現存する世界最古の舞台芸術と言われる能楽。ユネスコ無形文化遺産にも登録されている、日本が世界に誇る伝統芸能です。とはいえ、日本に住んでいても、一度も能楽堂に足を運んだことがない人も多いのではないでしょうか。
筆者も実はその一人。歌舞伎は何度か観たことがありますが、能はちょっと敷居が高いイメージがあります。昨年放送されていた、能楽師の一家を描いたテレビドラマがきっかけで、能に興味が湧き始めたのですが、実際に観に行くのはまだ少しハードルが……。今回、東洋学園大学の公開講座テーマで能を取り上げると聞き、能を知るための初めの一歩として参加してみることにしました。
リベラルアーツを学ぶ、連続公開講座がスタート
今回参加したのは、学問領域にとらわれない幅広い教養(リベラルアーツ)を学ぶ東洋学園大学の公開講座。2022年度はSDGsをテーマに、キャンパスでの対面講座とオンラインでのライブ配信とのハイブリッド形式で、全7回にわたって開催されます。筆者は、「今こそ必要な芸術文化の心~日本人の忘れ物」と題して2022年4月30日に開催された第1回の講座を、オンラインで聴講しました。
登壇者は、シテ方宝生流能楽師の辰巳満次郎さん。能楽初心者の筆者にとっては、能楽師の方のお話は難しく感じてしまうかも……と少し心配していましたが、辰巳さんの親しみやすく軽妙な語り口に、あっという間に引き込まれていきました。
観る人の想像力にゆだねる、引き算の美学
辰巳さんの肩書にあるシテ方とは主役の意味だそう。ただ「現代のシテ方は、キャストと裏方を兼ねた役割です」と辰巳さん。まず初めに辰巳さんは、能楽の歴史について解説してくれました。能と言えば、歴史の授業で習った観阿弥・世阿弥を思い浮かべますが、能楽はもっと前の時代から行われてきたと辰巳さんは話します。
「能を大成させたのが観阿弥・世阿弥親子。そのため、彼らが活躍した時代から数えて『能の歴史は約600年』と紹介されることがありますが、私から言わせるとちょっと違う。能楽は今から1400年近く前、聖徳太子が側近の秦河勝に作らせたのが始まりだと伝えられています。記録としては、1250年ほど前、奈良・興福寺の創建の頃、修二会の儀式として行われたという記述が残っています」
600年前の室町時代から続いているというだけでも十分に長い歴史だと思っていましたが、実は倍以上の歴史があったと聞いて驚きます。
能舞台の写真をスライドで見せながら、辰巳さんは解説を続けます。
「能舞台は、場所・時・次元を創造する空間。ご覧の通り、舞台の上には何もない。セットというものが基本的にないんですね。何もないからこそ、観ている人が想像して作り出す。そのために余計なものを作らない。そういう引き算の考え方が特徴です」
能楽作品『葵上』の一場面。タイトルになっている葵上は一切登場せず、病で臥せっている様子を一枚の装束を舞台上に置くことで表現している
能の演者には、シテ(主役)、ワキ(脇役)、アイ(間狂言)の役割があり、登場人物は主に3~6名。音楽も笛・小鼓(こづつみ)・大鼓(おおづつみ)・太鼓の4名のみで演奏されるのだとか。人数の少なさからも、引き算の美学が伝わってきます。
さらに、「能には当時の最先端の技術が取り入れられていた」と辰巳さんは説明します。
「能舞台は建物の中にあるのに、わざわざ屋根がある。なぜ屋根が必要かというと、音響のためです。いわば、世界一古い反響板ですね。客席のどこにいても音が同時に届くように、屋根の角度がすべて計算されています。さらに、舞台の前に白洲(しらす)という玉砂利が敷き詰められた縁があります。これはいわば、世界一古い照明技術。玉砂利に太陽光が反射して、舞台の中を照らしているんです」
このような技術が駆使されていることから、「能楽は、最も古くて最もアバンギャルド」と評する辰巳さん。「技術面だけでなく、観る人の想像力にゆだねるという表現も含めて、アバンギャルド=前衛的な演劇だと思います。それが能の面白さであり、日本らしさでもある」と楽しそうに話します。
能の所作を実演&一緒に体験!
能の歴史や能ならではの表現方法について、30分ほどお話されたところで、辰巳さんの息子であり能楽師である辰巳和磨さんも壇上に登場。ここからは、辰巳さんの解説のもと、和磨さんが能の所作の実演を見せてくださいます。
まずは「構え(静止した状態)」と「運び(すり足)」を実演。能楽師の美しい姿勢や所作に思わず目を奪われます。
すり足を実演する辰巳和磨さん。足の裏を床につけ、かかとを上げずに歩く
続いて、能の喜怒哀楽を実演。たとえば、「クモラス」という下を向く所作で、悲しみを表現します。さらにもっと悲しい表現、泣いていることを表す所作は「シオリ」といって、左手で目を覆うようにして、涙を押さえる動きをします。
「シオリ」の動き。「ゆっくり泣くことによって、深い悲しみを表します。悲しければ悲しいほど、動作はゆっくりと」と辰巳さん
ここで、「皆さん一緒にやりましょう。その場でお立ちください」と促す辰巳さん。筆者もパソコンの前で立ち上がって、会場の皆さんと一緒に「シオリ」の動きにチャレンジしてみました。単純な動きのように見えますが、真似をしてみてもなかなか能楽師と同じようにならないもの。「手のポジションや向きが大事です。熱を測っているみたいな人もいますし、昨日飲みすぎたみたいな人もいますね」とおどける辰巳さんの言葉に思わず笑ってしまいます。
体験してみて特に面白かったのは、辰巳さんによる立ち方のアドバイス。「足は親指、手は小指に力を入れてください。そうすると、肩の力が抜けて安定します」という言葉を聞いて意識してみると、それだけで体の安定感が変わるのがわかります。特に手の小指を意識すると、肩の力がすっと抜けるのが実感できました。この立ち方のコツは、スポーツや武道、ダンスのほか、電車でつり革を持つ時など普段の生活の中でも役立つそうです。
他にも、泣く所作である「シオリ」よりも絶望的な悲しみを表す「両手(もろて)シオリ」や、怒りを表す「拍子を踏む」「面を切る」といった所作の実演を見せていただき、能のさまざまな感情表現を楽しく学ぶことができました。
能面の実物を見せながら解説してくれる一幕も。今回持参してくださった「しかみ」の面は、生まれながらの鬼を表したもので、約900年前のものだとか
能楽とSDGsの関係とは?
実演タイムの後は「能の中に残る日本人の忘れ物」と題して、「おしまい」「千秋楽」など、能の用語が語源となった言葉を紹介。さらに、今回の連続講座のテーマであるSDGsと能との関わりについても、辰巳さんの考えをお話してくださいました。
SDGsの目標4「質の高い教育をみんなに」について、「能の引き算の美学を通じて、想像力、あるいは創造力を養うことができる。足し算されたものばかりに囲まれて、想像・創造する力を使わなくなってしまうのは非常によろしくない。そういった面で、能は質の高い教育に寄与できると思います」とお話されていたのが印象的でした。
そして講座の最後には、辰巳さんが自ら、能の演目「杜若(かきつばた)」の一場面を会場で実演。辰巳さんによる謡が始まると、会場の空気が一変し、心地よい緊張感に包まれていくのが画面越しにも感じられました。
伊勢物語を題材とした恋物語「杜若」を実演する辰巳さん
「杜若の精が花にたわむれて美しく舞い、夜が明けると消え去っていく。その様子を引き算でやりますから、皆さんが足し算をして想像してくださいね」という辰巳さんの言葉を手がかりに、想像力を膨らませていくのはとても楽しい体験でした。
質疑応答の時間には、「能の流派の違いを教えてください」「能楽師の家に生まれたら、必ず継ぐ運命なのでしょうか」「能のゆっくりした動きは体に負担がかかると思いますが、普段は食事や運動などどんなことに気を付けていますか」といった興味深い質問が寄せられ、辰巳さんが一つひとつ丁寧に回答していました。チャット画面にも質問や感想が次々と書き込まれていて、参加者の皆さんが楽しみながら学んでいる姿が伝わってきました。筆者自身も、見て聞いて体験して、能を身近に感じることができた豊かで楽しいひとときでした。