素朴な疑問を専門家の先生にぶつけて解説してもらい、今度はその先生の抱えている素朴な疑問を別の専門家にぶつけに行くリレー企画。
第2回となる今回は「犬はどこまで人間の言葉がわかるの?」。動物行動学の専門家である麻布大学獣医学部の菊水健史先生に、犬の能力と人間との長くて深い関係を教えていただきました。
犬は人間の言葉をよく聞いている
まずは前回のおさらいから。タイムマシンについて解説してくださった大阪工業大学の真貝寿明先生からおあずかりした質問がこちらでした。
“私の家には犬がいるのですが、歳をとってきて、最近は歩かずに寝てることが多くなりました。こっちが構って欲しくて、「散歩に行こう」とか「シャンプーしよう」とか言うと、ソーシャルディスタンスを取ろうとして、ソファの下に隠れてしまいます。どこまで人間の言葉をわかっているのでしょうか。結構理解している気がします。また、分からない言葉を使うと首をかしげますが、その反応は一般的なのでしょうか。興味深いです。”
――ということなのですが菊水先生、実際のところ、犬はどこまで人間の言葉がわかっているのでしょうか?
「はい、実は単語レベルではかなり理解していて、人間が指定したモノを隣の部屋から取ってこさせる実験では300~400単語ほどを識別できた例があります。この課題が得意なのはボーダーコリーという犬種で、人の声や口笛を聞き取って動く牧羊犬として知られています。音を聞き分ける能力が高く、人の命令に従うのが大好きな性格です。」
――300~400単語ですか! 犬種や個体による差はあるにせよ、散歩やお風呂、ご飯、家族の名前といった日常的な単語は簡単に把握できていそうですね。
「言葉を理解するうえで、もうひとつ重要なのは抑揚ですね。人間は耳から入ってきた言葉の意味の情報を左脳で、抑揚に込められた感情の情報を右脳で処理しますが、犬の場合も人間の言葉を聞いたときに脳内で同じことが起こっていることがわかっています。同じ名前を呼ぶ場合でも、優しい声色と叱責するような声色をちゃんとわかっているんですね」
――長文はどうでしょうか? 理解できないだろうと思いつつ、犬に長々と語りかけてしまうこともありますが……。
「言葉の意味は通じなくても、その時の人間の感情は読み取っているでしょうね。加えて、犬は人間がいつもの様子と違うということを敏感に察知して、その後にどんなことが起こるのかを予測するために人間を注意深く観察します。この様子が、人間から見れば犬が話を聞いてくれているように見えることはあるかもしれません。
僕らも犬に共感性があるかどうかという実験をしたことがあります。飼い主さんにちょっとした心理ストレスをかけて、その時の気持ちの動きを心拍計で計測します。同じタイミングで犬も心拍計で計測すると、飼い主さんと同じように気持ちが動いていることがわかったんです。ただし、こうした共感性が見られるのは飼育期間が長い場合に限られます。一緒に生活する中で徐々に感情の動きがわかってくるんですね」
――難しい意味はわからなくても気持ちは伝わっているわけですね。ある意味、話し相手としては人間よりも優秀かも。
それでは、知らない単語を聞いた時に小首をかしげるのはどういう意味があるのでしょうか?
「これは『音源定位』という行動ですね。人間も犬も、二つの耳から入ってくる音によって音源の位置を特定しますよね。音がよく聞き取れない時、左右の耳の位置をずらすことによってどこから音がしているのかを突き止めようとします。要するに、犬が小首をかしげるのは人間の言葉をしっかり聴き取ろうとしている、『何言ってるの?』というサインとして読み取れます。お馴染みのビクターのロゴを思い出していただくと、犬がスピーカーに向かって小首をかしげていますよね。あれは、そこにいないはずの飼い主の声がスピーカーから聞こえて不思議がっている様子です」
――どこか人間らしいしぐさにも見えますが、まさしく「耳を傾ける」行動だったんですね。
犬が私たちの言葉をがんばって理解しようとしてくれていると思うと、一層愛おしく感じます。逆に私たちは犬の言葉にちゃんと耳を傾けられているか、振り返ってみるべきなのかも。
犬と人間の長い関係
――さて、そんな犬と人間との関係は、他の動物と比較してどんなところが特別なのでしょうか?
「犬ほど人間と長い時間を共にしてきた動物は他にいません。ネコが家畜化されたのは6000~8000年前と言われていますが、犬は3万~5万年前。アフリカから進出してきた人類は、ユーラシア大陸で現在のイヌの祖先と出会い、共に世界中に散らばっていったと考えられます。
イヌと人間は同じ空間で暮らすだけでなく、狩りに出たり縄張りを守ったりといった活動を共同でやるようになります。そこには高度なコミュニケーションが必要ですから、それだけ人間の意図を読み取る能力に長けていたことは間違いありません。そして人と生活する中で、あるいは人為的な品種改良を経る中で、より人間とのコミュニケーションが円滑になるような進化、あるいは家畜化が進んできたといえるでしょう。
一方で、人間の方はどうでしょうか。これはまだ明確な答えが出ていないのですが、人間も犬と暮らすことによって変化してきたのではないかと私は考えています。犬と共に狩りを行うことで人間は安定して食料を確保できるようになり、犬が番をすることで人間は夜ぐっすり眠れるようになりました。そうした安定した生活環境を手に入れることで、人間は野生動物本来の攻撃性を手放していったのではないかと考えられます。これをヒトの自己家畜化、また別の表現をするならネオテニー(幼形成熟)ともいえるでしょう。犬と人間は共に暮らすことで同じようにネオテニー化の過程を辿ってきたのではないか、今はそのように考えています。ただ、調べてみても、世界中で歴史的にイヌを飼ったことがない部族というものが見つからないので、犬と共にいることが人間にどんな影響を与えたのかを比較して説明するのは難しいのですが」
――犬が人間と暮らす中で変化してきたように、人間もまた犬と暮らすことで人間らしさを育んできたのかもしれませんね。知れば知るほど、犬と人間は切っても切れない深い関係だということがわかってきました。
先生の研究室にもワンちゃんたちがいますが、かれらは先生にとってどんな存在でしょうか?
「彼らは私の飼い犬で、実験にも積極的に協力してくれますが、私生活でもかけがえのないパートナーです。犬を飼うのは大変なこともたくさんありますが、それ以上にお互いに一緒にいることが楽しいですし、たくさんのものを与えてくれます」
――ありがとうございました!
菊水先生と4頭の犬たちは公私ともに支え合うパートナーだ
菊水先生の疑問は?
――さてそれでは、菊水先生が疑問に思っていらっしゃることを教えていただけますか?
「ずばり、ネアンデルタール人はなぜ絶滅したのか? です。
先ほどの話とも関わってくるのですが、ネアンデルタール人が絶滅したとされる頃、我々ホモサピエンスはすでに犬と生活していました。そうすると、もしかしたらネアンデルタール人が滅んで私たちが生き残った理由に、犬が関わっているのでは? と想像してしまうんです。専門家の方にネアンデルタール人に関する最新の知見をお聞きしたいです」
――もし犬のおかげで今の人類が生き残れたとすると……なんとも興味深いミステリーです。第3回では、「ネアンデルタール人はなぜ絶滅したの?」を専門家の方にお聞きしてみます。