広島県の大久野島は、たくさんのうさぎたちが暮らす「うさぎの島」として知られる瀬戸内海の小さな島です。かわいらしいうさぎたちとのふれあいを求めて多くの観光客が訪れるこの島は、1929年から1944年までの約15年間、毒ガスが秘密裏に製造されていた場所でもあります。そうしたこの島の戦争の記憶と環境問題に焦点を当てた絵本『うさぎのしま』(世界文化社)に携わった福島大学の兼子伸吾先生に、DNA解析でわかったことや、人と自然とのかかわりについてお話を伺いました。(メイン画像写真提供:兼子伸吾)
実験動物の末裔?大久野島調査のきっかけとは
兼子先生が専門とするのは、保全生態学と分子生態学。それぞれどのような学問分野なのでしょうか。
「保全生態学は、生き物の生態を調べて保全に活かすという研究分野です。わかりやすい例として絶滅危惧種の保全や、生態系を管理するための外来生物対策があります。分子生態学は生き物のDNAから生態を調べる学問で、分子生態学で得られた情報はさまざまな生き物の保全や管理に有用なんです」と兼子先生。
もともとは人の管理によって維持されている里山や草地に生育する絶滅危惧植物を研究していた兼子先生ですが、最近は植物以外にも研究対象が広がってきたといいます。今回の大久野島でのうさぎの調査は、絵本作家で『うさぎのしま』の作者の一人である舘野鴻さんとの対談がきっかけだそう。
「新潟県にある『「森の学校」キョロロ』という科学館で舘野さんと対談する機会がありました。舘野さんとはウマが合って仲良くなり、いろいろな話をしました。アマミノクロウサギ(奄美大島・徳之島に生息する特別天然記念物のウサギ)の研究でおもしろい結果が出ていたので紹介したところ、舘野さんから、『大久野島の白いうさぎは実験動物の末裔なのかどうか調べられますか』と提案を受けたんです」

兼子先生が調査している里山の絶滅危惧植物ヒゴタイとミチノクフクジュソウ.ヒゴタイは広島県庄原市、ミチノクフクジュソウは福井県勝山市でそれぞれ撮影(写真提供:兼子伸吾)
以前から大久野島のうさぎの存在はなんとなく知っていた兼子先生ですが、研究の対象になるとはまったく思っていなかったそうです。しかし舘野さんの疑問を聞いて、やってみようということに。
毒ガス工場で実験に使われていたうさぎは終戦時に殺処分されたと伝えられており、現在大久野島に住むうさぎの祖先は、1970年代に小学校で飼育できなくなって放された8羽のうさぎだと言われています。果たして本当にそうなのでしょうか。大久野島のうさぎのルーツを調べる研究が始まりました。
“DNA鑑定”で大久野島のうさぎのルーツを探る
2023年9月にはじめて大久野島を訪れた兼子先生は、うさぎたちが駆け寄ってくる島の風景に、複雑な気持ちを抱いたといいます。
「うさぎたちは本当に可愛いです。でも、子うさぎがたくさんいるということは、たくさん生まれてたくさん死んでいるということが生態学者として容易にイメージできるわけです。また、かつて毒ガスを作っていたという島の背景も相まって、多くの死が関わる場所だという印象を受けました」
翌2024年の春、兼子先生は学生さんたちと島を再訪し、DNA分析のためのサンプルを採取。通常、DNA分析には筋肉や毛を採って、その細胞からDNAを抽出するのですが、大久野島のうさぎは触れてはいけないことになっているので、糞を集めることに。
「糞の中にも実はうさぎの細胞が残っています。筋肉や毛の細胞に比べると精度は落ちますが、今回260個以上の糞を採取し、その中の細胞のDNAを分析してうさぎたちの血縁関係を調べました。いわばDNA鑑定ですね」

大久野島でのフィールドワークの様子(写真提供:兼子伸吾)
DNAには、「マイクロサテライト遺伝子座」と呼ばれる繰り返し配列の領域があります。この繰り返し配列の長さの違いで、血縁関係の有無がわかるのです。これは人間の親子関係の調査や犯罪捜査で行われるDNA鑑定と同じだそうです。
大久野島のうさぎはもともと家畜のカイウサギであるため先行研究が豊富で、必要なDNAの情報はかなりの部分がわかっていると兼子先生。
「絶滅危惧植物などは先行研究がない場合がほとんどなので、まずDNAのどこを調べればいいのかというところから調べていかなければなりません。膨大なDNAの情報の中で、目的の分析に使うことができるところはごくわずか。そのわずかな場所を突き止めて、ようやく本当に知りたいことについての調査が始められます。その点、すでに蓄積されている情報を利用できるカイウサギは調べやすい動物ですね」
自然の動植物の調査は結果が出るまで数年かかることも珍しくありませんが、2023年からはじまった大久野島のうさぎの調査は、すでにある程度の結果が出ていると兼子先生はいいます。
島で起こった出来事が手に取るようにわかる
それでは、大久野島のうさぎのルーツについて、どのようなことが明らかになったのでしょうか。
「DNA分析の結果、島にはさまざまなうさぎの家系がいることがわかりました。もし、小学校で放した数羽のうさぎが祖先であるとか、あるいは実験動物の生き残りが逃げて増えたということであれば、今の島のうさぎはみんな親戚ですから、単調な家系になるはずです。でも実際にDNAを調べてみると、いろいろなタイプのDNAがあって、多様な家系であることがわかった。これは予想できていたことです。なぜなら、小学校で放されたうさぎは白うさぎと白黒のうさぎであることが新聞記事に書かれているのですが、島にはいま黒や茶色など多様な色のうさぎがいるからです。つまり、いろいろなうさぎがずっと捨てられ続けてきたことは間違いない。それがDNA分析に基づく科学的なデータでも示されたということです」

大久野島から持ち帰ったウサギの糞からDNAの抽出を行っているところ(写真提供:兼子伸吾)

マイクロサテライト分析の様子とその結果に基づく大久野島内のうさぎの血縁関係とその分布を可視化した図(写真提供:兼子伸吾)
さらに、うさぎの楽園のようにいわれる大久野島ですが、実際はうさぎがグループ同士で激しく争い合う厳しい世界だと兼子先生はいいます。
「うさぎたちは島の中でいくつかのグループを作っていますが、それはほかのうさぎを押しのけて場所を取ったり、追いやられて別のところに移ったりした結果なんですね。そうしたシビアな状況が解析から見えてきました。僕は島のうさぎの履歴を見てきたわけではなく、糞を拾ってDNAを調べただけですが、その結果からどのようなことが起こってきたのかが手に取るようにわかる。これは分子生態学の醍醐味の一つです」

実は厳しい縄張り争いが…!さまざまな毛色の大久野島のウサギたち(写真提供:兼子伸吾)
また兼子先生は、議論の土台となりうる科学的データを出すことも保全生態学の重要な役割であるといいます。小学校で放されたうさぎや実験動物の生き残りが大久野島のうさぎの起源だという話は、わかりやすく美しい物語です。しかしその物語ではカバーしきれない、人間が捨て続けたという事実に目をつぶるべきではないと兼子先生は指摘します。
「それを認めてはじめて、島のうさぎのために取れる対策があるはずです。島を訪れる人は、可愛いうさぎを見たいという気持ちだけで終わらずに、それをきっかけにしてより深くうさぎの置かれた状況のことを知ってほしいと思います」

実験動物となった白うさぎが島の歴史をたどる。いろいろな毛色のうさぎも描かれている。『うさぎのしま』近藤えり、たてのひろし著(世界文化社)
自然を素直に見る心が大切
さまざまな生き物の生態を研究対象とする兼子先生は、福島県の原発事故による帰宅困難区域のブタとイノシシについての調査も行っています。
「人が避難したあとに残された家畜のうち、ブタは野生のイノシシと交配できます。そのため帰還困難区域ではもうイノブタばかりになっているといった情報が広がっていました。でも、本当なのだろうかと思って調査を始めました」
大久野島のうさぎの調査と同じようにDNAを解析して、実際にどれくらいブタとイノシシが混じっているのかを調べたところ、巷で言われているほどブタの遺伝子はイノシシに入っていないことがわかりました。さらにいったんイノシシに入ったブタの遺伝子も、だんだん消えていっていることもわかりました。これらはとても重要な知見だと兼子先生はいいます。
「交配で生まれたのがたまたまこの地域で増えにくい系統だったということで、運がよかったといえます。たとえばアメリカではブタとイノシシの雑種が広がって、さまざまな被害が深刻だという研究もあります」
日本でも、京都のオオサンショウウオは中国のオオサンショウウオとの交雑が進んでしまい、純粋なオオサンショウウオは激減しています。幸い、今回の福島の事例ではイノブタがイノシシを駆逐して広まることはありませんでした。しかし、ある生物種にほかの種の遺伝子が人為的に浸透してしまった場合、どんなことが起こるか予測できないと兼子先生は危惧します。
大久野島のうさぎや福島のイノブタの研究を通じて、兼子先生は、生き物に関する“わかりやすい話”を鵜呑みにするのではなく、それが本当なのかよく考えることの大切さを伝えたいと話します。
「たとえば、メガソーラーが増えたからクマが山から出てくるようになったというようなことが言われますが、生き物の問題はそう単純ではありません。生き物の問題に関してはわかりやすい話、もしくは美しい話などが語られがちですが、生き物のふるまいには予想外のことが多く起こります。問題にきちんと対処するためには、実際に何が起こっているのかを正しく理解することが不可欠なんですね。“自然を素直に見る心”を育てなければならないのです」

「育てよう、自然を素直に見る心」。先生の知人の言葉だそう。「ずっと好きな言葉ですね」と兼子先生
私たちはよく、「自然との共生が大切」などといいます。しかし一般的に「共生」は互いに利益をもたらす関係をさすために美しい物語に回収されがちです。
「『共生』ではなく、いろいろ問題はあるけれど何とか同じ空間を使い合っている『共存』を使うようにしています」という兼子先生の言葉が印象に残りました。
(編集:河上由紀子/ライター:岡田千夏)