「利他学」という学問をご存じでしょうか?
「利他=自分でないもののために行動すること」について考える、これまでのどのジャンルにも当てはまらない新しい学問です。
利他と言われてもあまりピンとこない?自分以外のためにって、ちょっと偽善的に感じてしまう?
そんな方こそぜひ読んでみてください。利他のイメージががらりと変わるかもしれません。
いま改めて利他について考える理由とは?
2020年2月、理工系大学発の人文社会系の研究機関として、東京工業大学「未来の人類研究センター」が誕生しました。
センターの最初の5年間のテーマとして掲げられたのが「利他」。利他について考える学問とは、いったいどんなものなのでしょうか?
センター長を務める伊藤亜紗先生にお話を伺いました。
そもそも理工系大学の中で人文系の研究を行うことには、どんな意味があるのでしょうか。センター設立の経緯からお話を伺っていきます。
「理工系大学の中の人文系研究者って、シンクタンクみたいな存在なんですよね。理工系の研究者が開発している技術が、実際の社会の中でどんな意味を持つのか、どのような考えるべき問題を含んでいるのか。そういった相談をされることがすごく多いんです。とはいえ、一人ひとりはシェイクスピアの専門家だったり宗教の専門家だったりするので、科学技術と社会の関係を考えると言ってもなかなか難しい。そこで、ちゃんと人文系の研究組織を作って取り組もうということで、できたのがこのセンターです」
科学技術と人類や社会との関係を考える上で、「利他」というテーマを掲げたのはどうしてでしょうか。
「東工大はものづくりをする大学だと言われています。ものを作るって本来はものすごく利他的な行為なんです。でも現実は、技術を開発したその先に人間がいてその人に届けるんだ、という実感が持てなくなってきています」
橋を例に挙げて、伊藤先生はこんなふうに説明します。
「たとえば川に橋を架ける時、本来はその川を渡りたい人のことを思って作るわけですよね。でも、技術開発が複雑になり、橋のある一部分の鉄筋の強度のための研究、というふうに細分化されていくと、一番大事な川を渡りたい人の存在がどんどん消えていってしまう。そこで、改めて原点回帰するという意味で利他というテーマが良いんじゃないかと考えました」
ウェブでの取材に答えてくださった伊藤先生。専門の美学を通し、アートや哲学、身体に関連する横断的な研究を行っている
センターの公式ウェブサイト。水辺で焚火を囲む先生たち…その理由は後ほど
相手をコントロールしようとしない
こうして決まった利他というテーマ。でも実は伊藤先生は、この言葉に対して最初は違和感を覚えていたと言います。
「私はこれまでの研究で、障害を持つ方たちと多く関わってきました。そこで抱いてきた違和感があって。たとえば障害を持っている人は弱者でかわいそうだから助けてあげよう、みたいな善意のかたまりの人って、善意を受ける側からすると、いつもサポートされる役割を演じないといけないと感じて辛くなってしまうことがあるんです」
2015年から今年で18刷となった伊藤先生の著書『目の見えない人は世界をどう見ているのか』/光文社新書。健常者が見えない人の価値観を一方的に決めつけることの問題も指摘している
わかりやすい利他、善意のかたまりのような利他は、相手を自分の善意を実行するためのツールにしてしまっているのではないかと、伊藤先生は指摘します。
「周りの人を自分のツールにして、コントロールしようとしてしまう。それって利他ではないですよね。自分の行為が相手にとって良い効果を持つべきだ、と思って行動してしまうと、相手はそれに合わせて演技させられてしまうんです。まず相手をコントロールしないという前提から入らないと、利他の問題ってけっこう怖いなって思います」
コントロールしないことが一番の利他。そう頭では理解しても、つい相手が喜んでくれることを期待してしまったり…。なかなか難しく感じてしまいます。そう漏らすと、伊藤先生はこんなアドバイスをしてくれました。
「もちろん、こうなったらいいなと思うのは自然なこと。でも自分の中に余裕を持って、相手が自分の思い通りの行動ではなかったとしても、それを受け止めるようなスペースをいつも用意しておくことが大事かなと思います」
世の中のあらゆることが利他に関係している
未来の人類研究センターの立ち上げ時期は、くしくもコロナ禍と重なりました。社会が大きく変わる中で、利他という視点がより重要になってきたようにも感じます。
センターで取り組む利他学にはどのような影響があったのでしょうか。
「私が特に感じたのは、利他の<他>に含まれるのは人間だけではないということ。人間だけを中心に考えちゃいけないなって思いました。それこそウイルスだって、人間に悪影響を及ぼすものでもあるけど、生物全体でみると進化の中で重要な意味をもつ<他>なわけです」
センターで行っている研究会では、さまざまな<他>について理系の研究者と対話を重ねていると言います。
「たとえば<他>を太陽だと捉え、人間と太陽の関係について光合成の専門家と話したり、東工大には宇宙系の研究者も多いので、<他>を地球外の生命と捉えて、その生物との利他的な関係について話したりしました」
オートファジーの研究でノーベル生理学・医学賞を受賞した大隅良典教授、植物分子等を研究分野とする東京工業大学の久堀徹教授など多彩なゲストを招く研究会。Webサイトは研究会レポートのほか、その中から利他にまつわる言葉や気づきをピックアップしたページもある
利他と聞いて人との関わりしかイメージしていませんでしたが、ウイルスや地球外生命体まで<他>だとは…。少し戸惑っていると、「たぶん利他に関係しないことってないんですよね」と伊藤先生。
「ミシマ社と共同で開催している『利他プロジェクトin MSLive』では、料理家の土井善晴さんや社会福祉施設の代表を務める村瀨孝生さんをゲストにお迎えしました。なんで料理?って不思議かもしれないですけど、何か良いことをやっている人はだいたい利他と関係してるなって思うんです。だから特に最初の半年は、ジャンルを限定せずに幅広く、いろいろな方と対話できればと考えました。一般的に理解されている利他じゃないような利他が重要だと思っています。だから、あえてわかりやすくないところから(笑)」
ミシマ社×未来の人類研究センターの対談シリーズ「利他プロジェクトin MSLive」。対談の内容はこちら
数値化やコントロールの枠から離れてみる
センターには伊藤先生をはじめ5名の先生が在籍していますが、まずこのメンバーで大事にしようと話したのが「雑談」だと言います。
「センターとしての初めての仕事は、メンバーで焚火をすることでした。焚火を囲んで雑談している姿が、センターのホームページのシンボルのようになっています。研究のヒントって、実は雑談の中からしか生まれないんですよね。ゴールがしっかりと決まっている会議ももちろん大事なんですけど、それだけだとコントロールの枠内のことしか起こらない。コントロールが外れたところに利他的なものが生まれるんじゃないかって話し合ったんです。だから研究会やMSLiveの人選も、雑談の中から決まることが多いですね」
焚き火を囲んで雑談、の雰囲気そのままに、先生方がおしゃべりする「利他ラジオ」のコンテンツも必聴
今後もさまざまなイベントやシンポジウムの開催、本の出版などの計画を進めているとのこと。どんなゲストが登場するのかも含め、これからも予測のつかない展開が楽しみです。
最後に、利他について考える上で私たちは普段どんなことを意識したら良いのか、お聞きしてみました。
「社会の中で働いたり勉強したりしていると、何でも数値で評価されてしまいますよね。でも利他って数値化できないものなんです。数値化できない価値がある。それを意識することがすごく大事だと思います。数字に支配されると利他が消えていくと思うんです。だから自分がどんな数字に支配されがちなのか意識して、その支配の外にどんな価値があるか気付くことが、利他につながっていくんじゃないかと思います」
数値化やコントロールの枠から、一度離れてみること。そこから日常の見え方が変わって来るのかもしれません。
これまであまり考えてこなかった利他にまつわるさまざまなお話から、たくさんの気付きを得ることができました。