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ラジオの魅力はアメリカで花開いた。四国学院大学・福永健一先生に聞く、声のメディア史

2021年4月1日 / この研究がスゴい!, 大学の知をのぞく

みなさんこんにちは。ぽかぽか暖かい春の一日、いかがお過ごしですか? 大学や学問の楽しさをお届けする「ほとんど0円大学」、本日のお相手はライターのタニワキです。

 

……と、いつも違う調子ではじめてみました。というのも今回扱うテーマは「ラジオ」。深夜ラジオが青春時代のバイブルだったという方、あるいは最近テレワークでラジオを聴く機会が増えたという方も多いのではないでしょうか。「お耳の恋人」なんて言い回しもあるぐらいで、リスナーに寄り添ってくれるような親しみやすさがラジオの魅力のひとつ。ですが一体どのように今のようなラジオのカルチャーが出来上がってきたのかは意外と知りませんよね。

 

というわけで今回は、四国学院大学社会学部 助教の福永健一先生に、ラジオの魅力のルーツについて教えていただきましょう。

1920年代のアメリカで開花したラジオの魅力

福永先生は音響メディアについて研究されているそうですね。

 

「はい。1870年代にレコードと電話が発明されてから、20世紀前半にかけて拡声器やラジオ、トーキー映画といった音響メディアやテクノロジーが急速に発展し世の中に浸透していきました。これらは、音や声を録音したり、遠く離れた場所に届けたり、音量を増幅して大勢の人に一斉に伝えたりと、音や声をめぐる環境を劇的に変化させました。そうした技術革新によって、人々の感受性や社会、文化がどのように変化してきたのかを研究しています。その中でも、アメリカのラジオ放送初期の状況について着目して研究に取り組んできました」

20世紀初頭に発明された音響メディアのひとつ、拡声器(商品名はマグナボックス)。実演しているのは女優のフリッツ・シェフ

20世紀初頭に発明された音響メディアのひとつ、拡声器(商品名はマグナボックス)。実演しているのは女優のフリッツ・シェフ(出典:wikimedia commons

 

ふむふむ。なぜアメリカなのでしょうか?

 

「アメリカのラジオの歴史が面白いと思うのは、現在につながる“声”の文化が育まれていたと考えられるからです。現在でもラジオ独特の魅力といえば、多くの人がラジオの出演者に対する『親しみやすさ』を挙げますね。実はこうしたラジオの魅力は、1920年代のアメリカのラジオ放送で生まれたのです。

 

ラジオ放送が始まったのは1920年代のことです。当時、イギリスや日本をはじめ多くの国が公共放送だった一方で、アメリカのラジオは初めから民間による営利目的の商業放送としてスタートしました。このことが、番組の内容から出演者の喋り方に至るまで、独自のラジオ文化が発展することにつながっていきます」

 

商業放送からスタートしたというのはいかにも自由の国アメリカらしいですね。アメリカのラジオ放送の始まりはどんなものだったのでしょうか。

 

「第一次世界大戦期間中、アメリカは当時の最新技術だった無線電話を国有化し、軍事利用していました。終戦とともに無線電話や電波が民間に開放されます。そうすると、無線電話を介して音楽を流したり、それを誰かが聴いて楽しんだりという営みが草の根的に広がっていきました。そのなかから、これをビジネスにしようと試みるものが現れてきます。

 

その代表的な例として、1920年11月に開局したKDKAというラジオ局があります。KDKAはアメリカでラジオ放送を始めた最初期の局と言われていますが、実はKDKAはラジオの受信機器の販売を行うウェスティングハウスという企業が運営する局で、機器の宣伝のためにラジオ放送を始めたのです。その後、これを模倣してデパートなどの小売店をはじめあらゆる企業が販売促進や宣伝のためにラジオ放送局を開局し、1920年からわずか3年でアメリカに600もの放送局が開局するというカオスな状況が生まれました。さらに広告代理店がラジオ放送産業に参入するようになると、アメリカのラジオはさらに商業性を加速させていきました」

KDKAの収録スタジオ。大人数での演奏も可能な広々とした空間で、壁や天井にはエコーを抑える布が張り巡らされている

KDKAの収録スタジオ。大人数での演奏も可能な広々とした空間で、壁や天井にはエコーを抑える布が張り巡らされている(出典:wikimedia commons

 

いきなり600局も! 現在の日本全国の民間ラジオ局の数が100局程度ということですから、その数の多さが窺えますね。今でいえば企業が公式SNSアカウントを立ち上げるぐらいの感覚でしょうか。

 

「まさにその感覚に近いと思いますね。そして、そこからさまざまな番組スタイルが生まれていきました。草創期の番組といえば、歌手や楽団を呼んで音楽を楽しむ番組が6割程度を占め、ほかはトークやドラマ、天気予報や株式情報に関するニュースなどが放送されていました。1920年代の後半からは“バラエティ・ショウ”という、人気スターが司会者として番組を回しながら、様々なパフォーマーが登場して歌や話芸、トーク、寸劇を繰り広げるという番組形式が人気を博し定着していきます。これは、いまでいうテレビの『バラエティ番組』に近く、昔のラジオは現在のような小さなスタジオの密室的な雰囲気とはずいぶん異なるものでした。

 

このあたりで課題になってきたのが、多彩な出演者の個性をラジオの向こうのリスナーにいかに伝えるかということです」

 

姿が見えないとなれば、声で個性を表現するしかなさそうです。

 

「その通りです。それまでラジオの“声”は、言葉で情報を伝えるための道具にすぎないと考えられてきました。実際、同時代のイギリスや日本のラジオ放送では、話者の個性が出ないように抑揚をつけずに話すことが望ましいというルールがありました。一方で、アメリカでは敢えて出演者の声質や話し方の違いを前面に出すことで、リスナーに話者の人柄を想像させることが主流になっていったのです。そのほうが番組を聞いてくれる人が多くなるのでは、という聴取者獲得の戦略が背景にあったのです。

 

出演者の人柄が前面に出ることで、リスナーは声に汲み取れる人柄から親しみを感じ取ることを楽しむようになりました。当時の雑誌や新聞記事などをみてみると、1930年代にラジオ特有の魅力を表すワードとして“親密さ(intimacy)”という言葉が現れるのですが、これは、家庭という『親密な領域』で楽しむという意味と、『出演者への親しみを覚える』ことができるという二つの意味で用いられていました。1930年代は、とりわけ後者の意味で用いられています。いいかえれば、ラジオとは出演者の人間味を味わえることが魅力なのだと考えられていたのです」

 

声から滲み出る人柄に親しみを覚える、まさに今と同じラジオの楽しみ方が出来上がっていったわけですね。それでは、一体どんな声が当時のラジオを彩ったのでしょうか。

一世を風靡した、囁くような歌声“クルーナー”

「1920年代後半から30年代前半の世界大恐慌期、アメリカのラジオは産業的にも文化的にも最初のピークを迎えます。この時期、数あるラジオ局の中からNBCとCBSという2大ネットワーク局が台頭し、ラジオは多くの人の日常生活に欠かせないマス・メディアへと成長していきました。聴取率を争う両局は、看板となるような個性的な声をもつスターの発掘に心血を注ぎ始めます。ここから『ラジオ・スター』という存在が生まれていくわけですが、その最初期に登場したのが“クルーナー”と呼ばれる歌手たちでした。ここで、クルーナーの元祖であるルディ・ヴァリの歌声をお聞きいただきましょう」

 

ルディ・ヴァリ「Heigh-Ho! Everybody, Heigh-Ho!」

 

ちょっと脱力系というか、軽く口ずさむような歌い方が垢抜けていますね。雑な感想で申し訳ないですが、「昔の映画でラジオから流れてくる歌声」のイメージそのものです。

 

「ニューヨークの人気ダンスバンドのリーダーだったルディ・ヴァリですが、1928年にラジオに出演した時、彼の甘い歌声に女性リスナーから大きな反響が起こりました。彼は白人男性で、スリムで、イェール大学卒の秀才。当時の基準ではスターの資質を備えていました。とくに彼の声に惚れ込んだNBCの幹部はさっそく彼を雇い、“クルーナー(crooner=囁くように歌う人)”という二つ名で売り出しました。NBCの親会社はRCAという企業で、RCAビクターというレコード会社とRKOという映画会社も所有していました。ルディ・ヴァリは1929年にRCAビクターのレコード歌手、NBCラジオ放送の司会者、RKOの映画俳優としてデビューします。ヴァリは、その年にリリースしたレコードが売り上げ1位になり、ラジオ司会者としてもとりわけ女性たちから熱狂的に支持され社会現象的な人気を博しました」

レコード歌手、ラジオの司会者、映画俳優と、マルチに活躍したルディ・ヴァリ

レコード歌手、ラジオの司会者、映画俳優と、マルチに活躍したルディ・ヴァリ

 

クルーナーの声はラジオとの相性が良かったのでしょうか。親密さを感じさせる歌声だからこそ、自分のためだけに歌ってくれている……とリスナーが妄想することができたのかも。

 

「耳元で囁くような距離感が、当時の女性たちにとって非常にセクシーなものに聞こえたようですね。当時、歌手の活躍の場といえば劇場などのショーが中心で、地声で朗々と歌い上げるような歌唱法が主流でした。一方ルディ・ヴァリは、マイクロフォンを通して声を張らずに歌う歌唱法によって、ラジオという新しいメディアを中心に評価されていったのです。ヴァリの声は、ささやくような歌声という新しさだけでなく、声から想起される人柄でも絶大な人気を博しました。

 

ルディ・ヴァリが成功したことで、囁くような歌唱法は他の歌手の間でも模倣され、そうした歌手を指す言葉としてクルーナーの呼び名が定着していきました。女性の人気に支えられたヴァリに続いて、クールな男らしさで男女を問わずファンの心を掴んだビング・クロスビーがCBSから登場します。

時代を超えて愛される歌声、ビング・クロスビー

時代を超えて愛される歌声、ビング・クロスビー(出典:wikimedia commons

 

NBCの後を追うようにして、ライバル局のCBSも数あるパフォーマーからレコード歌手、俳優、司会者をつとめるに値するラジオ・スターを発掘し始めました。CBSも、NBCと同じようにコロンビアフォノグラフというレコード会社とパラマウントという映画会社を所有していました。ヴァリのクルーナー人気真っ盛りの1931年、CBSからビング・クロスビーという歌手がクルーナーとして売り出され、ヴァリを超える人気を博していきます。1942年に出た『ホワイト・クリスマス』で有名なあの歌手です。クロスビーも最初はクルーナーとして売り出されたのです。

 

ビング・クロスビー「White Christmas」

 

アメリカのラジオ・スターは、ラジオ司会者、レコード歌手、映画俳優というように、メディアを越境して活躍するマルチタレントであることが多かったのですが、これは先述したような二大ネットワークのNBCやCBSの産業構造が大きく影響しています。クルーナーはそうしたラジオ・スターのあり方の嚆矢と位置付けることができます。また、日本のアイドル、タレントといった『芸能人』もマルチタレントであることが多いですね。制度などの文脈は異なるものの、メディア・スターであるという点で、クルーナーは『芸能人』的な存在の元祖という位置づけも可能ではないかと考えています」

 

1930年代から40年代にかけて、フランク・シナトラもクルーナー・スタイルで人気を博し、ポピュラー音楽の歴史に名を刻むことになります。ロックンロールのような新たなスタイルが台頭する1950年代まで、クルーナー的な歌唱スタイルがポピュラー音楽のメインストリームだったのです。」

「親密さ」の政治進出

アメリカの初期ラジオ放送の話に戻りますが、ラジオ・スターの趨勢は、玉石混淆だったラジオが大衆を動かすマス・メディアへと成長していった過程とも重なりますね。歌手の他に、ラジオの「親密さ」が世の中に影響を与えた例はありますか?

 

「はい、ラジオの“親密さ”はエンターテイメントの世界だけでなく、1930年代から政治の世界でも注目されていきました。とくに、ラジオ放送を介した大統領の演説やイメージ戦略において、親密さは非常に重要視されていました。

 

ラジオ放送のスタジオから大統領演説を最初に行ったのは、1929年から33年まで大統領を務めたハーバート・フーバーでしたが、彼の演説は「冷たい」と不評を買いました。リスナーたちはラジオの声から人柄を感じ取れるようになっていたのです。続いて1933年から大統領を務めたフランクリン・ルーズべルトは、車椅子を使っていたこともあり、ラジオ演説を好みました。フーバーとは違い、彼はラジオが親密なメディアであることをよく理解して戦略的に使いこなしました。穏やかで親しみやすい人柄を声で巧みに表現することで、国民からの支持を強固にしていったのです」

マイクに向かうフランクリン・ルーズベルト

マイクに向かうフランクリン・ルーズベルト(出典:wikimedia commons

 

フランクリン・ルーズベルトといえば、国民に向けたラジオ放送「炉辺談話(fireside chats)」が知られていますね。ちょっと音源を探してみました。「Hi, friends」という呼びかけから始まって、語りかけるような調子が印象的です。

 

 

「ルーズベルトの登場以降、政治の世界でもラジオを介した“人柄のよさ”がイメージ戦略として重要なキーワードになっています。娯楽から政治まで、ラジオの親密さはアメリカの大衆に強烈に作用していったんですね。

 

なぜこういう戦略がとられたのかというと、1920年代や30年代というのは、そもそも、メディアを介して人間を経験するというのが、まだ新しかった時代だったからだと思います。それまで人々は、主に生身の人間から直接、あるいは新聞などで活字を通して色々な人の考えや、ふるまいを享受してきました。それが映画やラジオの登場によって、メディアを介して人物を直接経験するようになりました。メディアの向こうの人が自分に語りかけてくるわけです。ラジオはその人の姿が見えないわけですから、メディア上の人物というのは非常に断片的な存在に過ぎません。そうした生身の人間の経験には敵わない欠落したものを補うための戦略として、ラジオの場合は『親密さ』という答えに辿り着いたのだと考えます」

 

声の印象で政治家への評価が変わってしまうと考えるとちょっと恐ろしくもありますが、そもそも感じのいい声じゃないと民衆が耳を傾けなかったとも言えそうですね。いずれにしても、「親密さ」が政治でも世界を動かしていたのか……。

ラジオの本質は今も変わらない 

戦後は世界的にテレビが普及し始めます。メディアの覇権はラジオからテレビへ、そして現代ではテレビからネットへと移り変わっていますが、この変化をどう見られていますか?

 

「先ほどもヴァラエティ・ショウの話をしましたが、ラジオが開拓した娯楽がテレビに引き継がれていったという側面は大いにあります。その後、時代とともに聴取者の数は変遷し、若者文化の中心がラジオからテレビに移ってゆきました。今では、若者はテレビからネットへと流れています。

 

そうした盛り上がりや衰退というものはあるにしても、ラジオというメディアの本質は変わっていないと私は考えています。ラジオの良さは何ですか?と聞かれたら、誰でもすぐに答えることができますよね。ラジオ・パーソナリティへの親しみやすさとか、人柄がわかるのがいいんだ…とかですね。だから、時代ごとに番組形式のマイナーチェンジはあるにしても、ラジオの魅力自体の答えは揺るがないわけです。これはテレビでも同じなのではないでしょうか。YouTubeもそうだと思います。今は、いろんな人が試行錯誤を繰り返して、その魅力を模索している段階なんだと思います。

 

最近ではclubhouseというSNSが話題になっていますね。声のメディアの魅力が再発見されていけば、clubhouseだけでなくラジオもまだまだ盛り返していくと思いますよ。」

 

ラジオを聴くだけでなく、自分の声を発信する人も増えてきていますね。ますます広がってゆく「声」の文化、今後の展開も楽しみです。

福永先生のおすすめラジオ番組は、ニッポン放送の「テレフォン人生相談」と、ラジオ日本「タブレット純 音楽の黄金時代」とのことでした。

福永先生のおすすめラジオ番組は、ニッポン放送の「テレフォン人生相談」と、ラジオ日本「タブレット純 音楽の黄金時代」とのことでした。

学問×エンタメ! オンラインで学ぶ・楽しむ祭典『どこでも博物ふぇす!零』潜入レポート

2021年3月23日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

ちょっと敷居が高い学問の世界を、エンタメとして楽しんじゃおうというイベントがオンラインで開催されると聞いた。その名も「どこでも博物ふぇす!零」。これは放っておけない! ということで、2021年1月30日〜2月14日に開催されたこのイベントに潜入取材した。

学問で交流する人気イベントがバーチャル空間に

動植物の標本や化石、美しい鉱物、あるいは夜空の星座や物理法則をあらわした数式。自然界はいろいろな美しさ・楽しさに溢れている。眺めているだけでも楽しいけれど、学問的な背景を知るともっと楽しい。そんな知的好奇心を存分に満たしてくれるイベントが「博物ふぇすてぃばる!」だ。

 

デザイナーやアーティストから、大学などの研究機関所属の研究者まで、自然や学問の魅力にとりつかれた人々が一堂に会し、グッズの販売、展示、講演などを通して交流する。東京の科学技術館を会場として2014年から毎年開催されている人気イベントだが、今回は会場をオンラインに移し、「どこでも博物ふぇす!零」として開催。バーチャル空間ならではの仕掛けを盛り込んだ内容になっているそうだ。

 

ということで、自宅のPCからバーチャル会場に潜入!

 

まずは物販ブースを歩き回ってみよう。並んでいるのは単にかわいいだけでなく、ちょっとマニアックなラインナップや細部へのこだわりがキラリと光るものばかり。掲示されているQRコードを読み込むことで外部の通販サイトにつながり、好きなグッズを購入することができる。

古生代カンブリア紀の生き物をモチーフにしたグッズたち。みんな大好きアノマロカリスがお店番

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星座を模したアクセサリー。「わりと正確な宇宙アクセサリー」という言い回しの安心感

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とはいえやはり、かわいいは正義。タヌキとキツネの鼻先に癒される

とはいえやはり、かわいいは正義。タヌキとキツネの鼻先に癒される

 

ところで、さっきからチラチラと目に入っていたどこか生き物っぽい形をしたタワーが気になる。「放散虫」という看板に導かれて入口をくぐると……

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会場の真ん中にそびえる気になる塔……?

 

クリスマスのオーナメントのような造形が美しいプランクトン、放散虫の展示コーナーだった。この時は「中の人」のお一人、生物造形作家でアクセサリーデザイナーの横山隼さん(RC GEAR)が在廊していて、放散虫に関して来場者からの質問にチャット機能で丁寧に答えておられた。

青い放散虫のアバターが横山さん。出展者と来場者との交流もイベントの大きな魅力のひとつ

青い放散虫のアバターが横山さん。出展者と来場者との交流もイベントの大きな魅力のひとつ

 

これまでの「博物ふぇすてぃばる!」では、グッズを販売する出店者も関連する学問について解説や紹介をすることがルールになっていた(たとえばタヌキグッズを販売する際に、タヌキの生態についての解説パネルを作ってブースに掲示するなど。名付けて「ガクモンからエンタメ」)。今回のオンラインイベントでもそのコンセプトは活かされていて、楽しく学問のエッセンスに触れられるようになっているのが肝だ。

楽しく学べるバーチャル講演

イベントのもうひとつの目玉は、多彩なラインナップの講演。といっても堅苦しいものではなく、バーチャル空間を駆使した個性的な演出や、最新の研究成果を楽しく伝えるエンタメ性がふんだんに盛り込まれている。いくつか覗いてみたので紹介したい。

 

まずは、恐竜の3Dモデルをはじめ最新技術を活用して教育普及活動に取り組んでいる、福井県立大学 恐竜技術研究ラボの「VR恐竜シンポジウム」だ。骨格標本がずらりと並ぶ会場で、最新の古生物学研究についての発表を聴講した。

講演会場で大人気だったブラキオサウルスの骨格。落ちないように頭まで登って、向かいの骨格に飛び移る遊びをみんなでやっているところ

講演会場で大人気だったブラキオサウルスの骨格。落ちないように頭まで登って、向かいの骨格に飛び移る遊びをみんなでやっているところ

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フクイプテリクスの骨格(左)と、放散虫の一種ウビゲリナ・アキタエンシス(右)の3Dモデル

 

今井拓哉さんが研究しているのは福井県で2013年に発掘された原始的な鳥類、フクイプテリクス。恐竜から鳥への進化の過程を知る重要な手がかりとして研究が進められている。一方、芝原暁彦さんは有孔虫というプランクトンに関する研究を紹介。さまざまな形のものがあり、土産物の「星の砂」として知られているのもこのうちの一種。地層からたくさん見つかる小さな化石は過去の地球の環境変化を知る手がかりになるそうだ。

 

化石を拡大して展示したり、360度いろんな角度から観察したり、手に持ったり、上に乗ったり……現実ではちょっと難しいこともVRならば簡単に実現できるのが面白い。

 

続いて、なんとお笑いライブがあるということでお邪魔してみた。「科学コミュニケーター黒ラブ教授の濃厚科学お笑いライブヽ(´▽`)/体験版」。タイトルからしてはっちゃけている。

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研究者で科学コミュニケーターでよしもと芸人

 

この方が黒ラブ教授。某大学で植物やウイルスの研究をしている本物の研究者であり、研究者と一般の人とを橋渡しする科学コミュニケーターであり、吉本興業所属の芸人でもあるという濃厚なプロフィール。

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黒ラブ教授のボケに対して、コメント欄からツッコミや声援が飛ぶ

 

ネタはというと、「研究者あるある」と「日常あるある」と「覚えておくとカッコいい科学知識」を織り交ぜたやや強引な展開がクセになる。視聴者からのコメントも丁寧に拾って会場を沸かせていた。気になった方は是非YouTubeで検索を!

 

2週間のイベントの大トリを飾るのは、変形菌(真性粘菌)の研究者・増井真那さんの講演。変形菌と暮らして14年、研究歴13年という増井さん。なんと7歳から研究を始め、高校2年生で国際学術誌に査読論文が掲載されたそう。現在は慶應義塾大学に通う19歳だ。

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変形菌はこう見えて単細胞生物。同種の変形菌同士を混ぜ合わせると、ひとつに合体する場合と回避しあう場合がある

 

そんな増井さんの研究対象であり相棒的存在が、変形菌(真性粘菌)。小さな不定形の生物で、樹皮の下や落ち葉の下を這うように移動しながら有機物を食べ、時が来ると変形して胞子を飛ばす。変形菌はひとつの個体がふたつに分裂することができるほか、他の個体と出会うと混ざり合ったり、避け合ったりもする。自己と他者の区別はあるが、その在り方はかなりユニークだ。

 

終了時間が過ぎてからもコメント欄からひっきりなしに質問が飛び、それに丁寧に答える増井さんが印象的だった。筆者はというと、それまで当たり前だった自分という存在がなんだかふわふわ頼りなく感じられるのだった。

変形菌は今回のイベントのマスコット「推し博物」にも選ばれていて、あちこちで会場を侵食していた

変形菌(真性粘菌)は今回のイベントのマスコット「推し博物」にも選ばれていて、あちこちで会場を侵食していた

 

自然や学問への愛とこだわりに溢れた祭典、いかがだっただろうか? 今回ご紹介できたのはほんの一部だが、気になる出展者や出演者がいれば是非その活動を追いかけてみてほしい。そして、今秋の9月11日、12日には「博物ふぇすてぃばる!」のリアル開催が予定されている。会場は例年通り東京九段下の科学技術館とのことだ。

研究者の質問バトン(3):ネアンデルタール人はどうして絶滅したの?

2021年2月18日 / 大学の知をのぞく, この研究がスゴい!

研究者の素朴な疑問を数珠つなぎに解決してゆく質問バトン。前回、麻布大学の菊水健史先生からおあずかりした質問は「ネアンデルタール人はどうして絶滅したの?」でした。

 

ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)は、約40万年前に出現し、約4万年前に絶滅したと考えられている化石人類。進化史上では私たちホモ・サピエンスと同じ時代を生きてきた「きょうだい」とも言える存在です。なぜホモ・サピエンスが現代まで生き残り、ネアンデルタール人が絶滅したのかという謎はこれまで多くの人を惹きつけてきたわけですが、最新の研究ではどんなことがわかっているのでしょうか。化石人類の姿に骨から迫る形態人類学の専門家、東京大学の近藤修先生にお聞きしました。

ネアンデルタール人絶滅の原因は混沌の中

――さっそくですが、ネアンデルタール人の絶滅の原因はどこまでわかってきているのでしょうか?

 

「はい、これはとても難しい質問ですね。ネアンデルタール人が絶滅した原因については研究が進むほどに混沌としてきています。さまざまな仮説が唱えられてはいますが、どれも十分な証拠がなくて、今後どういうふうに転がるか誰も予想できない状況だと思います」

 

――混沌……今回の謎はなかなか手強そうです。まずはこれまでどんな仮説が唱えられてきたのか教えていただけますか?

 

「これまで有力とされてきたのは氷河期の気候変動の影響で絶滅したという説ですが、これはあまり正しくないと考えています。氷河期の地球は5万年から10万年という周期で気温が上下しているのですが、ネアンデルタール人が絶滅したと考えられている約4万年前は最も寒い時期というわけではありませんでした。また、ネアンデルタール人は特に寒い時期にはより南の方に移動していたことがわかっています。気候変動には適応できていたんですね。

 

他には病原菌を絶滅の原因とする説もありますが、これにも具体的な証拠はありません。当時は現代ほど人口密度が高くなく、ダイナミックな人の移動もなかったので、ヨーロッパ全土から西アジアに至るネアンデルタール人の分布域すべてに感染が広がるかどうかに疑問が残ります」

 

――なるほど、天変地異による絶滅というシナリオはどうも決め手に欠けそうですね。

名称未設定のアートワーク 1

私たちの祖先がネアンデルタール人を追いやったのか?

――素人としては、私たちの祖先との生存競争がネアンデルタール人を絶滅に追いやったのではないかと想像してしまうのですが。

 

「ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の間に、絶滅につながるような激しい生存競争があったという証拠は見つかっていません。

 

ネアンデルタール人はヨーロッパを中心に分布し、ホモ・サピエンスはアフリカから進出して世界中に散らばっていったので、局地的には両者は接触していたでしょう。しかしこれも病原菌説と同じで、仮にある地域で両者の生存競争があったとしても、それが種全体の絶滅につながるとは考えづらいのです。せいぜいローカルな小競り合いにとどまっていたのではないでしょうか」

 

――ううむ確かに。戦争のような広範囲の衝突となると、もっと時代を下ってからでないと起こらなさそうですね。

 

「そして、もし仮に両者の間に生存競争があったとしても、ホモ・サピエンスがなぜ生き残ったのか説明できる根拠がありません。というのも現在の研究では、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの間には文化レベルの差はほとんどなかったと考えられているんです。ネアンデールタール人もホモ・サピエンスと同じように石器を使いこなしていましたし、最近の研究ではボディペイントを施し、原始的な装飾品を身につけていたこともわかっています。そうすると、私たちが持っている高い知能や抽象的な思考能力が、ホモ・サピエンス特有のものだと考えるのはちょっと無理がありますよね。

 

それどころか、単純に身体能力で比較した場合、ネアンデルタール人の方が筋肉量に恵まれていたと考えられています。なので、ホモ・サピエンスの方が狩猟の腕前が良かったからとか、喧嘩に強かったから生き残ったということは考えづらいのです」

 

――ホモ・サピエンスの方が能力的に優れていたから生き残ったのだと考えるのは、思い上がりと言えそうですね……。菊水先生のご質問にあった、ホモ・サピエンスが犬を家畜化していたことについてはどうでしょうか?

 

「はい。ホモ・サピエンスの遺跡からは、オオカミの骨やイヌ科の動物の骨が見つかっていて、イヌを狩りに連れて行ったり、あるいは留守を守らせたりしていたことは考えられます(ただし、これまで遺跡から見つかっているイヌ科の動物は、オオカミや現在の飼い犬とは遺伝的に別系統のようです)。ネアンデルタール人の遺跡からもオオカミの骨は見つかっていますが、これは家畜ではなく、集落を襲いに来たか何かの理由でネアンデルタール人に殺されたものでしょう。

 

イヌを家畜化したという点でホモ・サピエンスの方が効率的に食糧を確保できたと仮説を立てることもできます。ただし他の説と同じく、それがネアンデルタール人の絶滅につながったという証拠はありませんが……」


名称未設定のアートワーク

 

――まとめると、ネアンデルタール人の絶滅の理由につながるホモ・サピエンスとの決定的な違いよりはむしろ、両者に共通点が多かったことが明らかになってきているということでしょうか。

 

「そうですね。もちろんそれぞれの研究者は両者の違いを明らかにしようと取り組んでいるわけですが、その成果を絶滅の理由に結びつけるにはまだ早い段階だと私は考えています。現在はDNA解析などの技術を駆使して、個々のローカルな生活像を明らかにする方向で研究が進んでいます」

 

――絶滅という大きな謎は謎として、私たちの祖先やネアンデルタール人の実像に迫る研究が着々と進んでいるわけですね。DNA解析ではどんなことがわかっているのでしょうか?

 

「DNA解析によって、私たち現生人類の中にもネアンデルタール人の遺伝子が数パーセント含まれていることがわかりました。ホモ・サピエンスとネアンデルタール人は、少なくとも一部で混血していたのです。ただし、それがどういった経緯だったのか、ネアンデルタール人の絶滅と関係するのかについては詳しくはわかっていません。遺伝子のパーセンテージの低さから言っても、両者の交配はあくまで例外的な出来事だったと考えるのが妥当でしょう」

 

――私たちの中にもネアンデルタール人の血が流れているのですね。なんだかネアンデルタール人が親戚やお隣さんのような身近な存在に思えてきました。

骨からわかる化石人類の姿

――近藤先生ご自身は、骨から人類学にアプローチされているということですが……?

 

「形態人類学といって、骨を調べることでホモ・サピエンスとネアンデルタール人の生物種としての共通点や差異、生活環境までさまざまなことを明らかにしようとしています。

 

わかりやすいのは体格の違いですね。ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の身長はほぼ同じでしたが、膝の関節の骨の断面積を比べるとネアンデルタール人の方が骨太なことがわかります。この断面積は体重と相関関係があるので、先ほども触れたようにネアンデルタール人の方が筋肉量が多かったのではないかと推測できるのです。

 

また、頭骨を見るとネアンデルタール人は鼻の周囲のパーツが大きく前にせり出しています。鼻腔や副鼻腔といった鼻の中の空間がホモ・サピエンスよりも広くなっていて、これは一説によると寒冷地に適応するため、吸い込んだ空気を温めるのに役立ったとも言われていますが、反対意見も出ておりはっきりとはわかっていません。

 

骨から生活の様子を垣間見ることもできます。腕の骨の筋肉のつき方を調べると、手指をどれだけ動かしていたのかが推測できます。この研究によると、ホモ・サピエンスもネアンデルタール人も同じように手先を器用に使っていたようです。

 

私が取り組んでいる研究では、ネアンデルタール人の胎児期からの成長過程を調査して、私たちと大きな差がないことがわかりました。妊娠期間や妊娠・出産時に母体にかかる負担も私たちと変わらなかったとすると、それを取り巻く生活サイクルや文化も似通っていたと想像できます」

 

――差異も共通点も、様々なことがわかるんですね。だけど、現代人でも体格は人それぞれバラバラですよね。化石になった人々の生物学的な傾向を見極めるのって大変ではないですか?

 

「はい。その点は、まさに私たち自身が物差しになるんです。寒冷地に住む人々と温暖な地域の人々の違い、栄養状態による違いなど、環境条件が骨格にどう影響するのかは現代の人々を調べることである程度把握することができます。化石人類の骨を比較する際にその環境による差異を差し引いてやると、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人という生物種としての差異を見極めることができるわけです」

 

――化石人類の研究は、私たち現代人をよく知ることと切り離せないわけですね。

近藤先生の研究のきっかけになった、シリア北部のデデリエ洞窟・中期旧石器時代の遺跡での発掘調査(写真はおそらく1993年)。最初に発見された人骨の記録をとっている近藤先生(左)、百々幸雄氏(右、当時は札幌医科大学教授)。

近藤先生の研究のきっかけになった、シリア北部のデデリエ洞窟・中期旧石器時代の遺跡での発掘調査(写真はおそらく1993年)。最初に発見された人骨の記録をとっている近藤先生(左)、百々幸雄氏(右、当時は札幌医科大学教授)

 

近藤先生の素朴な疑問は? 

――それでは最後に、近藤先生の抱えている素朴な疑問を教えていただけますか?

 

「人類学は人間の文化を理解することと切っても切り離せない学問です。そこで気になっているのが、宗教はどうして生まれたのか、ということです。調査を行う中で、古い時代の宗教的モニュメントであったり、宗教の戒律を大切に守って生活している現地の人であったり、様々な信仰の形を目にすることがあります。そうした信仰が生まれ、多様化してきた背景は何なのか、たとえば人間の精神性の進化というようなものと関わっているのかを知りたいですね」

 

――これはどこから手をつければいいのか、特大の謎を投げかけていただきました。「素朴」ほど厄介なものはないということに連載3回目にして気づきつつあります……。

 

とうわけで、次回は「宗教はどうして生まれたの?」という素朴な疑問に答えていただける研究者の先生を探してみたいと思います!

 

(つづく)

 

恐竜時代の「ホタルの光」を再現。中部大学・大場裕一先生に聞く、発光生物の不思議な魅力

2021年2月9日 / 大学の知をのぞく, この研究がスゴい!

蛍の光、窓の雪……ホタルは格別に私たちの心を揺さぶる生き物だ。初夏、夜の川原に儚げな光が舞い飛ぶ光景に魅了されたことのある人は少なくないだろう。

 

そんなホタルが地球上に現れたのは約1億年前、中生代白亜紀のこと。中部大学・長浜バイオ大学・鹿児島大学による最新の研究で、なんとこの恐竜時代のホタルの光を再現することに成功したという。一体どうやって? 恐竜が見ていたかもしれないホタルの光はどんな色だったのだろうか?

 

実験の代表者である発光生物学の専門家・大場裕一先生(中部大学 応用生物学部 教授)を取材した。

 

黄緑色に発光するゲンジボタルの成虫

黄緑色に発光するゲンジボタルの成虫。1億年前はどんな光を放っていたのか?

1億年前のホタルの光、復元の鍵は?

まずは今回発表された研究の概要をご紹介しよう。1億年前のホタルの光と言っても、ホタルの化石を光らせるわけにはいかない。それではどうやって再現したのかというと、現生のホタルの光から「逆算」する方法があるのだという。

 

ホタルをはじめとする発光生物は、体内で発光物質「ルシフェリン」と発光酵素「ルシフェラーゼ」を化学反応させることで光を放つ(正確には、ルシフェリンとルシフェラーゼは生物の発光に関わるさまざまな物質と酵素の総称で、ホタルの場合はホタルルシフェリン、ホタルルシフェラーゼと呼ばれる)。ホタルの仲間は世界中に生息し、黄色、緑、オレンジ色とさまざまな固有の発光色をもつが、ルシフェリンはみな共通であることがこれまでの研究でわかっている。つまり、ルシフェラーゼの違いが発光色を決めているということになる。

 

そこでまず、現生のさまざまなホタルの仲間を集め、遺伝子からルシフェラーゼの設計図(アミノ酸配列)を集める。そして、設計図の変異がどのように起こってきたのかを計算(アミノ酸進化アルゴリズム)によって遡ってゆく。すると、全てのホタルの祖先、つまり1億年前の原始ホタルのルシフェラーゼの設計図を推定することができるという寸法だ。これは進化生物学でよく用いられる手法で、「祖先配列復元」という。

ホタルの光の進化と祖先配列復元による実験のイメージ

ホタルの光の進化と祖先配列復元による実験のイメージ

 

あとは、実験室で実際にそのルシフェラーゼを合成し、ルシフェリンと反応させてやると……

 

 

試験管の中で深い緑色の光を放った!! これが「1億年前のホタルの光」の正体である。

 

それでは、一体どうしてこんな実験を思いついたのだろうか? ここからは大場先生にお話をお聞きしよう。

なぜホタルの光なのか?

ミミズ、キノコ、魚まで、あらゆる発光生物が研究対象という大場先生。今回ホタルに注目した理由は?

 

「ホタルは南極を除く全ての大陸に生息し、2000〜2200種、グループとしては5〜7亜科が知られていて、それぞれが固有の発光色や発光パターンを持っています。ホタルの発光がこれだけ多様になったのは雌雄間のコミュニケーション手段として進化してきたためと考えられていますが、それならば原初のホタルは何色に光っていたのかを実験で明らかにできると面白いんじゃないかと考えました。加えて、ホタルルシフェラーゼは生命工学や基礎医学の分野で幅広く活用できるため、すでにいろいろな種類のホタルの遺伝子情報が蓄積されてきていたという事情もあります」

 

世界中にそれだけ沢山のホタルがいることがまず驚きだ。聞けば日本にも50種ほどが生息していて、幼虫はすべて光るが、成虫になっても光るのはその半数ほどらしい。

 

話を戻して、実際に研究が動き出してからはどんな苦労があったんだろうか。

 

「実は今回の実験の構想を15年ほど前から温めていて、祖先配列復元の専門家である長浜バイオ大学の白井剛先生に共同研究を持ちかけたのが10年ほど前でした。ホタルの遺伝子情報のサンプルは多ければ多いほど正確な推定ができるわけですが、それも5〜7亜科からなるべく幅広くサンプルを用意する必要があります。すでに遺伝子情報が解析されていた種類だけでは系統的に偏りがあったため、新たに数種類のホタルを採取してサンプルを集めました。これには生きたホタルが必要なので、手間がかかりましたね。

 

今回の実験でとにかく無事に光ってくれたことに安心しました。結果は実験してみないとわからなくて、光らなかったらどうしようと思っていましたから」

学生と一緒にホタルの幼虫を採取する

学生たちと一緒にホタルの幼虫を採取する

緑色の光から見える進化の道筋

10年越しの研究で再現した緑色のホタルの光。そこからどんなことがわかるのだろうか?

 

「発光色が緑色になることは、実は想定内でした。というのも、ホタルの光はもともとは捕食者への警告のために使われていたと考えられていたからです。どういうことかというと、ホタルってとても不味いんです。自ら光ることで、自分は不味いということを捕食者にアピールしていたと考えられます。そして、ホタルを捕食していたであろう夜行性動物にとって、一番見えやすい色は緑色なんです。

 

それと、実はホタルはルシフェラーゼを2種類持っているんですよ。ひとつは幼虫と成虫の発光器に使われているもの、もうひとつは卵と蛹の間にしか使われないもので、2000年ごろに我々の研究で初めて見つかりました。卵と蛹は緑色に光るんです。卵や蛹は雌雄コミュニケーションには関係しないはずなので、おそらく捕食者への警告の役割を持っていて、こちらがホタルの光の『原型』に近いのだろうと予想していました。

 

今回の実験で観察できた緑色の光は、『ホタルが捕食者への警告のために獲得した発光が、のちに雌雄コミュニケーションの手段として多様化していった』というこれまで考えられてきた進化の道筋を裏付ける結果と言えるでしょう」

左側が現生のゲンジボタルのルシフェラーゼ、右側が1億年前の原初ホタルのルシフェラーゼ。原初ホタルのほうが深い緑色なのがわかる

左側が現生のゲンジボタルのルシフェラーゼ、右側が1億年前の原初ホタルのルシフェラーゼ。原初ホタルのほうが深い緑色なのがわかる

 

捕食者にとってはホタルの「不味さ」と「緑色の光」が結びついて、ホタルの光を見ると食欲が失せるというわけだ。ところで、1億年前の捕食者というと……やっぱり恐竜!?

 

「主には我々の祖先である小型哺乳類でしょうね。恐竜が闊歩する日中を避けて、小型哺乳類は隠れるように夜にコソコソ動き回っていた。古代の森の暗闇の中で、そんな我々の祖先とホタルの祖先が生存競争を繰り広げて、その結果ホタルは光ることで身を守るようになった……という光景が想像できます」

 

1億年前から、ホタルは我々の祖先に向けて光を放っていたのか(不味さアピールだとしても)。そう考えると人間がホタルの光に対して感傷的になるのもわかる気がするし、試験管の中の緑色の光がなんだか一層愛おしく感じられる。化石をもとに古代生物の生きた姿を想像するのも楽しいが、こうして実際に目で見ることのできる「光」という実験成果はまた一段といろいろなことを考えさせてくれるものだ。

 

それでは、研究の今後の展開は?

 

「まず、今回の論文では1億年前のホタルを強調して取り上げましたが、実はそこから現在に至る過程の7箇所のルシフェラーゼも復元しているんです。なので、どのような進化の過程を辿ってきたのかをもっと詳しく調べるということが1点です。

 

もう1点、ちょっとチャレンジングなこととして考えているのが、1億年前のルシフェラーゼからアミノ酸をランダムに変異させて、実際には起こらなかった進化の過程をシミュレーションしてみるという研究です。アミノ酸のどんな変異がどんな発光色を生むのかが明らかになることで、ルシフェラーゼの本質にせまれるのではないかと思っています」

 

そんなことまでできてしまうとは! これまたロマン溢れる構想だ。

実は、今回の実験でホタルの祖先がホタルになる以前の発光色もわかっている。赤色で弱く発光していたようだ

実は、今回の実験でホタルの祖先がホタルになる以前の発光色もわかっている。赤色で弱く発光していたようだ

「だって面白いでしょ」から始まった発光生物研究

ところで大場先生はどうして発光生物というユニークな研究対象に出会ったのだろうか?

 

「学生時代の私の先生が発光生物を研究していたんです。当時は下村脩先生がノーベル賞を受賞(編注:発光するオワンクラゲから蛍光タンパク質GFPを発見した功績で2008年にノーベル化学賞を受賞)する前で、発光生物の研究がどう役に立つのか誰もちゃんとわかっていなかったんですね。だから『こんな研究していいんだ』と興味を惹かれて、先生にそう聞いたら『だって面白いでしょ』と。そこから私も発光生物に惹き込まれました。

 

発光生物はとにかく人々へのアピール力がありますし、かっこよく言えば子供達が科学に対して興味を持つきっかけにもなる。ですが、私個人としては単純に面白いから研究しているという感覚です。人間でも電球を作るのに何百年もかかっているのに、どんな仕組みであんな小さな生物たちが光を放つことができるのか。どうしてそんな現象が進化の過程で何度も起こったのか。考えてみるとやっぱりすごく面白いなと思います」

 

面白いから。ザ・シンプルだけどこれ以上ない研究動機だ。その面白さは、他の生物学の研究者からはどんなふうに見られているんだろうか。

 

「『光る』ことは研究の強みにもなります。

 

現在、『発光生物DNAバーコーディング』という発光生物を網羅したデータベースを作っていて、いろいろな研究者と共同研究を行っています。たとえば分類学の専門家は、生体よりもホルマリン漬けの標本に接することが多い分、意外とその生物が発光するということを知らなかったりします。ですが新種の生物が発見された時に、それが発光生物だと世間の注目度が全然違うんですよね。近年参加した共同研究では、オーストラリア領クリスマス島の海底洞窟で新種の光るクモヒトデの仲間を発見しました(動画はこちら)。共同研究者の方と一緒に学名を考えまして、クリスマスイルミネーションをもじって『クリスマスイルミナンス(Ophiopsila xmasilluminans 和名:ドウクツヒカリクモヒトデ)』と命名したことが話題になり、『2019年の注目すべき海洋生物の新種トップ10』に選んでいただきました。

発光という視点を入れることで他の研究者にも面白がってもらえることがわかってきたので、共同研究も積極的に進めやすくなってきましたね」

大場先生が研究するめくるめく発光生物たち。
左上:クリスマスイルミナンス(ドウクツヒカリクモヒトデ) 名前はイルミネーションをもじっているだけではなく、「クリスマス島の発光生物」というれっきとした意味がある。写真は藤田喜久先生(沖縄県立芸術大学)提供。
右上:ヒカリマイマイ 世界でただ1種の発光カタツムリ。東南アジアに生息。
左下:ヤコウタケ 日本では小笠原諸島や八丈島に分布する発光キノコ。
右下:ホタルミミズ 日本各地で普通に見られる。刺激を与えると、発光する粘液を分泌する。

 

クモヒトデといえば腕がにょろーんと長いヒトデに近縁の生き物で、星型の飾りと電飾に見えなくもない。しかもそいつが光るなんて、なんだか出来過ぎなぐらいにメリークリスマスなヤツだ。 やっぱり人間は光る生き物にどうしようもなく惹かれてしまうのだろうか。そもそも今日の取材自体が、ホタルの光に吸い寄せられたようなものだ。

 

「『光る』ことを人間がどのように考えてきたのかにも興味があります。東洋でも西洋でも、『光る』=『すごい』という捉え方はありますよね。それで言うと、実は……(ガサゴソ……)

そう言ってなにやらコピーされた紙を取り出す大場先生

そう言ってなにやらコピーされた紙を取り出す大場先生

アニメや漫画に登場する『光るキャラクター』の情報も収集しているんです。これも今日、知り合いが情報提供してくれた漫画なんですが。

 

発光するキャラクターの面白い特徴として、目が光るものが多いんですよ。眼球は光を受容する器官なので、それ自体が光っているのは生物学的におかしいのですが。あと、強大な力を持っているキャラクターが多いですね。光というのは力の象徴なのかもしれませんね」

 

先生、展開が意外すぎます!! 

人はなぜ発光生物に惹かれるのだろうか

「発光生物がさまざまな分類群に散らばって存在していることからもわかるように、進化の過程で生物は幾度も発光現象を獲得してきました。生物にとって光を放つということはそれほど特別なことではないのではないかと私は考えています。実際、ホタルルシフェラーゼももともと別の酵素から、それほど複雑ではないアミノ酸の変異によって進化したことが研究でわかってきました。ただし、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類といった四つ足の動物で発光するものはいません。すでに光よりも有効なコミュニケーション方法を確立しているので、人間が発光する力を持つことはこれから先もないでしょう」

 

つまり、人間が発光生物を特別なもののように感じてしまうのは、実は過大評価ということ?

 

「そうでしょうね。まず言えるのは、我々が視覚優位の生物であるということです。そして、生物としてのヒトは、火を使うようになるまでの長い間、暗闇に怯えながら生きてきたということとも関係があるのかもしれません」

 

発光生物の話をしていたはずが、最後は人間のなかにある光への執着を覗き見ることになってしまった。進化を司る神様からすればそれが過大評価であったとしても、私たちにとっての発光生物の不可思議な魅力や、発光生物研究の奥深さはいささかも揺るがないだろう。これから先も人間が発光することはないというのは少し残念だが……。

恐ろしい「鬼」はなぜ愛される? 世界鬼学会会長・八木透先生に聞いた、鬼と節分の由来

2021年2月2日 / コラム, この研究がスゴい!

トップ画像:大江山酒呑退治 / 一栄齋芳艶画(所蔵:国際日本文化研究センター/3枚組のうち2枚)

 

今年の節分はいつもより1日早い2月2日。なんと124年ぶりのことなのだそうだ。暦は地球と太陽の位置関係で決まるものなので、そういう年もある。しかし今年に限っては、一日でも早く「鬼」を追い出したいという人々の心情に重なるものを感じてしまう。

 

というわけで、今年はいつもより気合を入れて豆まきに臨みたいところだが、ちょっと待った。「鬼」ってそもそも何者なのか、あなたは説明できるだろうか。昔話の悪役。暴れん坊。本当にそれだけだろうか……?

 

そう言えば、以前ほとぜろで祇園祭の由来について教えていただいた佛教大学の八木透先生は「世界鬼学会」の会長でもあるそうだ。豆を掴んだ腕を一旦下ろして、さっそく八木先生に鬼と節分の由来について教えてもらった。

時代とともに変化してきた「鬼」の概念 

「鬼に金棒」「鬼の目にも涙」などのことわざから「鬼教官」「鬼ころし」、大盛りの最上級「鬼盛り」まで、鬼にまつわる日本語は枚挙にいとまがない。令和の世に一大ブームを巻き起こしているあの大人気コミックも「鬼退治」の話だ。こんなに愛されている存在にもかかわらず、赤ら顔でツノの生えた暴れん坊という典型的なイメージのほかには鬼の素性について意識することは意外と少ない。

 

八木先生、鬼は一体どこからやってきたのでしょうか?

 

「鬼の由来がイメージしづらいのは、鬼という概念が時代とともに変化してきたからでしょう。

 

鬼が誕生したのは平安時代で、その語源は『隠(オヌ)』、つまり目に見えない存在を指す言葉でした。中国から伝わった霊魂を表す「鬼」という漢字は後から当てられたものです。当時の鬼は人間の目には見えないにもかかわらず、人間を襲い、切り刻んで食べてしまう恐ろしい存在として語られていました。それだけでなく、人々を脅かす災害や、現代で言えば新型コロナウイルスのような疫病も鬼と呼ばれていたようです。

 

現代に通じる鬼のイメージが確立したのは、鎌倉時代から室町時代にかけて、武士の世の中でのことです。京都の大江山に住まう鬼の頭目・酒呑童子を源頼光が退治した逸話に代表されるように、鬼は権力に従わない反逆者、まつろわぬ民を象徴する存在として語られるようになったのです。こうして、権力者に都合のいい悪者としての鬼のイメージが出来上がりました。

一栄齋芳艶が描いた大江山の酒呑童子と源頼光との戦い(所蔵:国際日本文化研究センター)

一栄齋芳艶が描いた大江山の酒呑童子と源頼光との戦い(所蔵:国際日本文化研究センター)

 

室町時代には、そうした鬼の物語が能や狂言、人形浄瑠璃といった芸能の題材として演じられるようになります。その中で、能で使われる般若の面に代表されるような『額に角を生やし、牙をむき出しにした』鬼のビジュアルイメージが親しまれ、キャラクター化してゆきました。大衆文化に取り入れられることで、鬼のイメージはさらに変化してゆきます。他者としての化け物ではなく、人間の心の中に潜む邪悪な部分を象徴する存在、言い換えれば人間の写し鏡として描かれるようになったのです。嫉妬や執念に囚われた人間が鬼に変貌するという物語が好んで作られました」

 

はじめは自然そのものや超自然的な力への畏怖の象徴だった鬼が、社会の成熟とともに反体制分子を象徴する存在になり、さらには人間の心が鬼を生み出すんだということに……それぞれの時代で人々の恐怖の対象や、社会秩序を脅かすものが「鬼」として描かれてきたのでしょうか。

 

「まさにそうですね。時代によってさまざまな描かれ方をしてきたことで、一言では言い表せない多面的な鬼のイメージが出来上がってきたのです。あえて一言で表現するなら、『反人間的・反社会的』な存在といえるでしょう。しかしそれだけでなく、鬼には人間に愛される側面もあるんです」 

鬼はなぜ愛されるのか? 神としての鬼、鬼としての人

鬼の成り立ちを聞いてみると、悪役として扱われることが圧倒的に多いことにも納得です。一方で日本人は判官びいきと言いますか、退治される鬼のほうに同情してしまうという庶民感情もありますよね。

 

「それもまた面白いところで、ヒーローである武士よりも退治される鬼のほうが地元では人気があったりします。

 

たとえば、長野県には鬼女紅葉(きじょ・もみじ)の伝説があります。会津から京に上り、妖力を使って源経基の寵愛をものにした紅葉ですが、その正妻を呪ったことで信州戸隠に追放されます。心荒んだ紅葉はやがて鬼に変貌して人々に害をなし、ついに朝廷から派遣された平維茂に討ち取られてしまいます。このように紅葉は朝敵であり執念の鬼でもあるわけですが、一方で紅葉が討伐された長野県鬼無里では、人々に医薬や学芸といった恵みを授ける『貴女』として伝わっているんです。強烈な二面性ですよね。

月岡芳年が描いた鬼女紅葉。平維茂に近づく美しい女性だが、盃に映った顔は……?(所蔵:国際日本文化研究センター)

月岡芳年が描いた鬼女紅葉。平維茂に近づく美しい女性だが、盃に映った顔は……?(所蔵:国際日本文化研究センター)

 

鬼の代名詞、大江山の酒呑童子は人をさらう悪鬼の大将として源頼光に討ち取られてしまいますが、もともとは比叡山に住んでおり、最澄や空海に追われて大江山まで逃れてきたのだと語られます。伝説の舞台である京都府の大江山には酒呑童子の供養碑が残っているほか、現在も町を挙げて鬼を行事に取り入れ、観光資源にしています。何を隠そう、私が会長を務める世界鬼学会とその事務局のある『日本の鬼の交流博物館』も、大江町(現在は京都府福知山市に編入)が主導して設立された経緯があります。

 

誰もが知っている桃太郎の鬼も例外ではありません。桃太郎伝説の原型である吉備津彦命を祀っている岡山の吉備津神社には、鬼ヶ島の鬼のモデルになった百済の皇子・温羅(うら)も祀られているんです」

 

打ち取った相手をそのままにはしておけないという人情はもちろんですが、中央権力に従わされた地方の人々の本音が透けて見える気もしますね。それにしても、桃太郎と鬼が同じ神社で祀られているとは!

 

「鬼は悪者であるだけでなく、人間の役に立つ神様にもなるんです。たとえば秋田県の『なまはげ』は厄払いの神様としての側面を持つ鬼の典型ですね。あとは菅原道真公もそうです。赤い肌に角を生やし雷雲をまとった鬼のような姿で描かれることがある一方で、学問の神様として親しまれています。これは日本的な宗教観といえるかもしれません。たとえば一神教の文化ならば、神と悪魔を同時に信仰するなんてありえないですよね」

 

うーん、知れば知るほど不思議ですが、鬼は畏れられると同時に敬われてきた存在なのですね。現在でも鬼が愛され続ける理由はどういうところにあるのでしょうか。

 

「それはやはり、鬼が反人間的・反社会的な存在でありながら、人間そのものの写し鏡でもあるからでしょう。鬼の反社会的な面を象徴しているのが、人間を殺すだけでなく喰ってしまうという行動です。人間社会のモラルを完全に逸脱していますよね。しかし一方で、人間社会の中にも完璧な善人というものは存在しません。行動に移すかどうかはともかく、モラルからはみ出した『鬼』の部分を誰しも心の中に持っているんですよ。今だって、新型コロナウイルスに感染してしまった人を責め立てる残念な風潮がありますよね。目に見えないウイルスが恐ろしいのはわかりますが、果たして“鬼”はどちらでしょうか?」

 

う…。行き過ぎたモラルもまた鬼を生むのですね。人間の抑圧された部分を代弁したり、戒めてくれたりする存在だからこそ鬼は愛されているのかも。だとすれば、人間社会が存在する限り、鬼も時代を超えて語り継がれてゆくのでしょうね。 

世界鬼学会で年1回開催される「鬼シンポジウム」

八木先生が会長を務める世界鬼学会は、鬼に興味を持つ在野の研究者をはじめ全国から多くの人が参加。年1回開催される「鬼シンポジウム」では鬼に関する研究報告のほか、郷土芸能が披露されることも。
写真は2019年の様子。左:福知山市 伊東尚規副市長の挨拶 右:北広島町 旭神楽団による神楽「大江山」公演(写真提供:世界鬼学会)

 

節分の鬼にまつわる大きな勘違い

鬼を追い払う節分の行事ですが、こちらはどんな由来があるのでしょうか?

 

「はい。節分の行事は、平安時代に大陸から伝来した『追儺(ついな)』という儀式に由来します。節分は立春、立夏、立秋、立冬それぞれの前日のことで、正しくは年に4回あるのですが、旧暦の年の初めにあたる立春前の節分がよく知られています。昔はこうした暦の節目、時間の隙間から悪いものが入り込んでくると考えられていたんです。追儺は旧暦の大晦日に行われ、四つ目の面をつけた方相氏(ほうそうし)という役割の人が、大声を発し、盾や矛を持って目に見えない鬼を撃退するという儀式でした。ですがいつのまにか、異形の姿の方相氏自身が鬼と混同されるようになってしまったです。これが、現在の節分の豆まきの原型です」

吉田神社の追儺に登場する方相氏。たしかに顔だけ見れば…… 出典:吉田神社追儺『都年中行事画帖』(画:中島荘陽 所蔵:国際日本文化研究センター)

吉田神社の追儺に登場する方相氏。たしかに顔だけ見れば……
出典:吉田神社追儺『都年中行事画帖』(画:中島荘陽 所蔵:国際日本文化研究センター)

 

えっ、じゃあ節分で豆をぶつけられる鬼は、元をたどると鬼を追い出す側の人だったんですか。勘違いも甚だしいじゃないですか。

 

「やはり、追い出す相手が目に見えないものでは人間は納得できないんでしょうね。たとえば新型コロナウイルスに置き換えてみてください。ニュースではウイルスの顕微鏡写真がよく映されますが、ああして見えないウイルスを可視化することで敵対心を煽り、社会として団結できるようになるわけです」

 

そのあたりのお話は、先日お聞きした祇園祭の由来にも通じるところがあります。鬼の姿を可視化したからこそ、節分は特別な神事としてだけではなく、市井の人々の生活の中にも浸透したのかもしれませんね。方相氏には申し訳ないですが……。

 

「ちなみに、豆に邪悪なものを追い出す力があるというのも大陸から伝わった考え方です。力強く成長する生命力を秘めた豆、特に大豆はエネルギーの塊と考えられたのでしょう。追儺の儀式では桃の木から削り出した弓矢も用いられますが、中国では桃も豆と同じく祓えの力があるとされています。桃から生まれた桃太郎が鬼退治をするのもこのためです。現在の節分行事は、大陸から伝わった儀式やさまざまな考え方が合わさり、変化することで出来上がってきたものなのです」

<キャプション>ちなみに、角を生やして虎のパンツを履いた鬼のイメージは、魔物が入って来やすい「鬼門」の方角=艮(うしとら)=牛の角と虎の皮、という連想で江戸時代に誕生したものなのだとか。

ちなみに、角を生やして虎のパンツを履いた鬼のイメージは、魔物が入って来やすい「鬼門」の方角=艮(うしとら)=牛の角と虎の皮、という連想で江戸時代に誕生したものなのだとか。

 

今年も豆まきをして、鬼とうまく付き合っていこう 

ちなみに、先生のお家では豆まきはされますか?

 

「そうですね、うちの娘も大きくなったのであまり本格的に豆まきをすることはなくなりましたが、今年も控えめにはやるでしょうね。家の中から外に向かって豆をまいて、目に見えない鬼が戻ってこないように扉をピシャッと閉めます。うちでは昔からこのやり方です。

 

私が子供の頃は、豆まきとは別に豆を用意して半紙に包み、それで体の悪いところをさすっていました。それから、その豆は半紙ごと鴨川に流します。そうやって穢れを海まで追い出してしまうんです。と言ってもそれはまだおおらかだった時代のことです。川にゴミを流すようなものですから、今はもうできませんが……」

 

 

あれこれお話を聞いてみてわかったのは、鬼と人間とはどうやら思っていた以上に腐れ縁、いや一心同体なのだということ。ウイルスだけでなく、すぐそばにいる鬼を年に一度は思い出しながら、うまく付き合っていきたいと思う。

ヒエログリフとヒエラティック。東京大学・永井正勝先生に聞いた、謎多き古代エジプト文字の読み解き方

2020年12月10日 / 大学の知をのぞく, この研究がスゴい!

漫画や映画といったポップカルチャーを見渡してもわかるように、古代エジプトほど現代人に愛されている古代文明はないだろう。中でも、神秘的なヒエログリフ――絵物語のようにも見える独特の文字に想像力が掻き立てられる人は多いのではないだろうか。

 

ヒエログリフの他にも古代エジプトを知る上で欠かせない文字がある。そのひとつが神官文字、ヒエラティックだ。ふたつの文字はどのように使われていたのか? 解読する方法とは? 東京大学の永井正勝先生(東京大学附属図書館アジア研究図書館上廣倫理財団寄付研究部門(U-PARL)特任准教授)は、そんな研究の一環として古代エジプト文字のデータベース化に取り組んでいるという。失われた言語を探求する研究について伺った。

謎多き古代文字、ヒエログリフの特徴

永井先生は現在、東京大学附属図書館の研究部門に所属。ちょっと珍しい肩書きだが、研究内容が古代エジプト文字をはじめとした研究資料のデータベース化だと聞けば納得だ。2020年10月にオープンしたばかりの東京大学アジア研究図書館の立ち上げにも尽力されている。

 

そんな永井先生に、まずは古代エジプト文字がどんな文字なのか教えていただこう。ヒエログリフとヒエラティックの違いは後述するとして、ここではヒエログリフを例にとってその特徴を見ていきたい。

 

「古代エジプト文明で使われていた言語はエジプト語で、現在、話者は存在しないとされています。エジプト語を書き表すのに使われたのが、ヒエログリフ、ヒエラティックといった古代エジプト文字です。ヒエログリフの一部はギリシャ文字の原型になり、そこからローマ字が作られました」。恐竜が鳥に進化したように、古代エジプトの名残はローマ字として現役で活躍しているのだ。ただしそれは文字の形の話。文法や発音はというと……?

 

「ヒエログリフはご覧の通り、動物や人間などモノの形を象った象形文字です。そのため一文字がひとつの単語を表す表語文字だと思われがちなのですが、実は表音文字として使われる場合の方が多いんです」。正確には、表音文字と表語文字(いわゆる表意文字のことを、言語学的にはこう呼ぶそうだ)、それに語の意味の範疇を示す「限定符」の組み合わせで成り立っているのだそう。

スライド2

左側のひとつひとつの文字の意味は「ふくろう」「マスト」「腕」「パン」だが、ここでは表音文字として〈マハト〉という音のかたまりを作る。音のかたまりだけで「墓」という意味を持つが、これが「建物」の一種であることを示すために、建物を象った限定符が最後に付け加えられる。限定符は漢字の部首のようなものと考えればよい

左側のひとつひとつの文字の意味は「ふくろう」「マスト」「腕」「パン」だが、ここでは表音文字として〈マハト〉という音のかたまりを作る。音のかたまりだけで「墓」という意味を持つが、これが「建物」の一種であることを示すために、建物を象った限定符が最後に付け加えられる。限定符は漢字の部首のようなものと考えればよい

 

もうひとつ特筆すべきは、「母音を示す文字が存在しないこと」。これはヘブライ文字などの中東言語の文字にみられる特徴だが、研究者にとってはなかなか厄介だ。「わかりやすい例えに置き換えてみると、『成田(narita)』と『鳴門(naruto)』を子音だけで表記すると、どちらも『nrt』という表記になってしまいます。また、英語の動詞ならば『take』と『took』が両方『tk』になってしまうように、活用形の区別がつかないといったことも起こります。このように、子音しか書かれないため、ヒエログリフ では単語の発音や動詞の活用が見えてこないのです」。

 

イラストっぽくてとっつきやすそうなんて思ったら大間違いで、話を聞けば聞くほどなんとも厄介な文字のようだ。さらに困ったことに、話者がいないためもはや正しい発音を知ることはできないのである。ここで一旦まとめておくと、古代エジプト文字は「実像が掴みづらい、解読にかなり骨の折れる古代文字」なのだ! 

王権と信仰を支えた“聖刻文字”と“神官文字”

古代エジプトでは文字を扱えるのは一部の限られた人々だけで、用途によって主に2種類の文字が使い分けられていた。元となる原エジプト文字から枝分かれした、ヒエログリフ(聖刻文字)とヒエラティック(神官文字)だ。

ヒエログリフ(左)とヒエラティック(右)。

ヒエログリフ(左)とヒエラティック(右)。

「ヒエログリフは宗教や王室に関わる文書に用いられた文字で、儀礼に関する呪文、王の歴史記録、王名リストなどに用いられました。王室建造物や神殿の壁画などに彫られることでディスプレイの役割を果たしたことが特徴です。

 

一方、ヒエラティックは主に書記の役人が使用していました。建設事業などの記録のほか、有力者の自伝や教訓、文学作品や書簡に至るまで、様々な文書をパピルスなどへ手書きするために使われました」

 

古代エジプトでは王は神と同一視されていた。王=神に捧げる言葉を刻むための威厳ある文字がヒエログリフであり、後世まで残り続ける神殿などの建造物の壁画や棺などを飾ることに主眼が置かれていたのだ。それに対して、より実用的に幅広く使われた書き文字がヒエラティックというわけだ。「ヒエラティックはヒエログリフの単なる崩し文字だと考えられがちですが、これは大きな誤解だと強調しておきたいです。建造物に彫られる王室の歴史記録にヒエラティックを用いたり、パピルスに記す行政文書にヒエログリフを用いたりすることはありません。古代エジプトは、用途の異なる二つの文字を必要とする社会だったんです」。

ヒエログリフとヒエラティックは原エジプト文字から早い段階で枝分かれしていた。

ヒエログリフとヒエラティックは原エジプト文字から早い段階で枝分かれしていた。

 

また、ヒエログリフとヒエラティックからは筆記体ヒエログリフが、ヒエラティックからはデモティック(民衆文字)がそれぞれ派生した。これらの文字のうち特にヒエログリフは、王権や信仰と強く結びついた文字だった。3000年以上続いたその歴史の中で語彙や文法は徐々に変化してゆく。文字を扱う書記や神官が自らの特権を強化するためか、単語の綴り方がどんどん複雑化する傾向があったようだ。さらに、アマルナ時代(アメンホテプ4世の治世である紀元前1417〜1362年頃。神官の権力増大を抑えるため、宗教改革や遷都が行われた)以降になると言文一致の方向に舵が切られ、文法や文体が刷新された。

 

そんな古代エジプト文字の終焉もまた、権力と信仰の変遷とともに訪れる。ローマの侵攻によってエジプト王朝が滅び、その後神官たちの間で細々と守られてきた文字もキリスト教の台頭とともに廃れていった。イシス神殿に刻まれた紀元後394年8月24日の日付以降、ヒエログリフによる記録は残っていない。

翻訳の手がかりになった「コプト文字」 

それではエジプト語は完全に滅びてしまったのかというと、実はそうではないらしい。現在ヒエログリフやヒエラティックの解読が進んでいるのも、エジプト語が形を変えて長らく生き残っていたからなのだそうだ。

 

「古代エジプト文字が廃れてからも、エジプト語自体はギリシャ文字を逆輸入する形で取り入れて、コプト語(またはコプト・エジプト語)として連綿と残り続けました。自然言語としてのコプト語の話者は17世紀にほぼ消滅したと考えられていますが、その後もキリスト教のコプト教会で典礼言語として使用され続けています」

コプト文字はほとんどがギリシャ文字からなるが、一部デモティック由来の文字が追加されている

コプト文字はほとんどがギリシャ文字からなるが、一部デモティック由来の文字が追加されている

 

ロゼッタストーンの解読によってヒエログリフの解明を飛躍的に進めた18世紀の言語学者・シャンポリオンも、コプト語を習得していたという。彼はコプト語をエジプト語だと見抜いていたために、ヒエログリフを表音文字として解読することができたのだとか。

 

「言語を解明するのに不可欠なのは、やはり『音』の要素です。古代エジプト語の発音の手がかりとしては、コプト語が有力です。元のエジプト語から変化はしているものの、コプト語ならばヒエログリフやヒエラティックではわからなかった母音の発音もわかります。また、数は少ないものの、楔形文字やギリシャの歴史家が残した記録にも王の名前などの固有名詞が残されていて、ヒエログリフやヒエラティックのそれぞれの文字の発音を推測する手がかりになっています」

 

発音がわかれば、古い時代のエジプト語の面影を残すコプト語と比較することで語の意味を推測することもできる。本物の古代エジプト語を耳で聞くことは叶わないものの、遺跡に残された文字とかろうじて生き残ったコプト語によって、失われた言語が解明されてきたというわけだ。 

古代エジプト文字をデータベース化する

さて、そんなヒエログリフとヒエラティックに、現代のエジプト研究者はどのように向き合っているのだろうか。ここで永井先生はある問題を指摘する。

 

「これまでのエジプト学は、実際にパピルスや遺跡の壁に書かれた原文ではなく、それを現代の研究者が書き写した史料集に頼ってきた側面があります。史料集は手書きの原文を活字に直したようなものと考えていただくとよいでしょう。原資料が1等資料とすると、そうした史料集は原資料から4段階も間接的になった5等資料として位置付けるべきものとなります。特に、ヒエログリフの崩し字だと思われていたヒエラティックの原文にいたっては、研究者はヒエログリフに『翻刻』された資料を用いて翻訳を行ってきたのです」

 

パピルスや遺跡の壁に残された手書きの原資料を書き写し、標準的な字形に整えて出版されたものが5等資料にあたる。あくまで間接的な資料であることに注意が必要だ

パピルスや遺跡の壁に残された手書きの原資料を書き写し、標準的な字形に整えて出版されたものが5等資料にあたる。あくまで間接的な資料であることに注意が必要だ

 

そんなエジプト研究の慣習のなかで、永井先生は可能な限り原資料に当たることにこだわってきた。そのきっかけは、博士論文執筆時の指導教官とのやりとりだったという。

 

「当時、私はヒエラティックで書かれた文学作品を研究していました。最初はエジプト学の慣習どおりヒエログリフに翻刻された5等資料を使って論文を書いていたのですが、ある時、指導教官に『なんで本物を見ないんですか? それでは博士号を出せません』と言われたんです。原文を見ないと言語研究とは言えない、と」

 

腹を括ってヒエラティックを一から勉強してみると、毎日どんどん読めるようになっていくのが楽しかったそう。「ロシアのエルミタージュ美術館の学芸員研究室でパピルス写本の原典を撮影することができたので、その写真を見ながら、すでに出されていた5、6種類の翻刻資料をチェックしていきました。すると翻刻の間違いが次々に出てくるんですね。だから、自分が世界一正しい文字解釈を出してやるという気になってくるわけです」

 

こうして原資料の大切さを痛感した永井先生。時は流れて、現在取り組んでいるのはヒエラティックをはじめとする文字資料のデータベース化だ。2012年にスタートしたヒエラティックデータベースプロジェクト(Hieratic Database Project)では、大英博物館が所蔵する原資料を撮影した画像データに、書かれている文字の1つ1つの種類を認定したのち、その文字の発音、単語の解釈といった言語分析データ(アノテーション)を付加してデータベース化している。

「Hieratic Database Project」の画面。原資料の写真に子音転写、文字、単語といった付加情報が紐づけられている。膨大な情報の入力作業はもちろんすべて人力だ

「Hieratic Database Project」の画面。原資料の写真に子音転写、文字、単語といった付加情報が紐づけられている。膨大な情報の入力作業はもちろんすべて人力だ

 

永井先生によると、データベース化には大きく二つの動機があるという。

 

「ひとつは、研究手段としてのデジタル化です。一文字、一単語ずつ解釈を明確にして入力していかなければならないので、誤魔化しがきかず、必然的に原典と深く向き合うことになります。このような作業を行うことによって、自分自身の解釈や入力内容の揺れをチェックすることができるようになります。

 

もうひとつは、研究資源のオープン化です。資料画像とそれに関連する言語解釈をセットにして、将来的には誰でもアクセスできるようにすることで、貴重な資料の保存や後進育成、エジプト学全体の発展に貢献できればと考えています」

 

さらに、2019年には1909年初版のヒエラティック字典『Hieratische Paläographie』(George Möller著、全4巻)をデジタル化し、研究者がヒエラティックを容易に比較検討できるデータベースとして公開した。これには世界中のエジプト研究者から反響があり、50カ国以上からアクセスがあるという。

 

100年以上現役で使われている定番のヒエラティック字典をデジタル化した「Hieratische Paläographie DB」。異なる巻次やページを跨いでひとつの画面上で文字を比較できることが画期的。画像データは東京大学アジア研究図書館のデジタルアーカイブ、インターフェースは筑波大学のサーバーを使用している

100年以上現役で使われている定番のヒエラティック字典をデジタル化した「Hieratische Paläographie DB」。異なる巻次やページを跨いでひとつの画面上で文字を比較できることが画期的。画像データは東京大学アジア研究図書館のデジタルアーカイブ、インターフェースは筑波大学のサーバーを使用している

 

今後はヒエラティックの辞書や、ヒエログリフ資料のデータベース化にも取り組んでいく。想像するだけでも果てしない時間と労力がかかりそうだが……「残された人生でどこまでできるかというところですが、エジプト学を志す学生の語学教育も兼ねて、現在、4つの大学の学生・院生さんにも手伝ってもらっています」。誰もが使えるデータベースを作る営みが、そのまま若手研究者の育成の場にもなっているというわけだ。まさにエジプト学に金字塔を打ち立てるような取り組み、といったら喩えが安直すぎるだろうか。

 古代から未来へつなぐ知のリレー

幼少の永井少年がエジプトに興味を持ったきっかけは、ルパン3世やインディ・ジョーンズ、テレビの旅番組だったという。それでは、今感じていらっしゃるエジプト語研究の魅力は?

 

「エジプト語はまだまだ未解明な部分の多い言語です。言語研究という視点では、見えている部分をつなぎ合わせて見えない部分を推測していく過程に魅力を感じています。そしてデータベースを共有していくことで、さまざまな知がそこに集まり発展していく。『データを開いて、知を結ぶ』ことを進めていきたいです。100年後も引用されるような研究成果を残したいですね」

 

古代エジプト人が記した文字と向き合い、先達の研究者の仕事に学び、データベースや研究成果として次世代につなげる永井先生の取り組み。ヒエログリフやヒエラティックを目にするとき、私たちは壮大な知のリレーの一端に立ち会っているのかもしれない。

じっくりお話を聞かせてくださった永井先生。写真は東京大学アジア研究図書館にて

じっくりお話を聞かせてくださった永井先生。写真は東京大学アジア研究図書館にて

 

 

EXPO’70を震撼させた音響を全身に浴びる! 京都市立芸大「バシェ音響彫刻」展レポート

2020年11月24日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

波乱の2020年も残りあとわずかとなってしまったが、何か忘れていることはないだろうか。そう、今年は1970年大阪万博から50年のアニバーサリーイヤーだ。「月の石」をはじめ世界中から最先端の科学の粋が集った大阪万博は、一方で前衛芸術家たちが腕を振るう文化の祭典でもあった。バシェ兄弟が手がけた「音響彫刻」もそんなうちのひとつだ。

 

この度、京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAで開催中の「バシェ音響彫刻 特別企画展」で5基の音響彫刻が集結すると聞きつけた。大阪万博を震撼させた音響彫刻とはどんなものなのか? 京都市立芸術大学と東京藝術大学が携わった復元プロジェクトについて学び、その圧倒的な音響を体感してきた。

大阪万博のために作られた「音を奏でる彫刻」

「バシェの音響彫刻」と呼ばれる作品群は、フランスを拠点に世界で活躍したベルナール・バシェとフランソワ・バシェの兄弟が手がけた「音を奏でる彫刻」だ。1969年、作曲家の武満徹によって招聘されたフランソワ・バシェは、大阪の鉄工所で弟子らとともに17基の音響彫刻を制作。それらは翌年の万博で鉄鋼館に設置され、同館では音響彫刻による曲が毎日流された。万博終了後に解体され、長年にわたり倉庫に保管されたままになっていた音響彫刻だが、大阪万博40周年の2010年に鉄鋼館を改装した施設「EXPO’70パビリオン」が開館したことを皮切りに、大阪府、京都市立芸術大学、東京藝術大学の3者によって復元が進められてきたという。

 

今回訪れたのは、京都・二条城のほど近くにある京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA。エントランスでさっそく巨大な金属のオブジェに出迎えられる。第一印象は巨大なアンテナのようで、たしかに楽器に見えなくもないが演奏方法はちょっと想像できない。これが「音響彫刻」か。

音響彫刻は、それぞれ組み立てに関わった日本人助手の名前がつけられている。こちらは「渡辺フォーン」

音響彫刻は、それぞれ組み立てに関わった日本人助手の名前がつけられている。こちらは「渡辺フォーン」

 

展示室に進むと、そんな奇妙な音響彫刻がさらに4基待ち受けていた。まずはドドドッとその威容をご覧いただこう。

どこか昆虫を連想させる「桂フォーン」

どこか昆虫を連想させる「桂フォーン」

ひときわ巨大な「勝原フォーン」は南国の植物のよう

ひときわ巨大な「勝原フォーン」は南国の植物のよう

一見して最も楽器らしい、ドラムセットやキーボードを連想させる「高木フォーン」

一見して最も楽器らしい、キーボードを連想させる「高木フォーン」

赤・白・黒のカラーリングが印象的な「川上フォーン」

赤・白・黒のカラーリングが印象的な「川上フォーン」

 

どれも鉄製のフレームにお皿状の部材がくっついる構造で、「勝原フォーン」や「高木フォーン」は裏側に回るとハープのような弦や鍵盤のように並んだガラス棒も見える。音が出そうな気配はあるが、演奏方法やその音色はほとんど想像がつかない。私たちが普段慣れ親しんでいるギターやピアノ、トランペットやドラムといった楽器と比べると、どこか不安定で、過剰で、鉄の塊の異様な存在感が迫ってくる。そう、これらは音を出すという機能に沿って設計された楽器というより、「音の出る彫刻」なのだ。 

設計図のない音響彫刻を復元する

この日行われたギャラリートークでは、音響彫刻の復元と教育への活用に携わる京都市立芸術大学の岡田加津子先生、同じく川崎義博先生、東京藝術大学の三枝一将先生が登壇。復元の過程と音響彫刻の魅力についてお話を聞くことができた。

 

万博記念公園の倉庫に解体された状態で保管されていたバシェの音響彫刻は、大阪万博40周年に当たる2010年以降、今回展示されている5基に「池田フォーン」を加えた6基が復元されている。そのうち、「桂フォーン」と「渡辺フォーン」が京都市立芸術大学で、「勝原フォーン」は東京藝術大学ファクトリー・ラボで復元された。

 

2013年までに大阪府で3基が修復されており、2つの大学による修復計画がスタートしたのは2015年。復元の厄介なところは、オリジナルの音響彫刻がバシェと弟子たちによって制作しながら組み立てられたため、そもそも設計図が残っていないこと。さらに、彫刻を構成する部材の一部は欠損・紛失してしまっている。そんな条件下で、ふたつの大学の復元プロジェクトは対照的だったことが面白い。

左から川崎義博先生(京都市立芸術大学)、三枝一将先生(東京藝術大学)、岡田加津子先生(京都市立芸術大学)

左から川崎義博先生(京都市立芸術大学)、三枝一将先生(東京藝術大学)、岡田加津子先生(京都市立芸術大学)

 

京都市立芸大では、2015年に来日したバシェの弟子のマルティ・ルイツ氏の指揮のもとで修復が行われた。岡田先生によると、ルイツ氏は「バシェ先生ならこうするだろう」と事も無げに言って2基の音響彫刻を手早く修復してしまったそうだ。その集大成として、4台の音響彫刻を用いて武満徹の「四季」を演奏するコンサートが開催された。修復プロジェクトとしては一区切りがついたとも言えるわけだが、そこで終わるのはもったいない。音響彫刻を教育や研究にさらに活用するため、それ以降も大阪府からの貸し出しという形でワークショップや演奏会を定期的に開催している。

こちらは2015年にマルティ・ルイツ氏と京都市立芸大の学生のコラボレーションで作られた「冬の花シリーズ」の音響彫刻。濡らした指でガラス棒をこすると豊かな音が響く

こちらは2015年にマルティ・ルイツ氏と京都市立芸大の学生のコラボレーションで作られた「冬の花シリーズ」の音響彫刻。濡らした指でガラス棒をこすると豊かな音が響く

一方、東京藝術大学では2017年に万博の倉庫から音響彫刻の部材を引き取り、クラウドファンディングを利用して修復プロジェクトが始動。オリジナルの部材が比較的残されていた「勝原フォーン」だが、構造が複雑なためバシェのアシスタントが残したメモには「修復は不可能」と記されていたそう。万博当時の写真(と言っても、展示用に宙吊りにされた状態のもの)や簡易なスケッチをもとに、試行錯誤しながら復元にあたった。また同時に、部材の材質の分析や3D-CADでの図面の記録をアーカイブとして残すことにも取り組んでいる。ちなみに、保存方法を研究したり記録を残したりすることは、バシェの音響彫刻にとどまらず、複雑な構造やさまざまな材質の部材を用いる近現代の美術作品に共通の問題なのだそうだ。また、東京藝大でも、オリジナルの音響彫刻を作るワークショップなど教育への活用に取り組んでいる。

 

岡田先生はこのプロジェクトの意義を「長い間倉庫に眠っていて、もしかしたら捨てられていたかもしれない音響彫刻に新たな価値を与えること」と振り返る。改めて考えてみると、目で鑑賞するだけでなく、触れて、鳴らして、聴いて体感することのできる音響彫刻は、美術作品としても、1970年当時の歴史資料としても稀有な存在だ。モノとして保存するだけでなく、積極的に活用してこそその価値を後世に伝えることができるわけだ。

バシェ兄弟が考案した教育音具「パレット・ソノール」。こちらは誰でも手袋をして演奏することができる

バシェ兄弟が考案した教育音具「パレット・ソノール」。こちらは誰でも手袋をして演奏することができる

 

音響彫刻の奏でる音を全身に浴びる! 

さて、音響彫刻はどんな音を奏でるのだろうか。この日は、展示されている音響彫刻を用いたミニコンサートが行われた。演奏するのは音響彫刻をこよなく愛する4人の音楽家、アンサンブル・ソノーラ。岡田先生もメンバーの一員だ。

 

それでは大変お待たせしました。演奏の様子をダイジェスト版でお聞きいただこう。

 

 

いかがだろうか。彫刻のあらゆる箇所を叩き、擦り、弾くことで凄まじい音響空間が生み出されてゆくさまは、金属でできた巨大な生物の体内にいるよう迫力と心地よさだ。

 

岡田先生によると、バシェ音響彫刻の大きな魅力は「ドレミの音階に縛られない自由な音」、そして「空気の振動を全身に浴びるような、他でできない体験」だという。そして、すでにお気付きかもしれないが、音響彫刻には決められた演奏方法というものがないそうだ。構造的に弱い部分さえ避ければ、どんな方法でどんな音を出すかは演奏者に任されている。この自由度の高さはジャズの即興演奏どころではない。

 

この自由さは、バシェが音響彫刻を自分の研究と経験に基づいて制作しながら組み立て、設計図を残さなかったことにも通じているように思える。もちろん復元という観点では厄介なことだが、正解などない、思うがままに、というおおらかな姿勢は、現代人も少し見習ったほうがいいのかもしれない。

 

会期中にはコンサートやワークショップが企画されているので、この機会に1970年当時の前衛芸術が宿していたエネルギーとおおらかさを全身で体感してみてはいかがだろうか。

金星に生命は存在するか!? 驚きのニュースの真相を京都産業大学・佐川英夫先生に聞いてみた。

2020年11月5日 / 大学の知をのぞく, この研究がスゴい!

2020年9月15日、金星の大気から生命活動の兆候かもしれない物質が見つかったというニュースが駆け巡った。この発表に関してNASAの長官が「地球外生命探査史上最大の発見」とコメント。いよいよか!?と胸を高鳴らせつつも、金星での発見ということを意外に感じた人も多いのではないだろうか。

 

ほとぜろでは以前、地球外知的生命探査(SETI)について取材したことも記憶に新しい。今回は“知的”生命ではないにしても、もし本当に生命の存在が確認されれば世紀の大発見になるだろう。それに加えて、金星といえば明けの明星・宵の明星としても親しみ深い地球のお隣の惑星だ。ニュースの真相と金星研究の最新事情を、観測結果を発表した研究チームの一員である京都産業大学の佐川英夫先生に伺った。

金星に生命? 鍵となる物質「ホスフィン」とは

金星は地球とほぼ同じくらいの大きさの岩石惑星で、地球の兄弟にも例えられる星だが、その環境は大きく異なっている。大量の大気が存在するため地表の気圧は地球の90倍にのぼり、その主成分である二酸化炭素の温室効果により表面温度は460℃に達している。おまけに硫酸の雲に覆われていて、生物が存在するとはにわかに想像し難い、まさに地獄のような環境だ。しかしこの度、そんなイメージを覆すかもしれない大発見が報じられた。イギリス・アメリカ・日本の合同研究チームが、ハワイとチリの天体望遠鏡による観測で金星の大気からホスフィン(リン化水素)という物質が存在する可能性を見つけたという。この物質が、金星に生命が存在する兆候かもしれないというのだ。

分厚い大気と雲に覆われた金星。後述する金星探査機「あかつき」が撮影した写真を元に作成された疑似カラー画像(2017/8/11撮影)。© PLANET-C Project Team

分厚い大気と雲に覆われた金星。後述する金星探査機「あかつき」が撮影した写真を元に作成された疑似カラー画像(2017/8/11撮影)。© PLANET-C Project Team

 

早速ですが佐川先生、今回の発表、ズバリ金星に生命が存在する可能性が高いということでしょうか!?

 

「結論から言えば、生命が存在する証拠が発見されたというわけではなくて、その間接的な手がかりが見つかったかもしれない、という状況です。太陽系内での生命探査に関しては近年、火星でメタンガスが検出されたり、木星の衛星エウロパで衛星内部に液体の水の存在を示唆する水蒸気が観測されたりといった発表がありましたが、今回の発表がそれらと比べて特に有力と言える段階ではありません。

 

今回の観測はハワイとチリにある電波望遠鏡で行われたものです。金星から届く光(電波)を波長ごとに分析してみると、ある周波数の部分が僅かにですが暗くなっていました。大気中の物質は特定の波長の光を吸収する性質があるのですが、その暗くなっていた部分の波長が約1.1mmで、ホスフィンが吸収する波長と一致していたんです。ということは、光が金星から地球に届く間のどこかでホスフィンに遮られたのではないかと考えられます。

 

今回はまだ一度の観測結果、しかもかなり微弱な信号からホスフィン検出の可能性が報告されただけなので、まずは本当に金星にホスフィンが存在するのか、2度目、3度目の追加観測で検証していく必要があります。驚くべき観測結果であることは確かですが、個人的にはNASAのコメントは少し気が早かったかな、という印象ですね」

 

うむむ…。冷静な状況解説ありがとうございます。そもそも生命の兆候とされているホスフィンとはどんな物質なのでしょう?

 

「ホスフィンは地球の大気にもごく微量含まれますが、非常に珍しい物質です。地球上のホスフィンは主にバクテリアが排出していることが知られていて、ホスフィンの存在が地球外生命を探す際の指標になるのではないかということで注目されているんです。木星や土星といったガス惑星では自然に発生するメカニズムが明らかになっていますが、金星は地球と同じ岩石惑星です。ということは、金星の大気にホスフィンが存在するのならば、なんらかの生命が発生させているのではないか……とも考えられるわけです。

 

付け加えると、ホスフィンはリン原子と水素原子から構成される物質です。地球や金星のように大気中に酸素原子が多く存在する場合、リン原子は酸素原子と結びついて別の物質になってしまいます。そんな環境でホスフィンが存在するということは、なんらかの形で新しいホスフィンが常に作られ続ける仕組みが必要なのです」

 

つまり、もし今回検出されたホスフィンが生命由来だとすれば、過去の生命の痕跡ではなくて、まさに今生きている生命の証拠になるわけですね! そう思うと、「史上最大の発見」と言いたくなるのもわかります。

 

金星の大気へとズームインするアニメーション映像。Credit: ESO/M. Kornmesser/L. Calçada & NASA/JPL/Caltech

金星の大気へとズームインするアニメーション映像。Credit: ESO/M. Kornmesser/L. Calçada & NASA/JPL/Caltech

 

高温高圧、硫酸の雲……生命はどうやって生きている?

それにしても、高温高圧のうえに硫酸の雲に覆われている過酷な環境で存在できる生命ってどんなものでしょう……?

 

「それにはまず、ホスフィンが発見された高度が関係しています。金星の地表付近からの光は分厚い大気に阻まれて地球に届かないため、今回観測してホスフィンが検出されたのは地表から高度50〜60kmより上空の大気と考えられます。地球でも高度が上がるほど気温が下がるように、金星でも高度50〜60km付近では気温は0〜30℃程度にまで下がります。実は、金星でもそうした十分な高度に何らかのプラットフォームがあれば生命が存在できるのではないかという論文は1960年代以降ときどき発表されているんです。

 

とはいえ、酸性度が非常に高い環境は生命にとって大変過酷です。私は生物の専門家ではないので単なる想像の域を出ませんが、金星に生命がいるとしたら、地球の生命とは細胞レベルで全く違う特徴を備えているのではないでしょうか。研究チームの中では、硫酸の雲の中には水分子も存在していて、その中ならば安全に生息できるのではないか……といった仮説も出ています」

 

まさに私たちの常識を超えた存在です。仮説を立てるのにも生物学的なアプローチが大切になりそうですね。

 

「地球とは全く違う環境での生命のあり方を探求する分野をアストロバイオロジー、宇宙生物学といいます。このところ日本でも研究者が増えていて、活発な分野なんですよ。そもそも、英国カーディフ大学のジェーン・グリーブスをはじめとする今回の研究チームの主要メンバーは、アストロバイオロジーの研究者たちなんです。太陽系外の惑星での生命探査をめざしていて、その手法の一つとしてホスフィン検出が使えるかどうかを身近な惑星で検証するのが今回の実験の目的だったようです。そのチームに私は金星の専門家として参加しています」

 

金星でホスフィンが検出されたのは「灯台下暗し」だったんですね。ですがもう一つ疑問があります。そもそも金星には地球のような海がありませんが、生命が存在するとしたらどのように誕生したのでしょうか?

 

「実は、気温が今ほど高くなかった大昔には金星にも海があったのではないかという研究もあります。金星が地球と同じように生まれたとしたとしたら、海があっても不思議ではないですよね。太古の海で生命が誕生した可能性もあるでしょう。気温が上がるにつれて海は蒸発し、水は宇宙空間に逃げてしまったか、あるいは地面の下に染み込んだのか、詳しいことはわかっていません。地上が過酷な環境になり居場所を追われた生命のうち、風に巻き上げられて上空にたどり着いたものだけがなんとか今日まで生きてきた。そんなふうにも考えられますが、現段階ではすべて想像にすぎません。

 

今回、もしホスフィンが金星に存在するということが確定すれば、こうした想像上の話を解明していく突破口ができることになります。そこからたとえば金星の生命はどんな姿をしているか、生命はどこで誕生したのかといったさまざまな研究につながっていくでしょう」

 

海を追われて大気に進出した生命……地球とは違った波乱万丈なドラマがありそうです。ホスフィンの検出は金星研究の重要な第一歩だということがわかりましたが、研究の今後の展開はいかがでしょうか?

 

「はい。2019年にチリのアルマ望遠鏡で観測し、そのデータを一年がかりで分析した結果が今回の発表でした。とはいえ、はじめに申し上げたとおり解析できたのはあくまで微弱な信号だったので、分析手法の妥当性を改めて検証する必要があると考えています。追加観測も計画されていたのですが、コロナの影響で望遠鏡が使えなくなってしまったんです。ようやく再開の目処がついたので、来年には追加観測が行えるはずです。

 

研究チームとしての進捗とは別に、今回の発表が多くの人に注目されたおかげで、他分野の研究者も金星に関心を寄せてくださっていることを実感しています。知人の研究者からも『こういう研究をやっているけど金星の研究に使えないか』と声をかけていただきました。ここから金星研究の新しいストリームができると面白いですね」

今回の観測で活躍した、チリのアタカマ砂漠に広がるアルマ望遠鏡。可動式の66台のパラボラアンテナがひとつの巨大な電波望遠鏡として機能している。Credit: ALMA (ESO/NAOJ/NRAO), A. Marinkovic/X-Cam

今回の観測で活躍した、チリのアタカマ砂漠に広がるアルマ望遠鏡。可動式の66台のパラボラアンテナがひとつの巨大な電波望遠鏡として機能している。Credit: ALMA (ESO/NAOJ/NRAO), A. Marinkovic/X-Cam

 

金星研究の最前線、日本の探査機「あかつき」が活躍中

そういえば、ニュースでは火星に関する発見がよく取り上げられている印象がありますが、金星に関する新発見は珍しい気がします。

 

「そうですね。火星には探査機が数多く打ち上げられ、地表の様子などもかなりわかってきています。これは長期的な探査ロードマップがうまく機能しているということで、特にNASAが火星への有人飛行を最終目標に掲げているということが大きいでしょう。

 

一方、金星の探査機はここ20年で2機だけで、探査の質、量ともに火星に大きく遅れをとっています。金星の場合は大気があまりにも分厚いため、周回機から地表付近を探査するのが難しいということもあるでしょう。現在運用されている唯一の金星探査機が、2010年に日本が打ち上げた『あかつき』です」

金星へ向かう「あかつき」の想像図。2010年に試みられた軌道投入が失敗したものの、2015年に姿勢制御エンジンの噴射により再投入に成功。2016年から観測を開始したという、ドラマティックなエピソードの持ち主だ

金星へ向かう「あかつき」の想像図。2010年に試みられた軌道投入が失敗したものの、2015年に姿勢制御エンジンの噴射により再投入に成功。2016年から観測を開始したという、ドラマティックなエピソードの持ち主だ

 

日本の探査機が活躍中なんですね! それで、金星研究はどこまで進んでいるのでしょうか?

 

「あかつきは天気予報でお馴染みの『ひまわり』と同じように、金星版の気象衛星というユニークな発想で打ち上げられました。金星の雲の動きを写真で捉え、風の流れを詳細に観察することで、これまで金星最大の謎とされてきた『スーパーローテーション』のメカニズムを解き明かす研究が進められています。

 

スーパーローテーションとは、金星大気中を100m/秒以上で吹き荒れる暴風です。金星は地球と違い自転速度が非常にゆっくりで、1回転するのに243日もかかります。大気だけがなぜこれほどの速さで吹いているのかは大きな謎でした。しかし近年、あかつきの活躍によってスーパーローテーションが維持されているメカニズムが少しずつ解明されつつあります。

 

ホスフィンの話に戻りますと、金星の生命について考える際も、大気はどんなふうに流れているのか、硫酸の雲はどこから来るのかなど、金星が実際はどんな環境なのかがよくわかっていなくては議論が進みません。スーパーローテーションをはじめ、大気そのものを理解するということが金星のサイエンスにとって非常に重要なことだと考えています」

 

環境を理解することが生命を理解することにもつながるわけですね。さまざまな方向から金星の姿が明らかになってくるのが楽しみです。

惑星科学がめざすもの 

地球の一番近くの軌道を回る惑星なのに、まだまだ謎だらけの金星。それにしても、どうしてこんなにも地球とかけ離れた環境ができあがったのでしょうか。暴風と硫酸の雲の中で暮らしているかもしれない生命のことを考えると、なんとも不思議な気分になります。

 

「はい、それを解き明かすのが惑星科学という分野の研究であり、私の目標です。金星、地球、火星は地球型惑星と呼ばれるグループで、なんとなく似通った星なのかなと思ってしまいますが、調べてみると全く異なる個性を持っていることがわかります。おそらく同じように形成されたはずなのに、一体何が原因で違う道を歩んだのか。あるいは逆に、どの惑星にも共通する普遍的な法則があるのではないか。太陽系内であれ系外であれさまざまな惑星を研究することで、地球という惑星がなぜ今のような姿をしているのかを客観的に明らかにしたいという思いで研究を続けています。

 

私が惑星について初めて勉強しはじめてから20年経ちますが、その間にも惑星科学の常識はどんどん塗り変わっています。次の20年でまた新たな事実が出てくるでしょう。そんな発見にぜひとも注目していただきたいです」

Zoomでインタビューに答えてくださった佐川先生。「惑星研究は欧州では天文学の基礎にもなったものですが、日本の場合、特に惑星大気の研究は地球の大気や磁気圏の研究から発達したという側面もあり、両者の違いも面白いです」

Zoomでインタビューに答えてくださった佐川先生。「惑星研究は欧州では天文学の基礎にもなったものですが、日本の場合、特に惑星大気の研究は地球の大気や磁気圏の研究から発達したという側面もあり、両者の違いも面白いです」

 

近くにあるようでまだまだ遠い金星だが、研究の最前線を知ることで心の距離はほんの少しだけ近づいたような気がする。今の時期なら、夜明けの東の空にひときわ明るく輝く金星が見えるはずだ。ちょっと早起きして、宇宙の兄弟に想いを馳せてみてはいかがだろうか。

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