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宇宙の広がりから生き方を学ぶ。奥深きインド哲学への入り口を、名古屋大学・岩崎陽一先生に聞いた。

2024年2月22日 / 大学の知をのぞく, この研究がスゴい!

近年、映画や食文化を中心に日本でのインド人気が高まりを見せている。しかし、紀元前から文明を紡いできたインドに対して、私たちが持ち得る知識は、ほんの一部。そんな未知の領域ともいえるインドを知る上で、ヒントとなるのがインド哲学だ。宗教や心理学と地続きで、世界の本質や普遍的真理を追究しながら最終目標である解脱を説くインド哲学は、西洋哲学とは異なる切り口で人間の生き方に影響を与える。名古屋大学大学院の准教授でインド哲学の研究者である岩崎陽一先生に、インド哲学の成り立ちや西洋哲学との違い、現代におけるインド哲学の役割などについて話を伺った。

ニュー・アカデミズムへの傾倒を経てインドに開眼

さっそくインド哲学の話から始めたいところだが、まず気になるのは「なぜ、先生はインド哲学を選んだのか」。少年時代は吉本隆明、蓮實重彦や浅田彰などのニュー・アカデミズム、哲学者のジル・ドゥルーズなどに触れたという岩崎先生。そこからなぜ、インド哲学に?

 

「当時は周囲がみんなニュー・アカデミズムを褒めていました。自分もそれに染まりつつ、でも自分は少し違うぞと、ニューエイジなどに関心をもっていた。加えて音楽ではYMOや、精神世界をテーマにすることが多いプログレッシブ・ロックなどを聴くようになり、組み合わせ的にインドにハマるしかない宿命だったんですよね。大学でインド哲学に目をつけた自分はマイノリティというか、そこにかっこよさのようなものさえ感じて勉強していました」

 

ニュー・アカデミズムを離れてインド哲学にたどりつき、没頭するに至ったと先生は語る。

 

「自分の価値観にないものにあふれているというのが、インド哲学にハマった大きな理由です。私は今、世界が秩序だっていること、つまり物事に必ず原因が存在するのは偶然なのか必然なのかということについて研究しているのですが、こんなテーマはインド哲学に出会わなければ考えもしなかったと思います。もっとシンプルなところでは、サンスクリット語の文章を読むことが楽しくてたまらないんです。内容は学術書でも文学作品でも何でもよくて、遠い昔に書かれたサンスクリット語の文章を読んで、当時の人たちの考えを知りたいがためにインド哲学を学び続けているといってもいいでしょう」

 

学生時代からベンチャー企業で働いていた岩崎先生は、多忙な会社員生活から抜け出すため、24歳でインドに留学。大学時代に座学で得た知識と現地の状況との違いにカルチャーショックを受けた。

 

「インドには3年間留学しました。現地で最も驚いたのは教育のあり方です。大学では日本と同じように先生が大人数の学生に授業を行っていますが、インドにおける伝統教育では、師匠に弟子入りして個人指導を仰ぐというスタイルが普及しています。勉強の目的も研究ではなく、師匠からの知恵を受けつぐことが重要とされ、弟子は先生が言ったことを丸暗記して次の世代に伝える。優秀な伝言ゲームの参加者を育てる感覚ですね。私もインドの大学院で修士課程に在籍していましたが、大学が終わった後は1000年続く学者の家系の師匠のもとで個人指導を受けていました。

帰国後は特に研究者になる!という意識を持っていたわけではなく、気がついたら大学の教員に。私の取り組みは、師匠たちと同じく古代インドから伝承された知恵や倫理観を分かりやすい言葉で伝えていくことを主軸としています。しかし、それだけだとインド哲学の社会的意義が低いとみなされ予算も付かないので(苦笑)、研究や論文執筆も行っています」

宗教と地続きなインド哲学の概念

先生の話で、インド哲学がより気になってきたが、一般的によく知られている西洋哲学とインド哲学との違いは何なのか。岩崎先生は、「3000年の歴史を持つインド哲学を、西洋哲学と同じ枠組みで語ることにそもそも違和感がある」と語る。

 

「西洋哲学はソクラテスやプラトンが築き上げたものの伝統の上にありますが、私が研究しているインド哲学や中国哲学は、まったく違う文脈から生まれてきたもの。だから、哲学というのは西洋哲学のことであり、それ以外はそもそも哲学ではないと言われることもあります。私はそれでもいいと思っています。哲学的であることさえ認識してもらえれば、別に哲学と言ってくれなくてもいい。哲学(philosophy)という言葉がインドに入ったのは植民地時代のことで、使われるようになってせいぜい百数十年から数百年と新しい言葉です。インドの思想家たちからすると、自分たちのやっていることが哲学であるという自覚もなかったと思います。西洋哲学に通じるものがあるということで東洋思想も哲学の文脈で語られるようになり、かつてはたとえば西洋=有の哲学、東洋=無の哲学というようなくくり方をされることもありましたが、こうやって大雑把にくくることは生産性に欠けるかと。比較哲学で有名なハワイ大学で私が研究を行っていた時は、東洋と西洋の比較よりも、個々の思想や言説を丁寧に捉えて新たな知を産出するborderless philosophy(境界のない哲学)を実践していました」

 

インド哲学にはミーマーンサー学派、ヴェーダーンタ学派、ニヤーヤ学派、ヴァイシェーシカ学派、サーンキヤ学派、ヨーガ学派という6つの学派(六派哲学)があり、それぞれに異なる教えを説いているが、この学派の区分もインド哲学の全体像を示すものではないという。

 

「六派哲学はインド哲学の入門段階で必ずといっていいほど語られる項目です。この6つは2つの学派×3という感じでグループにわけられます」

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「1つのグループはミーマーンサー学派、ヴェーダーンタ学派で、バラモン教の聖典であるヴェーダに書かれていることから知恵や理論を引き出します。2つ目のグループは、ニヤーヤ学派、ヴァイシェーシカ学派。私たちの経験や認識、言語など、人間の側に立ち、聖典の正しさすらも論証の対象にします。残りの1グループはサーンキヤ学派、ヨーガ学派で、私たちはどこから来たのかを考え、ヨーガ(瞑想)によりそこへ還る方法を追求しています。ただ、これら6学派がセットで語られるようになったのはごく最近のことで、インド哲学を捉える上でこの6つ以外の考え方がないわけではありません。これらを「学派」と呼んでよいのかも難しいところです。とはいえ、私もニヤーヤ学派に弟子入りし、ニヤーヤ学派の思想家の著作を好んで読んで、聖典や宗教的権威を絶対視せず、経験に基づいた論証こそが重要という反権威主義的な姿勢が気に入っています」

 

多様な宗教が混在するインドの中で、インド哲学と宗教はどのように関連しているのか。この課題についても西洋的な宗教の概念と現地の人々との間で乖離があることが伺われる。

 

「哲学と同じく宗教も西洋から持ち込まれた概念です。インドでは宗教と哲学が一体化しているというようなことがよく言われますが、それは当然で、異なるふたつのものがあったわけではありません。ですから、インドにおける知的現象を、『これは宗教、これは哲学』と分類するのは、あまり意味があるものではありません。たとえばミーマーンサー学派の聖典論も、ニヤーヤ学派の認識論も、きわめて宗教的であり、また哲学的でもあります。どちらも宗教かつ哲学であり、同時に、単なる宗教でも単なる哲学でもありません」

2つの方法で読み解く古代インドの思想

独自の宇宙観に基づいて真理を追究するインド哲学。研究においても、長い歴史の中で知的営みを紡ぎ、無限にも感じられる広がりを見せている。

 

「インド哲学の研究にはさまざまなアプローチがあるのですが、中でも文献学による研究と哲学的研究が代表的です。文献学は割合でいうと圧倒的にマジョリティです。古代の文献を可能な限り正確に読み解き、文献の内容と歴史を解明するのが文献学。私たちが読もうとしている、数百年、数千年前に書かれた文献は、たとえサンスクリット語ができたとしてもなかなか理解できません。読んでみて、何を言いたいのかちっとも分からない文献というのがいくらでもあります。これは、読者の学びが足りないことのほかに、テキストが伝承される段階で文章が改変されたり、保存状態が劣悪で、オリジナルのテキストがわからなくなるといったことが原因となっています。文献学では、多くの古文書を集めて、テキスト批判という方法に依拠してオリジナルのテキストを推定・復元します。このためにインド中の図書館を巡って写本を集めるのが個人的に最も楽しい仕事です。不勉強という点については、著者である古代インドの哲学者の知識に私たちが追いついていないことが原因。その溝を埋めるために、文献学では思想史研究も行います」

 

古代の思想文献から現代に生きる知恵を得るために不可欠とされるのが、現代の視点から古代の思想家たちの考えを分析する哲学的研究。しかし、その実践には主流派である文献学者から煙たがられるという壁が立ちはだかっている。

 

「文献学の目標は、文献に書かれている内容を明らかにすること。その先の段階に進み、古代の文献で問われている問題の本質を明らかにしたり、そこから普遍的な価値を得るためには、哲学による応用的な研究が必要になってきます。哲学的研究では、インド哲学以外の知見も取り入れて、さまざまな問題を論じます。私としては楽しく取り組めるのですが、これは、あまり深入りすると『それはどの文献に書いてあるんだ』『知りたいのは文献に書かれた思想であって、あなたの思想ではない』と言われてしまうことになります。こういう研究をやっていると、イロモノ、「あっち方面の人」として見られてしまう。しかし、古代の思想家たちが考えていた問題の本質や構造を明らかにし、現代に通じる知見を得ることは大切なことだと思います。どうにか文献学ともっと手を取り合って進められないかと考えています」

現実を受け入れ、人生を豊かにするインド哲学の考え方

戦争や大規模災害など、不安定な状況が続く世界情勢。現代社会は、ともすればネガティブな感情を連鎖させかねない危険に満ちている。インド哲学の思想は、このような社会で、どのように人々の心を前向きにさせるのだろうか。

 

「現在の社会が抱える不安定な状況は、インド哲学の考え方においては“やがて滅びゆく世界”の中で必然なこととして捉えられ、改善できるものではないとされるでしょう。末法の世は、いつか滅ぶようスケジュールされていて、その後、また新しい素晴らしい世界が始まります。早く素晴らしい世界が始まってくれればいいのですが、世界がずっとこのままで何百年と苦しみが続く場合はつらいですよね。でも、インド哲学には、この苦痛が続く中で私たちはどのように生きていったらよいか、という知恵があります。端的にいうと現実を『仕方のないもの』として受け入れ、世界の安定ではなく自分の安定、自分の心の平和を実現しようとする考え方です。そのために、不満やヘイトを撒き散らすのでなく、心を乱さずにやるべきことをやって、未来社会でなく未来の自分に希望をもつ。物質的な豊かさが破綻を迎え、価値観の変容が迫られる中で、インド哲学の考え方は、それほど幸せでない世界を生き抜くためのお手伝いができると思っています。私も小さな子どもを持つ身なので、子どもたちが将来、楽しい人生を送れるために頑張りたいと思います」

岩崎先生のX(旧Twitter)より。オープンキャンパスで研究室の前にフォトスポットをつくり、インド哲学の普及につとめる

岩崎先生のX(旧Twitter)より。オープンキャンパスで研究室の前にフォトスポットをつくり、インド哲学の普及につとめる


焦りやもがくことではなく、受け入れることから始めるというインド哲学の人生観。その教えは、さまざまな年代層に寄り添い、現代社会でよく聞かれる「生きづらさ」を解消するヒントも含んでいる。

 

「若い世代の人たちの間では“親ガチャ言説”や将来に対する悲観など、自分の生を失敗だと捉える考え方が流行する傾向があります。しかし、そこで生まれてきた現実を否定するのではなく、よりよい自分に向かうチャンスなのだと捉えたら自己否定にも走らないし、生きる指針を得ることができます。年配の方でも、人生の終着点を意識したときに『自分は歴史に残るようなことを成し遂げていない。これまでの人生は、いったいなんだったんだ…』と悩む方がいるかもしれません。しかし、インドの考え方で大事とされているのは、今ある世界を後世につなぐこと。自分がインパクトを残すよりも現状を維持して、良いものを残していくことが素晴らしいとされています。それが意義のある人生を過ごした証になるので、偉業を達成していないからといって人生を悲観する必要はまったくありません」

 

近代化の波を受け、急成長を遂げるインドで、現在も受け継がれるインド哲学。3000年の歴史が積み重ねた叡智は無限の広がりを感じさせるが、「映画を中心とするカルチャーに触れることでも、インドを知るきっかけにしてほしい」と岩崎先生は語る。

 

「最近の日本では、昨年大ヒットした『RRR』など、シリアスな南インド映画が好まれています。しかし、私は歌って踊って恋をしてみたいな陽気な北インド映画が好きなので、機会があれば、こちらもぜひ観ていただきたい。現地では、都市部の高層ビルのそばでヤギやロバが追いかけっこするような『Incredible India』(信じがたいインド)な光景がみられ、目の当たりにすると本当に価値観が変わります。今は治安の関係で若干注意が必要ですが、新しい世界を知りたいという人には、ぜひ、実際に訪れていただきたいと思います」

日常生活に潜む要因への気づきを。メンタル不調の乗り切り方と、頼りにしたい医療機関の検索ツールについて関西大学の廣川空美先生に聞いてみた。

2023年7月11日 / 大学の知をのぞく, この研究がスゴい!

心の不調を感じる時、皆さんはどんな対処法を取っているだろうか。休養したり、趣味にうちこんだりして気晴らしをする人もいるだろう。それでも改善しない場合は、心の専門医を受診するという方法もある。だが、心療内科や精神科の受診にはハードルの高さを感じる人も多いようだ。

そのハードルが少しでも低くなるよう、必要なときに症状に合った専門医を検索できるWebサイトを作成したのが、健康心理学と職場のメンタルヘルスを専門とする関西大学教授の廣川空美先生だ。

 

心に不調をきたした際、自分のせいと思い詰める人は多く、頼れる人がいないことで症状を悪化させるケースも少なくない。こういった問題に適切に対応するため、発症の理由やかかるべき医療機関を知っておくことは、当人だけでなく家庭や学校、職場など周囲の人々にとっても課題であるといえる。

本記事では廣川先生に、このWebサイトの活用法、また心の不調との向き合い方について、くわしい話をお聞きした。

廣川先生

廣川先生

 

 廣川先生が作成に携わったWebサイト「大阪府版 事業場のメンタルヘルスこころの健康専門家ガイド」

廣川先生が作成に携わったWebサイト「大阪府版 事業場のメンタルヘルスこころの健康専門家ガイド」

日常生活に潜むメンタルヘルス不調の要因

特定の人がなるものと思われがちなメンタルヘルス不調だが、その要因は「普段の生活習慣に潜んでいる」と廣川先生は言う。

「抑うつ状態と睡眠の不調には、とても高い関連があります。生活サイクルの変化に体がついてこなくなって、それを克服しようとしてエナジー系のドリンクを飲むことにも注意が必要です。ドリンクに含まれるカフェインで頭や体を無理に覚醒させることで、不調の状態を悪化させる可能性があります。

大学生であれば、ゲームなどに没頭して昼夜が逆転してしまい、その影響でメンタル不調を引き起こすという事例も見受けられます。もう少し年齢の高い男性であれば、アルコールの摂取状況も判断材料の一つになってきます」

 

睡眠に何らかの不調を感じている人は少なくない (出典:厚生労働省 (2022) 令和4年度 健康実態調査結果)

睡眠に何らかの不調を感じている人は少なくない (出典:厚生労働省 (2022) 令和4年度 健康実態調査結果)

 

対人関係がメンタルヘルスに及ぼす影響も大きい。社会人として働く中、周囲と調和をはかれず心を病むケースは多いが、その要因が子どもの頃の体験にまで遡ることもあるという。

「親子間の関係はメンタルヘルスの問題において根幹をなしていることがあります。近年は児童虐待の相談件数が20万件を超えていますが、虐待など逆境体験のある人はメンタルヘルスになんらかの問題が生じることがあり、幅広い若年層のフォローについてもしっかり考えなくてはいけません」

 

廣川先生は、何気ない会話の中で、メンタルヘルスの不調を確認するきっかけとして、普段の生活習慣について尋ねるようにしている。

「明らかに調子が悪そうな人には、まず睡眠の状況を尋ねます。仕事や学業などでつまずいていてうまくいっていないと感じている人は、自分を責めてしまう人が多いのですが、うまくいっていない内容について問いただすよりも、普段の生活の状況を尋ねてみます。特に自分が十分な睡眠を取れていないことに気づいてほしい。その上で受診を勧めますが、抵抗を感じるならかかりつけ医の受診を勧めます。かかりつけの医師から専門医への受診を促してもらえる可能性があるからです。

薬で症状が抑えられているなら、仕事や生活に支障をきたすことがかなり減るでしょう。早い段階で不調に気づき、専門的な治療につながることでずいぶんと楽になるケースは多いので、まずは、しんどい時に自分の症状を的確にキャッチすることが重要です」

 

メンタルヘルスの不調に対して専門的な医療機関にかかったことがない場合、受診すべきボーダーラインは見極めが難しく、症状を悪化させるケースも多い。

廣川先生が作成したWebガイドは、キーワードの入力、もしくは「うつ病・抑うつ状態」「双極性障がい」「統合失調症」といった疾病、エリアなどの項目にチェックを入れて検索するだけで大阪府下のメンタル系の医療機関を表示し、自分に合った医療機関を見つけることができる。精神科の受診そのものに高いハードルを感じている人にとっては、こういった手軽な操作感は心の負担の軽減に繋がることだろう。

Webガイド 検索画面 https://osakas.johas.go.jp/kokoro/

Webガイド 検索画面 https://osakas.johas.go.jp/kokoro/

 

医療機関を受診する際、大きな課題となるのが家族や職場との距離感だ。

「受診していることを勤務先や家族に知られたくないケースが多々あります。これまで受診したことがなく躊躇している人にとっても、こういった検索サイトが足がかりになればと思います。

ただ、主治医の先生との相性などデリケートな側面もあるので、私たちとしては、『ここで受診すれば大丈夫!』という言い方はしません。あくまで、たくさんある選択肢の中から自分に合ったものを見つけやすくするためのツールとして使っていただけたらと思っています」

長年の調査から導き出した医療機関の検索Webガイド

日本では、厚生労働省による「産業保健活動総合支援事業」が2014年にスタートし、事業場(*)の健康相談に対する幅広い窓口が設けられるようになった。(*経済活動の場所ごとの単位。事務所、店舗、学校、病院、工場など)

 

近年では産業医や産業看護師がメンタルヘルスに対する知見を広げるようになってきたが、事業場から専門の医療機関への橋渡しの道筋は、明確には確立されていない。今回、制作されたWebガイドは、メンタルヘルスの疾患を抱えた社会人にとっては、まさに光明ともいえる道標だが、その制作背景には、廣川先生が長年向き合ってきた研究の歴史があった。

 

「岡山大学の医歯薬学総合研究科に助手として在籍していた頃、メンタルヘルスに関する医療機関のマップを作って、医院の雰囲気や臨床心理士の有無などの情報を載せるという研究に携わりました。その後、着任した福山大学でも同様のマップ作成を行い、福山市医師会のホームページで検索できるようにしました(現在は閉鎖されています)」

廣川先生

廣川先生

 

2010年より地元・関西で教鞭をとるようになった廣川先生は、大阪産業保健総合支援センター(以下、大阪産保)にも相談員として在籍。2013年には大阪産保の研究事業として大阪の事業場におけるメンタルヘルス対策と職場復帰支援のサービス提供に関する状況調査を実施した。この際に集積された情報が現在のWebガイド作成の基盤となった。

今後の社会とメンタルヘルスとの向き合い方

廣川先生が作成したWebガイドは、現時点で多くの医療機関や事業場に活用されている。しかし、今後、社会全体でメンタルヘルスに対する理解を深めるには、さらなる取り組みが必要であると語る。

廣川先生

廣川先生

 

「多くの人が持つメンタルヘルスへの抵抗感を払拭し、受診へのハードルを下げるには、世間の捉え方が今よりもライトになることが大前提。その上で厚生労働省が打ち出している『心の健康づくり計画(*)』を立てるといったガイドラインを企業や私たちが可視化し、安心して相談できる窓口を作っていかなければと思います」(*従業員の精神面における健康を守る取り組みに必要とされている施策。労働安全衛生法に基づき、策定が義務付けられている)

 

事業場においてメンタルヘルスの不調で休職・離職した場合、復帰支援へのサポートも大きな課題だ。

「職場復帰・社会復帰に向き合う際、ハードルとなるのが症状の再燃です。いったん改善が見られた場合でも人間関係や仕事のストレスなど、さまざまな要因がトリガーとなって症状を繰り返してしまうことも少なくありません。

 

現在、メンタルヘルスの問題は企業の利益に直結するものとして、医療系だけでなく、経済・経営の研究者からも注目が集まっています。小規模で産業医が在籍していない企業でも人事労務の方が熱心に勉強しているところもありますし、大手企業もメンタルヘルスに対するフォローを徹底する方向にどんどんシフトチェンジしています。今後、日本は労働人口が減っていく一方なので、こういった取り組みを進めて人的資本を大切にすることがトップに求められるかと思います」

 

今後のWebガイドの展開については広報活動に注力し、認知度を高めることが大きな課題と語る。医療機関と大阪産保、事業場の連携から、さらに広いネットワークの形成が期待される。

 

「調査時に開催した研修会に参加された企業などへ、Webガイドを活用していただくための声掛けを行っています。他にも独自で研究を行っている機関はあるので、いずれは連携を取っていきたい。そういった点と点が線で繋がり広がっていくことによって、メンタルヘルスに対する理解や対応は、今後、さらに改善されていくかと思います」

 

時代とともに移り変わってきたメンタルヘルスとの向き合い方。理解が追いついていない時代であれば、「心の弱さは自分の問題」「根性がない」など、心無い声が聞かれることも多かったが、廣川先生のWebガイドのような対応策が示されるようになった現代は、メンタルヘルスの不調が決して特殊な疾患ではないと認知される上で過渡期と言えるだろう。これらの取り組みの充実によって、当事者たちの心の負担が軽減されることを願ってやまない。

AIが導き出す曖昧なファッション表現への回答。ファッションインテリジェンスシステムの仕組みを早稲田大学の後藤正幸教授と清水良太郎さんに聞いてみた。

2023年6月22日 / 大学の知をのぞく, この研究がスゴい!

ファッションの分野では、「カジュアル」「かわいい」「フォーマル」など、さまざまな表現が用いられ、ユーザーは、これらのキーワードを参考に自分に合った服を購入する。しかし、趣味嗜好に大きく左右されるそれらの表現は曖昧性を多分に含んでおり、例えばカジュアルさの度合いや「少しフォーマルに寄せるとどうなるか」などの判断は、個人の感覚に基づいて行われることが定石とされてきた。

 

実際、雑誌やテレビなどのメディアでよく使用される「◯◯系のフォーマル」「カジュアル寄りの◯◯」などの表現は、もともとファッションへの関心が低い人にとっては大きな壁となり、さらにファッションを敬遠する要因にもなりかねない。衣服という日常的に使用するものだけに、手軽にアドバイスしてくれるサービスなりメディアがあれば、例えば「(オフィスカジュアルって言われても)何を着ればよいのか分からない」といったフラストレーションを軽減できるのではないだろうか。

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こうしたファッションの曖昧な表現を機械学習させ、コーディネートのアドバイスや解説を行うAI「Fashion Intelligence System(ファッションインテリジェンスシステム)」(以下、FIS)を研究開発したのが、早稲田大学理工学術院の大学院生で、ZOZO研究所のメンバーでもある清水良太郎さんが所属する研究グループだ。

 

清水さんが所属するのは、機械学習の分野で日本でもトップクラスの研究実績を持つ早稲田大学理工学術院の後藤正幸教授の研究室。後藤教授のバックアップのもと、ZOZO研究所のメンバーとともに開発したシステムについて、後藤教授と清水さんに詳しく話をお聞きした。

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後藤教授(左)と清水さん(右)(本研究成果について発表した『2023年度 人工知能学会全国大会』にて)

 

後藤正幸/早稲田大学理工学術院創造理工学部経営システム工学科教授

専門は、データサイエンス、ビジネスアナリティクス、機械学習、情報統計、情報数理応用。情報数理やデータサイエンスの基礎研究に取り組みつつ、経営工学分野、経営情報分析の広いテーマに取り組む。先進的データ分析モデルを駆使したビジネスアナリティクスを中心に、主にビジネスドメインにおける先進的なAIや機械学習の活用と分析技術の改良を通じて、データサイエンスの高度化に向けた研究に取り組んでいる。

 

清水良太郎/ZOZO研究所にリサーチサイエンティストとして所属、および早稲田大学理工学術院博士課程に社会人ドクターとして在籍中

2019年、早稲田大学大学院創造理工学研究科経営システム工学専攻を修了。株式会社ディー・エヌ・エーでソフトウェアエンジニアとして勤務した後、2021年1月にZOZO研究所に入所。リサーチサイエンティストを務める。2021年4月より早稲田大学大学院 創造理工学研究科 経営システム工学専攻 後藤研究室に在籍し、社会人ドクターとして「機械学習に基づく消費インテリジェンスの獲得とビジネス応用に関する研究」をテーマに研究に取り組んでいる。


ファッションへの苦手意識を克服するために生み出した新たなAI領域

 AIがファッション特有の曖昧な表現を自動で解釈するFISの画期的なシステムは、どのようにして生み出されたのか。研究・開発が始まったきっかけは、意外にも清水さんのファッションに対する苦手意識に起因しているという。

 

「私は昔から服装に無頓着で、これまでの人生、服がダサいと言われ続けてきました。おかげで大学に入ってからは、すっかりファッションを敬遠していました。

しかし、そもそも自分はなぜ、ファッションに苦手意識を持っていたのかということを振り返ると、『オフィスカジュアル』『きれいめカジュアル』『大人カジュアル』など、ファッションを表現するための言葉には曖昧なものが多く、それらが一般的に使われていることに対して気味悪さを感じているという結論に達しました。

それならば、このもやもやした気持ちを自分の研究分野であるAIで解決できないかと思ったのが、研究を始めることになった大きなきっかけです。」

清水さん

清水さん

 

FISの開発研究は2020年に開始されたが、早稲田大学理工学術院とZOZOはさらに時期を遡り、2017年から共同研究を開始している。その背景には、両者が技術の社会還元という目的を共有していたことがある。

「近年、ファッション系のECサイトでもユーザーの閲覧や購買履歴などの情報を元に適切な商品を提案するシステムなど、さまざまな場面でAIを利用した機械学習が導入されています。

ZOZO研究所でも研究成果を実装に結びつけて社会に還元することを最終的なゴールの一つとしており、よりビジネスへの応用を進めたいという目的が、機械学習の実績を持つ大学の研究室と一致していました」

 

とはいえ、今回の研究テーマに至るまでには紆余曲折があった。研究テーマの設定では、既に世の中にある研究にひっぱられがち。どうすれば、これまでにないコンセプトのものにできるか悩んでいたところ、研究室の後藤教授からのアドバイスで、ZOZOグループのファッションに関する膨大なデータを使うことで清水さん自身のファッションに対する悩み・疑問を解決するという研究のビジョンを明確にすることができたという。

AI研究領域のトップランナーが技術を結集。曖昧な表現も理解可能に

FISの研究開発にあたり、データの集積源として使用したのが、ZOZOが提供するファッションコーディネートアプリ「WEAR」だ。

ユーザーがコーディネートの画像に説明文やタグを付与して投稿するアプリで、ここで蓄積されたデータをもとにAIの学習とシステム構築が行われた。

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ファッションコーディネートアプリ「WEAR」のサービス紹介ページよりキャプチャ

ファッションコーディネートアプリ「WEAR」画面(例)

ファッションコーディネートアプリ「WEAR」画面(例)

 

清水さんは「ファッションの分野でAIを利用してシステムを作る場合、ファッションに対する感性が洗練されている方が完成度が高くなると考え、学習させるデータは“量より質”を念頭にデータ選定・抽出にあたりました。

今回はWEARを使用することにより、約2万件もの信頼性の高い投稿データを集めることができ、その結果『このファッションを少しフォーマルにするとどうなるか?』『このファッションは、どれぐらいカジュアルか?』『このファッションのどのあたりが大人カジュアルか?』といった質問に対し、具体的な答えをAIで示せるようになりました」

FISの提案システム(イメージ)。トライ&エラーを繰り返して精度を高めていった。

FISの提案システム(イメージ)。トライ&エラーを繰り返して精度を高めていった。

 

コーディネートへの質問に対し、的確な回答を提示するFIS。どのような仕組みで精度の高い受け答えを実現させているのだろうか。

後藤教授は「たとえば、人の身長が高い、低いというものは順番をつけられますよね。ただ、何センチからは身長が高い、低い、ということが決められているわけではありません。

今回、FISの開発で行ったことも、たとえば服装が『フォーマルか、フォーマルでないか』を決めるのではなく、服装のフォーマルな人の順に並んでもらうことができるようにするイメージです。

そのために、どのくらいフォーマルかを数値で表し(定量化)、人によって多少ちがいはあっても『この辺りが、みんなの考えるフォーマルですね』と、一般の人が合意できるような学習をさせています」

 

ここでいちばん重要なことは、先述のように学習データとして信頼のおけるデータを選定すること。そして、「どのくらい○○か(カジュアルか、フォーマルか、など)」を学習させるための数式の最適化だという。

 

清水さんは「ユーザーの投稿内容を学習し、検索精度などに関して一般的な定量評価を実施するだけでなく、AIの回答のクオリティを上げるため、過去にファッション業界で働いていた経験のある方々などの専門家や、自信がなかったり専門的な知識を持ち合わせていなかったりする非専門家の方々にもアンケートを取るような検証を実施したりもしています。

たとえば、一枚のコーディネート画像には前景(モデルの人物)や背景(建物や景色など)が含まれており、さらにその前景の中には様々なパーツ(帽子、頭、シャツ、腕など)が含まれています。ファッション画像を学習する際は、これらの特徴を詳細に捉えてあげる必要があります。コーディネート画像の特徴を上手く抽出した上で、それらとタグ(「カジュアル」「フォーマル」など)の関係性がどのようになっているかを学習します。

さらにAI学習で算出された数値と正しい値の誤差を計算する損失関数を、どのようにデザインした上で最適化を行うかが極めて重要です。私は、学習モデルや損失関数のデザインをメインで担当しました」

 

後藤教授によると、この損失関数のデザインというものが「絶妙な職人技」なのだそうだ。

研究成果により、ファッションのハードルを低く

ブラッシュアップを重ね、社会実装への期待も高まっているFISは、今後、ファッション業界全体のサービスを向上させるオープンイノベーションとしての活用が期待されている。清水さんが思い描くFISの進化や展望は、どのようなものだろうか。

清水さん

清水さん

 

「ファッションに関して自分の抱いていた悩み・疑問が、結果的に『曖昧な表現をさまざまな方法で解釈する』という、これまでAIが踏み込んでいなかった領域まで広がったことは驚きであり、うれしい出来事でした。

まずは、私のようにファッションに苦手意識を持っている人に利用してもらい、ファッションへの意識を変えてもらえたらと思います」

「研究を重ねていくうちに、ファッションの定義が感覚的なものだけでなく、数値化できる部分もあるということが分かり、私も長年抱いていたファッションに対する苦手意識を払拭することができて、今でははっきりと『ファッションが好き』と言えます。FISによって今日着る服に迷わないなど、ファッションの悩みを軽減することに少しでも寄与できれば嬉しいです」

 

AIは専門的な情報を学習すると知識が蓄積され、どんどん賢くなっていく。今回は女性のファッションを対象にデータを集積したが、今後は男性やキッズ、シニアなど幅広い層のデータを集積し、よりバリエーション豊かな受け答えができるよう進化させていきたいという。

後藤教授は今回のFISの研究について、「単に手法を開発したというだけでなく、感覚的な表現を数値化し、アプリで活用するという新しい研究領域を開拓した点が画期的」と話す。

FISにより、ファッションへの苦手意識を克服した清水さんの体験は、AIと人間の共存を考える上でも大きな示唆を与えてくれそうだ。

 

本研究は現時点では実用化には至ってはいないが、今後、将来的な実用化を目標にさらに研究を進めていくという。FSIの研究が社会実装され、コーディネートを相談できる日がくることを楽しみにしたい。

 

疑問や違和感を持つことが世界を動かす。哲学がもたらす社会的影響力を大阪経済大学の稲岡大志先生に聞いてみた。

2023年4月6日 / 大学の知をのぞく, この研究がスゴい!

哲学という言葉を耳にすると、どうしても敷居の高さから敬遠してしまう人は少なくないはず。しかし、我々が日常生活の中で当たり前のように思い巡らせている考え方や価値観が哲学から生まれたと知れば、少し身近なものに感じられるのではないだろうか。

 

今、ビジネスパーソンや学び直しを目指す人たちの間で哲学がひそかな盛り上がりを見せる中、最新の研究論文や多様な文化と哲学の接点を見い出し、一般層に向けて哲学の門戸を広げているのが大阪経済大学の稲岡大志先生。約2700年の歴史の中で哲学が人間の生活や社会に与えた影響、哲学を知ることで得られる知的領域の広がりについて話を伺った。

学問の基礎から知的インフラへ。哲学の概念とは?

そもそも、哲学とはどのような学問なのだろうか。その概念についてさまざまな捉え方があると思われるが、中には「答えが出ない命題を考える」という禅問答のようなイメージを抱く人も少なくないだろう。しかし、稲岡先生は、そこにはある種の誤解があると語る。

 

「答えが出ないことというより、『容易に答えが見つからないことについて考える学問』といったほうが、ニュアンスが近いかもしれません。哲学は、もともと物理学や心理学、医学なども含めたあらゆる学問の基礎で、そこから枝分かれして残ったのが現在まで続く哲学。我々の世界や社会を形成するものについて考える学問で、ある疑問が生じたとき、それに対して誤りを見いだし、あり方を考えるということに重きを置いています。自由や義務、善悪、美醜、存在など、日常生活の中で普通に考えていることのパーツは哲学者が考え、作った概念です。人権や国家など、大きなものも含めた知的インフラを形成する役割を担っています」

 

はるか昔、著名な哲学者たちが遺した言葉は現代社会にも大きな影響を与えている。こういった哲学者たちが放つメッセージの普遍性は、どのようにして受け継がれてきたのだろうか。

 

「哲学の世界では、さまざまな資料から昔の哲学者たちの言葉を読み解きます。アリストテレスについての哲学書などは著作が現存しないため、彼の学校の講義内容を記録したノートがもとになっています。ニーチェやカントなど、ビッグネームが言いたかったことの解明に加え、その周辺の人たちの言葉を発掘するという地道な研究もあります。しかし、内容のクオリティが低かったり間違いがある、もしくは斬新すぎたという理由で消えていった研究もたくさんあります」 

宗教から理性的思考へ。ヨーロッパ哲学の起源と発展

稲岡先生が専門とするヨーロッパの哲学は紀元前7世紀頃の発祥と考えられる。約2700年もの歴史を持つ哲学の始まりとは、どのようなものだったのだろうか。

 

「哲学が登場する前の古代ギリシャでは、人々は神話ベースで世界を理解していました。しかし、そこに疑問を持ったのがタレスという哲学者。彼は太陽と月に関する観測データから、日蝕のタイミングを予測しました。現代でいう天文学ですが、当時は自然哲学と呼ばれていました。このような日常の観察から仮説を立てていくという考え方の成立がヨーロッパにおける哲学の始まりといわれています。一方で人間は神の存在にすがって生きる儚さから宗教も必要とされ、絶大な力を持ったキリスト教が、教義に反する哲学と対立してきた歴史もあります」

 

ヨーロッパにおける哲学は、さまざまなエポックメイキングを繰り返す中でブラッシュアップされ、多様性を獲得。哲学者の存在も時代とともにアカデミックなものへと移っていった。

 

「神の存在が絶対であるキリスト教に対し、理性的な思考を提示したことも哲学の大きなターニングポイントです。他にも理性を重要視するフランスやドイツなどの哲学に対し、経験を重要視したイギリスの哲学という、両者の対立と統合も重要な出来事です。18世紀頃に大学教授として登用されるようになったのも大きいですね。もともと哲学者は町の物知りな人のような立ち位置で、デカルトはフリーの研究者だったし、スピノザはガラス磨きの仕事をしながら一人で研究をしていたと言われていました。それが、大学という場所を得て専門的な研究が進んだことで社会への哲学の吸収が加速する一因になりました」

“最先端の研究”から広がる哲学の多様性

社会への哲学の発信にも力を入れている稲岡先生は、先日、共同編集者の一人として参加した新刊『世界最先端の研究が教える すごい哲学』(以下、『すごい哲学』)を上梓。国内外の最新の研究論文をもとにした、哲学ビギナーにもやさしい入門書となっている。タイトルにもある「最先端の研究」とは、どのようなものなのだろうか。

 

「先ほど述べたように哲学の研究は、哲学者が遺した資料からその考えを読み解きますが、資料はメモや著書、日記、手紙なども含まれ、その量は膨大です。また読み解く際は、昔の哲学書に注釈をつけるといった形で研究が受け継がれてきました。他方で、過去の哲学者が遺した資料を丁寧に読むことによってではなく、直接哲学の問題に取り組むタイプの哲学研究も行われています 。大学での研究が盛んになってからは、学術論文=最新の研究という風潮になっています。『すごい哲学』は、日常生活ともリンクするトピックベースの論文を紹介することで、哲学を身近に感じられる一冊になっています。最新の研究で興味深いところでは、出尽くしたと思われていたデカルトの新たな書簡がGoogle検索で発見されるといった出来事がありました(詳しくはこの動画を見てください。日本語字幕もあります。https://youtu.be/18TknKGC7tY)。これはアメリカの図書館が資料をデジタル化するためにスキャンし、公開していたものから見つかったもの。将来的にはこういったデジタル技術やAIも哲学の研究に貢献するのではのではと期待されています」

共同編者として携わった『すごい哲学』を手に、「出典に英語論文が多くなってしまったのは今後の課題」と稲岡先生

共同編者として携わった『すごい哲学』を手に、「出典に英語論文が多くなってしまったのは今後の課題」と稲岡先生

 

稲岡先生は『すごい哲学』やアニメ・スポーツといった身近な話題を通してライトユーザーに哲学の魅力を訴求している。他にも数学、倫理学などにおける哲学のあり方を独自で研究しており、このような幅広い取り組みは、思い入れが深いというドイツの数学者・哲学者ライプニッツの研究に取り組む中で広がりを見せていったものだ。

 

「ライプニッツは、一般的には微分積分をはじめ、現在、私たちが高校で教わる数学の大半を作った人。それ以外にも外交官や図書館の司書、計算機の発明など、本当にいろいろなことをやっていました。一つのことを突き詰めるのも素晴らしいのですが、僕はいろいろなことに興味が湧くので、そういう人たちの行動が、一見バラバラなようで、実は一貫性を持っているということを見出すのが楽しいです。スポーツに関しては、人類はなぜここまでスポーツに熱中するのか、ファンのあり方や制度といった文化に関心があります。これは領域的に社会学に近いものがありますね。アニメは、ただ自分が好きだからというのが大きな研究理由ですが(笑)、絵や音楽などを含めた総合芸術であり、特に「声がキャラに合っている/合っていない」というような声優の演技に対する評価の内実に大きな興味があります。倫理学は、テレビドラマにもなった漫画『ここは今から倫理です。』がとても面白く、雑誌の取材で作者の雨瀬シオリ先生にインタビューさせていただきました。他にも原田まりるさんの著書『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』なども哲学に触れるきっかけとしてはうってつけで、哲学とエンタメの橋渡しになればと思って授業などでも紹介しています。今の日本で哲学の研究者になるのは、時間やコストの面で考えてもハードルが高いのが実情。しかし、こういった取り組みからライトユーザーを生み出すことができればと考えています」

哲学と現代社会の関係性、示すべき未来とは?

社会や人間のあり方に大きな影響を与えてきた哲学。さまざまな不安要素を抱えた現代においては、どのような存在意義や役割があるのだろうか。

 

「社会不安が起こると哲学が盛んになるというのは、歴史的にも多く見られる風潮です。私たちにとって身近なところでは、阪神淡路大震災やオウム真理教のテロ事件があった1995年は、その象徴とも言える年でした。哲学の分野ではノルウェーの哲学教師ヨースタイン・ゴルデルの小説『ソフィーの世界』がヒットしたのですが、世紀末的な重苦しい空気の中で哲学に救いを求める風潮が特に強かったとのではと考えられます。ただ、こういった社会不安は多かれ少なかれ常に存在するものです。近年の新型コロナウイルスの感染拡大やウクライナとロシアの戦争、経済の低迷といった問題の中で哲学がどのように人々に影響を与えるのかは、正直、予測ができないですね」

 

稲岡先生には、哲学のライトユーザーを増やしたいという想いと同時に、今後の哲学のあり方について、界隈を取り巻く状況にも変化が必要と語る。

 

「ビジネス本や自己啓発本は一定の周期で大きなブームとなって世の中に新たな価値観や知識を提示します。哲学は、そこからさらに一歩突っ込んだ考え方を示すものなので、さまざまなきっかけで、今よりもっとスムーズに一般層をナビゲートしていくべきであると思います。特に哲学の世界における女性研究者の割合はとても少ないので、あらゆる人々に開かれた学問であり続けるためにも、この比率は少しずつでも変えていきたいですね。実際、最近では哲学の歴史で埋もれていた女性の哲学者の活躍を再評価する動きが出ています。学生やこの記事を読んで哲学に興味を持った人には、ぜひ、日常生活の中における違和感や疑問に反応するという姿勢を大事にしていただきたい。そのうえで抱えている想いを筋道立てて説明するスキルを身につければ建設的な議論が可能になるし、より哲学の面白さが分かってくると思います」

 

哲学は疑問や違和感を議論という形でアウトプットすることで社会に影響を与えてきた。その議論は会社や学校などでいまだに残る絶対服従や封建的な風潮に対して変化をもたらす効果も秘め、時代にそぐわない考え方の改善にも貢献している。「どんな疑問も見捨てない、セーフティーネットの側面もある」とは稲岡先生の言葉だが、哲学が我々にとって身近な救済法の一つであることを知れば、現代社会の中で感じられる生きづらさの軽減にも繋がるのではないだろうか。

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