大阪青山大学の大阪青山歴史文学博物館(兵庫県川西市)で「特別公開 所蔵品展」が開催されました。
同館は大阪青山大学の附属博物館で、国宝『土佐日記』や重要文化財などを含む約4000件の文書や美術工芸品を所蔵しています。
お城のような建物が博物館で、これが大学の構内にあることにも驚いてしまいますが、同館が日本文化継承の場であること、またキャンパスの立地が清和源氏発祥の地に近く、付近にかつて山下城という城があったことなどから城郭型式の外観が取り入れられています。
今回の所蔵品展は、4月2日開催の「お城桜まつり」の一環として開かれました。敷地内に咲き誇る満開の桜とともに、今年の大河ドラマにちなんで展示された戦国武将にまつわる所蔵品や皇室ゆかりの品々を鑑賞してきました。
展示室に入ってまず目に入ったのは、約100年前の三ツ矢サイダーの看板です。同館の近くにはかつて天然鉱水「平野水(ひらのすい)」の産地があり(現在の兵庫県川西市平野)、ここから湧き出る天然炭酸水を瓶詰めにして販売したのが三ツ矢サイダーのはじまりです。
この頃の正式名称は「三ツ矢孔雀平野水」。大正天皇のお気に入りだったとのことで、三ツ矢のロゴマークの上に「宮内省御用達」の文字も見えます。
「三ツ矢」の名とロゴマークの由来は平安時代にさかのぼります。伝承によると清和源氏の祖、源満仲は神のお告げにより矢を放ち、矢が落ちた所に城を築いたといわれます。城のほど近くに、のちの平野水の鉱泉があったことから、満仲が放った矢を見つけた人に与えられた “三ツ矢”の姓と矢羽根(やばね)の紋が由来となったそうです。
下は満仲と息子の物語『満仲(まんじゅう)』の奈良絵本(挿絵の入った絵入り写本)です。
『満仲』(江戸時代)
満仲は、息子の美女丸(びじょまる)を寺へ修行に出しますが、美女丸は修行をする気が全くなく、数年が過ぎてもお経を読むことすらできません。上の絵では、そのことを知った満仲が激怒して美女丸に斬りかかり、対する美女丸が経巻で刀を受ける場面が描かれています。
怒りのおさまらない満仲は家臣の仲光(なかみつ)に美女丸を斬るように命じますが、仲光は苦悩の末、美女丸の替わりに自分の息子を手討ちにします。このことを知った美女丸は深く悔い改めて修行に励み、名僧となるという物語。
名僧となった美女丸が両親と再会する場面
今年の大河ドラマにちなみ、徳川家康に関連した展示品も。下は関ヶ原の合戦で勝利をおさめた3年後、征夷大将軍に任命された家康が宮中に参内する場面を描いたものです。
『家康公参内之図』
家臣をしたがえて参内する家康。その行列は美麗を極め、洛中の人々が見物したとのこと。画は狩野探幽の作と伝えられます。
展示室の外では桜が満開。この季節、「桜がいつ咲くか」「見ごろはいつまでか」と、気が気でなかった方も多いのではないでしょうか。下は、そんな心情を詠んだ在原業平の歌「世の中にたえて桜のなかりせば 春のこころは のどけからまし」を、約700年前の天皇、伏見天皇が書いたものです。
伏見天皇は「歴代の天皇の中でも一番字がうまかったといわれています」と主任学芸員の小倉嘉夫先生。和歌をたいへん好んだ天皇だったそうです。
この歌(「世の中に~」)がおさめられているのが『伊勢物語』。下は、武田信玄が書写した『伊勢物語』です。
武田信玄筆『伊勢物語』
見るからに流麗で端正な印象を受けます。戦国武将は年中戦いに明け暮れていたようなイメージをもっていましたが、武田信玄は優れた和歌を多く残し、当時一級の教養人であったとのこと。「和歌の手本として尊重された『伊勢物語』が信玄の愛読書の一つであったことは想像に難くない」と解説にあり、信玄の武人としての顔だけではない一面を伝えています。
館内には、お城の内部を再現した空間も。下は君主と臣下が対話する空間をイメージしてつくられた「対面の間」です。障壁画は京都市立芸術大学日本画科の宮本道夫助教授を中心としたスタッフ、天井画は東京藝術大学美術学部日本画科の福井爽人教授を中心としたスタッフにより制作されました(肩書は当時)。展示されている机と椅子は、高松宮喜久子妃殿下より贈られた有栖川宮・高松宮ゆかりの品です。
展示ではこのほか、関ヶ原の戦いが始まる直前、家康から(石田三成側についていた)加藤貞泰にあてた手紙なども紹介されていました。もともと家康や武将に強い興味があるわけではなかったのですが、書や筆跡を間近で見ると、歴史上の人物の肉声に触れるような気がします。
同館は館内整理のため臨時休館中ですが、「お城桜まつり」は来年もこの時期の開催が予定されていて、また別の所蔵品の公開が期待できそうです。