テングザル…と聞いてハッとするひとは少ないでしょう。温泉に浸かったり、観光客を威嚇したりするニホンザルなどは時折メディアにも登場します。でもそこに「テングザル」の姿を見た人はいないでしょう。それもそのはず、野生のテングザルはボルネオ島にしか生息していないからです。ボルネオ島は、インドネシア・マレーシア・ブルネイの3カ国の領土がある、世界で3番目に大きい島。講師を務めた松田一希先生(京都大学野生動物研究センター教授)は、その巨大な島でテングザルの現地調査を約20年行っています。
旅好き、自然好き、動物好きな筆者としては、松田先生のフィールドワークはとても魅力的で、テーマを眺めているだけで旅に出たくなります。そんな気持ちを胸に秘めながら、実際に学部生時代から現地に赴き、気候も文化も違う島で野生動物を追い求め続けている研究者の実際に迫ってみたいと思い、2024年10月に開催された京都大学丸の内セミナー講座「ボルネオ島でテングザル研究-フィールド研究の魅力と可能性-」を視聴してみました。では、テングザルの島へ行ってみましょう。
よくわからないまま向かったコロンビアで発揮した“運”
特定の動物や昆虫の研究者と聞けば、やっぱり子供の頃から虫取り網を片手に山野を駆け回り、ムシを捕まえては図鑑で調べていたんだろうなぁと想像してしまいます。だから松田先生も昔からサルが好きでサルの魅力に取り憑かれ、気づいてみれば、テングザルを追いかけ、思えば遠くに来たもんだシミジミ……と筆者は勝手に想像していました(スイマセン)。しかし現実は大きく異なるようです。松田先生曰く、
「(大学生のときは)化学、セラミックスをつくる無機化学の研究をしていました」
エエッ!!大きく違う意味で ”化け学”!!
松田先生が学部生時代に所属したゼミは、毎朝8時半には研究室に来て、自分の名札を裏返さなくてはならないという厳格な環境でした。4年生になって(しょうがなく)規則正しい学生生活を送り始めたら、コロンビアでクモザルの研究をしている隣の研究室の西邨顕達(にしむら あきさと)先生によく会うようになりました。あるとき、西邨先生は松田先生に「キミ、(コロンビア)行ってみない?」と声をかけます。
「まだ大学の4年生で、生物学も知らない、よくわからないままコロンビアに行った」
と松田先生。これが大きなきっかけになったようです。
当時4年生だった松田先生にとってコロンビアは異世界。「こんな動物見たことない!こんな植物見たことない!」とさまざまな衝撃を受けつつも、動植物を含むフィールド研究に惹かれていったとのこと。それに加えて松田先生は、一人で森を歩いていると、時期的に遭遇するのが困難なクモザルに1~2週間程度、ほぼ毎日出会ってしまいます。その事実が西邨先生には驚きだったようで、
西邨先生「キミには動物運がある!!才能がある!!」
松田先生「そうか!そうだったのか!!」
ということで、化学から一転、サルの研究者になるために大学院へ進学されたとのことです。いやはや、先述した僕の勝手な想像などコナミジンですよ。サルが仲介したのか人が仲介したのか、その両方か。もはや人知では語り尽くせぬ世界かもしれません。
テングザルとの出会いとボルネオ島コミュニティ
ただ、当時のコロンビアは政治情勢が悪く、長期間のフィールド研究が難しい状況でした。そんな中、松田先生は、偶然見たテレビ番組で別のサルに出会います。それがテングザルだったというわけです。しかもテレビの説明では、
テレビ 「テングザルの生態は未だに謎に包まれています」
松田先生「いやいや、俺には動物運がある!!」
選ばれし者である松田先生は、北海道大学の博士課程に進学。謎多きテングザルは先行研究がほとんどなかったようですが、その逆境に対して松田先生は、
「当時は英語が得意じゃなかった、だから、できるだけ英文の論文は読みたくなかった」
と前向きに捉え、さらに先行研究が少ないから好きなテーマで取り組めると考えられたようです。そんな流れで、松田先生は「限りなく0に近い1から研究をつくり上げる!」と意気込み、2005年にボルネオ島の東海岸に上陸しました。
松田先生のフィールド、ボルネオ島
現地NGOのサポートにより手に入れたボロボロの家屋にて、雨水を飲料水化し、川でエビを獲り、シャワーの代わりに川で水浴び、食料などは週に1回開かれる市場で調達、渡航後2年間は大嫌いだったドリアンも3年後には大好物となり、松田先生は着実にボルネオ島というフィールドの生活者になっていったそうです。
とはいえ、他国・他地域で何かを研究するということは、そこに住む人々との人間関係も疎かにはできないようです。コミュニケーションに必要なのは言語ですが、渡航当初の松田先生、マレーシア語は話せなかったものの、現地の人たちに英語を話す人が多いことが幸いだったと説明されました。さらに、コミュニティにはご近所さんだけでなく、その地域のボスみたいな権力者がいることも多く、日本から来たというと、居住と調査を円滑に進めさせてもらう代わりに何かを求められるというのもあったようです。当初は松田先生も戸惑いがあり、
「対価としてモノを渡したり地域の催しに参加したりするなんて無駄なことじゃないか?」
と疑問に思っていた頃もあったようです。しかし、松田先生はその都度の要請に半ば疑心をもちながらも丁寧に対応したこともあって、調査研究で何か問題が生じたときも地域ぐるみで手助けを受け、解決してもらったとのこと。
結婚式など村のさまざまな行事に参加。「多様な人との出会い、交流がフィールド開拓・研究の本質的なおもしろさ」と松田先生
20年間、フィールド研究の基盤を維持していることも成果となっている
「後になって、ああいった贈与やコミュニティへの参加こそが大事だったと気づかされました。最近は『コスパ』という用語が流行って、効率みたいなことばかりが強調されますが、長い目で見てどうなのか?目先のことばかり考えてちゃだめだなと」
明らかになるテングザルの生態
フィールド研究や生活の基盤を整え、松田先生はまずテングザルがいったいどのように1日を過ごし、何を食べているのかを通年調査していきました。テングザルは非常にぬかるんでいる場所を好むことはわかっていたので、川沿いを重点的に探されたようです。
奨学金で得たボートを用いて調査した
川沿いの木の上で夕方から翌早朝まで眠ることがわかったので、ボートさえあれば日暮れ時には結構な確率で見ることはできたといいます。彼らが川沿いを好む理由は、捕食者を回避するため。森の中でも木の上なら安全じゃないの?とも思ってしまいますが、森にはウンピョウという木登りがやたら上手な猛獣がいるとのこと。テングザルたちは、すぐ川へ逃げられる木々で休息することにより、とても入念に意味のある背水の陣を布いているわけです。
問題は、日が昇ってテングザルたちが森の中に姿を消してからでした。少ない先行研究では川沿いの木の上で眠るテングザルを観察しているものがほとんど。しかし松田先生は、“その後”を知りたいので、ワニ、毒ヘビ、ウンピョウなど危険生物に注意しつつ実際に森の中に足を踏み入れ、ぬかるんだ道を歩き、サルたちを追跡しました。
追跡調査はなんと3500時間に及び、その結果、テングザルは1日の約8割を休息に費やしていることがわかってきました。オランウータンと比較すると、彼らの休息は約5割なので、テングザルのほうがよく休息をとるようです。ちなみにテングザルよりはちょっとだけ活動的なオランウータンですが、休む以外には何をしているのかと言うと「食べて」いるそうです。
オランウータン、テングザル、ヒト(松田先生)の1日の活動量を円グラフ化して比べた結果、その差は歴然。先生は言います。「人間が働き過ぎ」
オランウータンの主食は「果物」ですが、テングザルは主に「葉」(ときには果物も)を食べているようです。「動物が、何を、どうやって、どこで食べているのかを知ることによって、彼らの行動パターンが見えてくる」と松田先生。「葉」は「果物」に比べて森の中で見つけやすいので、テングザルの移動距離は長くないということが推察できるようです。
松田先生はここから「動物と植物の関係」もわかってくるといいます。最も大切なことは、
----------------------------------------
① 植物を食べる
② 排泄する
③ 排泄物の中に混ざった種から芽が出る
④ 植物が育つ
⑤ ①に戻る
----------------------------------------
といった森を持続的に形成していく連鎖の関係。「絶滅危惧種であるテングザルやオランウータンなどの大きな動物がいなくなってしまうと、やがては果物の種が運ばれなくなった末に、次第に植物が減少し、いずれは動物も絶滅してしまう」
遠目からは森があるように見えても、そこに足を踏み入れて細かく観察すると、「果物」を実らせる植物がない…、さらに耳目を澄ませば、大型動物の存在も確認できない…、かつては存在した「森の動植物が織りなす多様性」がなくなってしまっている。こういった「森林の空洞化現象」は松田先生のフィールドなどでも実際に起き始めているそうです。
「知る」ことから世界の見方は変わる
現在、松田先生は他分野のさまざまな研究者・研究機関と共同研究をしているといいます。例えば遺伝子研究、社会構造の研究など領域横断的なものです。グローバルな拡がりの基盤になったものこそが、現地に実際に身を置いて、たった1種のサルを追いかけ、データを集積するというフィールドワークであったという松田先生のご指摘は説得力のあるものでした。
最後に松田先生が指摘したのは、絶滅危惧種であるテングザルやオランウータンを取り巻く環境破壊について。なかでも重大な懸念事項のひとつが、生息地である森林の減少です。ボルネオ島でも、油(パーム油)を採取するためのアブラヤシの大規模栽培がおこなわれ、彼らの生息地である森林はどんどん減っているのが事実。「対岸の火事?」そうではないようです。アブラヤシから製造されるパーム油は、例えば加工食品、洗剤、化粧品など日本に住む私たちの生活にも深く関係しています。
緑が広がっているように見えるが、実はプランテーションになっている場所も多い
松田先生は指摘します。「一番大事なことは、我々と関係ない話ではない、ということを知ることから」
そんな中で私たちにできることは、現状を知って、できる範囲で行動を起こすことだと松田先生は指摘します。例えばパーム油が含まれている製品について知ること、パーム油を用いた製品には、持続可能な採取と製造方法を採用していることを消費者に知らせるための「RSPO」(持続可能なパーム油のための円卓会議)認証マークが小さくも表示されていること、その表示の有無を購入の基準にしてみること、それら正しい情報を身近な人に伝えることなど…。
松田先生のお話を聞きながら、テングザルを取り巻く環境問題を自分たちの日常に引き付けることは窮屈なことでもなんでもないと筆者は感じました。だって、それを知ったときから、ボルネオ島に流れる川が自分の中を流れ、木々の上にはテングザルがいてこちらを見ている、そんな世界とつながる自分を感じさせてくれる、そんな気がしたからです。