突然ですが、「文学と演劇」と聞いてピンとくる人はどれぐらいいるでしょうか。筆者は、正直ポカーン…。しかし! にわか演劇ファンというなんとも浅~い動機で果敢にも向かった先は、早稲田大学演劇博物館(通称 エンパク)で開催されている特別展「文豪×演劇―エンパクコレクションにみる近代文学と演劇の世界」です。鑑賞にあたり心もとない筆者を前に、本展示を企画された赤井紀美先生(現 東北大学大学院文学研究科 准教授)とエンパクで広報を担当する前田武さん、学芸員の佐久間慧さんが特別にガイドしてくれました。
異なる芸術世界に出会うきっかけに
アジアで唯一、そして世界でもトップレベルの演劇専門総合博物館であるエンパク。古今東西の貴重な演劇資料が100万点以上所蔵されており、本展示では、「文豪×演劇―エンパクコレクションにみる近代文学と演劇の世界」というテーマのもと、所蔵資料が公開されています。
鑑賞を前に、赤井先生にこのテーマが生まれた背景を伺いました。
「私は幕末から近現代の文学と演劇を専門に研究しています。エンパク創設者であり、近代文学の成立と近代演劇の発展に大きく貢献し、文学と演劇という異なるジャンルの芸術をつなぐ存在となった坪内逍遙の功績とともに、その他の文学と演劇の関わりについても紹介したいと考えたのが発端です」
異なるジャンルの芸術ととらえられているこの2つですが、例えば、中世の能は源氏物語が舞台化されたものだそうで、その後は反対に、演劇である能がテキスト化されて文学として読まれるようになるなど古くから深い関係にあったそうです。
「“文学離れ”といわれる昨今ですが、スマホなどで小説を読む若い人も多く、一方で『テニスの王子様』に代表される2.5次元舞台や宝塚などで演劇を楽しむ人もたくさんいます。本展示で文学と演劇の多岐にわたる関わりや交流を紹介することで、それぞれのファンがもう一方の芸術に興味を持つきっかけになれたらという思いもありました」と赤井先生。
続いて、「異なるジャンルの芸術に触れることで、それぞれの世界が一層豊かに体験できるのはないかと思います」と前田さん。さらに、「このテーマによってエンパク所蔵の資料を新たな切り口で紹介することが叶いました。なかなかお目にかかれない貴重な資料もお披露目しているので注目してください」と学芸員の佐久間さん。
2つの芸術の関りや交流とはいかに――展示に足を進めます。
写真左から、佐久間慧さん、赤井紀美先生、前田武さん
近代文学と演劇のパイオニア、逍遙先生は偉大です!
展示室は、「第1章_坪内逍遙からはじまる近代文学と演劇の世界」「第2章_作家が愛した芸能・演劇」「第3章_演劇化された文学作品」「第4章_作家が手掛けた舞台」の4ブースに分かれており、各章に付随する形で多種多様な資料が展示されています。
順に鑑賞していくことにして、まずは第1章ブースから。中央には明治時代に坪内逍遙が25歳にして発表した体系的な文学理論『小説神髄』が展示されていました。逍遙はその後、理論の実践として小説『当世書生気質』も書いていますが、なぜこれらが近代文学の成立において重要なのか。
「逍遙は西洋にならって芸術としての小説の価値を訴え、また江戸時代までの勧善懲悪の文学とは異なる、『人間の心理を描写し、もっとリアルな小説を書くべきだ』と提唱しました。また文体もそれまでとは異なるものを目指すべきと述べています。この逍遙の理念に賛同し、また逍遙からアドバイスを受けた二葉亭四迷が新しい文体である言文一致体の小説『浮雲』を書きました。逍遙が新しい文学の方向を決定づけ、これを機に日本の近代文学が花開いたんです」と赤井先生は話します。
その後、シェイクスピアと近松門左衛門の研究に精力を傾けていた坪内逍遙は、当時、歌舞伎が中心だった日本の演劇に改革を起こします。歌舞伎における新たな史劇の創出をめざした戯曲「桐一葉(きりひとは)」「沓手鳥孤城落月(ほととぎすこじょうのらくげつ)」などを執筆し演劇界にも新しい風を吹き込むとともに、明治時代末には、西洋の近代劇、いわゆる現代における演劇を本格的に日本に移入したといいます。
なるほど、今、筆者たちが当たり前に楽しむ小説や演劇は坪内逍遙なくしては生まれなかったかもしれない――そう考えると、坪内逍遙先生、偉大なり!
第1章ブース。坪内逍遙が訳した『新修シェークスピヤ全集』(中央公論社)の予約募集のボスターの掲出も。その他、逍遙作の演劇作品の舞台装置図なども展示されている
素顔が垣間見える!? 文豪たちの推し活
「作家が愛した芸能演劇」という切り口で展開される第2章ブース。文豪たちにとって歌舞伎や人形浄瑠璃をはじめとする演劇や芸能は当時身近な存在であり、流行り物として作家が自作に取り入れるなど文学と演劇の交流が図られたそうで、多様な資料によってその軌跡が残っています。筆者的注目は、そうした交流の一環で、名だたる文豪たちが芸能演劇を通じて、絶賛推し活をしていたという事実。文豪たちからすると、現代におけるアーティストや俳優、ユーチューバーなどの“推し”に当たるのは、当時の芸能人や演劇人だったといいます。例えば、明治20年代に絶大なる人気を誇ったのが娘義太夫(むすめぎだゆう)。義太夫とは三味線を伴奏に物語を語る浄瑠璃の流派の一つで、義太夫を語る14、15歳の若い女の子が娘義太夫と呼ばれ、当時のアイドル的存在だったそう。
「なかでも人気だったのが『娘義太夫ポスター』の竹本綾之助で、元祖アイドルともいえるかもしれません。一生懸命、義太夫を語る綾之助の口演が佳境に入ると『どうする、どうする』と声が掛けられ、そうした熱狂的なファン集団は『どうする連』と呼ばれていました。当時からいわゆるオタ芸が繰り広げられていたんです」と赤井先生。『吾輩は猫である』などで有名な夏目漱石も娘義太夫に関心を持っており、『三四郎』などの作品に娘義太夫についての記述があります。
一方、小説の神様と呼ばれる志賀直哉は、豊竹昇之助という娘義太夫にすっかり魅せられ、熱心に寄席に通い詰めたそう。
「ドイツ語で最高という意味に近い『アウフヘーベン』をという言葉を略し、昇之助を『アウフ♡♡♡』と呼び推しまくっていた様子が日記に綴られているんです。寄席やその他芸能にも精通していたことから、『今日はちょっと声が伸びていなかった』『あの演目は彼女には合っていなかった』など冷静で的確な芸評も残しています(笑)」と赤井先生。
娘義太夫ポスター。元祖アイドル(!?)竹本綾之助の「乍憚口上(はばかりながらこうじょう)」の様子。綾之助は男装しておりその様にファンは萌え炸裂(!?)だったとか
この他、映画関係の資料として、小説家として人気の高い谷崎潤一郎と、『春琴抄』など谷崎の小説が原作の映画で主演を務めた京マチ子と密にやり取りした書簡が展示されていました。超要約すると、「(谷崎)連載のエッセイに、今日あなたのことを書いたよ♡」「(京)先生、自筆のお手紙嬉しゅうございます。先生のエッセイ読んでます♡(谷崎を嬉しがらせる)」「(谷崎)うそー、読んでいてくれて嬉しいっ(ウキウキ)」という内容らしく、なんとも高揚感のある書簡が行き来していたようです。かの谷崎潤一郎も“推し”には弱かったということか。
京マチ子宛谷崎純一郎書簡(京マチ子からの礼状への返事)。直筆から谷崎の当時の温度感が伝わるよう
続く「第3章_演劇化された文学作品」ブースでは、明治以降に小説が舞台化され、さらに新たな作品が生み出されていった様相が演劇ポスターや台本、舞台装置図、衣装などによって紹介されています。また「第4章_作家が手掛けた舞台」では、大正時代に入り菊池寛や山本有三、戦後には三島由紀夫や安部公房などが戯曲を執筆し、彼らが手掛けた舞台のポスターなどが鮮やかに公開されていました。作家として知られる人々がこんなにも演劇の世界と密接に関係していたとは、その事実を知るだけでもおもしろいです。
作家たちが手掛けた舞台のポスター
ファンが絶えない「文豪とアルケミスト」タイアップ企画
現在、舞台化もされるほどの人気を誇るブラウザゲーム「文豪とアルケミスト」。本展示では、2Fの企画展示室Ⅱで「附章_坪内逍遙と文豪達」と題して「文豪とアルケミスト」とのタイアップ企画が展開されており、登場する文豪(キャラクター)たちと坪内逍遙の等身大パネルが展示されています。また、この他に、逍遙の自画像や 手書きノートブック、愛用したロシア帽など逍遙ゆかりの品々も紹介されています。
「文豪とアルケミスト」のキャラクター坪内逍遥と、実際の坪内逍遙が並んでいます。なかなかシュール
「開始当初から多数の『文豪とアルケミスト』ファンの方に訪れていただています。勉強熱心なファンの方が多いゲームということもあり、資料をじっくりご覧になっている方がたくさんいらっしゃる印象です。ゲームファンという入口でも構わない。来てみたら思いがけない出会いがあるかもしれませんし、そうした出会いによって知識や視野が広がっていったら嬉しいですね」と赤井先生。
筆者的に、まさに赤井先生の言葉を体感した本展示。推し活していた事実然り、高尚なイメージのある文豪たちの新たな側面との出会いは、新しい視点をもつきっかけをもたらしてくれたような気がします。
特別展は8月4日(日)までの開催です。ぜひこの記事も参考に足を運んでみてください。