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銀河に満ちる「ダークマター」を探していたら、未知の素粒子を発見か!? 科学ニュースを神戸大学の先生に聞いてみた。

2020年8月11日 / 大学の知をのぞく, この研究がスゴい!

2020年6月17日、ダークマターの探索実験で未知の素粒子「太陽アクシオン」発見か!? というニュースが駆け巡った。発表したのは「XENON1T(ゼノン1トン)」という装置でダークマターの探索実験を行う国際共同実験グループ(東京大学、名古屋大学、神戸大学が参加する、米国・ヨーロッパ・日本を中心としたグループ)。物理学に詳しくなくても、素粒子といえば「カミオカンデ」でニュートリノを観測した小柴昌俊さん、ニュートリノに質量があることを証明した梶田隆章さんなど、歴代のノーベル物理学賞受賞者を思い浮かべる方は多いのではないだろうか。

 

ノーベル賞につながるかもしれない大ニュースだが、どれだけスゴいことなのだろうか。そもそもダークマターって?

 

XENON実験に参加している神戸大学の身内賢太朗先生にお話を伺うと、極小の現象から宇宙の謎に迫る科学の最先端が見えてきた。

見えない宇宙の重さをはかる

「ダークマター」、あるいは「暗黒物質」。無性にワクワクする言葉の響きだが、宇宙の成り立ちに関わる超重要な、そして正体不明の物質なのだという。

 

「ダークマターは、宇宙全体の質量の5分の2を占める未知の物質です。存在することだけは知られていますが、直接観測されたことはなく、その正体は謎に包まれているんです。現代の科学が抱える最大の謎のひとつと言っていいでしょう」

 

と身内先生。観測できないものが、どうして存在するとわかるのだろうか?

 

「ハンマー投げの選手を思い浮かべてください。重い鉄球を遠くまで投げようとすると、当然速く回転する必要があり、選手も強い力で鉄球を引っ張らないといけませんよね。このように、質量を持った物体同士が万有引力で引き合いながら回転運動をするとき、その速度は互いの物体の質量によって決まります。こんなふうにして、地球の公転周期と公転半径から、太陽の質量を求めることができます。

 

同じように、私たちの銀河系について考えてみましょう。銀河には約1000億個の恒星が存在するので、銀河全体の重さは太陽の約1000億倍というふうに、ある程度計算で求めることができます。銀河の中心部は星が密集していて、外側にいくにつれて疎らになっていく(つまり、中心部が重く、辺縁部が軽い)ので、先ほどの例で考えると銀河の中心に近いほど回転速度が速く、外側にいくに従って遅くなると仮定できます。しかし、天文学者が実際に回転速度を観測してみると、銀河の外側でも回転速度はほとんど変わりませんでした。この仮定と実際に観測で得られた速度の差にあたる分、銀河には質量を持った目に見えない物体が満たされていると考えられます。この物体こそが、ダークマターなのです! 」

回転曲線

銀河の回転曲線観測の概念図。

 

「ダークマターは宇宙空間をあらゆる方向に自由に飛び回りながら、銀河全体をスッポリ包み込むようにして分布しています。その質量によって、銀河系がバラバラにならないようにつなぎとめる、砲丸投げのチェーンのような役割を果たしています」

銀河を取り囲むように分布するダークマターのイメージ(紫色)。ダークマターハローと呼ばれる(ハローhaloは太陽や月にかかる暈や、天使の後光などの意味)

銀河を取り囲むように分布するダークマターのイメージ(紫色)。ダークマターハローと呼ばれる(ハローhaloは太陽や月にかかる暈や、天使の後光などの意味)

 

目には見えないのに、銀河の重さとしてたしかに存在するダークマター。それをなんとか観測しようとしているのが身内先生であり、XENON実験なのだ。それでは、ダークマターを研究すると、一体どんなことがわかるのだろう。

 

「ダークマターは宇宙の歴史に深く関わっています。宇宙が進化する中で、ダークマターが濃く分布するところに銀河や星が生まれたと考えられているからです。ダークマターから星の材料になるような通常の物質が生まれたのか、あるいはその逆かはわかりませんが、ダークマターと通常の物質の間に何らかの相互作用があったと考えられるでしょう。その正体がわかれば、ビッグバン以降、宇宙がどのように進化してきたのかを明らかにする重要な材料になります」

 

なんと、ダークマターは宇宙の歴史を紐解く鍵だったのか。現在、その正体にどこまで迫れているのだろうか?

 

「現在のところ、ダークマターは未知の素粒子だと考えられています。その質量と、通常の物質との反応の仕方がわかれば、ダークマターの正体を突き止めたと言えるでしょう。

素粒子物理学の世界には1970年代に提唱された標準理論という理論体系があるのですが、ダークマターが未知の素粒子だとすれば、この標準理論が大きく塗り替えられることになります。現在は理論物理学者たちによって新たな理論が模索され、ダークマターの候補となる新たな素粒子についてもいくつもの仮説が立てられています」

 

宇宙の歴史から突然、素粒子の世界にクローズアップ。話のスケール感にクラクラしてきた。極大の世界と極小の世界がつながるのが物理学の最先端であり、その「わけのわからなさ」が身内先生がダークマター研究に惹かれる理由なのだそうだ。

銀河団(10の24乗メートル)からダークマター(10のマイナス24乗メートル)まで、物理学で扱う守備範囲はなんと50桁!

銀河団(10の24乗メートル)からダークマター(10のマイナス24乗メートル)まで、物理学で扱う守備範囲はなんと約50桁!

 

「地球や太陽は銀河の中を一方向に秒速200kmで進んでいますが、ダークマターも同じぐらいの速度で銀河の中をいろいろな方向に飛び回っていると考えられています。私たちの地球は、大雨の中で自転車をこぐみたいに、飛び交うダークマターの中を進んでいるんです。手のひらを広げると、毎秒10の5乗個ものダークマターが降り注いでいる計算になります。また、地球の公転方向や太陽系が銀河系の中を進む方向との関係で、降り注ぐダークマターは6月はやや多く、12月はやや少なくなる季節変動があると言われています」

 

ダークマターは今も地球に降り注いで、私たちの身体をすり抜けているのだ! 季節によって量が変動するという点も、意外と身近な存在に感じられる。俳句に詠むなら夏の季語になるのだろうか。

 

しかし、目にも見えず、触れることもできないものを一体どうやって観測するのだろう?

 

「ダークマターはとても小さいので大抵のものはすり抜けてしまいますが、通常の物質とぶつかることでビリヤードのように原子核を撥ねとばすことがあるはずです。この現象を観測するのが、XENON実験をはじめとした直接探索のねらいです」

ダークマターを見つける3つの方法

ダークマターの探索は、大きく3つの手法で行われているという。

 

「ひとつは『直接探索』、XENON実験のように、通常の物質にぶつかった際の現象を観測する方法です。続いて『間接探索』、これは銀河の中心などダークマターが密集している場所でダークマター同士が衝突して対消滅する際に発生する信号を観測しようとするもので、国際宇宙ステーションなどで行われています。最後に『加速器実験』。通常の物質同士を衝突させることで、ダークマターを生み出そうとするもので、スイスとフランスの国境地帯に跨る世界最大の加速器CERNなどで行われています。3つの手法で質量と物質との相互作用を明らかにしようというのが、ダークマター探索の全貌です」

 

 

どれもダークマターと通常の物質の相互作用に着目して、見えない相手を追い詰めようとしているわけだ。では、直接探索にあたる XENON実験は、具体的にはどんな方法を使っているのだろうか?

 

「XENON1Tは、樽のような容器の中に超高純度の液体キセノンを1トン満たした装置です。そこら中を飛び交っているダークマターがたまたまキセノンの原子核に当たって撥ねとばすと、ごくわずかな光を出します。これを超高精度の光センサー(光電子増倍管)で観測するのです。液体キセノンを使うのは、ダークマターの『的』となる原子核が大きく、かつ取り扱いやすいため。粒子同士の衝突で生じる現象を検出するという大まかな原理はニュートリノを観測するスーパーカミオカンデと似ていますが、XENON1Tはスーパーカミオカンデの1000分の1のエネルギーの反応でも捉えることができる感度を備えています。

 

実験は2016年から2018年までの2年間、イタリアのサングラッソ国立研究所の地下で行われました。その結果を精査してまとめたのが、みなさんがニュースでご覧になった発表です」

液体キセノン検出器の検出原理。ダークマターがキセノンの原子核を跳ね飛ばしたときに発生する微弱な光を、光電子増倍管でキャッチする

液体キセノン検出器の検出原理。ダークマターがキセノンの原子核を跳ね飛ばしたときに発生する微弱な光を、光電子増倍管でキャッチする

世紀の新発見か!? 導き出された3つの可能性

それではいよいよ、今回の実験の結果についてお聞きしてみよう。

 

「XENON1T装置では、ターゲットであるダークマターの他に、もともと検出器の中に含まれる放射性同位体など、既知の要因で引き起こされる現象が観測されることが予測されていました。しかし、実際に実験結果を見てみると、事前の予測を上回る量の『過剰な』事象が検出されたのです。この時点ではさまざまな要因が考えられますから、チームではそれらの可能性をひとつひとつ検証して潰していきました。結果として、今回『超過』として記録された反応の正体を3つの可能性に絞り込むことができました。

 

ひとつめは、液体キセノン中に含まれていた水素の放射性同位体、トリチウムの崩壊を検出した可能性です。トリチウムは自然界に存在する物質のため、この場合は大きな発見とは言えません。ただ、次の実験に活かせる貴重なデータとは言えるでしょう。

 

次に、未知の素粒子『太陽アクシオン』である可能性です。アクシオンは、標準理論を補完してより完全な理論を説明できる、パズルのピースのような素粒子として存在が予言されていました。実は、ダークマターの有力候補の一つでもあります。ただし、今回可能性が疑われているのは太陽で生成される『太陽アクシオン』という種類のもので、ダークマター候補とは異なります。それでも、もし太陽アクシオンならば最新の物理学を塗り替える大発見ですし、別種のアクシオンとしてダークマターが存在する可能性を示唆する非常にエキサイティングな結果になります。

 

最後の容疑者は、ニュートリノです。ニュートリノ自体はすでに知られている素粒子ですが、スーパーカミオカンデでも検出できないような微弱な反応を捉えることのできる検出器が、ニュートリノの新しい性質を捉えたのではないかという可能性が考えられます。

 

今回はダークマターの検出ではありませんが、太陽アクシオン、もしくはニュートリノの新しい性質が確認された場合、まさに世紀の大発見となるでしょう!」

XENON実験とダークマター探索のこれから

今回3つに絞られた可能性は、今後どのように検証されていくのだろうか? 実は、もうすでに次の実験の準備が着々と進められているという。

 

「引き続いて今年から開始するXENONnT(ゼノンNトン)装置による実験の準備を進めています。次は液体キセノンを4トンに増やして、より高精度の探索を行います。この実験で、先ほど挙げた3通りの可能性から真犯人を突き止め、さらに本命であるダークマターの検出を目指しています。

 

ダークマター探索は、装置の大型化によって年々精度が上がってきている状況で、先ほど少し触れた季節変動によってダークマターを特定しようとする実験が進められています。私はそれだけでは不十分だと考えていて、『NEWAGE実験』を立ち上げて研究を続けてきました。ダークマターが飛んできた方向を観測することで、より突っ込んだダークマターの性質を明らかにすることをめざしています。

 

実験装置が海外にあるXENON実験ではコロナの影響を受けて歯がゆい思いもしましたが、ダークマターの発見、そして詳しい性質の解明に向けて日々着実に歩みを進めています」

NEWAGE実験の写真

NEWAGE実験の検出器と身内先生

 

途方もなく大きな宇宙や銀河と、極小の素粒子。私たちを取り囲む謎と不思議に満ちた世界の一端を覗かせてもらった。いつか近い未来に「ダークマター発見!」のニュースが世界を駆け巡ることを期待しつつ、手のひらを広げて今も通り過ぎてゆくダークマターに思いを馳せてみてはいかがだろうか。

 

食用コオロギが地球を救う!? ベンチャーを立ち上げた徳島大学の先生たちに聞いてみた。

2020年7月30日 / 大学発商品を追え!, 大学の知をのぞく

先日、無印良品から発売されて話題沸騰の「コオロギせんべい」。食用コオロギをパウダー状にして練りこんだという、それだけ聞くとかなり新感覚のおやつだ。

 

パッケージの説明によると、「これからの地球のことを考えて、コオロギのパウダー入りのせんべいを作りました」とのこと。一体どういうことなのか? コオロギせんべいに使われているコオロギパウダーを開発した徳島大学へ取材すると、未来の食卓の風景を変えるかもしれない食用コオロギの“今”が見えてきた。

 

コオロギせんべいはどんな味?

ネット先行発売直後から大反響を呼び、品薄状態が続いているコオロギせんべい。ほとぜろ編集部でも購入してさっそく試食してみた。香ばしい風味はえびせんを思わせるが、ややあっさりした上品な後味。コオロギせんべいという字面のインパクトとは裏腹に、おやつに出てきても何の違和感もない美味しいおせんべいだ。

「コオロギせんべい」は無印良品からネット限定で発売。好評のため品薄が続いている。

「コオロギせんべい」は無印良品からネット限定で発売。大好評のため品薄が続いている(2020年7月7日現在)。

えびせんのような旨味もありつつ、さっぱりしていて腹持ちがいい。3時のおやつにぴったりだ

えびせんのような旨味もありつつ、さっぱりしていて腹持ちがいい。3時のおやつにぴったりだ

 

コオロギせんべいに練りこまれている褐色の粉が、食用コオロギを丸ごと乾燥させたパウダーだ。一袋55gに約30匹分ものコオロギパウダーが使われているという。せんべいを頬張りながら30匹のコオロギを想像すると、なんとも不思議な気分になる。しかも、この1枚に地球の未来を変えるほどの可能性が秘められているのだ。

 

ブームの火付け役は国連の報告書

徳島大学でコオロギを研究しながら、大学発ベンチャーの株式会社グリラスで食用コオロギの普及に取り組む三戸太郎先生(生物資源産業学部 准教授)、渡邉崇人先生(生物資源産業学部 助教)にお話を伺った。

 

「コオロギせんべいの開発は、無印良品の方からお声がかかったんです。無印良品がヘルシンキに出店した際に、現地でサステイナブルな食品としてコオロギが流行っているということを担当の方が聞きつけたそうで、国内で食用コオロギの養殖を行っている私たちにコンタクトを取ってくださいました」

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三戸太郎先生(左)と渡邉崇人先生(右)。

 

欧米では昆虫食文化が徐々に広がっていて、オーガニック食品を扱う店などでは食用昆虫が手に入るのだという。ブームのきっかけとなったのは2013年、国連食糧農業機構(FAO)が発表した、世界の食糧問題の解決策の一つとして昆虫食を推奨する報告書だ。

 

「コオロギは家畜の肉に匹敵するぐらいタンパク質が豊富なんです。味や見た目も昆虫の中では決して悪くないんですよ」と三戸先生は言う。牛などの家畜は飼育に大量の水を必要とし、温室効果ガスを発生させるなど、地球環境への負荷が大きいことが問題視されている。そこで、家畜に代わる環境負荷の少ないタンパク源として期待されているのが昆虫食だ。その中でもコオロギは大量生産に適していて、特に注目を集めている。まさしく、コオロギは地球を救う……かもしれないのだ。

 

「心の壁さえ突破できればですが……」と渡邉先生。たしかにブームが来ているとはいえ、やはりまだ世間的にはマイナーな存在で、昆虫を食べるということに抵抗のある人も多い。そういう意味でも、安心・安全、サステイナブルな取り組みで知られる無印良品からコオロギせんべいが発売されたことは、潮目を変える大きな一歩と言えそうだ。

記事冒頭の乾燥コオロギを粉末状にしたのが、こちらのコオロギパウダー。

乾燥コオロギ(記事冒頭写真)を粉末状にしたのが、こちらのコオロギパウダー。欧米諸国では健康意識の高い層を中心に食卓に取り入れられ始めている。

 

基礎研究から、食用コオロギのベンチャー企業へ

三戸先生、渡邉先生はもともと昆虫の発生などの基礎研究が専門だ。どういう経緯でベンチャーを立ち上げて食用コオロギの事業に取り組むことになったのだろうか?

 

きっかけは、徳島大学での学部の改組だったという。「もともとは工学部生物工学科の所属だったのですが、改組で生物資源産業学部に籍を置くことになりました。これを機に、基礎研究に加えて社会に還元できる応用的な研究も手がけていきたいと考えたんです」

 

コオロギは昆虫の中でも特に大量生産に向いていて、栄養価の点でも優秀な食糧になる。そのことはわかっていたが、食用コオロギの研究に周囲の反応はあまり良くなかった。

 

「昆虫を直接食べるのは心理的なハードルが高いから、コオロギを増やして養殖魚の餌にした方がいいという声もあったんです。ですがわざわざ増やしたものを一度魚に食べさせるとなると、ビジネスとしても資源としても非効率的であまりやる意味がありません。険しい道であることはわかっていましたが、敢えて直接食べられる食用コオロギの道を選びました」

フタホシコオロギ。目が白いのは突然変異による。

フタホシコオロギ。目が白いアルビノは自然界では低確率で発生する突然変異だが、アルビノ同士を掛け合わせることで養殖できる。

 

食用にするのは、奄美大島や沖縄に生息するフタホシコオロギ。もともと基礎研究にも使用していて、体が大きいのが特徴だ。その中でも、アルビノと呼ばれる目が白い系統は、そうでない系統よりも気性が穏やかで飼育時の匂いも少ない。特徴的な外見は安全性を担保するトレーサビリティの点でも有用だ。何より、食べてみて普通の色のコオロギよりも美味しいということがわかった。今回発売されたコオロギせんべいに使われているのも目が白いコオロギだ。

 

こうして2016年にコオロギの食用化に向けた研究が始まった。しかし、企業からの問い合わせは来るものの、なかなか産学連携事業として結実しない。それは、昆虫食の心理的なハードルの高さを物語っていた。渡邉先生はそこで諦めず、アメリカで食用コオロギを生産しているスタートアップ企業を視察。世界の流れは確実に動いていることを実感した。

 

そこで、食用化を自分たちの手で一歩進めるために2019年5月に立ち上げたのが、大学発ベンチャーとして食用コオロギを生産する株式会社グリラスだ。研究で培った品質管理と加工工程のノウハウで食品開発に携わるとともに、コオロギ生産のハブとして食用コオロギに参入を考えている企業に技術提供を行うことで食用コオロギの普及をめざしている。そんなところに、無印良品の「コオロギせんべい」の話が舞い込んできた。

 

ここ数年、日本国内でも昆虫食需要は徐々に注目されはじめていたが、「コオロギせんべい」で扉が一気に開いた。今後の課題は、産業として成り立つレベルの大量生産技術の確立だ。現在はコオロギの餌やりや水換えに人間の手が欠かせないが、生産量を増やしていくには機械化・自動化が必須だ。また、食品業界のフードロスを活用した飼育技術の確立もめざす。

フタホシコオロギを飼育している“グリラスファーム”。プラケースがぎっしり並ぶ。現状、餌やりや水替えは手作業で行っている。

フタホシコオロギを飼育している“グリラスファーム”。プラケースがぎっしり並ぶ

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現状、餌やりや水替えは手作業で行われている。生後30日あまりで出荷できる大きさに成長する

 

食用コオロギを当たり前の存在に

コオロギせんべいの次は、どんなコオロギ食品を口にすることができるのだろうか。

 

「今回はお菓子でしたが、嗜好品ではなく日常的な食事としても浸透していけると嬉しいですね」

 

欧米ではすでに小麦粉の代替としてコオロギパウダーが市販されており、健康志向が強い人に高タンパク食品として支持されているという。あらゆるものを食材にしてしまうイメージのある日本に先駆けて、欧米で昆虫食文化が広がっているのは少し意外な気もするが……。

 

「日本の食文化はもともと『食べてはいけないもの以外はなんでも食べる』という考え方、対して西洋では『食べていいと決められたもの以外は食べてはいけない』という考え方なのではないでしょうか。国連の報告書で昆虫食が推奨されたことをきっかけに、欧米の方が『食べていいもの』としてポジティブに昆虫食を選びとっているように思います」

 

コオロギせんべいでコオロギを食べることへのハードルが下がれば、次はパウダーではなくコオロギの形そのままを生かした食品も展開したいという。実は、コオロギせんべいも開発段階では「姿焼き」のようにコオロギをそのままの形でスナックにする構想があったが、昆虫を製造ラインに乗せることができる食品工場が見つからなかった。それも仕方のないことで、これまでの感覚なら虫は食品工場の大敵だ。パウダーなら、と引き受けてくれたのが今回のせんべいの工場だったという経緯だ。

 

そんなコオロギ本来の味は、「そら豆のフライに似ていて、パリパリ噛んでいるうちにエビのような旨味が広がってきます」。なんとも美味しそう、おつまみにもってこいだ……と素直に想像できてしまうあたり、コオロギせんべいを通して筆者とコオロギとの距離が縮まった証拠だろうか。

 

「現在はコオロギを使っているということ自体が話題になっている段階ですが、理想は食用コオロギが日常的な食習慣に定着することです。おやつ時に『えびせんとコオロギせん、どっち食べる?』というような会話が当たり前になるといいですね」

 

徳島発のコオロギが私たちの食卓を変える日は、そう遠くないかもしれない。

「ひねくれ」視点でカルチャーの扉を開く。立教大学発、フリーマガジン『Seel』編集部に聞いてみた。

2020年7月9日 / コラム, 学生たちが面白い, 大学を楽しもう

先日「フリペ専門店で聞く! 大学生が作る超個性的なフリーペーパーの魅力」という記事をお届けした。その中でも特にハイセンスで熱量の高い紙面で存在感を放っていたのが、立教大学の学生たちによるカルチャー系フリーマガジン『Seel』だ。ページを開いてみると泥臭いまでのカルチャー愛が溢れる本格的な内容で、大学生活に密着した「学生フリペ」のイメージをいい意味で覆された。

 

『Seel』を作っているのは一体どんな学生なのだろうか? 4月に刊行された最新の「Music meets…」特集号を手に、立教大学のSeel編集部にオンライン取材を敢行した。

 

ディープな視点でカルチャーを発信する『Seel』とは何者だ?

まず最初に言っておこう。大学生でも社会人でも、カルチャーを愛する人は『Seel』を手にとって是非読んでみてほしい。「現代短歌」をエモで切り取ったり、ニッチな「ZINE」カルチャーを熱っぽく語ったり、知るのがちょっと怖い「食」の秘密を掘り下げたりと、毎号ひとつのカルチャーをちょっと変わった視点で掘り下げている、フリーペーパーながら本格的なカルチャーマガジンだ。「THE DOOR TO CULTURE」というコンセプトどおり、1冊読めばそのジャンルで押さえておくべきトピックや面白がり方がわかり、もっと深く知りたくなるだろう。

 

配布場所は学内やイベント出展のみならず、都内を中心にした書店、カフェ、ギャラリー等に設置されている他、Seel編集部のサイトからバックナンバーの取り寄せにも対応している。

ポップでちょっとレトロな紙面が目を引く。一見しただけで熱量の高さが伝わってこないだろうか

ポップでちょっとレトロな紙面が目を引く。一見しただけでも熱量の高さが伝わってこないだろうか

 

そんな『Seel』を発行しているのは、立教大学のサークル「Seel編集部」。

今回、代表の高浦康佑さん、副代表・広報代表の小野塚暁世さん、営業代表の前田月さんにお話をお聞きした。

 


お話を聞いた人

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左から高浦さん、小野塚さん、前田さん。3人とも現代心理学部の3年生。


 

 

――まずは、Seel編集部がどんな団体なのか教えていただけますか?

 

高浦 立教大学に複数あるフリーペーパー制作団体のうちのひとつで、毎号「ひねくれた視点」でカルチャーを発信しているのが僕たちSeel編集部です。現在部員は30名。団体としては10年ほどの歴史があり、年3回発行している『Seel』は最新号で37号を数えます。

 

――『Seel』を発行するうえでのこだわりを教えていただけますか?

 

高浦 「THE DOOR TO CULTURE」というコンセプトを掲げていまして、読んだ方がそのカルチャーに興味をもつきっかけになることや、物事をおもしろおかしく捉える視点を知ってもらうことを意識しています。そして、紙で発行するということにもこだわっていますね。これは先輩から聞かされたことなのですが、修正が容易なwebとは違い、ずっと形に残ってしまう紙のメディアだからこそ、書いたことに責任が持てるのだと思っています。

 

――毎号5000部を発行している『Seel』、反響はいかがですか?

 

高浦 学内では最新号をチェックして読んでくれる人が多いのが嬉しいですね。僕たちは大学の名前を大きく出して活動しているわけではないのですが、学外のイベントに参加した際でも『Seel』を知っていて応援してくださる方がいらっしゃいます。これまで先輩方が築いてこられたクオリティや熱量が読者の方に伝わっているのを感じて誇らしい気持ちになります。


――毎号クオリティの高い発信を続けられる秘密は何なのでしょうか?

 

高浦 全員参加の制作体制でしょうか。部員はwebやイベント等で情報発信を行う広報・企業様と広告出稿の交渉をする営業・紙面のビジュアルを担うデザインの部署に分かれているのですが、紙面の制作には全部員が参加します。まず、全員がそれぞれ考え抜いた企画を持ち寄ってプレゼンし、その中から面白くて『Seel』らしいものを投票によって選びます。テーマが決まったら、編集部全体で企画内容をブラッシュアップして、コンテンツごとに班に分かれて紙面を制作しています。

 

――最初のテーマ選びから紙面の制作まで、部員さん全員が関わって作っておられるのですね。内容の充実ぶりも納得です!

 

「音楽×人生」。最新号はこうして生まれた!

――続いて、最新号「Music meets…」の見どころをお聞きしたいと思います。この号では「音楽×人生」をキーワードに、日常の中での音楽の聴き方や、お気に入りの音楽との出会い方などが取り上げられています。誰もが共感したり日常に取り入れたりできる身近なテーマだと思いました。
この企画を発案されたのは小野塚さんとのことですが、どうして音楽というテーマに挑戦しようと思ったのですか?

 

小野塚 私自身がバンド活動をしていることもあって、音楽は一度扱ってみたいテーマでした。そこで大切になるのが、広大な音楽の世界をどういう切り口で見せるかということです。今回は音楽を聴く側の視点に絞って、「音楽×人生」という切り口で企画を提案しました。大きなテーマなので覚悟は要りましたね。企画段階で内容についてもかなり作りこんでいました。

「人によって趣向や捉え方が全然違うテーマなので、提案には覚悟が要った」と小野塚さん

「人によって趣向や捉え方が全然違うテーマなので、提案には覚悟が要った」と小野塚さん

 

――企画発案者として、小野塚さんが特にこだわったコンテンツはありますか?

 

小野塚 どのコンテンツもものすごく苦労して作ったので選ぶのが難しいのですが、敢えて「前書き・後書き」ページを推したいです。ここは「音楽×人生」というコンセプトを象徴的に伝える大切なページなんです。前書きは「人生は音楽だ。」とありますが、音楽編集ソフトの画面のデザインで、人生のストーリーの積み重ねをひとつの音楽に例えています。後書きは逆に「音楽は人生だ。」というコピーで、スマホのプレイリストを写しています。一曲目が『世界の始まる日』、次に『mama』……もうお分かりでしょうか。

 

「音楽×人生」というテーマをビジュアルで伝える前書きと後書き。

「音楽×人生」というテーマをビジュアルで伝える前書きと後書き。

 

――こちらはプレイリストを人生に喩えているわけですね!

 

小野塚 人生は一曲の音楽で、音楽の積み重ねがまたひとつの人生で……というフラクタルな感じを表現したくて、デザイン担当の部員と一緒に詰めて作っていきました。

 

それではページをめくって本文に入りますが、冒頭は「音楽の起源」ですね。

音楽の起源について考えたことはあるだろうか? 遊びの一環から音楽が生まれたとする「遊戯起源説」、感情の高ぶりと肉体の動きから音楽が生まれたとする「肉体衝動説」などが論じられている

音楽の起源について考えたことはあるだろうか? 遊びの一環から音楽が生まれたとする「遊戯起源説」、感情の高ぶりと肉体の動きから音楽が生まれたとする「肉体衝動説」などが論じられている

 

小野塚 『Seel』のコンテンツはジャンルの初心者から玄人まで誰でも楽しめるように配慮しているのですが、誰もが当たり前に親しんでいる音楽というテーマだからこそ「音楽ってそもそもなんだろう?」という根本的な問いかけから始めることにしたんです。

 

高浦 最初に前提知識をしっかり押さえることで、後のページでひねくれた視点を提示しやすくなるんですよ。こうしたページを担当する班は、学校図書館をフル活用して知識を深めながら記事を作っています。

 

――ネットに情報があふれている中、学校図書館を活用されているのも素晴らしいです。

「日常と音楽の交差点」というページでは、いろいろなシチュエーションを想定してそれに合う音楽が紹介されています。こういう詩的で「エモい」表現や言葉遣いも『Seel』の特徴ですよね。

 

「窓に滴る雨粒を横目に、ぼーっと時間をやり過ごす。なんとなく、このままでいたいなぁなんて思ったり、思わなかったり。」そんな時ヘッドフォンから流れてくる音楽は……? エモい表現でカルチャーをぐっと身近に引き寄せてくれる

「窓に滴る雨粒を横目に、ぼーっと時間をやり過ごす。なんとなく、このままでいたいなぁなんて思ったり、思わなかったり。」そんな時ヘッドフォンから流れてくる音楽は……? エモい表現でカルチャーをぐっと身近に引き寄せてくれる

 

前田 文章については、けっこう格好つけて書いているところがあると思います(笑)

 

小野塚 部員同士で文章を添削していくのですが、そこで『Seel』っぽい文体が代々受け継がれているのかもしれませんね。

 

――そしてサニーデイサービスの曽我部恵一さんへのインタビュー、最後に部員さんによる座談会、とそれぞれの音楽との付き合い方がクローズアップされていきます。

 

毎号その道のプロや有識者が登場するインタビューは必見だ

毎号その道のプロや有識者が登場するインタビューは必見だ

「平成生まれの音楽クロニクル」は、5人の編集部員が好きなアーティストや音楽の聴き方を語り合う座談会

「平成生まれの音楽クロニクル」は、5人の編集部員が好きなアーティストや音楽の聴き方を語り合う座談会

 

小野塚 曽我部さんには、新しい音楽との出会い方についてもお聞きしました。「無理に新しい音楽を聴こうとせずに、青春時代に好きになった音楽をずっと聴きつづけていてもいいんじゃないか」という言葉は少し意外でしたが、いい意味で肩の力が抜けました。いいインタビューなので是非読んでいただきたいです。

 

前田 最後の座談会は私も参加しているんですけど、人によって好きなジャンルも聴き方も全然違って、とっても楽しかったですよ。これをきっかけに他の部員が聴いている曲を聴いてみたりもしました(笑)

 

――音楽という切り口から、みなさんが日々どんなことを考えているのかが伝わってきた気がします。身近な人と音楽の話で盛り上がってみたくなりました!

 

『Seel』と僕らのこれから

――そんな最新号を刊行されたばかりですが、みなさんが考える『Seel』のこれからについて聞かせていただけますか?

 

高浦 僕たちのひねくれた視点を面白がってくれる人が周りにいることも嬉しいのですが、読者の方の中にもSeel的な視点がずっと残ってくれたらさらに嬉しいですね。

 

小野塚 私は『Seel』に携わったことでカルチャーや自分の考えを発信する楽しさを知ってしまったので、今後もそういうことに関わっていきたいと思うようになりました。『Seel』を卒業してもカルチャーからは離れられないと思います。

 

前田 読んでいるうちにいろんな角度から物事を見ることができるようになるのが『Seel』の良さだと思っています。「THE DOOR TO CULTURE」の言葉どおり、これからも誰かがカルチャーを好きになる扉であってほしいですね。

 

 

 

ひねくれた視点とは裏腹に、とことん一途にカルチャーに惚れ込んでいる姿が印象的だったSeel編集部のみなさん。学生団体として世代を超えて受け継がれるからこそ、柔軟な視点と変わらぬ熱量を保ち続けていられるのかもしれない。

 

最後にみなさんにそれぞれのオススメの号をお聞きした。Seel編集部サイトのメールフォームよりバックナンバーを1冊から取り寄せることができるので、参考にしてみてはいかがだろうか(品薄のものもあるので、まずはお問い合わせを)。新しいカルチャーの扉を叩いてみよう。

 

高浦さん:「ラップをしよう。」「漫才」ラップや漫才を日常生活に取り入れてみたら……という試みで、日常と地続きにテーマを切り取っている。この2冊に出会い入部を決めた

高浦さん:「ラップをしよう。」「漫才」ラップや漫才を日常生活に取り入れてみたら……という試みで、日常と地続きにテーマを切り取っている。この2冊に出会い入部を決めた

 

小野塚さん:「現代短歌」初めて本格的に制作に参加した号。「エモい」という感情を短歌に、という企画。短歌の世界が一気に身近になる入門書としてオススメ。

小野塚さん:「現代短歌」初めて本格的に制作に参加した号。「エモい」という感情を短歌に、という企画。短歌の世界が一気に身近になる入門書としてオススメ。

 

前田さん:「ZINEってなんだ?」初めて制作に参加した号。個性的な「ZINE」カルチャーを濃厚に紹介。ニッチなものを好きな自分でいいんだ、と肯定してくれる。

前田さん:「ZINEってなんだ?」初めて制作に参加した号。個性的な「ZINE」カルチャーを濃厚に紹介。ニッチなものを好きな自分でいいんだ、と肯定してくれる。

命との向き合い方を問いかける。興福寺 × 近畿大学、学術的知見を取り入れた伝統行事「放生会」

2020年6月11日 / 大学の知をのぞく, この研究がスゴい!

「生き物を大切にしよう」。
誰もが子どもの頃に教わることだが、生きていくためには多かれ少なかれ他の生き物の命をいただかなければならない時がある。こうした矛盾に向き合う受け皿になってくれるのが、たとえば仏教の教えだ。

 

五重塔で有名な興福寺では、隣接する奈良公園の猿沢池に魚を放流する「放生会(ほうじょうえ)」という伝統行事が毎年行われている。むやみな殺生を戒め、生命はみな平等であるという教えを体現する行事として親しまれてきた。

 

その放生会で今年、近畿大学の協力のもとで学術的なアプローチによって画期的な取り組みが始まったという。取材してみると、お寺と研究者それぞれの命への向き合い方、そして奈良公園に秘められた自然と人間の関わりが見えてきた。

時代を反映し、刷新される伝統行事

興福寺の放生会は、すべての生命は平等であるという仏教の教えのもと、毎年4月17日に行われる伝統行事だ。僧侶や地元の人々が手桶を使い、隣接する猿沢池に約2000尾の金魚を放流する。涼しげな風情ある猿沢池の春の風物詩として親しまれている。

 

一方で近年、環境問題に対する意識の高まりから、もともと猿沢池に生息していない金魚を放流することについてSNSなどで批判的な声も上がっていた。そこで放生会を学術的な見地から見直すべく、興福寺から協力依頼を受けたのが近畿大学の北川忠生先生(農学部環境管理学科)だ。

お寺と大学が連携する取り組みについて、北川先生にじっくりお話を伺った。

北川忠生先生。専門は保全生物学・分子進化学で、主な研究対象は日本の淡水魚。メダカの遺伝子汚染問題や、後に紹介するニッポンバラタナゴの保全活動などに取り組む

北川忠生先生。専門は保全生物学・分子進化学で、主な研究対象は日本の淡水魚。野生メダカの遺伝的撹乱の問題や、後に紹介するニッポンバラタナゴの保護活動などにも取り組む

 

――早速ですが、これまでの放生会の問題点について教えていただけますか?

 

「テレビ番組でもよく取り上げられる外来種の問題はご存知でしょうか。自然の生態系に外から別の生き物を持ち込むと、もともと存在した生物が減って最悪の場合は絶滅してしまったり、あるいは外来種と交雑してしまったりと、生態系のバランスを崩すことにつながります。


例年の放生会で放流されていた金魚は、フナを飼育用に品種改良したものです。もともと自然界に存在しない魚なので、放流されると外来種となるため、生態系保全の観点では放流は行うべきではありません。また別の観点では、せっかく放流したとしてもそれが『命を大切にすること』とは限りません。金魚は自然環境で生き延びることが難しいからです。

 

猿沢池に関しては、人工池だから放流を行っても問題ないという意見もありますが、これは正確ではありません。猿沢池の水は近くの春日山原始林の水源から地下を通って流れ込み、水かさが増すとまた地下を通って近隣の河川へと流れ出ています。猿沢池の環境が周囲の自然環境に影響を与えることも考えられます」

 

――こうした問題を受けて、魚類の保全活動に取り組んでいる北川先生に興福寺からお声がかかったわけですが、どのようにお感じになられましたか?

 

「私は奈良公園をはじめとするフィールドで在来魚の保全活動に取り組んでいて、各地で行われている魚の放流に対しても研究者として注意喚起を行っています。今回、興福寺さんの方からお声がけいただいたのは願ってもないことでした。興福寺の方も外来種問題を本当によく勉強してくださっていて、本気の姿勢を感じました。考えてみると、昔は寺子屋というものがあったように、お寺というのはもともと学術的なものを担う場所なんですよね」

 

――興福寺といえば奈良時代から続く由緒あるお寺ですが、批判を受け止めて伝統行事を刷新していく柔軟さには拍手を送りたくなります。それで、実際にはどのような取り組みを行ったのですか?

 

「今回の取り組みでは、『命を大切にする』という放生会の基本の考え方を踏まえ、金魚の代わりに、事前に行った調査で採取されたもともと猿沢池に生息している在来魚を、法要ののちに放流するという形を取りました。また、その過程で猿沢池の生態系の実態を把握し、外来種を取り除くことも大きな目的でした」

生態系の実態を把握し、正しい情報を発信する

――放生会に先立つ4月13日には、北川先生の研究室による猿沢池の調査が行われました。どんな調査だったのでしょうか?

 

「今回行ったのは、猿沢池の魚類相の調査です。魚への負担が少ないモンドリという仕掛けなどを使って魚を採取し、目視による調査も合わせてどんな種類が生息しているか確認しました。

 

結果としては、一般的な在来種であるモツゴが1500尾ほどで最も多く、同じく在来種のヨシノボリなども少し見られました。外来種ではタウナギが1尾、それに捕獲はしていませんが、目視でコイも確認しました。以前は外から持ち込まれたブラックバスやガーがいた時期もあったのですが、今は想定していたよりも在来魚が多い印象でしたね」

調査は雨の中行われた。エサでおびき寄せる「モンドリ」とタモを使って魚を採取する

雨の中、6人がかりで1時間半ほどかけて行われた採集作業。計6個のモンドリを15分程度沈めて回収する作業を2箇所で2回ほど行うと、大変たくさんのモツゴが採れた。その他、タモ網でも採集を行った

採取された在来種のモツゴ。環境適応力に優れ、都市部の川などでも普通に見ることができる

採取された在来種のモツゴ。環境適応力に優れ、都市部の川などでも普通に見ることができる

 

――去年まで放流されていた金魚は見つからなかったのでしょうか?

 

「今回の調査では見つかりませんでした。金魚は池の中でよく目立つので、残念ながら野鳥に食べつくされてしまったと考えられます。自然環境に本来存在しない生き物を放つことで、その生き物自身にとっても不幸な結果となってしまうことがあります。今回の調査でもそのことが実証される結果になりました」

 

――在来種が増えたのは喜ばしいことですが、なかなか考えさせられる結果ですね……。調査を経て、放生会はどのように行われたのでしょうか。

 

「採取したモツゴ約1500尾は放生会までの数日間、大きな水槽を用意して興福寺の敷地内で飼育しました。放生会当日はそのうち200尾ほどを桶に移し替え、興福寺での法要ののち、僧侶の手で猿沢池に放流されました。今年はコロナの影響で小規模になりましたが、例年は市民の方も参加され2000尾ほどが放流されるので、水槽での飼育はそのためのシミュレーションでもあります。


手桶から池の水面へ水を撒くように放流する例年のスタイルは魚への負担になるため、今年はスロープを使ってやさしく注ぎ入れる方法に変更しました。我々大学チームは、魚の移動をアシストしたり、スムーズに放流できるようにスロープに水を流したりといった裏方のお手伝いをさせていただきました。放生会の後、残り約1300尾のモツゴも放流しています」

放生会当日の様子。僧侶による読経の後、スロープを使って放流する。スロープは民間の協力企業から提供を受けている

放生会当日の様子。僧侶による読経の後、スロープを使って放流する。スロープは民間の協力企業(株式会社ジェイテクト)から提供を受けている

 

――当日の様子は新聞やテレビなどでも取り上げられましたね。

 

「魚の調査や管理以外にもうひとつ気を遣ったのが、実はメディア対応でした。魚を放流する行事は全国各地で行われていて、中には生態系保護の観点から問題のあるものも多いのですが、ニュースではそれらを一絡げに『良いこと』として伝えてしまいがちです。そこで、今回の放生会の前に、外来種を放流することにどんな問題があるのかということを伝える事前レクチャーを記者クラブで実施しました。

 

興福寺さんと私たちの取り組みが、全国の同様の行事のモデルケースになることを願っています。正しい情報を発信して、多くの方に考えていただくきっかけにしていきたいです」

 

――一過性のイベントとしてではなくきちんと文脈を踏まえて伝えるということは大切ですよね。放生会にまつわるひとつひとつの取り組みに、日頃から保全活動に携わっている北川先生だからこその説得力と強い思いを感じました。

お寺と研究者、それぞれの“命との向き合い方”

――ここからは、お話を聞いて気になったことをツッコんでお聞きしていきたいと思います。まず、調査で採取された在来魚は池に戻されたわけですが、外来魚のほうはどうなったのでしょうか?

 

「これも事前に興福寺さんと取り決めて、池には戻さず近大で引き取って飼育することにしていました。問題は『特定外来生物』が採れた場合です。特定外来生物に指定されている生物は、採取した場所から生きたまま移動させることが禁止されているんです。通常はこうした場合にはその場で安楽死させるのですが、放生会はむやみな殺生を戒める行事でもあるので、立ち止まって考える必要があります。興福寺の僧侶の方と経典を紐解いて『殺生とは何か』というところから議論を重ね、より多くの命を守るために池に戻すことなく、外来種の命も繋ぐ術がないかという課題に向き合っています」

 

――放生会ならではのジレンマですね……。今お聞きした中で、安楽死という言葉が気になりました。日本には活け造りや踊り食いといった文化もあります。お恥ずかしいことに、魚が苦痛を感じる、ということすらあまり意識していませんでした。

 

「私たちの研究では、時として生き物の命を奪わなければならない場面がどうしてもでてきます。そのため、研究倫理に則って生き物がなるべく苦痛を感じないであろう方法で処理することが求められます。小さい魚類の場合はエタノールに浸して一瞬で意識を奪うか、氷で水温を下げて活動を停止させて死滅させるといった方法が取られます。おっしゃるように日本では魚食文化が根づいていることもあり、研究における魚類の扱いについては明文化されているわけではありませんが、海外の学術雑誌に投稿する際は、こうした適切な手段が明記されていないと論文自体を受け取ってもらえません」

 

――お寺では仏の教えが、研究では研究倫理が指針になるわけですね。命に向き合う姿勢という根本の部分で、お寺と研究者の考え方には近しいものがあるのかもしれませんね。

人と共生するからこそ、豊かな自然が維持される

――もうひとつお聞きしたいことがあります。猿沢池が自然の水系の中に位置しているということは先ほど伺いましたが、それを取り巻く奈良公園の環境を先生はどのように見ていらっしゃいますか?

 

「もともと猿沢池は春日山系から水が流れ込む湿地だったそうです。湿地では良質の粘土がよく採れるので、その土を使って興福寺の堂塔に葺く瓦が焼成されました。放生会のために作られた池だと思っている方もいらっしゃいますがそれは間違いで、興福寺放生会はもっと時代を下った戦前から始まった比較的新しい行事なのだと興福寺さんに伺いました。

 

奈良公園の木造文化財の周囲には池があることが多いのですが、これらは防火の目的で自然の水系を利用して整備されたものなのだそうです。そして、それらの池は人の手によって適度に維持管理されることで、生き物が棲みつき生態系が出来上がっています。

 

15年ほど前、そんな奈良公園のとある池で、県内では絶滅したと思われていたニッポンバラタナゴという魚が見つかりました。この魚はドブガイやヨシノボリといった他の生物と密接な関係にあって、豊かな生態系が維持されている環境でしか繁殖できません。この発見は、奈良公園がいかに豊かな環境かを見直すきっかけになりました」

ペタキンオス

地元では「ペタキン」の通称で知られるニッポンバラタナゴ(上がオス、下がメス)。環境省レッドリストでIA類に分類される絶滅危惧種で、奈良県では1970年代を境に絶滅したと思われていたが、2005年に奈良公園で発見。北川先生は生息環境の保全や繁殖活動に取り組んでいる

地元では「ペタキン」の通称で知られるニッポンバラタナゴ(上がオス、下がメス 撮影:森宗智彦氏)。環境省レッドリストでIA類に分類される絶滅危惧種で、奈良県では1970年代を境に絶滅したと思われていたが、2005年に奈良公園で発見。北川先生は生息環境の保全や繁殖活動に取り組んでいる

 

――自然の水の流れに人の手が加わることで、豊かな生態系が維持されてきたんですね。近頃注目を集めている里山の維持管理の問題にも通じるところがあるように思います。

 

「本来、人間の暮らしは自然か人工かにはっきり割り切れるものではなくて、人の手で自然を利用し、維持管理することで成り立ってきました。奈良公園は都市部に近い平地にもかかわらず、寺社仏閣のおかげで日本古来の自然と人間の営みが共生できている全国的にも貴重な場所です。宗教財や文化財があることで生物多様性にとってもタイムカプセルになっているんですね。そんな奈良公園の中でも猿沢池は街に近い場所にあり、人と自然が一番近くで接点を持てる場所と言えるかもしれません」

放生会と猿沢池のこれから

――最後に、北川先生の考える放生会の今後についてお聞かせいただけますか?

 

「興福寺さんに寄せられていた意見の中には、そもそも放生会という行事自体を中止すべきだという声もありました。それもひとつの考え方ですが、今回のようなやり方ならば猿沢池の環境を定期的にチェックして改善することにも繋がりますし、またそうやって良い環境を保てないと放生会自体も続けられません。そうした持続的なサイクルの中で伝統行事を続けて、身近な自然に向き合い続けていくことに意味があるのではないでしょうか。今後は事前調査の段階から市民の方に手伝っていただき、環境教育につなげていきたいですね。

 

まだアイデア段階ですが、新しいプロジェクトについても話し合っています。興福寺には瓦の葺き替えの際に出た古い瓦がたくさん保存されており、これを何かに役立てられないかという提案がありました。瓦を猿沢池の底に沈めてやると、モツゴなどの小魚の格好の隠れ家や産卵場になると考えられます。興福寺の瓦は猿沢池の土から作られたということは先ほどもお話ししましたが、それをまたもとの場所で再利用することで、在来種の棲みやすい環境づくりに役立てたいと考えています」

 

 

環境問題がますます進行する現代。人間と自然との関係をどのように修復していくのかは私たちにとって厄介な宿題だが、放生会を通して命の大切さに思いを馳せることがそのヒントになるのではないだろうか。興福寺と北川先生の取り組みに、今後も注目していきたい。

 

大学アプリレビュー番外 スクワットで音楽を奏でる!? スポーツ×芸術×科学「Biosignal Art」で運動習慣を身につけよう。

2020年6月9日 / コラム, 大学アプリレビュー

緊急事態宣言は解除されたものの、まだまだ自宅で過ごす時間が長い今日この頃。何より気になるのは運動不足です。意識的に散歩に出かけたりはするものの、どうも体力が落ちてきたような……。こんな調子で夏が乗り切れるのか、不安がよぎります。

 

そこで今回は、スポーツ×アート×テクノロジーの融合により、正しいフォームで効率的に、しかも楽しく自宅トレーニングが行えるというwebアプリ「Biosignal Art」をご紹介します。

 

立命館大学が運動解析技術、順天堂大学が運動監修、東京藝術大学COI拠点(革新的イノベーション創出プログラム)が音楽監修を担当し、新型コロナウイルスによる生活習慣の変化に対応するため約1か月(!!)という驚きの短期間で開発されたそう。立命館大学のメンバーの筆頭には、URAが推薦する、注目の研究者」でご登場いただいた岡田志麻先生のお名前も。

 

運動不足まっしぐらの筆者がさっそく体験してみました。

 

Biosignal Art

https://www.biosignal-art.net/index.html

Biosignal Artトップページ

Biosignal Artトップページ

 

「Biosignal Art」はPCのGoogle chromeで動作するwebアプリ。PC内臓または外付けのwebカメラが必要ですが、リモート会議やZOOM飲み会用に買ったものが使えそうです。

 

説明を読んでみると、新型コロナウイルスで日常が変化する中、運動不足で健康を損なう方々がいることを危惧して開発されたとのこと。トレーニング動作を点数化し、動作の良し悪しが音楽に現れるということだけど……。

 

まだ全貌が見えてこないので、さっそく体験してみましょう。スタートボタンをポチッとな!

簡単な準備運動だが、すでに筆者の日常の運動量を上回っている

簡単な準備運動だが、すでに筆者の日常の運動量を上回っている

 

まずは準備運動。再生される動画に合わせて、各自サボらずやっておきましょう。

 

全身を動かしていい感じにほぐれてきました。次に進むとトレーニングの選択画面ですが、2020年6月1日現在は「スクワット」が公開されていて、今後コンテンツが増えていく模様。ということでさっそくスクワットに挑戦!

webカメラの映像で自分のフォームを確認しながらスクワット。オプションでガイド線を表示させたり、動画をリプレイする際に流れる音楽を切り替えたりできる

webカメラの映像で自分のフォームを確認しながらスクワット。オプションでガイド線を表示させたり、動画をリプレイする際に流れる音楽を切り替えたりできる

 

「1、2、3、4・・・」という声に合わせてゆっくり腰を落とし、また伸ばしていきます。1セット10回、時間にして1分。太ももに効いてる感じ!

 

お待ちかねの結果発表。10回×10点で100点が満点です。

筆者のスクワットの点数は?

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まあ、そんなもんでしょう……。

 

動画の方も見ていきましょう。軽快な音楽とともに先ほどのスクワットがリプレイされます。

本当は赤線のところまで腰が落ちていないといけない

本当は赤線のところまで腰が落ちていないといけない

 

フォームがよろしくない時は容赦なく「Bad」の文字が浮かび上がり、BGMにもザリザリザリ……とノイズが。ふむふむなるほど、動画でフォームを解析して、それに合わせて音楽や視覚効果が変化するというわけですね。

 

おもしろい! けど、この結果は悔しい!

 

そもそもスクワットの正しいフォームって……? と思ったら、前のページにちゃんとお手本の動画があるじゃないですか。

 

お手本を見ていると、太ももと地面を平行にすることがいとも簡単なことのように思える

お手本を見ていると、太ももと地面を平行にすることがいとも簡単なことのように思える

 

OK、バッチリです。膝を揺らさない、しっかり腰を下げる、リズムに乗る!

 

ということで、正しいフォームを意識して再挑戦!

 

太ももに限界を感じつつ、結果は……

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おっ! ちょっと良くなった!

 

さっきよりも腰を深く落とすことを意識した

さっきよりも腰を深く落とすことを意識した

 

BGMが澄んだ音色になり、Goodの文字も(1回だけですが)いただきました。

お疲れさまでした!

お疲れさまでした!

 

平時ならばジムなどで指導を受けることもできますが、今はなかなかそれも難しいので、こうやって自宅にいながら効率的なフォームを添削してもらえるのは非常に助かりますね。100点満点の時どんな音楽が聴けるのかも気になります。

 

これを機に運動習慣をしっかり身につけて、来たるべき夏バテも元気に乗り越えたいと思います。みなさんもスクワットでどんな音楽を奏でられるか、試してみては?

身近な生物が美味しい蕎麦に!? 龍谷大学農学部、失われた「姉川クラゲ」への挑戦。

2020年5月19日 / 大学の知をのぞく, この研究がスゴい!

「姉川クラゲ」をご存知だろうか。名前は知らなくても「雨上がりの運動場で見かけるワカメのようなアレ」と聞いたらピンと来る方も多いだろう。正式名称を「イシクラゲ」という、この身近で不思議な生物から、なんと美味しい蕎麦が作られたという。

取材をしてみると、そこには失われた食文化を現代に甦らせ、新たな地場産業を創出する「農」の研究者たちの物語があった。

 

不思議な生物が蕎麦になるまで

2020年2月、龍谷大学瀬田キャンパスでちょっと変わった蕎麦の試食会が行われた。その名も「姉川くらげそば」。

滋賀県の伊吹山地、姉川流域の一部でかつて食されていた「姉川クラゲ」の粉末を、同じく伊吹山地が発祥として知られる蕎麦に練りこんだ。見た目は普通の蕎麦と変わらず、食感はツルツルとコシの良いお蕎麦だ。取材陣からは「蕎麦らしくて美味しい」と好意的な感想が聞かれた。

 

姉川くらげそばの開発にあたったのは、龍谷大学農学部の4学科(植物生命科学科、資源生物科学科、食品栄養学科、食料農業システム学科)を横断するプロジェクトチーム。一体なぜ姉川クラゲに着目し、その先に何を目指しているのだろうか。携わった4名の先生方にお話を伺った。

左から古本先生、朝見先生、玉井先生、坂梨先生。

左から古本先生、朝見先生、玉井先生、坂梨先生。

 

「もともと生物としてのイシクラゲに興味を持っていました。見た目は海藻のようですが実はバクテリアの仲間で、栄養のない場所でも光合成や大気中の窒素を栄養源にして繁殖し、乾燥状態などさまざまな環境変化にも耐えるすごい生命力を秘めているんです。あるとき、瀬田キャンパスのある滋賀県にかつてイシクラゲを食用にしていた地域があるという話を聞きつけたのが姉川クラゲとの出会いでした。食材としてのイシクラゲを研究し、大量生産することができれば、忘れられた食文化を新たな地場産業として甦らせることができるのではないかと考えました」

 

こう語るのは、プロジェクトの発起人である資源生物科学科・玉井鉄宗先生。農学部の同僚の古本先生、朝見先生、坂梨先生に声をかけ、それぞれの研究室の学生たちも参加する形で2018年に分野の垣根を超えた一大プロジェクトがスタートした。

伊吹山地に自生するイシクラゲ。雨などの水分を吸うと、学校の運動場や道端で見覚えのある「ワカメのような姿」になる。

伊吹山地に自生するイシクラゲ。雨などで水分を吸うと、学校の運動場や道端で見覚えのある「ワカメのような姿」になる。

 

食文化とDNAから見えてきた、イシクラゲの物語

プロジェクトではイシクラゲをただ食用に栽培するだけではなく、その背景となる物語を掘り起こすことが重要だった。実際に姉川地域でどのように食卓に上がっていたのか、姉川地域のイシクラゲは生物学的にはどんな特徴があるのか、そうしたバックボーンを掘り下げ、イシクラゲを「姉川クラゲ」として捉え直すのだ。

 

姉川地域でのイシクラゲの食習慣の調査を担当したのは、食料農業システム学科・坂梨健太先生の研究室だ。滋賀の食事文化研究会や伊吹山文化資料館といった機関の協力のもと、現在もイシクラゲを採取して食べている方や、当時の調理法を覚えている方を訪ねて聞き取り調査を行った。イシクラゲは昭和20〜30年ごろまでは一部地域で山菜と同じように食されていた。特に伊吹山付近の石灰岩質の土地で雪解けの頃に採取したイシクラゲを乾燥させて保存し、味噌汁に入れたり酢の物にしたりしていたことがわかった。しかし、その後はワカメなどの海藻に取って代わられ、食習慣は廃れていったという。

調査を通して、忘れられつつあったイシクラゲと姉川地域との繋がりが見えてきた。さらに、坂梨先生と玉井先生、古本先生はイシクラゲの食文化が現在も残る沖縄県宮古島でも調査を行った。

 

かつてイシクラゲは天ぷらや酢の物などで食されていた。

かつてイシクラゲは天ぷらや酢の物などで食されていた。

 

続いて、DNAからイシクラゲを調査したのは植物生命科学科・古本強先生の研究室。姉川地域のイシクラゲと宮古島のイシクラゲ、そして大学周辺で採取したイシクラゲのDNAを比較した。その結果、大学周辺で採取したものはイシクラゲとは別種であったり、あるいは他の生物が混在していたりとあまり綺麗な状態ではなかったが、姉川と宮古島のものはDNAに若干の違いはあるものの、どちらも混ざり気のないイシクラゲであることがわかった。

姉川地域でイシクラゲの採取地や採取時期が限られていた理由は、より純粋なイシクラゲを採取するためであったことが想像できる。

 

一見すると同じイシクラゲでも、DNAを分析するとその正体がわかる。

一見すると同じイシクラゲでも、DNAを分析するとその正体がわかる。

 

試行錯誤の栽培、そして蕎麦との出会い

一方、玉井先生の研究室では食用イシクラゲの大量生産に向けた栽培の研究が行われていた。試行錯誤を重ねるうちに、イシクラゲはアルカリ性の土壌で、カルシウムが多く、窒素が少なく、日当たりがよい環境を好むことがわかってきた。また、栽培には水を大量に必要とするが、水道水で栽培を試みると失敗してしまった。意外なことに、イシクラゲは水道水に含まれる塩素に弱かったのだ。そうすると栽培条件は、自然の湧き水が大量に使える場所、ということになる。

「当然といえば当然ですが、姉川クラゲの故郷・伊吹山地こそ栽培に最も適した環境だったのです」と玉井先生。研究は現在も進行中だ。

 

もしこの記事を読んでイシクラゲを口にしたくなった方がいても、手近なものを自分で採取して食べてはいけないということを付け加えておこう。

先のDNA調査でもわかったとおり、手近に生えているものが純粋なイシクラゲであるとは限らないし、玉井先生によるとイシクラゲはストレス耐性が強いぶん、農薬や除草剤などの有害な物質であっても体内に溜め込むことができてしまう。それだけに安全で衛生的な食用イシクラゲ栽培をする技術の確立が期待されるのだ。

一方、そうした並外れたストレス耐性を持つだけに生理活性物質が大変豊富に含まれており、中国ではさまざまな効能をもつ漢方薬として流通している。

プロジェクトの要となる栽培方法の確立は、現在も進行中だ。

プロジェクトの要となる栽培方法の確立は、現在も進行中だ。

 

食文化、DNA、栽培の研究を経て、ここまでのプロジェクトの集大成として食品への加工を担当する食品栄養学科・朝見祐也先生の研究室にバトンが渡った。

イシクラゲと聞いて朝見先生の頭に浮かんだのは、蕎麦粉のつなぎとして布海苔という海藻を練りこんだ新潟の郷土料理「へぎそば」だった。日本の蕎麦栽培の発祥は伊吹山地といわれており、蕎麦と姉川クラゲと合わせれば格好の特産品になるだろう。

早速へぎそばを参考に実験してみると、イシクラゲからは粘りをひきだすことができずつなぎとしては使えなかったが、粉末にして生地に練りこむことで蕎麦のコシが良くなることがわかった。保存性に優れた乾麺に加工することも決まり、県内の製麺所に持ち込んで製作したのが、冒頭の試食会で振る舞われた「姉川くらげそば」だ。

普通の蕎麦より蕎麦らしい!? と好評の姉川くらげそば。

普通の蕎麦より蕎麦らしい!? と好評の姉川くらげそば。

製品化の最後にものをいうのは、実際に食べて味や食感を確かめる官能検査だ。

製品化の最後にものをいうのは、実際に食べて味や食感を確かめる官能検査だ。

 

イシクラゲは無味無臭なため、蕎麦の風味を邪魔しない。食感が良くなるほかには色が若干黒くなるが、これは「蕎麦らしさ」という意味ではプラスにはたらいた。実際、試食会に参加した各媒体からは「歯ごたえが良い」「風味が良い」「伸びにくい」といった感想が寄せられた。

試食会の他、現地調査などでお世話になった方々にもさっそく持参し、喜ばれているという。とはいえ、まだまだ試作段階だ。「今後は試食の人数を増やして、より美味しい蕎麦を目指したい」と朝見先生は語る。

 

こうして、分野を横断した姉川クラゲの研究がひとつの成果に結実した。

農業という広い世界の中でひとつの研究が他の研究と結びつき、地域の暮らしに生かされてゆく。これは、プロジェクトを通して先生方が実務面で調査を担当した学生たちに伝えたかった農学の本質だ。

 

姉川クラゲプロジェクトのこれから

プロジェクトの今後の展開は栽培方法の確立にかかっている。
大量生産の手法が確立できれば、姉川地域の農家で栽培したイシクラゲを製品化できる。蕎麦だけではなく、クセのないイシクラゲは天ぷらや炒め物などどんな料理にも合う。おまけに健康機能性も高いので、高級食材として地元の料亭で振る舞うこともできるだろう。サプリメントや化粧品にも加工できる可能性も秘めていると、玉井先生は語る。

 

姉川クラゲは、伊吹山地の自然や人々の暮らしが綴られた一冊の本のようだ。研究者たちの情熱によって解読され、新たな一章が書き加えられようとしているその物語は、私たちが身近な自然の恵みを活用することで生きてきたことを思い出させてくれる。
いつの日か、伊吹山を眺めながら姉川クラゲのフルコースを味わってみたいものだ。

フリペ専門店で聞く! 大学生が作る超個性的なフリーペーパーの魅力

2020年4月23日 / 学生たちが面白い, 大学を楽しもう

SNS全盛の現代でも、フリーペーパーはローカルな魅力溢れる情報メディアとしてますます存在感を放っている。特に、大学生ならではの視点と機動力によってさまざまな個性的なフリーペーパーが生み出されているという。
そんな大学生の作るフリーペーパーの魅力を、大阪の隠れ家的フリーペーパー専門店「はっち」で教えてもらった。

 

大学生ならではの視点を楽しもう

「大学生のフリーペーパーの魅力は、社会人の僕らとは違った視点で世界を見せてくれることではないでしょうか。今の大学生はこんなことに興味を持ってるんだ、ということがわかるのもおもしろいですし、自分が大学生だった頃の初々しい気持ちが甦ってくるということもありますね」

 

そう語るのは、ローカルメディア&シェア本屋「はっち」店長でフリーペーパー担当の田中冬一郎さん。はっちには全国の個人や団体が発行したフリーペーパーが集まり、学生が発行しているものだけでも数十タイトルはあるという。

大阪梅田の高層ビル群を抜けた阪急中津駅近く、昔懐かしい風情漂う「はっち」。 1階はシェア本屋、2階に上がると所狭しと並んだフリーペーパーが出迎えてくれる。

大阪梅田の高層ビル群を抜けた阪急中津駅近く、昔懐かしい風情漂う「はっち」。
1階はシェア本屋、2階に上がると所狭しと並んだフリーペーパーが出迎えてくれる。

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次々とフリーペーパーを取り出して紹介してくれる田中さん。

 

ほとぜろでは過去にゼミの活動で制作された明治大学の『Chiyomo』を紹介したが、大学生発信のフリーペーパーはどのように制作されているのだろうか?

 

「大学生のフリーペーパーの多くは学生団体が発行しています。複数の大学から学生が集まって運営するインカレサークルも多いですね。大きな団体では、企画、編集デザイン、営業といった役割に分かれて組織的に活動しているようです。一方で、資金調達から取材、デザインまですべて一人の学生さんが手がけたフリーペーパーもあります」

 

所狭しと並べられたフリーペーパーはどれも個性的かつハイクオリティで興味をそそられるものばかり。学生団体の中で長年のノウハウが蓄積されていると聞くと納得だ。
数あるフリーペーパーの中からさっそく、代表的なもの紹介していただいた。

 

『moco』(フリーペーパー制作団体moco)

「関西では『moco』は外せないでしょう。立命館大学、同志社大学などの学生が参加するインカレ系の学生団体が発行していて、発行部数5000部を誇る大手。特集記事、インタビュー、お出かけ情報と、内容的にもお手本のような構成ですね」

 

ページを開いてみると、大学生の生活やエモーションに寄り添ったこれぞ大学フリーペーパー!という感じの紙面。メインコンテンツである各方面で活躍する大学生へのインタビューは、同世代だからこその連帯感や憧れが感じられて、なんだかすごく眩しい。学生時代のあんな思い出やこんな思い出がフラッシュバックしそうだ。

パステル調の色使いがかわいい『moco』。

パステル調の色使いがかわいい『moco』。

バンド、小説家、アイドル、など、さまざまなフィールドで活躍する大学生にインタビュー。

バンド、小説家、アイドル、など、さまざまなフィールドで活躍する大学生にインタビュー。

 

『ChotBetter』(京都大学 ChotBetter 

「京大の学生団体が発行する『Chot★Better』はギャグっぽい内容でクスッとできますよ。頭脳派のイメージのある京大生が敢えて笑いに走るっていうのがいいですよね」

 

この号は何かと思ったら「袋」特集で、ゴミ袋、知恵袋、池袋、といろんな袋にひっかけた内容。巻頭の「袋とじ」が凝っていたり、ゴミ袋をオシャレに(?)着こなしてみたりとカオスな様相だが、ワイワイ楽しく作っている感じが伝わってくる。後半は単位履修情報と大学周辺のお店で使えるクーポン券になっている。京大生必携の充実度だ。

何だこれ? と気になってしまったあなたは『Chot★Better』の思うツボかもしれない。

何だこれ? と気になってしまったあなたは『Chot★Better』の思うツボかもしれない。

ゴミ袋をオシャレに着こなす京大生。

ゴミ袋をオシャレに着こなす京大生。

 

店長おすすめ! 深掘り系フリーペーパー

学生生活を思い出させてくれるようなフリーペーパーの眩しさに目を細めつつ、田中さんおすすめのフリーペーパーをお聞きした。

 

「一般の方にもおすすめしたいのは、ひとつのテーマを突き詰めた“深掘り系”のフリーペーパーですね」

 

『Seel』(立教大学フリーマガジン団体Seel)

「立教大学のサークルが制作している『Seel』は、毎回ひとつのカルチャーを深掘りするMOOK本のようなスタイルです。直近のテーマは現代短歌、SF、ZINE、食など。表現はちょっとポエティックなんですけど、身の回りの学生生活のことばかりではなく文化や社会に関する話題に切り込んでいます。読み応えのある特集を安定的に発信している、注目のフリーペーパーです」 

 

現代短歌特集を手に取ってみると、短歌の歴史、作品紹介、歌人の岡野大嗣さんと木下龍也さんのインタビュー、さらには短歌初心者の学生たちが作品を「詠む」ところまでをカバーしていて、入門書として隙のない構成になっている。ビジュアルのセンスも抜群で、丁寧で熱量を感じさせる仕事ぶりに脱帽だ。

毎回ワンテーマをさまざまな角度から掘り下げる構成が秀逸な『Seel』。

毎回ワンテーマをさまざまな角度から掘り下げる構成が秀逸な『Seel』。

「現代短歌」特集は、歌集の紹介やインタビューも充実している。

「現代短歌」特集は、歌集の紹介やインタビューも充実している。

 

『てんちょう』(茨城大学 檜山加奈)

「茨城大学の学生さん(当時)が一人で制作した『てんちょう』、これも良いですよ。大学近辺のお店紹介の記事はよく目にしますが、このフリーペーパーでは一歩踏み込んで、店長さんたちの人生や価値観について取材しています。1号限りの単発フリーペーパーですが、定期刊行のフリーペーパーとはまた違った良さがありますね」

 

紙面を開くと、まず写真に写った店長さんたちの表情がどれもとても良い。地元の学生と店長という距離感だからこそ引き出せるエピソードはどれも味わい深く、自分で道を切り開いてきた店長さんたちのユーモアと愛に溢れた言葉に背筋が伸びる。自分が学生時代に思い描いていたカッコいい大人ってどんなだっただろう。少しは近づけているだろうか、とついつい自問してしまう。

はじめは卒業制作として少部数制作された『てんちょう』。SNSで話題になり、クライドファンディングを募って増刷にこぎつけた。

はじめは卒業制作として少部数制作された『てんちょう』。SNSで話題になり、クラウドファンディングを募って増刷にこぎつけた。

6名の個性的な店長のインタビューを掲載。情報量の多い紙面デザインも秀逸。

6名の個性的な店長のインタビューを掲載。情報量の多い紙面デザインも秀逸。

 

 

『たびぃじょ』(学生団体mof.) 

「最後は、今年10周年を迎える『たびぃじょ』をご紹介しましょう。早稲田大学や立教大学など首都圏の大学生を中心とした学生団体が発行していて、『女の子』と『旅』、テーマがすごくキャッチーだし、情報もかなり細かく充実しています。はっちに来るお客さんにもよくオススメする定番の1冊です」

 

ほんわかした紙面だが、見開きごとに国内外の旅の情報がぎっしり。パラパラめくっているだけで、今すぐ旅行会社に予約を入れたくなってくる。特に「女性の一人旅」にフォーカスして具体的なアドバイスが散りばめられているのが特徴。「女性一人は危ない」とか「誰かと一緒の方が楽しい」とかいろいろな先入観を取り払って、「自分らしさ」を応援してくれているように感じた。

やわらかい雰囲気の中にも芯の強さを感じる『たびぃじょ』。 記念すべき第20号は、10年の歴史を振り返る特集だ。

やわらかい雰囲気の中にも芯の強さを感じる『たびぃじょ』。
記念すべき第20号は、10年の歴史を振り返る特集だ。

可愛いイラストとともに、魅力的な旅行プランが満載。

可愛いイラストとともに、魅力的な旅行プランが満載。

 

ポジティブさが彼らの魅力 

どのフリーペーパーも大学生たちの興味や疑問がストレートに現れていて、さらにそれを言葉やデザインを通して人に伝えようという熱い意思に圧倒された。まだまだ紹介しきれなかったフリーペーパーがたくさんあるのだが、今回はこのあたりにしておこう。

最後に、フリーペーパーを通して大学生との交流も多い田中さんに、大学生たちについて思うところを伺った。

 

「彼らは世界の捉え方がポジティブなんですよ。健康問題だとか、社会人の僕たちがついつい愚痴ってしまうような話題が大学生のフリーペーパーにはあまり出てこないですよね(笑)。前向きな気持ちにさせてくれます。

一方で、世間ではここ最近、誰にも求められていないようなバカなことをやるハードルが上がってきているような気はします。これからフリーペーパーを作る学生さんには、『あまり他所を意識しすぎず、コピー用紙に手書きでもいいから自分の好きなように作ってみるといいよ』とアドバイスしています。フリーペーパーは『自由』ですから」

 

 

今回紹介したフリーペーパーは、はっちの店頭にて入手できる。郵送で利用できる「フリーペーパーの選書サービス」も受付中なので利用してみてはいかがだろうか(2020年4月現在)。また、それぞれのフリーペーパーの最新号や入手方法については各発行団体のwebサイト、SNSも参照されたい。

卒業論文を聴きに行こう! 音楽で社会とつながる大阪音楽大学の卒論発表会

2020年3月31日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

卒業論文。自分の選んだ学問に、1年あるいはそれ以上の時間をかけてじっくり向き合う大学生活の集大成だ。徹夜で研究に励んだり、ゼミ発表や諮問に緊張しながら挑んだ思い出のある方もいらっしゃるだろう。筆者もその一人で、精一杯背伸びをしてまだ誰も知らない世界の秘密を解き明かそうとしていたあの頃を振り返ると、今でも背筋が伸びる思いがする。そしてちょっと胃がチクチクする。

 

そんな汗と涙の結晶の卒業論文だが、もったいないことに一般的には指導教官などのごく限られた人以外の目に触れる機会はあまりない。しかし、一部の学科や研究室では卒論発表会が一般公開されていて、学外からでも自由に聴講できるということをご存知だろうか?

2016年にスタートし、今年その第1期生を送り出す大阪音楽大学ミュージックコミュニケーション専攻。そのはじめての卒業論文発表会が一般公開でおこなわれた。学生たちが4年間の集大成としてどんなことを論文にまとめたのか、聴きに行ってみた。

 

「音楽で人と社会をつなぐ」学生たちの卒業論文

大阪音楽大学ミュージックコミュニケーション専攻。ここで学生たちは、地域の音楽イベントのプロデュース(企画・実行・後片付けまで)を通して「音楽で人と社会をつなぐ仕掛け人」としての技能と経験を身につける。それに加えて、4回生は自らテーマを決めて卒論に取り組んでいる。今年はその1期生が晴れて卒業を迎える。

普段学生たちが過ごしているゼミ室。オシャレで開放的な雰囲気だ。

普段学生たちが過ごしているゼミ室。オシャレで開放的な雰囲気だ。

 

はじめての卒業論文発表会が一般公開で開催されたのは、彼らが日頃から地域社会の中での活動を続けてきた経緯があるからだ。会場は大学の講義室。先生や学生はもちろん、一般公開を聞きつけてやってきた地域の方々も多数集まる中、9名の卒業生を代表して3名が登壇した。

 

それぞれの問題意識が反映されたユニークなテーマ

Web上で発表会の告知を目にした時から気になっていたのは、今回発表される3名の「音楽教育」「合唱」「VRライブ」というバラエティ豊かなテーマ設定だ。テーマを選んだのにはそれぞれ理由があった。

 

一人目は、学校教育におけるリコーダーに注目した植田唯莉さんの発表。植田さん自身が音楽の教員を目指していたため、これからの教育実践にかかわるテーマを選んだそうだ。小・中学校で音楽科は教科としてどのような役割を果たしているのかを教育指導要領から分析し、教育現場でのリコーダーの活用に関する提言をまとめ、「これからの音楽科には、多様な音楽活動を通してさまざまな価値観を認め合う心を育成する役割が求められる」と結論づけた。

音楽を生活に取り入れることで、人生を豊かに過ごす。そのきっかけになるのが小・中学校の音楽教育だ。

音楽を生活に取り入れることで、人生を豊かに過ごす。そのきっかけになるのが小・中学校の音楽教育だ。

 

二人目の発表者は、合唱団で指揮者として活動し、数々のコンクールを経験してきた坂井威文さん。自身の活動を通して、合唱の良し悪しを評価する基準が業界内で一定していないことに疑問を持った。そこで卒論では、合唱を構成している諸要素を整理し、どの側面を重要視するかによって評価や指導方法が変わることを検証。「卒論を通して合唱にも多様な価値観があることを示すことができた。今後の合唱活動でも、それぞれの良さを認め合っていきたい」という言葉が印象的だった。

同じ歌でも、合唱のスタイルによって聞き手が受ける印象はまるで違う。それぞれの良さを「見える化」するのが坂井さんの研究だ。

同じ歌でも、合唱のスタイルによって聞き手が受ける印象はまるで違う。それぞれの良さを「見える化」するのが坂井さんの研究だ。

 

こうして聞いてみると、それぞれが日々さまざまな形で音楽にかかわり、あるいは卒業後も音楽を生活や仕事の一部に据えていく中で、自分にかかわりの深いテーマを設定して卒論に取り組んできたことがわかる。卒論は単なる卒業要件にあらず。研究を通して自分と世界との間に橋をかけることなのだ。

 

次元を超えたライブパフォーマンス「VRライブ」はライブなのか?

そんな中で、筆者が一番興味を惹かれたのは、発表会のトリを飾った山手健人さんの発表だ。テーマは近年盛り上がりを見せているコンテンツ「VRライブ」について。

 

みなさんはVRライブをご存知だろうか? VR(バーチャル・リアリティ)といえば『レディ・プレイヤー1』などのSF映画を真っ先に思い浮かべてしまうが、もはやフィクションの世界にとどまらず現実の生活に根付いた技術になってきている。その代表が、バーチャル空間でCGキャラクターを使って動画を配信する「VTuber」、そしてVR技術を用いて音楽ライブを楽しむ「VRライブ」だ。

発表では、VTuberに代表されるような3Dアバターを用いて、ヘッドマウントディスプレイで鑑賞するVRライブに焦点を当てて考察。全く新しい音楽体験であるVRライブが、これまでのライブやコンサートがもたらす体験とどのように違うのか、VRライブは果たして「ライブ」と呼べるものなのか、現状と課題を提示した。

3DCGのキャラクターによる次元を超えたライブパフォーマンスが、多くの人を魅了している。

3DCGのキャラクターによる次元を超えたライブパフォーマンスが、多くの人を魅了している。

 

山手さんによると、ライブやコンサートの定義自体も時代や語り手によって一様ではないものの、従来のライブは「ライブ会場と日常の空間が連続した体験」である。それに対してVRライブは、さまざまな技術や演出により多くの人々が同時に音楽を楽しめるものの、日常空間と非連続的で途中で視聴をやめてしまうことすらできる、MCが生配信であっても肝心の歌唱パフォーマンスは録画された音声や映像を使われることが多い、さらに生配信であってもタイムラグが生じることは避けられない、といった決定的な体験の差がある。こういったことから、少なくとも現状はVRライブはライブというよりも、動画コンテンツの一形態の域を出ていないのではないか、というのがひとまずの結論だ。

VRライブと日常空間の非連続性を説明する一方で、「VRのヘビーユーザーにとってはVR空間こそが日常なので、また前提が変わってくる」とも。SF映画のような話だ。

VRライブと日常空間の非連続性を説明する一方で、「VRのヘビーユーザーにとってはVR空間こそが日常なので、また前提が変わってくる」とも。SF映画のような話だ。スライド出典:https://www.slideshare.net/VirtualCast/tokyo-xr-meetup

 

しかし、だからVRライブは従来のライブよりも劣るのかというと、そうではない。音楽の楽しみ方やライフスタイルそのものが多様化する現在、音楽業界にとっても観客にとっても「ライブ」のありかたは過渡期を迎えている。そんな中で、遠方からでも気軽に参加できたり、物理的な条件に依存しないVRライブが今後重要な位置を占めてくるのは間違いないだろう。

山手さん自身、2018年ごろからVRchat(VR空間でアバターを介してユーザー同士が交流するサービス)をはじめ、日常的にVRの世界に接しているという。誰もがフラットに参加でき、自由に表現活動が行える場に「夢があるな」と感じたそうだ。今回の発表もそうした実体験がベースにあって、VRという新しい公共空間に豊かな文化が育ってきていることを伝えるものだった。

 

地域の中で培われた、多様性へのまなざし

3名の発表はどれもそれぞれの音楽への思いがあふれ、非常に興味をそそられた。上記では触れることができなかったが、質疑応答の時間、先生方だけでなく地域住民の方々(やはり音楽にかかわられている方が多かった)からも鋭い質問が飛び交っていたことも、彼らが地域社会の中で学びを深めてきたことを物語っているようで印象深い。

 

発表会の最後は、専攻の先生方のコメントで締めくくられた。

 

小島剛先生

「まだまだ突っ込みどころも多いですが、多様化をきわめる社会をどのようにとらえるかという問題に積極的にアプローチする姿勢が垣間見えました。その気持ちを心の真ん中に置いて、それぞれの進路でがんばってほしいです」

 

西村理先生

「専攻の学びでは主に音楽イベントのプロデュースを経験した学生達ですが、その中で音楽とは何かをそれぞれが考え、自分の関心に引き寄せて卒業論文に取りかかりました。今日は3名の発表でしたが、後の6名も力作です。地域の皆さまには、来年も是非発表を聞きに来ていただきたいと思います」

 

久保田テツ先生

「3名の発表を終えてみると、意図したわけではなく『多様性』という共通のテーマが見えてきました。そして、こうして地域の方々に聞いていただき、鋭い質問をいただくことで彼らの学びが完成したように思います。

ミュージックコミュニケーション専攻では、大学の中に閉じずに、外の世界とどのように関わっていくのかをいつも考えています。そのためにはこうして開かれた場で、音楽を言葉で伝えていくということが大切だと再認識しました」

 

左から西村先生、久保田先生、小島先生。

左から西村先生、久保田先生、小島先生。

 

奇しくも新型コロナウイルスの影響で、人と人とのかかわりや文化活動が停滞してしまっている。そんな中、学生たちの卒業論文をとおして多様な人と音楽のあり方に思いを巡らせることができたのは、とても心に残る体験だった。あなたのまわりの大学生がどんなことを考え、どんな研究をしているのか、機会があれば少し覗いてみてはいかがだろうか?

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