517秒しか未来に行けません。技術的にはまだまだタイムマシンは無理ですね。

 

ですが、素粒子レベルでは未来へのタイムトラベルが日常的に起こっています。宇宙から飛来する粒子(宇宙線)は、光速に近い速さのため、寿命が極端に長くなることが確かめられています。つまりその粒子だけ、時間の流れがゆっくりになっているんですね。ですから、未来に行くタイムマシンは理論がきちんと証明されていて、あとは技術的な課題を解決すればよいことになります。


 未来に行く方法としてもう一つ、重力の強い場所では時間がゆっくり進む、という事実を使う方法もあります。映画の『インターステラー』では、重力の強い星に1時間着陸しただけで、地球上では7年が過ぎてしまう、という場面がありました。

 

――なんと、小さくて気づかないような“タイムトラベル”は意外と身近に起こっているんですね。

一方で、過去に行くタイムマシンは理論上も難しいのです。過去に行くということは、時間を進めていくと元の地点にもどるということで、専門用語で「時間的閉曲線 (closed timelike curve)が存在するか」という問題になります。ブラックホールを無限に長く引き伸ばしたような「宇宙ひも (cosmic string)」があれば、その周囲を一周することでエネルギーギャップを利用して過去に行けるとする提案があります。また、「ワームホール (wormhole)」と呼ばれる、時空の異なる2点を結ぶ経路があれば過去に戻れる、とするモデルもあります。しかし、宇宙ひももワームホールも、理論上その存在が考えられているだけで観測されたことはありません。実際に存在したとしても、人類が制御できるものではないでしょう。私はワームホールに物を投げ入れたときのシミュレーションをしたことがありますが、ワームホールは不安定ですぐに閉じてしまい、ブラックホールに変化することが分かりました。ですので、たとえ100歩譲ってワームホールに飛び込めたとしても、そこでおしまいとなる可能性が高い。

 

――話が一気にややこしくなりましたが、過去へのタイムトラベルは「机上の空論」だと。


物理学は、運動方程式(因果則)・エネルギー保存則やエントロピー増大則など、時間に関する法則で成り立っています。過去へいきなり出現することを許すと、これらの法則が破綻してしまいます。ですので、過去に戻るタイムマシンは理論上は可能かもしれないけれど、おとぎ話にすぎないと多くの物理学者は考えています。

――『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は実現しそうにないですね……。

相対性理論は身近な技術に役立っている

いずれにしても、タイムマシンそのものは遠い夢ということでしょうか。

 ロケットに乗ったり、重力の強いところにいると時間の進み方がゆっくりになるということはお話しましたが、実はこの事実を踏まえないと、カーナビなどに使われているGPS(Global Positioning System、人工衛星を使った測位システム)がきちんと機能しません。GPSは、原子時計を搭載した人工衛星が地球上のどこにいても上空に4機以上あるように配置されていて、それらが出す電波から3点測量の原理で自分のいる場所を特定するシステムです。高速で飛んでいる人工衛星の時間の遅れと、重力の差により上空よりも地表の方が時間の進み方が遅くなることを計算に入れないと、GPSは正しい値を出さないのです。その意味で、相対性理論研究が、日常の役に立っていると言えるでしょう。


最近、私は、原子時計よりも100倍以上高い精度を出すことができる「光格子時計」を使った実験プロジェクトに参加させてもらいました。18桁の精度(100億年に1秒のずれに相当)をもつ時計を東京スカイツリーの展望台(高さ450m)と地表に設置して、時間の進み方を比較してみると、アインシュタインの予言通り、重力の強い地表の方が時間の進み方がゆっくりになることが確認できたのです。また、この2台の時計のズレから逆算することで、450mの高度差を数cm以内の誤差で測定できることもわかりました(詳しくはこちら)。将来的には、正確な時計を持ち歩くことで自分のいる高度が分かったり、重力の違いから地中に埋蔵されているものを発見することもできると期待されます。

 

――タイムマシンはまだまだでも、その理論はすでに生活の中で活用されていたんですね。いつか遠い未来にタイムトラベルが実現したら、先生ならどのように使いたいですか?

 

ちょっとした未来を見てみたいですね。自分の書いた本がどれだけベストセラーになっているか、とか(笑)。

真貝先生の素朴な疑問は?

――タイムマシンについてわかりやすく教えてくださり、ありがとうございました!

ところで、先生は、何か疑問に思っていらっしゃることはありますか?


そうですね、犬は人間の言葉をどこまで理解できているのかが気になります。

 

――犬ですか。


私の家には犬がいるのですが、歳をとってきて、最近は歩かずに寝てることが多くなりました。こっちが構って欲しくて、「散歩に行こう」とか「シャンプーしよう」とか言うと、ソーシャルディスタンスを取ろうとして、ソファの下に隠れてしまいます。どこまで人間の言葉をわかっているのでしょうか。結構理解している気がします。また、分からない言葉を使うと首をかしげますが、その反応は一般的なのでしょうか。興味深いです。

 

――犬と人間は長い付き合いですが、どこまでわかりあえているのかは気になりますね。
それでは、次回は「犬は人間の言葉をどこまで理解できているの?」を専門家の方にお聞きしてみます。

 

(つづく)

最新の知見と医療現場のリアルが集結。日本循環器学会学術集会をオンラインで聴講してみた。

2020年8月25日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

専門の研究に携わっている人以外はなかなか参加する機会のない「学会」。どんなことが行われているのか気にならないだろうか? そこで、専門知識を持たない一般人が学会に潜入して、難しい内容はさておきその雰囲気だけでもお伝えしようというのが今回の企画。

 

潜入したのは医学系の学会のひとつ、日本循環器学会。2020年7月27日から8月2日までの一週間、オンラインで開催された「第84回日本循環器学会学術集会(JCS 2020)」の様子をレポートする。門外漢には縁遠く思える学会だが、聴講してみると身近な医療の「今」が見えてきた。

 

※ほとぜろでは、第84回日本循環器学会学術集会の一般公開プログラム「人生100年時代の健康長寿」の登壇者へのインタビューを行いました。こちらも是非ご覧ください。

日本循環器学会はこんな学会

日本循環器学会について調べてみると、会員数なんと27,000名を超える日本有数の学会組織だという。そのうち循環器専門医が15,000名というから、最前線で診療を行っている現場のお医者さんが多数を占める学会ということがわかる。

 

第84回日本循環器学会学術集会は2020年3月に開催が予定されていたが、新型コロナウイルスの影響で今回の日程に延期、加えて、全プログラムをWeb会議システム「Zoom」を用いてのオンライン開催にするという異例の対応がとられている。今回の大会会長を務める京都大学の木村剛先生によると、「2年以上かけて準備してきましたが、コロナの影響で開催が危ぶまれました。しかしコロナ以前の観念に縛られずに新しいパラダイムを構築する必要があると感じ、全面オンラインでの開催に踏み切りました」とのこと。かつてないほどに医療と健康に注目が集まる今、学術集会ではどんな議論が交わされるのだろうか?

 

そもそも、門外漢の一般人が聴講してついていけるものなのか、せめて何か掴めるといいな、と思いつつ、当日を迎えた。

期待感が高まるオープニングセレモニー

学会初日の7月27日。学術集会の公式ページの日程表からオープニングセレモニーを選択してアクセスする。時間になると、司会の方のアナウンスとともに京都大学交響楽団とサンドアート集団「SILT」によるパフォーマンスが始まる。なかなかに華々しい開幕だ。

セレモニーは華やかなパフォーマンスからはじまった

セレモニーは華やかなパフォーマンスからはじまった

 

つづいて京都の妙心寺退蔵院住職・松山大耕氏がビデオ出演し、古代の感染症からスティーブ・ジョブズの思想まで幅広く言及しながら新型コロナ時代の今、私たちが出来ることは何かを語った。

 

そののち、木村剛先生が登壇してこの学術集会が掲げるテーマを3つの要点で説明。簡単にまとめると……

・これまでの欧米基準のデータに基づくガイドラインを見直し、日本独自のデータを使って診療を変えていこう。

・治療方法のメリット・デメリットを開示して、個々の症状や患者さんの意思に配慮して治療方針を決める「Shared Decision Making」を推進しよう。

・仲間内だけの情報交換にとどまらず、広く情報を発信するとともに外部の知見も取り入れて持続可能な診療体制を作っていこう。

 

実際はもう少し難しい言葉で説明されていたが、どれも感覚としては理解しやすいテーマだ。よく覚えておこう。

JCS 2020のテーマを説明する木村先生

JCS 2020のテーマを説明する木村先生

 

最後は、京都大学iPS細胞研究所所長の山中伸弥先生と、COVID-19クラスター対策班としてメディアでもおなじみの北海道大学(現在は京都大学)教授の西浦博先生による記念対談。事前収録されたこの対談の模様は、先行してYouTubeで公開されて話題になった。冷静で多角的な現状分析は心強く感じられた。

患者に向き合う医療をめざす、2型糖尿病治療

公式サイトの日程表には連日さまざまなセッション(ひとつのテーマについて数名が発表するプログラムの単位)がズラリと並んでいて、それぞれライブ視聴、あるいは後日オンデマンド配信で視聴することができる(一部の公開プログラムを除き、事前に発行されたIDが必要)。

 

日程表からはじめに選んだのは、「2型糖尿病治療のパラダイムシフト:HbA1c至上主義からの離脱」というセッション。動脈硬化や心筋梗塞といった循環器病とも関わりが深い糖尿病だが、これまで重視されてきたHbA1c(血中の糖化ヘモグロビンの割合)のコントロールをめざす治療だけでは問題があるという。筋書きとしては取っ付きやすそうなので、視聴してみよう。

 

司会の先生の挨拶の後、パワーポイントを画面共有する形で発表がスタート。ちなみに、質問はZoomのチャットのような機能で投稿することができる。それを司会の先生が拾って発表者に投げかける。これは挙手よりもハードルが低くていいかもしれない。

「こんな時、あなたならどうする?」という5択のアンケート。聴講者が回答した結果がすぐに表示される。こうしたやりとりもオンラインならではで面白い

「こんな時、あなたならどうする?」という5択のアンケート。聴講者が回答した結果がすぐに表示される。こうしたやりとりもオンラインならではで面白い

 

肝心の発表内容は、当たり前のことだが専門用語が飛び交ううえに、スライドはほぼ全て英語。今回はメキシコからの発表者もいて、その方は喋り言葉も英語ではないか。こうなると理解どころではない。どうしよう、という気持ちとやっぱりね、という気持ちが半々だが、発表が進むごとになんとなくわかってくることもある。5名の発表を合わせてひとつのストーリーになるようにうまく構成されているのだ。ざっくりまとめると、

 

事例紹介① → 事例紹介② → これまでの診療の問題点を整理 → それに代わる視点の提示 → 現状に即した診療方法のポイントを整理

 

という感じ。ひとつひとつの専門用語がわからなくても、大きな流れが掴めると意外とついていけているような気分になる。

 

門外漢なりに理解した論旨としては、「2型糖尿病は、HbA1cを下げることばかりに偏重するといろいろなリスクがあるよ。血圧やコレステロール値などにもトータルに気を配って、何より患者さんのQOLを損ねないように話し合いながら長い目で取り組んでいく必要があるよ」ということ。3番目に発表された京都大学医学部付属病院の小笹寧子先生のおっしゃった「先生方は、モニターに表示される数字ばかりをみていませんか? 目の前の患者さんに向き合いましょう」という言葉が印象的だった。

 

そうか、医学系の学会というのは学術的な研究発表の場であると同時に、お医者さんが診療について意見交換し、勉強する場でもあるのだ。

新型コロナウイルス下の医療現場から

もうひとつ聴講したのは、「新型コロナウィルスパンデミックに循環器内科医として立ち向かう」と題されたセッション。新型コロナウイルス感染症といえば肺炎が取り上げられるが、実は急性心筋梗塞をはじめ循環器系の深刻な症状も引き起こす。Zoomでの発表を視聴するのに慣れてきたのと、日頃ニュースで接するコロナの予備知識も少し手伝って、先ほどよりも詳しい内容が頭に入ってきた。

 

こちらのセッションは、まず感染症専門の先生から日頃の診療での感染拡大防止についての提言があり、次に医療現場で実際に行われている感染対策や抱えている課題の共有、急性心筋梗塞の治療とコロナ対策、最後に新型コロナウイルス感染症それ自体の病態についての分析という構成。感染拡大防止と従来の医療の質の確保、地域医療の維持など、現場が抱える課題は山積だ。

 

興味深かったのは最後の、岐阜市民病院の西垣和彦先生の発表。早い時期から新型コロナ関係の研究論文を読み漁りSNSを活用して勉強会も行ってきた西垣先生は、「コロナの病態の本質はウイルスが凝固線溶系を過剰に刺激することによって起こる『血栓』だ」と指摘。心臓や血管を専門とする循環器内科だからこそ知っておくべきとして、最新の論文を勉強し、臨床に活かしていく必要性を訴えた。

 

セッションの前半で感染拡大防止で大変な現場の状況を聞いた直後だったので、日常での診療、感染防止に加えてさらに論文を読んで勉強となると、本当に休む暇もないのではないかと心配になる。だからこそ、こうした場で知見を共有することが大切なのだろう。

西垣先生のスライドにはときどき岐阜の名所が差し挟まれる。マスクしよう!

西垣先生のスライドにはときどき岐阜の名所が差し挟まれる。マスクしよう!

明日の医療をつくる、アクティブな学会

以上、今回は第82回日本循環器学会学術集会のオープニングレセプションと2つのセッションを聴講してみたわけだが、想像以上に医療現場のリアルな課題や努力を垣間見ることができた貴重な体験だった。こうした医療の内幕を一般人がすべて知っている必要はないのかもしれないけど、いつ誰が当事者になるかわからないのが医療の問題。どんな議論がなされているのか知っておくに越したことはないだろう。

学会というとどうしても堅苦しいイメージがあったが、聴講してみると実はとてもアクティブな場であることがわかった。これから学会のオンライン化がますます進みそうなので、いろいろな学会に注目してみると面白いのではないだろうか。

古生物学×『ジュラシック・パーク』:恐竜研究者に聞いた、学説で見る恐竜映画の楽しみ方

2020年8月13日 / 大学の知をのぞく, この研究がスゴい!

映画や小説、アニメ、漫画…サブカルの世界を学問の視点で掘り下げるシリーズ第2弾。

今回は、現代に蘇った恐竜が大騒動を巻き起こすSF映画の金字塔『ジュラシック・パーク』の楽しみ方を、古生物学の研究者に聞いてみた。

恐竜のイメージを刷新した傑作! 

1993年公開の『ジュラシック・パーク』。スティーブン・スピルバーグがメガホンを取り、生命の力強さを描き出した不朽の名作だ。シリーズ化され、2021年に最新の第6作の公開を控えているが、その原点が本作である。簡単にあらすじをおさらいしておこう。

 

恐竜を研究する古生物学者のグラントは、発掘調査のスポンサーである実業家ハモンドに招かれ、二人の学者とともに南米コスタリカ沖のヌブラル島を訪れる。そこは、遺伝子技術によって蘇った恐竜たちが闊歩するテーマパーク「ジュラシック・パーク」だった。ハモンドの孫である2人の子供たちも加わり、生き生きと動きまわる恐竜たちに目を見張る一行だったが、恐竜の胚の略奪を目論むライバル会社の陰謀によってパークのセーフティシステムがダウン。獰猛な肉食恐竜たちが待ち受けるパークで恐怖のサバイバルに巻き込まれてゆく。

 

この映画の魅力は何と言っても、特殊撮影技術と最新のCGを駆使して“リアル”に描かれた恐竜たちの姿だ。しかし、公開から30年近くが経過し、その間に恐竜の姿や生態についてはどんどん新発見や新説が発表され、恐竜は羽毛に覆われていた、なんて話も耳にする。

 

ここで、福井県立大学恐竜学研究所の柴田正輝先生にご登場いただこう。ズバリ、恐竜研究者は『ジュラシック・パーク』のことをどんな風に見ているんですか?

 

「『ジュラシック・パーク』公開当時、私は大学に入学する前後の年齢でしたが、それまでの恐竜のイメージを一気に刷新した衝撃的な映画だったことを覚えています。それまで一般的な恐竜のイメージといえば、巨大なトカゲであったり、あるいはゴジラのように直立してノシノシ歩く怪獣であったりといったイメージが主流でした。『ジュラシック・パーク』によって、実は恐竜は俊敏に動くことができ、頭も賢く、現代の生物と変わらないような生活をしていたということが映像として広く一般の方にも広まりました」

名称未設定のアートワーク 2

 

インターネットも普及していない時代、専門書でしか触れられなかったような当時の最新の恐竜像を一般の人にも広めたという意味で、映画の力は大きかったようだ。でも、専門家としては映画の中での不正確な描写が気になったりしてしまうのでは?

 

「もちろん誇張された演出もありますが、大枠ではきちんと研究者の監修のもとで当時の最新の学説を取り入れているので、特にシリーズ1作目の本作に関しては研究者の間でも高く評価されていると言っていいと思いますね」

 

そう聞いて、本作のファンとして少しホッとした。それでは、一体どんなところに当時の最新の研究成果が描かれていたのだろうか?

鳥の賢さは恐竜ゆずり? 当時最新の学説で描かれた恐竜の姿 

『ジュラシック・パーク』で特に印象的なのは、恐竜の賢さだ。ヴェロキラプトルという肉食恐竜がやすやすと人間の施設に侵入し、群れで狩りを行うシーンは子供心にちょっとしたトラウマになっている。恐竜は知能が高かったというのも、当時の研究成果として分かっていたことなのだろうか?

 

「恐竜の生態を考える際に、現生の生物が参考になります。従来、恐竜は爬虫類と近縁だと考えられていましたが、研究によってむしろ鳥類に近かったということがわかっています。なので、現在の鳥にできることは恐竜もできたのではないか、と考えられるわけです。ヴェロキラプトルの属するドロマエオサウルス類は特に鳥に近く、身体のわりに脳が大きかったことが化石からもわかっています」

 

なるほど、現在の鳥類だとカラスの知能の高さなどはよく知られている。そういえば、映画の中でも主人公のグラント博士は「恐竜は鳥の祖先なんだ」ということを言ってまわりを驚かせていた。

 

「恐竜が鳥に進化したということは今でこそ一般によく知られていますが、80年代に盛んに議論された、当時としては新しい学説でした。羽毛の生えた恐竜の化石が発見されたのが1995年なので、映画はちょうどこの説が立証されていく過渡期のタイミングですね。ヴェロキラプトルをはじめとする小型の獣脚類は、現在の研究では全身が羽毛に覆われていたと考えられています。1993年の時点では羽毛のなかったヴェロキラプトルも、2015年の続編『ジュラシック・ワールド』ではさすがに羽毛姿で描かれるかと期待しましたが、最初の設定をそのまま引き継いだ姿になっていましたね」

シリーズを通して活躍する人気恐竜ヴェロキラプトルは、実際はもっと小型で全身が羽毛に覆われていたと考えられている

シリーズを通して活躍する人気恐竜ヴェロキラプトルは、実際はもっと小型で全身が羽毛に覆われていたと考えられている

 

当時最新の学説が今では当たり前になって、さらに新しい事実がわかってきているというわけだ。最近ではティラノサウルスにも羽毛が生えていたという説も聞くが、そうするとパークのラスボス的存在であるティラノサウルスのイメージがだいぶ変わってしまうような……。

 

「現在の研究では、恐竜は恒温動物で、体温を一定に保つために羽毛を発達させたと考えられています。ただ、ティラノサウルスのように身体が大きいと、保温よりもむしろ熱を逃がす方が重要になります。ゾウにあまり毛が生えていない理屈と同じですね。また、近年になってティラノサウルスの皮膚の化石も見つかっていて、そこには羽毛の痕跡は見られませんでした。これらのことから、少なくとも成長したティラノサウルスには羽毛は生えていなかったか、生えていたとしても痕跡程度のものだったと考えられます。なので、ティラノサウルスは映画で描かれている姿に近かったかもしれません」

一時期は羽毛に覆われたティラノサウルスの復元図が流行したが、その後、2015年に鱗に覆われた皮膚の化石が見つかっている

一時期は羽毛に覆われたティラノサウルスの復元図が流行したが、その後、2015年に鱗に覆われた皮膚の化石が見つかっている

 

ちなみに、劇中でも恐竜は恒温動物として描かれているが、これも当時としては新しい学説だったという。それまではワニやトカゲのような変温動物とする考え方もあったのだ。代謝率の大きい恒温動物だからこそ、長時間走り続けたり、活動的に動きまわることができたと考えられている。

もし恐竜が変温動物だったら、もう少し地味な映画になっていたかもしれない

もし恐竜が変温動物だったら、もう少し地味な映画になっていたかもしれない

 

「気になる描写は他にもいろいろとあるのですが、そもそも恐竜の姿や生態は科学的に確かな証拠があること以外は仮説に過ぎませんから、作り手の裁量で補う余地が大きい題材なんです。たとえば恐竜の皮膚の色や鳴き声などは、科学的にある程度の推測はできるものの、実際に確認することはできないので、映画でどんなふうに表現しても嘘にはなりません。そんな中でどの仮説を採用するのか、あるいはフィクションとして大胆に演出してしまうのかというところも見所ですね」

 

科学的な研究成果を踏まえつつ、最終的にはクリエイターの自由な想像力で作られたもの。そう割り切った上で、映画の中の間違い探しを楽しんでみるのもいいかもしれない。

恐竜を蘇らせることは可能か?

次は誰もが気になる疑問について聞いてみたい。映画では中生代の琥珀(化石化した天然樹脂)の中に閉じ込められた蚊から恐竜の遺伝子を取り出し、クローン技術で恐竜を再生させていたが、実際にそんなことは可能なのだろうか? 

 

「近年は恐竜の化石から骨格だけでなくタンパク質が見つかったり、琥珀の中から恐竜の尻尾が見つかったこともあります。しかし、タンパク質の構造が残っていたとしても、何千万年も前の遺伝子は壊れてしまっているため、現在の技術では恐竜の遺伝情報を復元することは不可能ですね。ただし、科学技術が進めば可能性はゼロではないと思います。

 

それとは別のアプローチで恐竜の再生に挑戦した例もあります。それは、鳥を先祖返りさせるという方法。ニワトリの遺伝子を操作することで、恐竜に近い形質を復元しようとするものです。こうした研究は進化の過程を知るのには役立ちますが、本物の恐竜の遺伝子情報がわからない限りは、恐竜そのものを復活させる研究とは言えないでしょうね」

 

そんな発想があったとは! それではもし仮に、どうにかして未来の技術で恐竜が蘇ったとすると、柴田先生はどんなパークに行ってみたいですか?

 

「恐竜が蘇ってしまったら我々の仕事がなくなってしまうので、それは勘弁してほしいですが(笑)、私が研究している福井の恐竜を実際に見てみたいですね。福井の恐竜は1億2000万年ほど前、アジアで恐竜が多様化した時期のものです。その後、アジアの恐竜が北米に渡って、ティラノサウルスやトリケラトプスといったお馴染みの恐竜に進化したんです。福井で発見された5種類の恐竜は、見た目こそ派手ではありませんが、恐竜の進化の過程を解き明かす上ではとても重要な存在なんですよ」

ジュラシック・パークを体感したいなら、恐竜王国・福井に足を運んでみよう。福井駅前にある、柴田先生も発見に携わった「フクイティタン」のロボット。「実際にはこんなに首は上がらなかったはずですが、大きく見せるための『演出』です(笑)」

ジュラシック・パークを体感したいなら、恐竜王国・福井に足を運んでみよう。福井駅前にある、柴田先生も発見に携わった「フクイティタン」のロボット。「実際にはこんなに首は上がらなかったはずですが、大きく見せるための『演出』です(笑)」

ロマン溢れる古生物学の魅力

映像やセリフのあちこちに恐竜研究の成果がちりばめられた『ジュラシック・パーク』。実際に映画をきっかけにして古生物学の道に進んだという人も多いのではないだろうか。

 

「世界的な恐竜研究者の中にも、ゴジラに影響を受けたという人は何人かいらっしゃいますね。これからの若い研究者ならば『ジュラシック・パーク』に影響を受けているかもしれません。恐竜だけではなく、古生物学者という職業についても描かれていますしね。発掘には予算が必要なので、スポンサーの頼みをしぶしぶ受けてしまうという設定もリアルだと思いました(笑)」

 

そんなところまでリアルだったとは……! では、古生物学を研究することの魅力はどんなところにあるのだろう?

 

「古生物学というのは、ひとつひとつ確実な証拠を積み重ねて仮説を立てていく探偵のような仕事です。生きている恐竜を見ることができないので、今日お話ししたことも大部分は仮説にすぎません。新たな証拠が見つかれば仮説は簡単に覆ってしまうこともあり、そんな大発見に立ち会えるかもしれないところが魅力のひとつです。

 

もうひとつは、現場で化石や地質を見るだけで、何千万年、何億年前の環境や生物を頭の中で思い描けてしまうことですね。他の研究者と地層を見ながら『ここは川がこう流れて、こんな植物があって……』と議論できるのはとても楽しいです」

 

古生物学者には地層が『ジュラシック・パーク』に見えているのか! 羨ましい……。

内モンゴルの発掘現場で、プロトケラトプスの頭骨を持つ柴田先生。

内モンゴルの発掘現場で、プロトケラトプスの頭骨を持つ柴田先生。

最先端の映画は、科学の進歩を記すマイルストーン

仮説が日々塗り替えられていく古生物学の世界。30年前に当時の最先端を描いた『ジュラシック・パーク』は、そこから現代の恐竜研究がどれだけ進歩したかというマイルストーンとして見ることができるわけだ。

 

最後に、先生にとっての『ジュラシック・パーク』の楽しみ方とは?

 

「頭の中で描いていた恐竜の姿を映像で再確認することは、研究者にとっても良い刺激になります。ですが、研究に役立てようと思いながら観ているわけでもありません。この描写はあの学説をもとにしているな、とか、この登場人物はあの研究者をモデルにしているな、とか、今回はどんな恐竜が出てくるのかな、とか、現在の学説と食い違うところも含めてそんな見方で楽しんでいますね。古生物学を学べば、『ジュラシック・パーク』に限らず、それより古い恐竜映画ももっともっと楽しく観れるようになりますよ」

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