「でんでんむしむしカタツムリ♪」と歌にも歌われているカタツムリ。街中に限定すると、以前と比べて見かける数が減ったように感じるのは筆者だけだろうか?実はそれ、身近な環境の変化の表れかもしれないのである。
「その地域の環境変化を知るうえで、貝類は“炭鉱のカナリア”なんです」
そう主張するのは、貝類の分類学を専門とする岡山大学の福田宏先生だ。軟体動物多様性学会公式Twitterアカウントの中の人としてつぶやき始めるや、瞬く間にバズりツイートを連発して一躍生き物クラスタの時の人となった福田先生。もちろん、これまでに海から陸まで数多くの新種の貝を記載してきた分類学者としても一流の存在だ。
そんな福田先生に、貝類との出会いから新種の見つけ方、さらに「貝類が“炭鉱のカナリア”」とはどういうことなのか、インタビューを行った。
インタビューは前後編に分けて掲載します。前半は新種の生き物を見つけるということ、福田先生と貝類の出会い、さらに先生が所属する軟体動物多様性学会について伺いました。
新種の生物は自宅の庭にいるかもしれない
――先生のこれまでの研究を見ていて私が一番衝撃を受けたのは、日本人なら誰でも知っているあのサザエが実は新種だったというものでした。まさに盲点というか、そんなことってあるんだという感じで。
以前ほとゼロで分類学を取り上げた際にも、このサザエのエピソードが登場した。サザエの学名にはこれまでTurbo cornutusが使われてきたが、実はこれは中国沿岸に生息するナンカイサザエに当てられた学名であり、それとは別種である日本のサザエは発見から現在に至るまで学名が存在しない状態であったことが判明したというものだ。これを発見した福田先生は、新種としてTurbo sazaeを記載した。詳しくは『驚愕の新種! その名は「サザエ」 〜 250年にわたる壮大な伝言ゲーム 〜』を参照。
写真は山口県萩市見島産サザエ(多田武一氏採集、西宮市貝類館所蔵、福田先生撮影)。1955年、雑誌『夢蛤』82号で、黒田徳米博士と吉良哲明氏により「日本一の大サザエ」と認定された個体。
――先生はサザエ以外にもたくさんの新種を記載されておられますが、これまで何種くらい記載されてこられたんですか?
今(2021年11月)の時点で45種です。それとは別に、死ぬまでにやらないといけないのがまだ150種はあるかな。
新種というのは発見しただけではだめで、生物学的に存在を認めさせるためには記載論文を書いて学名をつけないといけない。近縁の種のどれとも違うということを示さないといけないんです。その論文執筆のための作業がなかなか進まなくて、20歳の頃に見つけて大騒ぎしてた貝がまだ論文化できてなかったりしますね。外国産の標本と直接比較するのが難しかったり、いろんな事情で完成できないものが多いんです。
――45種類!新種なんて一つ見つけただけでも大騒ぎなのに、すごい数ですね!なにか発見のコツがあるんでしょうか?
45種なんて大した数じゃないです、これまでには1人で1000種以上新種記載した人だっていたんですから。新種というとアマゾンの奥地とか極地とか深海とか、辺境に行かないと見つからないと思われてるけど、まったくそんなことはない。これが広く勘違いされていることだと思います。
私が小学校1年の夏休みまでに集めた標本は229種あったんですが、50年近くたって調べなおしたら、その中の3種が未記載種でした。
――小学生の時点で新種を......!?ていうか、229種も集めてる時点ですごいですね。
一つは先ほど出てきたサザエ。二つ目はクサイロクマノコガイ。クマノコガイという貝は瀬戸内海産のものと日本海産のもので明らかに外見が違うんです。なのに、なぜかこれまで同じ種の地域差に過ぎないと決めつけられていました。僕は当時そう言われてずっと納得できなかった。ところが、最近になってDNAを調べた人から聞いたらまったくの別種だという結果で、それ見たことか!と思いましたね(詳しくは『またしても、新種と知らずに食べていた!-食用海産巻貝類「シッタカ」の一種、クサイロクマノコガイ-』を参照)。
もう一つの新種はカタツムリだったんです。これは実家のすぐ前の崖で、保育園時代に見つけたものです。崖の下にいつも同じ殻が落ちていて、図鑑で調べても、似たようなのはあるんだけど完全に一致するものが載っていない。これもDNAを調べることで、これまで記載されているどのカタツムリとも違うということがわかりました。チョウシュウシロマイマイといいます。この和名は私がつけたのですが、学名の種小名(学名は属名と種小名の二つで構成される)は私のフルネームを付けてもらって Aegista hiroshifukudai になりました(https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/13235818.2015.1023175を参照)。
これはとても象徴的なことで、保育園児や小学生の行動圏内にいるような生き物でも、何百種類か集めればそのうちいくつかは新種であるということが大いにあり得るんですよ。
福田先生が保育園及び小学校2年生の時に採集したバイの標本。ラベルはどちらも直筆。当時の標本は今も現役だ。
【左】1972(昭和47)年1月23日(小学校入学の直前)、山口県下関市彦島西山海水浴場(母の実家の裏)。「西」が正確に書けていないが、種名の同定は正しい。
【右】1973(昭和48)年6月18日、山口県長門市仙崎漁港水揚げ(実家近くの鮮魚店で購入)。
――身近にいるのに誰も記載論文を書いていない生き物がたくさんいると。
結局、分類というのは人間の都合ですからね。人間の意識があまり及んでいないところに新種は潜んでいます。サザエなんか日本人なら誰でも知ってるのにそれが新種だった。これはネットで論文や文献を漁ってて気づいたんです。新種は家の周りを探索したり、ネットで調べものをすることで見つけられるんです。
現代では形態で区別できない生き物でもDNAを見ることで別種にできるし、そういう意味では新種発見のハードルは下がってますね。その地域の生き物を集めて丹念に調べれば、新種は必ず見つかると思います。
貝と向き合い続ける姿は、まさに「三つ子の魂百まで」
――小学1年生の時点で何百種類と貝を集めておられたとのことですが、福田先生と貝の出会いって何だったんですか?
はっきりとは覚えてないので、これから話すことは全て両親から聞いたことや、残っている写真とかの証拠を見せられて知ったことです。
まず、3歳くらいの頃は貝じゃなくて交通標識が好きな子供だったんです。
――交通標識……?一時停止とか駐車禁止とかの、あれですか?
そう、教習所でもらう冊子にいろいろ載ってるあれです。私は言葉を発するのが非常に遅かったので親は心配してたんですけど、街に連れて行くといつも特定の場所で奇声を上げて騒ぎ出したそうなんです。それで、どこで騒ぐのかを調べたら標識の立ってる場所だった。その後、親が見せてくれた交通法規集に載ってるのを全部覚えてしまって、「軌道敷内通行可」とか「指定方向外進入禁止」とか正式名称をすらすら口にしてたんですが、それこそが僕が生まれて最初に発した、明瞭な言葉だったらしいです。それを誰がどう聞きつけたのかもはやわかりませんが、九州朝日放送のテレビでトニー谷が司会していた「ど素人天狗ショー」に出場させられて入賞し、北海道と東京へ旅行にいったことはかすかに覚えてます。
標識に惹かれた理由なんですが、決められたフォーマットの中で枝分かれしていろんな種類が作られてるでしょ。ああいうのが好きなんですよ。同一性と差異が同居しているような。
交通標識。たしかに、色と形でうまく分類できそう。
――なんだか分類学者の片鱗が見えてきました。そこから、どう貝類に移っていったんでしょう。
僕の実家は島根・広島との県境に近い山口県の山奥で、うちの父は開業医をしていたんですが、父が行くまでそこは無医村でした。そんな山奥ですから、集落から出る機会がほとんどない人もたくさんいたんです。そこで、父親が思いついたのが、診療所の待合室に海水魚の水槽を置くことだったんです。
5才くらいの、保育園児のころです。1970年代初頭の、瀬戸内海が公害で一番汚かった時期です。それでも、山口県の秋穂(あいお)というところの、比較的汚染が進んでいない海に魚や替えの海水を取りに父親と車で通いました。実は、これは全くの偶然ですが、この秋穂は、のちに「現代日本最高の干潟」とまで称えられるほど生物多様性の高い場所でした。父親が作業をしている間、危ないからその辺で遊んでろと言われて、勝手に砂浜で貝殻をひろったりしてたんです。
――出た!貝殻!
ある時、突然僕が貝殻を親父に見せて、名前を口走るようになったらしいんです。親は不思議に思って調べたら、もともと家にあった子供向けの貝図鑑を勝手に読んで覚えちゃってたんですね。どうやらその名前がかなり正確らしいぞと気づいた父が、保育社の「原色日本貝類図鑑」とかの大人向けの図鑑を買ってきてくれて、そこから一気に貝にはまりました。半年くらいで、どのページに何が載っているか全部覚えてしまいました。
――一歩間違えたら貝以外のものにはまっていたような気もしますね。
貝の前は標識にはまっていたわけですからね。その後も漢字を覚えるのにのめり込みました。たくさんのいろいろな形や読み、意味、来歴を持つ漢字がそれぞれ部首にグルーピングされる点が生物の分類と共通なので。講談社の「大字典」をクリスマスプレゼントにもらって飽きもせず眺め、小学校4年までに漢字練習帳に全ての字を書き写したりしてました。画数の多い複雑な字や、日常でまず使われない字が特に好きでしたね。おかげで今でも旧字体はほぼ全部読めるし、無意識に書いてしまいます。貝殻と標識と漢字は、僕には同じものに見えるんです。
次に転機になったのが、山口県と県教育委員会が主催する夏休みの自由研究のコンクールです。当時は山口県科学振興展覧会と言ってましたが、今もサイエンスやまぐちと名前を変えて続いています。入賞すると本人だけじゃなくて地元の学校長や教育委員会にとっても名誉なんですけど、小学1年生の夏休み明けに、さっき言った229種の貝の標本を出したらいきなり入選(三等に相当)したんですね。それで町の教育長と校長、親が色めき立っちゃって、とにかく貝集めに集中しなさいということで、それ以降は「貝の採集に行く」といえば公認欠席扱いだったんです。
――現代では考えられないくらい自由ですね。
貝集めさえしてればいいのでそれは楽だったですよ。まあ、じきに楽しいだけではなくなりましたが。自分以上に親と教師が過度にエキサイトしてしまって、貝集めを強いられるという感じになっちゃったので。貝集めは楽しかったけど、大人の調子のよさみたいなものも知りましたね。
――今大学でやっておられるのとさして変わらない状況に、小学生の時点でなっていたというのはすごいです。
貝類の分類で有力な業績をあげている研究者というのは、ほとんど例外なく、子供の頃から貝が好きで、そのまま研究者になった人です。最初から遺伝子を使って進化の解明に的を絞りたいとか、行動や生態を調べたいとかなら全く別ですが、ひたすら野外で採集して標本を集め、分類するのを生業にしたいなら、大学4年で研究室に入ってから始めるのでは残念ながらかなり不利なんです。小学校の時からやってる人と比べたら、その時点で15年近いキャリアの差があるわけですから。
結局、私は小学校1年の夏休みの課題が完成できないまま、今も続けているんです。そして、おそらく一生終わらせることができずに死ぬんだろうと思っています。呪縛です、完全に。
フィールドで貝類を観察する福田先生(2018年7月23日、岡山県津山市、久保弘文氏撮影)
――なんだか分類学者というものの業の深さのようなものを見た気がします……。子供の頃から貝が好きだった人が研究室に入ってくるというのは、やはり珍しいのでしょうか?
極めてまれですね。子供が生き物と触れ合う機会も、以前より減っているように思います。先日も中学生が学校のカリキュラムの一環で研究室に見学に来たんですけど、生き物の標本作りとかをしている人は身の周りで見たことがないと言ってました。昨今は動物愛護の観点から生き物を殺して標本にすることが敬遠されたり、外来種や希少種の扱いを間違えてSNSで炎上する事件が頻発したせいで、子供を生き物に触れさせない方が無難だという予防線、あるいは同調圧力があるように感じます。
ただ注意したいのは、そういう何らかの圧力は、形は違えど昔から一貫してあったということです。昔はSNSも生態系保全の問題もなかったけど、その代わり「そんな銭にならんことやってなんになるんだ、道楽はほどほどにして働け」という冷たい目がありましたね。「貝集めなんか暇人の趣味だ、仕事になるわけでもない」とか、何千回言われたかわかりませんよ。それが今は「生物多様性」とか「SDGs」というお題目のもとに、なんとなくみんな納得した気になっているわけで、時代は変わりましたね。
いずれにせよ、生き物の採集にのめり込むことを歓迎しない風潮というのは、いつの時代もずっとあるんだけど、結局はそういう様々な障壁を突き破っていける人だけが生き残れる世界なんです。だから、今の子供たちがあんまり生き物の採集や標本作りをしないこと自体については、あんまり心配とかはないですね。
ハイレベルなアマチュアの集う場所、同好会は未来の研究者の揺り籠だ!
――福田先生が所属しておられる軟体動物多様性学会について教えてください。
貝や昆虫のような小さな生き物は、種によっては非常に限定された場所にしか生息していないため、生息地の近くに住んでいることが、研究上のアドバンテージになりうるんです。条件がそろえば、在野のアマチュアが職業研究者以上の成果を挙げることだってできるんです。
そういう、ハイレベルなアマチュアが集まるのが同好会や談話会と呼ばれる組織で、子供から大人までいろんな世代・立場の同好の士が自由に参加するので、この分野の貴重な教育機関としても機能しています。その点は、大学ではできないことを代行しているわけですね。
貝類の同好会・談話会は日本各地にあるんですが、その中の一つだった山口貝類談話会(のち山口貝類研究談話会)という団体が軟体動物多様性学会の前身です。1988年創設で、その頃20歳そこそこだった私も創立会員の一人です。軟体動物多様性学会に改称した今でこそ国際学会として活動していますが、当時は山口県出身者と在住者に限るという会員資格を設けていたこともあり、会員が30人もいないような小さな集まりでした。
――とてもローカルな集まりだったんですね。それがどうして、軟体動物多様性学会という全国区の学会に変わったんでしょうか?
創立後8年経った1996年、会誌「ユリヤガイ」の発行が停滞していたので、私が地元から編集を依頼されたんです。「好きなようにしていい」と言われたので、当時大学院生で時間の有り余っていた私は、本当に好きなようにさせてもらいました。まず、会誌を英文や新種記載も掲載可能な「The Yuriyagai」にして、査読制を導入し、世界中の著名な研究者約20人と直接交渉して常任査読委員に就任してもらいました。それと国内には、うちとは別に日本貝類学会という、1928年創設で会員数も700人を超える、貝類学関係の学術団体としては世界最大規模の老舗学会があるんですけど、これの年次大会を2000年に山口市へ誘致して、うちの会のメンバーで開催を支えました。
軟体動物多様性学会の前身は山口貝類談話会という小規模な団体だった。左が会誌「ユリヤガイ」3号、右が当時大学院生だった福田先生がテコ入れして刊行された4号。
ところが、これは全くの偶然なんですが、貝類学会大会の少し前に大きな事件があったんです。山口県の上関(かみのせき)というところに原子力発電所の新規立地計画があるんですけど、1997年にその予定地の目と鼻の先の、八島という島で新種の貝を発見したんですよ。しかもただの新種ではなくて、巻貝の進化の大きな分岐点にあたる、ミッシングリンクに相当する種だったんです。ウミウシとカタツムリの仲間を合わせて異鰓類という大きなグループなんですが、問題の新種はその一番根元の共通祖先に近いんです。しかも当時は世界全体でもわずかしか記録がなく、北半球の太平洋全体で初めての発見で、そんなものがよりによって原発予定地のすぐそばで見つかったと。
左:(2〜8)ヤシマイシン(9)ヒメシマイシン
八島で、そして追加の調査によって原発建設予定地内でも発見されたTomura yashima。この貝がいなければ、その後の貝類の進化は今とはまったく違っていたかもしれない。維新であり革命であるということで、和名はヤシマイシン(カクメイ科)と命名したのだそう。
右:Winston F. Ponder 博士と福田先生(シドニー、2005年3月、Julie M. Ponder 氏撮影)。
その貝にはカクメイ(革命)科ヤシマイシン(八島維新)という名前をつけました。なぜならその貝の祖先がこの世に現れなければ、その後に出現したはずのウミウシやカタツムリなどは、一切この世に存在しなかったかもしれないんです。1999年後半には、原発計画の是非とこの貴重な貝の保全をめぐって、山口県を二分する途轍もない大騒ぎに発展しました。
それで、同じカクメイ科に属する貝を世界で最初に発見したオーストラリアのウィンストン・ポンダー(Winston F. Ponder)という、「史上最強の貝類学者」と言われるものすごい人がいるんですが、せっかくだからこの人を前述の貝類学会の山口大会に呼ぼうということになりました。実際に欧米からポンダーふくむ4名の、我々の分野では超有名なスーパースターと呼べる研究者たちを招聘して実際に研究発表もしてもらって、そのまま原発予定地での貝類相調査に一緒に行ったり、山口県庁に予定地の環境保全を求める申し入れもしたんです。
そんなことがあって、ポンダーとも非常に懇意になりました。私が学位論文で取り組んだテーマと、ポンダーが学生時代以来最も得意とする分類群が大きく重なっていることもあり、それから20回以上シドニーに呼ばれて、今でも共同研究を続けています。連れ立ってオーストラリア東海岸を採集して回り、ケアンズからアデレードまでの海岸線約3000kmを、車で完全走破しました。
ポンダーはオーストラレイシア軟体動物学会というオーストラリアとニュージーランド両国合同の学会を長年率いていたんですが、もともと両国とも人口が少ないから会員数も非常に少なくて、たった60人ほどしかおらず、常に存続の危機にあったんです。逆にうちは山口県限定なのに、その時点で倍の120人くらい会員がいました。そこでポンダーが、学会誌モルスカン・リサーチ(Molluscan Research)の刊行だけでも共同でやらないかとサシで提案してきたんです。こちらとしては願ってもないことですよ。もともとは山口県ローカルの泡沫団体だったのが、突然「史上最強の貝類学者」と共に、正真正銘の国際誌を発行できるようになったんです。いわば草野球チームがそのままでメジャーリーグ参入を認められたも同然です。そんなわけで、こちらも相変わらず山口県限定を標榜するのはいくらなんでも無理があるということになって、2009年に山口貝類研究談話会を改称して軟体動物多様性学会にしたんです。
――なんとも壮大な話で驚かされます!
後編では、貝類の保全や軟体動物多様性学会公式twitterを始めた動機について伺います。
*後編はこちらです。