生き物の情報を末永く保存するための標本は、生物学の研究にとって不可欠なものだ。
昔から研究者たちは標本作りのためのさまざまな手段を考え出してきた。カラカラになるまで乾燥させる、保存液に浸ける(液浸)、樹脂に封入する、最近では生体組織に含まれる水分をそっくり樹脂に置き換えてしまうプラスチネーションという技術も使われるようになった。
そんな標本技術の歴史に新たな1ページを書き加えたのが、九州大学・持続可能な社会のための決断科学センター・特任准教授の鹿野雄一先生だ。生き物の姿形を3Dのデジタルデータとして保存することで現物標本の弱点を克服する、バイオフォトグラメトリという技術についてお話を伺った。
ナマモノである生物標本には様々な制約がある
バイオフォトグラメトリについてお話を聞く前におさらいしておきたいのは、従来作られてきた生物標本のナマモノゆえの限界の数々だ。
たとえば、下の写真を見てもらいたい。
青や赤の美しい婚姻色(繁殖の時期にだけあらわれる、異性にアピールするための体色のこと)が出たオスのオイカワ
しかしホルマリン浸けの標本にするとこの色は消えてしまう
あんなに綺麗だったオイカワが変色してなんとも残念な色に……。ホルマリン浸け標本が重要であることは間違いないけれど、これを見ても生きているオイカワの姿を想像するのは難しいだろう。
このように、生き物の姿を保存するとは言いつつ、従来の方法では経年劣化による変色や風化は避けられない。他にも、害虫やカビを避けるために厳重に管理しないといけないことや、それゆえに貴重な標本はなかなか公開できないといった制約があるのだ。
生き物の生前の姿を(ほぼ)そのまま記録!
そんな制約を解消することが期待されているのが、バイオフォトグラメトリによる3Dデジタル標本だ。
百聞は一見に如かずということで、早速見ていただこう。(マウスで右クリックしながら動かすことで、360度あらゆる角度から観察することができます)
そのほか、3Dコンテンツのプラットフォーム「Sketchfab」で多くの生き物のデータを公開中
(https://sketchfab.com/ffishAsia-and-floraZia)
筆者は初めてこの標本たちを見たとき、「これはすごい!」と思った。
CGで作られた動物はこれまでにも見たことがあったけれど、こっちにはなんだか生々しさのようなものが感じられたからである。その秘密は、本物の生き物から直接形と色のデータをとってくる作り方にあるようだ。
「物体の写真をいろいろな角度から撮影して、専用のソフトウェアで合成して3Dモデルを構築するフォトグラメトリという技術の応用です。標本化したい生き物を糸で吊るして、回したり自分が動いたりしながらとにかくいろんな角度から写真を撮る。そしてそれをソフトウェアで処理する。やってることとしてはこれだけなんですね。地形や遺跡といったものを記録するために以前から使われていた技術なんですが、これを生き物に応用していろいろな種をモデル化したのは僕が初めてです。実を言うと、バイオフォトグラメトリという言葉も論文を描くときに思いついた造語なんです」
糸で吊った生き物の写真を、とにかくいろんな角度から撮る。カメラと糸とデータ処理用のパソコンさえあればできるので、採集したその日のうちに宿で済ませてしまうこともあるという。
これは意外、技術そのものは前からあったのか!つまりは発想の勝利だったと。
「そう、意外とだれも思いつかなかったんです。ただ着想さえあれば誰でもできるかと言うとそうでもなくて、とにかく撮影が難しい。写真を撮りさえすればよいというわけではなくて、綺麗なモデルを生成するためにカメラやソフトウェアの癖とか標本の状態とかいろんなことを考えながらやっています。そして今のところそのマニュアルは未整理の状態で僕の頭の中にあるだけです」
まさに職人芸。最新技術であるバイオフォトグラメトリだが、製作の過程は大昔からある剥製や昆虫標本と同じように人間の技によって支えられていたのだ。どんなコツがあるのだろうか?
「とにかくいろいろなことを考えながらやっていますが、あえて一つ上げるなら速く撮ることですね。魚類や両生類は表面が乾燥すると見え方がどんどん変わっていくし、植物なんかも萎れてしまいます。ソフトウェアにアップロードできる写真の上限が500枚なんですが、これを2分くらいで撮ってしまいます」
2分で500枚ということは、1秒に4枚強撮らなければならない計算になる。ゆっくり思案しながら撮影していられないのは当然だ。ネタの鮮度が落ちる前に完成させる、その極意はまるで寿司職人のよう。鹿野先生も同じように感じていたらしく「実は日本的かなと思っています」と言っておられた。
劣化せず場所も取らない3Dデジタル標本
こうして作られた3Dデジタル標本は、データさえきちんと保持されていれば作ったときの状態のままいつまでも置いておくことができる。最強の保存性をもっているのだ。
インターネットを通じて誰でもアクセスできることも大きな強みである。当初、博物館などからオファーが来ることを期待していた鹿野先生だったが、予想に反して寄せられた反応の多くはエンタメ界隈からのものだったという。
「たくさんの問い合わせなどをいただいていますが、そのほとんどはAR(拡張現実)やVR(仮想現実)を使ったエンタメ業界からのものでした。たしかにとても相性がいいと思うんです。デフォルメしたものではない、限りなく現物に近い生き物を手軽に鑑賞できるようになるので」
都会にいながら生き物の観察会ができるようになるかもしれないというわけか。実現すればとても楽しいにちがいない。入口はエンタメかもしれないが環境教育につなげていくことができそうである。
決して完璧な存在ではない3Dデジタル標本
現在までに約800種を標本化したという鹿野先生。ここからはひたすら3D化の作業を進めていけばいいのかというと、どうやらそこまで単純な話でもないようだ。バイオフォトグラメトリを使った3Dモデル化に向いた生き物とそうでない生き物がいるという。
「ソフトウェアとの相性でモデル化のしやすい生き物の筆頭が魚とカニ、逆に苦手なのはクモです。クモは意外と体が柔らかく、エタノールで固定しても形を2分間さえ保つことが困難で、色もすぐに変わりやすいんです。それから、小型のエビのような半透明の生き物は今の時点では不可能ですね。糸で吊って撮影するという特性上柔らかい生き物も苦手で、だからクラゲなんかは絶対無理だと思います。トンボやセミの透明の羽も以前は再現できなかったんですが、こっちは透明にしたい部分を先に白く塗っておいて、あとからパソコン上で透明化する処理を施すことで克服できました」
透明にしたいパーツを白く塗ってから撮影し、パソコンに取り込んでいったん3Dモデルを構築、それからテクスチャデータと呼ばれる色情報を格納したファイル上で白い部分に選択的に透明化処理を施す。
こうすることで、少なくともクマゼミのような部分的に透明な生き物であれば再現できるようになった。
「ただ、さっきも言ったように全身が透明だったり半透明だったりするような生き物にはこの裏技は使えません。見る方向によって見え方が変わるような生き物は苦手なんです。ここらへんは、ソフトウェアが改良されてなんとかなるかもしれないという話はありますが、どうなるかは未知数ですね」
生まれたばかりのバイオフォトグラメトリはまだまだ成長期にあるのだ。
また、バイオフォトグラメトリによって生き物の外見についていかに詳細な情報が得られたとしても、それだけで生き物を再現したと考えるのは早計だと先生は言う。
「ぼくは、3Dデジタル標本というのは正確には2.5次元+RGB(色情報)だと思ってるんです。表面的には生き物の姿を再現できていたとしても、CTスキャンのように内部の情報が残るわけではないんです」
病院でおなじみのCTスキャンだが、生物学の世界でも古参だ。X線を当てることで場所ごとの固さの情報を読み取るため、骨や内臓といった生き物の内部の情報を立体的に把握することができる。写真はCTスキャンで撮影されたヤマメ。
「DNAの情報を読むためには体組織の標本が必要だし、バイオフォトグラメトリが表面の色を保存できるといってもやっぱり細かい質感とかは現物を見ないとわからないですよ。だからどの標本化の方法が優れてるとかではなくて、相互に足りない部分を補完し合うようなものなんです。乾燥もしくは液浸した現物の標本、DNA情報、CTスキャンデータ、3Dデジタル標本が揃えばほぼその生き物の情報を網羅できるので、将来的にその4つをセットで保管できればいいとは思います」
フィールドこそが原点
物珍しさもあって新しい技術はもてはやされがちだけれど、古い技術と併用されてこそ真価を発揮するということだろうか。そしてそれらの技術を総動員しても、野外で観察する生き物から得られる情報量には及ばないのだという。3Dデジタル標本の技術を開発したとあって技術屋気質の人物を想像していたが、実は生粋のフィールドワーカーであるというのが鹿野先生のおもしろいところなのだ。
かつては断崖絶壁に生育するランやシダなどの植物をテーマにクリフエコロジーの研究(断崖に生育する植物などの研究)もしていたという鹿野先生。断崖絶壁をロープで降下しながら植物を調査する作業はとても危険で、「今は運動能力と集中力が落ちたので止めました」とのこと。
コロナ禍が始まる前は東南アジアや中国を中心に淡水魚を研究していた。
バイオフォトグラメトリの着想もそうしたフィールドでの採集から得られたものなのだそうだ。
「石垣島で調査をしたときにタイワンコオイムシという水生昆虫を発見したんですが、これがじつは日本国内では56年ぶりに確認された、もう絶滅したと考えられていたとても珍しい昆虫だったんです。そのまま博物館に納めてしまってもよかったんですが、せっかくだから自分でもデータを撮りたいと思って、最初はCTスキャンにかけようとしたんですね。でもそのときたまたまCTの機械が壊れてて、どうしようかと考えてるときに、そういえばフォトグラメトリっていうのがあったなと思いついたのが始まりです」
56年ぶりの昆虫を見つけてしまうのもすごいが、それをきっかけにしてさらにバイオフォトグラメトリを作ってしまったのも驚きだ。
現在、肝心の学術分野がバイオフォトグラメトリに寄せる反応はまだまだ。対照的にエンタメやメタバース界隈から熱烈なラブコールを受けていることは上でも書いたとおり。これについて鹿野先生は「しばらくはエンタメ中心で使ってもらうのでもいいかなと思っています。科学・学術の分野というのは意外と保守的なものだから」と前向きな様子。具体的には、モデルの映画への出演依頼やAR・VRイベントの開催など、いくつかの企業から話があるそうだ。
バイオフォトグラメトリ、この新技術が今後どう社会に浸透していくのか目が離せない。