中国茶の劇的変化
観光人類学、フードツーリズム、中国文化研究を専門とする大阪観光大学観光学部の王静先生は、中国茶についての面白い研究をしている。研究室を訪ねると、机の上には茶壺(ちゃこ)と呼ばれる小ぶりの急須と、茶杯(ちゃはい)というこれも小ぶりの茶碗が用意してあった。王先生は、お茶を飲む習慣が発祥したという四川省出身だ。
「中国茶というと、ウーロン茶やジャスミン茶が思い浮かびますよね。でも、中国大陸で一番飲まれているのは緑茶なんですよ」。
大阪観光大学観光学部 王静講師
高級茶藝師という中国の国家資格も持っているということで、さっそく、高級中国茶として名高い緑茶、西湖龍井(ロンジン)茶を淹れていただく。
西湖龍井茶の茶葉
西湖龍井茶の産地、梅家塢村の入り口
おっ、と思うぐらい香り高く、色は日本の緑茶より黄色がかっている。日本の緑茶とは製法が違い、蒸さないで釜で炒って発酵を止めるため、香りが残り、緑が飛ぶのだという。味はとてもすっきりして、こんなに飲みやすいものなのかと思うほど。何千年という歴史を持ったお茶は違うな、などと思っていると、先生が意外なことを口にした。
「中国茶は歴史や伝統のある文化というようなイメージを持たれているかもしれません。しかし1980年代後半まで、中国の民衆のあいだでは、今日のような淹れ方でお茶を飲んでいませんでした」。
お茶を発見して飲んだのも、栽培したのも古代中国が発祥である。宋の時代には一般市民の間でもお茶を飲むようになり、17~18世紀には世界の市場をほぼ独占。しかし、19~20世紀に入って列強の侵略や世界大戦・日中戦争で茶業は衰退した。1949年には生産量がわずか4万トンしかなく、王先生が生まれた頃にはまだ日常飲料として飲まれていなかったお茶が、現代では隆盛を極め、「国家を代表する伝統文化」となるという劇的な変化。そこにはどのようなプロセスやメカニズムがあったのかに興味を抱いて大学院生の頃から研究を始め、2017年には『現代中国茶文化考』(思文閣出版)という研究書も出した。
茶文化研究の歴史に一石を投じた『現代中国茶文化考』(思文閣出版)
新中国の「お茶立国」
王先生によると、1949年に中華人民共和国が誕生した際、国家政策として、衰退していた茶業の恢復が優先的に図られたのだという。新中国政府は「社会主義工業化国家」を目指して国家づくりをしていく。ソ連から資源や製品、技術を輸入する代わりに、ソ連が必要とするお茶を輸出する。ソ連からは3億ドルの借款も行ったが、そのほとんどをお茶で返したという。「国家づくりをお茶にかけていたんです」。
また、中国国内には、お茶が生活必需品の少数民族が多かった。モンゴル族はミルクティ、チベット族はバターティ。「標高が高いので野菜は栽培できず、羊の肉やミルクなどが中心となる食事では、消化を助けビタミンを補給できるお茶が必要不可欠なんです」。そこで中国政府は、少数民族が必要なお茶を優先的に提供できるようにする政策を立てた。多民族国家を団結させるためにも、茶業の拡大は至上命題だった。
さらに、アジア・アフリカ諸国との外交関係でもお茶が活躍した。モロッコ、ギニア、アフガニスタン、ベトナムなどの国にお茶の栽培技術を持つ人を派遣し、現地の茶業育成を支援。こうして中国と国交を結ぶ国が増えた。また、アメリカとの国交樹立にも、茶がつなぐ役割を果たしたという。
国家づくりの一環で茶業を復興させていく間は、お茶の国内流通は自由に行われていなかった。1966年から約10年間続いた文化大革命で、お茶が贅沢品として排除された時期もあったが、その後、国内の工業化は進み、少数民族への供給も安定した。しかし、茶業は生産拡大を続けたため、茶葉が国家の倉庫に保管されたまま出荷できずに変質してしまうという「茶葉問題」が起こる。そこで、1980年代前半、茶の販売と継続的な発展を目的に、茶の国内・輸出の市場を一般に開放することになった。いよいよ、お茶が市民のものになった。
「国家債務の返済、外交、『民族団結』などのために茶葉生産が重視されました」
「茶文化」の創造
「国としては市民にお茶を買って飲んでもらいたいわけですが、何十年も飲んでいなかったお茶をどうしたら受け入れてもらえるか。そこで、『茶文化』が創造されたのです」。
研究者がお茶の歴史や風習や飲み方、お茶を飲むことの健康への効用、詩や美術、民謡などとの関わりといった総合的な内容の中国茶読本を1981年に出版した。その中で、「茶文化」という造語も登場した。さらにテレビ・新聞などのメディアや研究機関も、“何千年と続いてきた中華民族の高尚で伝統的な文化を継承していこう”という論調で情報発信し、茶文化化が進められたという。
また、「現代中国のお茶の文化にとって刺激になったのは台湾の茶藝でした」。台湾では1970年代まであまりお茶は飲まれていなかったという。しかし、「輸出不振の解決策として、都会で暮らす若者にも消費してもらうようなスタイルのお茶を作るため、また中華伝統文化復興運動が後押しする中で、台湾で飲茶という伝統文化を新しく継承する動きが起こったんです。昔の皇帝、貴族、文人などが飲むようなお茶の様式を文献から探して復元し始めました。このようにして生みだされたのが台湾の茶藝であり、東南アジアや日本、香港などにも伝わったわけです」。
1980年代に中国と台湾との交流が始まると、台湾茶芸の普及に尽力した人物が、中国で茶芸のパフォーマンスを行った。大陸の人たちは、“これこそ中国人が誇れる中華民族の文化だ”と刺激を受け、それをモデルに、1980年代末~1990年代初頭には大陸の茶芸を創造していった。台湾茶藝だけでなく、さまざまな地域の淹れ方からスタイルを模索し、今日のような淹れ方、飲み方、茶器、空間など中国茶の文化を一気に再構築した。最初に大陸の茶芸創造に力を尽くしたのは歴史学を勉強した人物だった。その人物は歴史文献を探したり、聞き取り調査をしたりして、ウーロン茶の作法を生み出した。
「伝統文化とは、昔からあったもの、昔から変わらず受け継がれてきたもの、と考えるのが普通でしょう。中国のお茶の文化でもそう考えられてきたところがありますが、現実にはそれほど単純ではありません。自然に成立したわけではなく、政府やマスメディア、知識人、市民などが利害関係の中で絶えず操作してきた。茶文化のこのような姿を通して、伝統や文化は創造され得るということがわかります」。
北京オリンピックでは、世界に影響を与えた古代中国の四大発明、羅針盤、火薬、紙、印刷術と肩を並べて、お茶が紹介された。また、2016年、杭州で開かれたG20でも世界から来た人をお茶の先生たちがもてなすなど、中国茶の価値はますます向上し、世界に誇れる「文化」となっている。
茶は中国のアイデンティティとなった
中国茶の魅力
中国茶には、名称があるものだけでも、千以上にのぼる種類があるのだそうだ。「私自身、中国茶が大好きだから研究をしている」と言う王先生に、中国茶をどう楽しんだらよいのかアドバイスしてもらった。茶芸は作法も難しそうに見えるが、実は、ルールはそれほど厳格ではなく、「楽しく、美味しく飲めるのが一番」だという。お茶の種類によって最適な抽出温度やどんな茶器を使うかなど基準はあるが、「ほとんどのお茶は100度で淹れても大丈夫。茶器も、自分の好きなものを使えばいいと思います。淹れていくうち、飲んでいくうちに、自分好みに調整していくのも楽しいですよ」。
「気軽に楽しめばいいんです」と語る
王先生は毎朝、故郷・四川省のお茶を淹れ、一人のお茶の時間を楽しんでいる。「忙しい毎日だからこそ、気持ちを整理したり、自分と向き合ったりするために一人の時間はすごく大切。お茶を飲むと気分がすっきりし頭もクリアになります」。
また、お茶を通して誰かとつながることができるのも魅力だと言う。気持ちが沈んだ時など、お世話になっている人や力をくれた人と一緒に飲んだお茶を意図的に選んで飲むようにする。すると、隣で励ましてくれるような感じがするのだそうだ。
「例えば周恩来は、最期を迎えることになる病院に入院しているとき、『六安瓜片(ろくあんかへん)が飲みたい』と頼んだそうです。その理由は『叶挺(ようてい)と一緒に飲んだお茶だから』というもの。叶挺は、周恩来の若い頃の仲間で、早くに亡くなった人です。人生の最期に、大切な誰かを思い出すとき、一緒に経験した他の何でもなく、お茶を飲みたいと思う。茶とはそういう存在です」。
そう言いながら王先生は、今度は、「九曲紅梅」という紅茶を淹れてくれた。学生時代、杭州へと調査に行った際に知り合ったお茶の研究者ご夫妻が送ってくれたという。ほんのり花のような香りが漂い、ほっと安らぐ感じ。飲んでみると、これが紅茶なのかと思うほど、包み込まれるような何ともいえずやさしい味だ。「このやさしさは、その先生そのものだと思ったりします」。
茶は人と人をつなぐ仲介者となる
お茶に国民国家の形成を支える力があったとは驚きだったし、また、茶文化が現代に必要な形で構築されたことを知って文化を見る目が変わった。そしてさらに、「お茶を飲む」ことで、誰かとつながっている記憶を呼び起こされるという話が深くて、心に残った。お茶自体もお茶の時間も、値千金。中国茶で、もしかしたら生き方が変わるかもしれない。とりあえず何か買って飲んでみたくなった。