昨年10月以降、パレスチナ・ガザ地区ではイスラエル軍による侵攻によって多くの命が奪われ、地区内のほとんどの住民が避難生活を余儀なくされている。ヨルダン川西岸地区でも多くの人々が投獄され、事態が終息する兆しはなかなか見えないばかりか、長引けば長引くほど人々の置かれた状況は悪化してゆくばかりだ。
パレスチナの人々の苦しみは昨年いきなり始まったわけではない。イギリスによる委任統治期にパレスチナへのユダヤ人の入植が急増し、1948年にイスラエルが建国された。以来、80年近くに渡る占領・植民政策下で、人々は生命と自由を脅かされ続けている。
そんな現実をパレスチナからビートに乗せて世界に発信しているのが、パレスチナ人ラッパーたちだ。かれらはどんな現実を生き、どんな声を発しているのだろうか。パレスチナのラップミュージックを研究する山本薫先生(慶應義塾大学)にお話を伺った。
(冒頭の画像はイスラエルの都市ハイファでのDAMのコンサートの模様。提供:山本薫先生)
アラブの民衆を動かす抵抗文化としてのラップミュージック
まずはこの曲を聴いていただきたい。パレスチナ・ラップを代表するラップグループ、DAMの代表曲「Who’s The Terrorist」だ。
「誰がテロリストだ? 俺がテロリスト? 自分の国に住んでるだけだぜ 誰がテロリストだ? お前がテロリストだ 俺は自分の国に住んでるだけだぜ」(和訳:山本薫先生。以下同様)とアラビア語で繰り返すフレーズによって、「イスラエルの支配体制に抗うアラブ人=テロリスト」とみなされる理不尽への抗議の意思がストレートに表現されている。昨年10月以来の状況を思い浮かべる方もいるかもしれないが、DAMがイスラエルでこの曲を発表して世界の注目を集めたのは2001年のこと。その前年の2000年にパレスチナで起きた民衆一斉蜂起(第二次インティファーダ)に触発されてできた曲だという。
DAMは山本先生が最も注目するラッパー/ラップグループのひとつだ。
映画や音楽といったポップカルチャーを通じて学生たちにアラブ文化を教え、パレスチナ問題にも関心を寄せてきた山本先生がパレスチナ・ラップに興味を持ったきっかけは、一本の映画との出会いだったそうだ。
「パレスチナのラッパーたちを追った『Slingshot Hip Hop』(2008年、アメリカ)という映画を知人に教えてもらったんです。ぜひとも観てみたいと思い、パレスチナ系アメリカ人であるジャッキー・リーム・サッローム監督を日本に招いて上映会を行いました。これが大きな反響を呼んで、2013年には『自由と壁とヒップホップ』という邦題で劇場公開されました。あわせて映画の中心的存在であるDAMの来日公演も実現し、その後もパレスチナのラッパーと交流を持ちながらパレスチナ・ラップを日本に紹介する活動を続けています」
YouTubeで公開されている『自由と壁とヒップホップ』のダイジェスト版には、DAMの来日公演の様子も収められている。こうして現在進行系のパレスチナ・ラップと邂逅した山本先生だが、その後、伝統的なアラブ文化とラップとの接点に気付かされる出来事を体験したという。
「2010年代初頭に、アラブ諸国の民主化運動〈アラブの春〉が起こり、民衆の抗議運動によってエジプトのムバーラク大統領が辞任に追い込まれるなど世界に大きな衝撃を与えました。そんな一連の出来事のなかで私が心を惹かれたのは、音楽や詩が社会を動かす役割を果たしていたことです。詩人が壇上に立って民衆を鼓舞したり、若いミュージシャンがそれに曲をつけたものがSNSで拡散されたり……そんなうねりの中にラッパーの姿もありました。調べてみるとエジプトだけでなく、リビアやシリア、その当時アラブの春の動きが及んでいたどこの国でも、若い人たちがラップで意思を表明して、多くの人の心を動かすという現象が起きていました。映画を通して知っていたパレスチナ・ラップと、アラブの抵抗の文化が自分の中でつながった瞬間でした」
山本先生によると、アラブ圏では古くから、詩で自分たちの価値観や歴史を表現することが政治や生活で重要なこととされてきたそうだ。独特の音楽的なリズムを持つアラブ詩は、歌や楽器とともに人々の耳を楽しませてきた大衆文化でもある。人々が権力に対する抗議の意思を込めて詩を読み、歌うことは、こうした伝統の上に成り立つ表現だ。欧米からやってきたラップも、こうした抵抗詩の伝統と接触することで、新しい抵抗の表現として若者を中心に受け入れられたことは想像に難くない。
一様にはくくれない「パレスチナ人」ラッパーたち
ラップミュージックは1970年代アメリカのブラック・コミュニティで生まれた。その源流を踏まえてラップとは何かを考えてみると、社会の辺縁に置かれた人々が自身の属するコミュニティを背負って立ち(いわゆる「レペゼン(represent)」)、そのリアルな感情や直面する問題をビートとリリック(詞)に乗せて表現する音楽、と言うことができるだろう。パレスチナ・ラップの場合は当然、パレスチナ人が自分たちの置かれた状況を歌う音楽、ということになる。けれど山本先生によると、そもそも「パレスチナ人」を一言で言い表すのは簡単ではないという。
「広い意味では、パレスチナはアラブ文化圏と呼ばれる地域の一部です。モロッコからイラクやクウェートまで広範に及ぶこれらの国々は、オスマン帝国の崩壊後、西欧諸国によって分割統治され、後に独立していった歴史を持ちます。各国はアラビア語という共通言語でゆるやかにつながりながらも、それぞれに異なる歴史や文化を育んできました。そのなかでパレスチナが特異なのは、いまだに独立国家をもつことができていないという点です。
パレスチナは第一次大戦後、イギリスの委任統治領となり、ユダヤ人の入植が急増しました。第二次大戦後の1947年には国連がパレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家に分割する決議を採択し、48年にイスラエルが建国されます。それに反発するアラブ諸国との間で起きた第一次中東戦争でイスラエルはさらに領土を拡大し、多くのアラブ人が住処を追われ、難民となりました。その結果、現在パレスチナと呼ばれているヨルダン川西岸地区やガザ地区に追いやられた人々もいれば、他国に逃れた人々もいました。一方、日本ではあまり知られていませんが、イスラエル建国後もさまざまな経緯から、同地に留まって市民権を得たアラブ系の人々もいます。『パレスチナ人』の中には、パレスチナにルーツをもつこうしたすべての人々が含まれうるのです」
先述の『自由と壁とヒップホップ』では、イスラエルとガザ、境遇の異なるパレスチナ人ラッパーたちの交流が描かれている。その監督もまたパレスチナ系のアメリカ人であることを考えれば、国をもたないパレスチナの人々がラップを通してひとつにつながった映画とも言える、と山本先生は語る。
DAM来日時のトークイベント。右端が山本先生、左端の赤いブーツの女性が『自由と壁とヒップホップ』のジャッキー・リーム・サッローム監督。この時はDAMのリーダーのターメルが急病で来日できず、メンバー二人でステージをこなした(提供:山本薫先生)
パレスチナ・ラップの先駆的存在、DAMの葛藤と誇り
そんなパレスチナ・ラップの先駆的存在が、最初に紹介したDAMだ。1990年代末に結成された当初は英語ラップを模倣するようなスタイルだったが、アラブ系イスラエル人である彼らは2000年代からアラビア語を使い、自分たちの置かれた複雑な状況をラップを通じて発信し続けている。DAMの存在は多くの若者に影響を与え、イスラエルで、ガザで、ヨルダン川西岸で、それぞれのリアルを歌うパレスチナ・ラッパーたちが誕生することになる。DAMがラップで訴えるリアルとはどのようなものなのだろう?
「ガザや西岸の人々もイスラエル国内のアラブ系の人々も、それぞれに困難な状況に置かれていますが、実はその困難の質はかなり異なっています。イスラエル国内のパレスチナ人は、ガザのように爆撃で命が危険にさらされたり、西岸のように町中にイスラエル軍がいて理不尽に拘束されたりするわけではありません。しかし、言動がデモの扇動とみなされれば逮捕されますし、職場でアラビア語を話しただけで仕事をクビになることもあるなど、ユダヤ人社会の中で厳しい差別と言論弾圧にさらされています。DAMはそんな差別への抵抗の意思を表明しながら、一方では、命の危険にさらされているガザや西岸の同胞たちと自分たちとでは立場が違うという負い目もリリックにしています。
また、DAMに限らずイスラエル出身のアラブ系の作家やラッパーたちは、いつもふたつのテーマを表現してきたと私は見ています。ひとつは、イスラエル建国前から今日までこの地で生きてきたアラブ人としての自らの存在証明。もうひとつは、パレスチナとイスラエルが共生する未来への願いです。
ユダヤ社会から差別され、西岸やガザの人々との間にも溝がある。イスラエルのパレスチナ人たちは四面楚歌の生を生きていますが、かれらはイスラエルかパレスチナかの二項対立では問題は決して解決しないということもよく知っています。イスラエル国内でアラブ系の人口増加率はユダヤ系を上回っており、全人口の20%に達しています。かれらは何十年も前からイスラエルの入植の歴史を見てきた生き証人であり、イスラエルの体制側から見れば目障りな存在です。かといって、どちらかがどちらかを追い出したり、根絶やしにしたりするなどということも不可能です。ふたつの国がひとつの土地で共生していくしか道はないのです」
DAMのメンバー スヘイルが、かれらのホームタウンであるイスラエル・リッダ市のアラブ人地区を案内しているところ。市当局によってアラブ人市民の家屋がとりこわされた一帯(提供:山本薫先生)
実は、DAMはその活動初期、イスラエルの音楽シーンでの活躍を企図して公用語であるヘブライ語の楽曲を中心に発表していたそうだ。しかし、冒頭でも触れた2000年の第二次インティファーダをきっかけとしてアラビア語楽曲に軸足を移すようになる。かれらの足跡は、アラブ系イスラエル人としての葛藤とパレスチナ人としての誇りを雄弁に物語っているようだ。山本先生が一番好きな楽曲だというDAMの「Stranger in My Own Country」では、アラブの伝統音楽の要素や古典詩をサンプリングしながら、まさにこうした葛藤と誇りが歌われている。
DAMはまた、アラブ社会内部のネガティブな問題、たとえば女性差別やルッキズム、若者に結婚や出産を強く押し付ける風潮に対しても声を上げているという。「イスラエルの支配を批判している自分たちが、アラブ社会の中で同じように差別や抑圧を生んでいるのはおかしいだろう、というとてもシンプルなメッセージです。こうした自省的な視点もパレスチナ・ラップのひとつの特徴だと思います」
DAMの楽曲をいくつか挙げるだけでも、かれらが自分たちの暮らす社会を多層的に捉え、そのなかでの自分たちの役割を見据えていることがわかってきた。
レペゼン・ガザの少年ラッパー、言語を超えて「音楽で生きる」ことの切実さ
一方、イスラエル軍によって封鎖されているガザ地区でも、DAMに影響を受けた世代や欧米のラップに触れた若いラッパーが活躍している。
「ガザや西岸のラッパーが発信する表現は、やはりイスラエルによる占領から一刻も早く開放されて、自由になりたいという願いが大前提にあります。と同時に、これはパレスチナのどの地域のラッパーにも共通していることですが、ユダヤ人という民族やユダヤ教という宗教を否定しているわけではまったくなく、対等な立場で共存したいという願いを表現の中に見て取ることができるということです。憎むべきは戦争、占領、差別であり、それらを許してきた世界のシステムなのだ、とかれらは歌います」
もちろん、メジャーなポップミュージックと比べれば、ラップはアングラなジャンルだ。けれど、ガザのヒップホップライブには文字通り老若男女、ヒジャブで頭を覆った女性から現代的なファッションに身を包んだ若者までさまざまな人で賑わい、ラッパーたちの言葉に共感を寄せているという。
2020年にYouTubeに登場したMCアブドゥルは2008年生まれで当時弱冠11歳。空爆で破壊されたガザの街を背景に、ガザの現状をリリックにした流暢な英語ラップで世界的に有名になった。若きラッパーの堂々たるパフォーマンスをご覧いただきたい。
「パレスチナは占領されてる何十年も ここは僕らのホームだった何百年も
この土地は世代を越え 僕の家族みんなの記憶」(MC Abdul - Palestine)
MCアブドゥルはインターネットで欧米のラップに触れ、独学で英語を習得したというから驚きだ。しかしこれは彼に限ったことではない。とくに外部との人的な交流がほぼ不可能なガザでは、多くの人がインターネットを通じて英語を熱心に学び、世界とつながろうとしているのだそうだ。若者が音楽や英語に打ち込む理由のひとつは、隔離されたガザからいつか外に出ていくためだという。
「かれらにとって『音楽で食っていく』のは切実な願いです。ヒップホップアーティストとして国外から招聘がかかれば、自由な環境のもとで自分の人生を切り拓いてゆけるかもしれないからです。実際、欧米のライブツアーに出演し、そのまま帰国せず、現地での生活を始めるラッパーも多いです。けれど、欧米の音楽シーンで活動を続けていくのも並大抵のことではありません。
著名なラッパーのほとんどが国を出ていくなか、あえてイスラエルやパレスチナにとどまることを選び、現地の人々が置かれた状況を世界に発信し続けるラッパーもいます。DAMもそうですし、ガザ初のラップグループPRのメンバーであるアイマンは、ガザでNGO職員として働いたり、子どもたちにラップを教える学校を作ったりと地域に根ざした活動をしながら音楽活動を続けてきました。もちろん、すでに成功しているかれらだからこそ選べた道といえるかもしれませんが……」
ここで立ち止まっておきたいのだが、パレスチナ問題はもとをたどれば欧州の植民地政策とユダヤ人迫害に端を発しており、現在も欧米諸国が積極的に加担している問題である。パレスチナの若者が英語で楽曲を発表し、欧米社会にフックアップされることではじめて自由を手にすることができるという現状が、そもそも歪なことなのだ。音楽が言語や国境を越えてつなぐものは確かにあるだろう。しかし、つながった先の私たちがパレスチナの現実と向き合うことから逃げてしまえば、かれらのナラティブをただ消費するだけになってしまうのではないだろうか。
ラップと同じく、グラフィティもパレスチナの人々にとって重要な抵抗の手段だ。ヨルダン川西岸地区のアーイダ難民キャンプの前に建てられた分離壁とグラフィティ(提供:山本薫先生)
グラフィティに覆われたベツレヘムの分離壁(提供:山本薫先生)
パレスチナ・ラッパーたちの今
2023年10月以降、イスラエル軍によるガザ地区への攻撃によって何万人もの人が亡くなり、ガザに暮らすほとんどの人が避難を余儀なくされている。もちろんラッパーたちも例外ではない。2024年の今、パレスチナ・ラップはどうなっているのだろう。
「MCアブドゥルは偶然滞在中だった米国から帰国することができなくなり、ガザの家族の無事を願う悲痛な楽曲をYouTubeに投稿をしています。この先、彼がガザに戻れる日が来るのだろうかと考えると胸が痛みます。彼以外のガザのラッパーたちもほとんど国外にいて、残念ながらほとんど発信は途絶えている状況です。ガザに唯一残っていたPRのアイマンは、イスラエル軍の苛烈な攻撃が続く中、半年以上ガザからの発信を続けていましたが、家族を守るために先ごろエジプトのカイロに避難したとの報せを受けました。
イスラエルで活動するDAMは、ついこの間、新曲を発表しました。『くだらねぇ』を連呼し、ここに踏みとどまるか見切りをつけて外に出るか、本当に追い詰められているという心情を、内容とは裏腹に軽いダンスミュージックに乗せて歌う楽曲です。イスラエル国内では昨年10月以降、政権や社会に対して批判が一切できないような状態が続いているようで、これまで積極的に発言していた政治家や人権団体もみんな黙ってしまっています」
口に出すことの許されないメッセージを飲み込み、「くだらねぇ」を連呼しながらDAMは瀬戸際の抵抗を続けている。
パレスチナの人々の息遣いを受け取り、想像力をはたらかせること
最後に、パレスチナ・ラップの紹介を通じて山本先生が伝えたいことについて伺った。
「『パレスチナ問題は複雑だ』と言われがちですが、私はすごくシンプルな問題だと思っています。ある人間集団が別の人間集団を支配して、その権利や自由を奪っているということです。その状態を80年近くも国際社会が議論してきたのに、いまだに解消されていない。これは日本も決して無関係ではなく、世界全体で解決しなければならない問題です。
馴染みのない土地のことだからと敬遠してしまう人がいるのもわかります。だからこそ、音楽や映画を通して、現地に生きている人々の感じていることをダイレクトに感じてみてほしいのです。自分たちと同じ感情を持った人間が、こんな理不尽な思いを何十年も強いられている。しかもその理不尽というのは、矛盾を抱えた世界全体の構造のしわ寄せがパレスチナに集中して起きているものだという、そんなつながりに少しでも思いを馳せていただければ嬉しいです」
パレスチナで、イスラエルで、アメリカで、その他にもあらゆる場所でそれぞれの現実を生きる人々がいる。けれど、生きた人間の上にミサイルや爆弾が降ってくる現実など本当は決してあってはならないのだ。かれらのため、私たち自身のために、今、どんな言葉を差し出すことができるだろうか。マイクは私たちの手にも握られているはずだ。