「地球上の全人類の重さと全アリの重さはほぼ同じ」というトリビアを聞いたことのある人は多いと思う。この話が本当かどうかはさておき、この世界には途方もなくたくさんのアリが今も暮らしていることは間違いない。
今回は、そんな膨大な生息数を支えるべくせっせと産卵を続ける女王アリの生態について、甲南大学の後藤彩子先生にお聞きした。後藤先生が研究材料として主に使っているのが、日本で普通に観察できるキイロシリアゲアリ(通称:キイシリ)だ。
後藤彩子先生。
社会性昆虫の社会性ってどういう意味?
アリやハチが他の昆虫と大きく違うところといえば、それらが仲間と高度に協力し合って生活する社会性昆虫だということだろう。でも、彼らの社会と我々人間の社会はずいぶん違っているように見える。アリやハチが社会性昆虫と呼ばれる所以はなんなのだろう?
「ややこしいのですが、社会性昆虫の社会性は人間のそれとはずいぶん違います。我々にとって社会性があるとかないとかいうとき、ほとんどはコミュニケーション能力が問題になるわけですけど、昆虫に社会性があるかどうかを判断するうえでのキーワードは『繁殖分業』です。つまり子孫を残すための仕事(繁殖)とそれ以外の仕事がグループ内で分業できていれば、その昆虫は社会性昆虫だと言えます。
アリの社会では、繁殖を女王アリとオスアリ、巣の維持や幼虫の世話などの仕事を働きアリ(繁殖能力のないメスアリ)が担当することで、しっかりと分業が成立しています」
キイロシリアゲアリの女王アリと働きアリ。女王アリは働きアリよりも体が大きく、体格からして繁殖(産卵)に特化しているのがわかる。同じ種のメスアリが女王アリと働きアリに分化する仕組みは諸説あるが、よくわかっていないそうだ。
なるほど、アリやハチの巣で産卵できるのは女王アリ・女王蜂だけというのは有名な話だけれど、それこそが社会性昆虫の定義だったのだな。
「繁殖分業ができてさえいれば社会性昆虫と言えるわけですから、逆にそれ以外の要素は同じアリ科の昆虫の中でも種ごとにかなり違いがあります。女王アリが子育てのために働きアリのように巣の外に餌を探しに行く種であるとか、女王アリが働きアリよりも大きい種もいればほぼ同じ大きさの種もいます。
また一つの巣の中でも状況によって仕事のしかたが変わってきます。通常、働きアリは『齢間分業』といって年齢によって従事する仕事が違います。若いうちは巣の中で主に幼虫の世話なんかをするんですが、年をとると巣の外での食料探しといった、より危険な任務につくようになります。この巣から実験的に若い働きアリを取り去ってやると、年をとった働きアリがそれまで若い働きアリが従事していた仕事までこなすようになるんです。環境が変化しても柔軟に対応するんですね」
働きアリというと、同じ仕事だけを延々と繰り返しながら生涯を終える生活のメタファとして使われることもあるが、さにあらず。人間でも難しいライフステージに応じた転職を、アリたちは自然にやっているということなのか。
キイロシリアゲアリはどこにでもいる普通種。しかしその生態はとてもユニーク
そんなに多種多様なアリの中から、あえてキイロシリアゲアリを研究対象に選んだのはなぜなのだろう?
「日本ではどこにでも生息している普通種であるということと、女王アリが大量に採集できること、飼育が比較的簡単であることで選びました。実験ではたくさんの女王アリが必要なので、この点は大きなアドバンテージです。また、この種は一つの巣にたくさんの女王アリがいるという特徴があります」
一つの巣にたくさんの女王アリが!そんなこともあるのか。
「このキイロシリアゲアリの生態はとてもユニークなんです。キイロシリアゲアリの繁殖は晩夏の蒸し暑い夜に女王アリとオスのアリが一斉に巣から飛び立って交尾するところから始まります。結婚飛行と言って、アリの生涯で交尾をするのは実はこの時だけなんです。結婚飛行が終わると、オスのアリは死んでしまって、女王アリは適当な場所に降り立って羽を落として巣作りを始めます。ここまでは他のアリと同じなんです。
ここからが面白くて、多くのアリが一匹の女王から巣をスタートさせるのに対して、キイロシリアゲアリはその場に居合わせた複数の女王アリが協力し合って巣作りを始めるんです。巣を作り始めたころというのは、守ってくれる働きアリもおらず非常に危険な時期なので、他の女王アリと一緒になることで生存率を上げていると考えられます」
キイロシリアゲアリの女王アリとオスアリ。結婚飛行の名の通り、巣を出て飛び回って交尾相手を探すため、羽をもった羽アリだ。彼らと違って繁殖に関わらない働きアリには羽はない。
たしかに、一匹よりは大勢で集まって巣作りをした方がなにかと都合はよさそうだ。しかし同じ種のアリとはいえ赤の他人である。同居しているうちに互いに鬱陶しくなって、女王アリどうしで喧嘩にならないのだろうか?
「複数の女王アリで巣作りをするアリは他にもいくつかいます。でも、そういった協力関係はたいていは巣作りの初期段階に限られます。巣が大きくなって働きアリの数が増えてくると、抗争のようなものをへて女王アリの数は減っていき、やがては一匹を残すだけになるんです。キイロシリアゲアリのすごいところは、巣が大きくなってもなぜか女王アリどうしの喧嘩が起こらないことなんです。
どうしてそういうことが可能なのかはわかりませんが、キイロシリアゲアリは血縁関係のない個体に対する寛容さみたいな性質を備えているのかもしれません。うちの研究室でも膨大な数の女王アリを飼育していますが、一つの巣に何匹も女王アリを入れておけるのでスペース的に助かっています」
一つの巣にたくさんの女王アリがいるというキイロシリアゲアリの特徴が、女王アリをたくさん使う研究に最適だということがわかった。でも、そんなにたくさんの女王アリを使ってどんな研究をしているのだろう?
女王アリの寿命は、なんと10年以上! しかも交尾するのは生涯を通じて結婚飛行のときだけ
「さきほど少し話が出てきましたが、女王アリとオスアリが交尾をするチャンスは、巣を飛び出して結婚飛行をするそのときだけなんです。そして、女王アリの寿命は実は10年を超えるくらい長いんですけど、その生涯にわたって産卵を続けます。つまり、体内で10年以上にわたって精子を使用可能な状態で保管していることになるんです」
女王アリの寿命はすごく長い。そして、貯蔵された精子を使って生きている限りずっと産卵を続ける。
女王アリってそんなに長生きなのか!そして、小さな体に一生分の精子と卵細胞を、使える状態で保管している。まさに生命の神秘としか言いようがない。
「他の生き物では、オスの精子は体外に出た瞬間から弱り始めるものなんです。それが他人(メス)の体内で、しかも10年以上にわたって使用可能な状態でキープされるというのはすごいことです。そのメカニズムが解明できれば、現在では液体窒素などを使った極低温環境でしか保存できない人間や家畜の精子や、他の細胞の保存方法の改良にも応用できるかもしれないと期待しています」
「それ、なんの役に立つの?」という質問は研究の世界ではナンセンスなのかもしれないが、具体的に応用できそうな道筋が見えているということはやはりよいことだ。そんな精子の長期間貯蔵のメカニズムだけれど、解明の糸口は見えているのだろうか?
「精子は女王アリのお腹の中にある受精嚢という全長0.3mmくらいの器官に貯蔵されます。そこで、受精嚢の中で精子がどんな状態でいるのかを調べてみたんです。すると、当然他の動物の場合と同じように泳ぎ回る精子が観察できるものと思っていたんですが、なんと精子が動いていない状態だったんです。
さらに調べると、精子はオスの体から出た時点ですでに不動であるということがわかりました。多くの動物では、精子は他の精子と競争するためなるべく速く泳いで卵子に到達する方向に進化してきたとされているため、この精子が動いていないという結果は意外でした」
交尾によってオスから受け取った精子は受精嚢という器官に貯蔵され、必要な時に受精嚢管を通して取り出して使われる。 アリやハチの生殖では、オスになる卵は精子を使わない単為生殖で生まれてくるのが一般的。なので、精子が使われるのはメスになる卵を産むときに限られる。女王アリによるそうしたオスとメスの産み分けのメカニズムも、受精嚢に秘められた不思議だという。
受精嚢にため込まれた精子の様子。細かい線に見えるものが全て精子だ。0.3mmほどの小さな器官に、生涯使う分の精子が貯蔵される。
なるほど、動いている状態よりも動いていない状態の方が劣化しにくいというのは、たしかに一般的な経験則からも納得しやすいかもしれない。精子の長期保管メカニズムには、貯蔵する側の女王アリの体だけではなくて、貯蔵される精子の方にも秘密があったわけか。
「それから当然、女王アリの受精嚢の側にもなにか秘密があるはずだと考えて研究を進めています。受精嚢でどんな遺伝子が働いているかとか、受精嚢内の化学的な環境はどうなのかとかいったことを調べています。ただ、こちらの方はまだよくわかっていません。最初、砂糖漬けや塩漬けのような感じで精子を保管しているのかという仮説を立てていたんですが、これはハズレでした」
一口に受精嚢の環境と言っても、調べなければいけないことはたくさんある。こういうところで、女王アリを大量に用意できるキイロシリアゲアリの利点が光るわけだ。
飼育しているアリは約20種類、女王アリだけで数万匹!
アリに関する各種研究テーマに取り組み、趣味でもアリを飼育しているという根っからのアリ好きの後藤先生。いったいどれくらいの数のアリを飼育しているんだろう?
「女王アリだけでも数万匹はいますね。うちの研究室ではキイロシリアゲアリの精子貯蔵以外にもいろいろなテーマに取り組んでいるので、アリの種類も20種類以上になります。
そうそう、若い女王アリと高齢の女王アリで体内の環境に変化があるかどうかも調べたいと思っていて、長期飼育にも挑戦しています。キイロシリアゲアリの女王アリで最高齢のものは、今年で10歳ですけど、やっぱり年がいくごとに数が減っていくのでもったいなくてなかなか実験には使えないですね」
やっぱりすごい飼育数! 維持するだけでもすごく大変そうだ。それに実験用とはいえ、10年も飼育したらなにかと愛着も湧いてしまいそう。
後藤先生の研究室の、アリの飼育室の様子。膨大な数なので、普通に飼育するだけでも管理がたいへんだ。
「世話はたいへんです。なので餌やり等が効率的にできるように飼育ケースの形や餌を入れる容器を工夫したりしています。ほかにも、これはアリ飼育家の間では有名な方法なんですけど、土の代わりに石膏を使っています。土と比べてカビや病気のリスクが抑えられるし、水を含むので保湿にもなる上に、石膏は白いのでアリの観察もしやすくなります。餌には蜂蜜やメープルシロップなどの糖類と、ミールワームなどの動物性タンパク質を主に与えています。
毎日観察していると、アリにも個性のようなものがあることがわかって面白いですよ。同じ種のアリでもコロニーによって餌の好みに違いがあったりとか」
飼育には石膏を使う。たしかに、茶色い土を背景にするよりも観察がしやすそうだ。
アリが好きなればこそ、毎日の世話も苦にならないということか。そんな公私ともにアリ一筋の後藤先生が、アリの研究を始めたきっかけは何だったのだろう?
「子供のころから虫は好きでしたが、あまり運動神経のよい方ではなかったので、空を飛んだり素早く動いたりしないアリはお気に入りの観察対象で、夏休みの自由研究にも取り組んでいました。高校に入って生物学の知識を学ぶようになると、有性生殖でメスを、精子を使わない単為生殖でオスを作るアリやハチの繁殖方法を知って衝撃を受けました。研究対象として本格的に興味を持ち始めたのはそのころからだったように思います」
小学生のときから抱き続けてきたアリへの探求心と感動が、今の研究を進める原動力になっているのだそうだ。女王アリの謎だけでなく、アリにまつわるいろいろな不思議を解き明かすためにそのまま突き進んでもらいたいものだ。
【珍獣図鑑 生態メモ】キイロシリアゲアリ
日本では簡単に観察できる普通種のアリ。体の大きさは女王アリが8mm、働きアリが2~3mmくらい。9月頃の夕方に女王アリとオスアリが一斉に巣から飛び立ち、灯火等に集まって交尾する『結婚飛行』を行う。複数の女王アリが集まって一つの巣を作る多女王制をとる。近年では体の色が似ているためか特定外来生物であり強い毒をもつヒアリと間違えて駆除される悲劇も起きているが、よく観察すればヒアリとはまったく違うことがわかる。