2016年はビートルズ来日から50年。当時を知らない世代としては、ここから日本の音楽シーンは劇的に変わったんだろうなーみたいなイメージがなんとなくある。
が、実はそうではないらしい。
グランフロント大阪のナレッジキャピタルにて開催された公開講座「裏口から入門する昭和歌謡」をレポート。
ナレッジキャピタルの「超学校シリーズ」は、カフェでアルコールを飲みながら登壇者の話が聞けて、さらに参加費500円という公開講座だ。
今回のテーマは「昭和歌謡」。
「昭和歌謡」と聞いて、イメージするのはどんなものだろうか?
懐かしさ、優しいメロディー、穏やかな歌詞。三丁目の夕日的な世界というか、そんな言葉が浮かぶ人も多いと思う。
登壇した大阪大学の輪島裕介准教授(大阪大学大学院文学研究科音楽学専修)が言うには、そんな柔なイメージではなく、エネルギッシュで、なにかインチキくさいものとして昭和歌謡を振り返ってみたいとのこと!
さらに、有名な作曲家や作詞家、歌手を中心とした見方でなく、3つのキーワード「リズム」「大阪」「カタコト」を切り口にしたいという。
キーワードからは一見何も想像できないけれど、それが“裏口”というわけですね。
国立大の文学部の中では唯一、音楽学が学べる阪大。輪島先生の専門は、近代日本大衆音楽史、アフロ・ブラジル音楽研究など
世界に届いたこの「リズム」。
まず先生から飛び出した言葉は「マンボブーム」(日本にマンボブームってあったんですね・・・)。1955年頃のこと、日本人がノリノリのマンボで踊りまくっていた時代があった。
ビクターのラジオ番組から人気に火が付き、ダンスホールで発展。味を占めたビクターはマンボの次はこれがくる!と毎年のようにNEWリズムのプロモーションをかけていったそう。
最初のヒット曲「エル・マンボ」鑑賞中。踊りながら指揮をする姿も見ていて楽しい
「ロックンロール」や『の~もひで~お♪』の原曲『バナナ・ボート』が流行ったのはこの後。ロックよりもマンボの方が先に世界で流行しており、ラテン音楽を中心に音楽史を見直すことはとても重要なんだとか。
中でも先生注目のリズムは「ドドンパ」。『東京ドドンパ娘』という曲も作られて大ヒットした(結構インパクトがあって、一度聞いたら頭から離れなくなります; 気になった方はYouTubeで検索してみてください)。
「ドドンパ」は東南アジアで当時流行していた「オフビートチャチャ」というリズムが日本に輸入されたことが始まりだ。
このリズム、日本人が踊るには少し高度だったので、ダンサーの要望を受けて踊りやすいよう独自にアレンジされていった。しかも当時のダンスホールはラテンではなくジャズ専門のバンドが主流のため、見ようみまねで“ラテン風”になるようにして生まれたのがこの「ドドンパ」だった。
先生は「見本を正確に真似したのではなく、そういうリズムになってしまった、その場の要求の中から生まれたことがおもしろい」。
さらに「せっかくなのでこんなのも・・・」と先生がモノクロ動画を再生したところ、なにやら外国の美女2人組が踊り出し・・・「ダダンッパ♪ダダンッパ♪」と歌い出した!
「ドドンパ」って言ってる?!
これはイタリアの曲(1961年)で、来日したイタリア人作曲家が日本のブームを見て持ち帰ったのでは?という仮説があるそう。
世界にはばたいたドドンパすごい!
「大阪」が牽引した、歌って踊る音楽。
そんなドドンパが生まれたのは、大阪の堂山にあった「クラブ・アロー」というダンスホールとされる。
大正後期~昭和初期の大大阪時代から、大阪にはダンスホールなどの文化が花開き、「音楽」は聴くというよりも歌ったり踊ったり、とにかく全身で楽しむものだった。
※写真はイメージ
阪神間モダニズム、宝塚歌劇などの文化もあったので、洋風の音楽を楽しむことにかけては東京よりも大阪や関西の方が先進的だったそうだ。
ジャズバンドが競い合う中、作曲家・服部良一(1907~1993)が活躍し、笠置シヅ子(1914 ~1985)がパワフルに彼の歌を歌った。二人とも、大阪のモダン文化を吸収して育っている。
「わてほんまによーいわんわ♪」でおなじみの大阪弁歌謡『買い物ブギ』のほか、輪島先生曰く戦前の大阪ジャズの最高傑作『ラッパと娘』など、ものすごいパワーある楽曲が次々と生み出されていった。
♪『ラッパと娘』
一方、東京ではアメリカのヒット曲の日本語カバーが定着しつつあった。それに反し大阪では「お金持ちの家ではない、外遊したこともない、たたき上げの服部のような作曲家がこれだけ洗練されたオリジナル曲を書いたことがすごい」と先生。
「外国のものをなるべく正確にとりいれるというよりは融通無碍な感じが大阪的。ありあわせでなんとかするというか、自分たちに合うようにアレンジしていった」。
ドドンパしかり、さまざまなものを吸収&アレンジしてブームを作った当時の大阪文化。のびのびとした自由な気風と活力が伝わってくる。
あの大物につながる「カタコト」歌謡。
休憩を挟み、会場に流れたのは欧陽菲菲の『雨の御堂筋』。
『雨の御堂筋』を鑑賞中
作曲はザ・ベンチャーズなので、台湾出身の歌手とアメリカのバンドが、大阪の歌を歌っているという不思議さがある。
輪島先生は「歌い方も英語っぽいカタコト風だが、違和感なく聴いてしまうし、それが魅力の一つといってもいい。ヒデとロザンナ、アグネス・チャンなど、日本語を母語としない人の曲は結構ある」。確かに。
しかし、「古い歌はもっと日本らしかったのに」と眉をひそめる人もいるかもしれない。
先生から言わせればそれは違うらしい。日本語を母語にしない人が日本語で歌う、そういう発音で歌うという系譜は、実は古い。
1931年、『酒が飲みたい』というそのまんまな曲がヒットした。歌ったのはジャーナリストとしてアメリカから来日したバートン・クレーン。たまたま宴会で歌っていたところをコロムビア社にスカウトされた。
♪『酒が飲みたい』
『しゃけがのみたひ~(酒が飲みたい)♪』と彼にとってはこうしか歌えないわけだが、なんとそれを真似る日本の歌手が登場したという。
先生が再生したのは1934年に発表された『ダイナ』。
『oh,Daina~♪わっとぅぁしのこいびぃとぉ~♪(私の恋人)』といかにも外国の人が歌ったようなカタコト風!
♪『ダイナ』
歌っているのはディック・ミネという人なのだが、日系人ではなくわざと“日系人風”な名前をつけた徳島出身のバンドマンだ。
カタコト風になるよう、日本語の歌詞をアルファベットで書いて、英語っぽい綴りに見えるところはそのまま英語っぽく歌うということにしたらしい。
なんかふざけてる?!と笑ってしまいそうだが、先生いわく「少なくとも流行りの歌についていえば、昔の方がより無邪気で外からきたものをすごくありがたがったり、よく分からずにいつの間にか別のものにしていたりという咀嚼力があった」。確かに無邪気に楽しんでる感じはします!
カタコトは60年代にもリバイバルし、アメリカのポップ歌手ジョニー・ティロットソンが日本語と英語両方で吹き込んだ『涙くんさよなら』などがヒットした。
そして「70年代でいえばこれしかないでしょう!」と先生が最後に聴かせてくれた曲は・・・
キャロルの『ルイジアナ』!!
永ちゃん!
※写真はイメージ
ディック・ミネと同じく「日本語の歌詞をアルファベットで書いて歌っている」と先生。
「実は、ロックンロールのフォーマットをカタコト風の日本語に落とし込むという点において、これは30年前のディック・ミネとそんなに変わらないんじゃないかと」。
この英語風な歌い方って、今も活躍するあの人やあの人にも受け継がれてるなぁ。
「昔は日本的なものがあったが、最近はロックだなんだと洋風なものになっている、という見方で大衆歌謡史を考えるのはなかなか限界がある」。
時代にそって、何でもどんどん新しいものになっている、と考えてしまいがちだが、先生は「外からきたものを取り入れたり変化させたり、というやり方は、実はそんなに変わってないのかもしれない」と締めくくった。
マンボからロックまで、音楽で昭和を駆け抜けた90分間。ここには書ききれなかったお話もたくさん!「昭和歌謡」そのものという“点”ではなく、当時の世界の文化や意外なつながりが、輪島先生によって編まれていき、壮大な歌謡歴史絵巻ができあがっていった。
※写真はイメージ
おとな向けに分かりやすい講義が目白押しの「超学校シリーズ」は、事前の知識や興味がなくても(あるに越したことはないが)気軽に参加でき、想像以上のおもしろさや刺激に出会える場。
通勤中、暇つぶしにネットニュースなどを読み飛ばすのが習慣になってしまっているが、こうして腰をすえ、1つのテーマをじっくり聞く時間がとっても貴重なように思えた。
今後の開催についてはナレッジキャピタルのWEBサイトをご覧ください。