新型コロナウイルス感染が広がってから、100年ほど前のスペイン風邪流行の際に人々がどのように対処したのかが話題にのぼることが多くなった。しかし、もっと昔から、疫病は何度も人々を恐怖に陥れてきたはずだ。日本人が疫病をどのように恐れ、闘ってきたのだろうか。民俗学者の佛教大学・八木透教授にお話をうかがった。
疫病治しに頼りになるのは医術より修行
平安時代、都では、とくに夏場になると多くの人が食中毒のような病気にかかり、ウイルス性の感染症も結構あったという。コレラは当時まだなかったが、赤痢らしき症状はすでに記録されていたらしい。また、この頃の都は、疫病が蔓延しやすい環境でもあった。「穢れ」の観念があって多くの人が遺体や牛馬の死体を放置したし、狭いエリアに人口が集中する町全体は「三密」状態。一度流行り出すとものすごい勢いで広がった。
宮中には漢方の知識を持ったおかかえ医師もいたが、こと疫病となると、陰陽師や修験者、巫女などを頼るのが常だったという。
「医術よりも、呪術的に悪いものをはねのけるという発想が強かったのだと思います。そんなに昔でもない昭和30~40年代の頃でもまだ、医師のいない町や離島などでは、イタコ、ミコなどと呼ばれる祈祷師が病気治しをしていました。現代でもとくに原因のわからない病気やメンタルに関わる病気などについては、頼りにする風習が残っています。また、厳しい修行をした修験者には、普通の人が扱えないような神さえ調伏できるという考え方も、一部の地域でいまだに根付いています」
雅な山鉾巡行が実は疫病退散が目的だった
しかし、現代の私たちにとって、もっとなじみのある疫病払いがあると八木先生は話す。
「祭りです。今、祭りには楽しいイメージがありますが、伝統の大きな祭りになればなるほど、何か大きな災厄がありそれを払うために行った行事がその始まりになっています。祇園祭は、疫病払いから始まった祭りの代表例です」
平安時代、疫病が流行した863年、朝廷はそれを疫神や、政争に敗れ討たれた死者たちの怨霊のせいだと考え、御所の庭である神泉苑で盛大な御霊会を行った。869年はもっと悪い年で、春には東北で大地震と津波、夏には都で再び疫病が広がるなど次々と災厄が襲った。そこで朝廷は、当時の日本全国の国の数である66本の矛をつくり、現在の八坂神社である祇園社の主祭神、牛頭天王(ごずてんのう)を祀った神輿を神泉苑へ送る、臨時の御霊会を行った。以降、御霊会が祇園社で行われることが定着し、祇園祭となったという。
祇園社から牛頭天王が神輿に乗って御旅所に渡御するという形式は、平安時代の後期には整えられたという。牛頭天王は、日本では瞬く間にすべてのものを滅ぼす恐ろしい神であると考えられていた。当時の朝廷の人々は、その最強の力で、疫病の原因となる悪霊を鎮めようとしたらしい。毒を以て毒を制す、神とは敬う対象であると同時に怖れる対象でもあるということがよくわかる。その後、祇園祭が庶民の手にゆだねられるようになるにつれ、疫病を引き起こす原因が、悪霊や怨霊から疫神や疫病神へと変化していったのだという。
祇園祭の風景。お祭りと聞くと、楽しげで、おめでたい印象を持つが、起源はそうでもないらしい…
祇園祭といえば山鉾巡行を思い出す方も多いと思うが、これは、もっと時代が下ってから創造されたスペクタクルである。豪華絢爛に飾られた山鉾が、お囃子や踊りに彩られながら練り歩く雅で風流な姿。現在、日本中の祭りに登場する約1500にものぼる山鉾、山車、屋台などは、すべて祇園祭を起源とするそうだが、確かにその風格からは全国に伝播していくだけの荘厳なパワーのようなものが感じられる。
「しかし、山鉾巡行は祭りの中心ではありません。山鉾があんなに高いのは、疫神は空からくると考えられていたことから、金属の飾りでぴかぴか光らせ、きらびやかな飾りでひきつけるため。氏子圏を巡って町中をさまよう疫神を集めてまわる、いわばごみ収集車のようなものだと言えばいいでしょうか。祇園祭の最も重要な神事は、御旅所へ渡御した牛頭天王の力を借りて、集めた疫神たちの怒りを鎮め都の外に送り出すところなのです」
今年、神輿の渡御や山鉾巡行は中止されたが、神輿に代わる乗り物を用意して、神さまを御旅所へ渡し、各山鉾町から集められた悪霊たちを鎮圧する神事は実施された。祇園祭はその起源に沿えば、最も行われるべき今年、きちんと行われたのである。
「ステイホーム」は千年前からの常識だった
古代・中世の人々は、疫病を得体のしれない神のようなものが引き起こすと考えていたという。「病気だけではない、天変地異や土砂崩れ、落雷までもひっくるめ、目に見えない災厄の原因を『疫神』や『疫病神』と呼ぶようになりました。目に見えないものって怖いですからね。名前を付けることで実体化し、それによって敵として認めて対抗意識を燃やしたとも言えます」
鎌倉時代の絵巻物『春日権現験記』には、疫病を患う人の家の屋根の上に、鬼のような姿をした疫神がのぞいているシーンが描かれている ※出典:国立国会図書館デジタルウェブサイト(画像は一部トリミングして使用)
テレビなどの報道の際に必ず出てきておなじみになった新型コロナウイルスの電子顕微鏡写真も、闘う気持ちを鼓舞するのに一役買っているのかもしれない。それに加えて、どのようなウイルスなのか、どのような症状を引き起こすのかをよく知ることで、やみくもに恐れる状態から脱することができるのは確かだろう。
敵から身を守るすべも持っていた。「祇園祭が始まった頃は、2、30年に一度は疫病が流行していました。994年に流行した時には、疫神が都大路を横行するといううわさが飛び交い、誰も家から出なかったといいます。ウイルスや細菌の存在を知らず接触感染や空気感染などの知識はなくても、現代の『ステイホーム』に通じる防御策をとっていたんです」
目に見えないものを怖れ、直感的に避けながら、一方ではただ恐れるばかりでなく名前を付けたり絵を描いたりしてキャラクター化し、イメージの力を喚起していく。昔の人の、見えないものの怖さを何とかして克服しようとする努力と知恵。1000年後の私たちに、まだまだ未知なところの多い見えない敵と向き合うヒントを教えてくれているようだ。
電子顕微鏡で見た新型コロナウイルス。この画像を繰り返し取り上げることも、恐怖に打ち勝つための工夫だといえる ※出典:"Courtesy: National Institute of Allergy and Infectious Diseases."