原爆投下80年を迎える広島。2024年には、いまだ戦争のなくならない世界に向けて核廃絶を訴え続ける日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受賞して話題となりましたが、コミュニティ全体で体験したトラウマとその継承についての研究は、これまであまり行われてきませんでした。
トラウマとは、死に直面するといった極端なストレスをともなう体験による「心の傷」です。世界情勢が不安定ないまの時代、交通事故や暴力事件、戦争などのトラウマ体験は増加し、トラウマ体験をきっかけとするPTSD(さまざまな精神的な症状)も増えると予測されています。
広島大学大学院人間科学研究科の上手由香先生は、トラウマやPTSDの研究を専門とする心理学者です。臨床心理士として虐待を受けた経験のある人や事件や事故の被害者などの支援にも携わっており、トラウマや心の傷の回復について研究と実践の両軸で取り組んでいます。そんな上手先生の重要な研究テーマの一つが、「原爆体験の次世代への継承」。これまで、被爆が次世代に及ぼす遺伝的な影響については多くの研究が行われてきましたが、前述のとおり、心理的な影響については意外にもほとんど着目されてこなかったといいます。今回、上手先生にトラウマ体験の継承とはどのようなことなのか、今このテーマに取り組む意義などをお聞きしました。
連鎖しないトラウマ体験もある?
上手先生が、原爆の被爆体験が次世代にどのような心理的影響を与えているのかについて研究を始めるようになったのは、身近な経験がきっかけだったと言います。
「私の夫は広島出身なのですが、あるとき夫と義母との会話で、すでに亡くなっていた義父が被爆者だったという話が出ました。そこで、お義父さんはどこで被爆されたんですかと聞くと、二人とも知らないと言うんですね。近畿圏出身の私は被爆というのはとても大きな出来事だと思っていたので、夫と義母が義父の被爆体験にあまり関心がないのが意外でした」。そこにトラウマ研究の観点から興味を持ったと上手先生は話します。
「トラウマ体験は次世代にさまざまなかたちで影響を及ぼすことがあります。極端な例としては自身の子どもの虐待や家族への暴力などがあります」
トラウマの影響が次世代に及ぶ現象は、「世代間伝達」とも呼ばれます。たとえば、生き方や愛情表現、異性との関わり方などが、幼少期の親子関係や家庭環境を通じて、親から子、子から孫へと受け継がれることがあります。とくに日本では、第二次世界大戦が家庭環境に与えた影響が、現代の生きづらさや依存症などの背景要因のひとつになっている可能性があることが、心理学をはじめ、精神医学、社会学、歴史学などさまざまな分野で研究が進められています。(※ただし、こうした連鎖は必ず起こるものではなく、カウンセリングや周囲のサポートなどによって、その影響を和らげたり、断ち切ったりすることも可能です。)
「しかし、トラウマティックな体験をした被爆世代の子どもである夫は、何の影響も受けてなさそうに見えます。果たして被爆体験は次世代に何らかの心理的な影響を与えているのでしょうか。それを調べてみようと思いました」

(画像はイメージです)
被爆体験のトラウマが次世代に与える影響とは
そこで上手先生は、被爆2世を対象にしたインタビュー調査を実施(2016~2017年、15名、平均年齢56歳)。被爆の体験が家庭内でどのように伝えられてきたかという継承について質問したところ、詳しく話してくれたという回答もありましたが、まったく聞いていない、あるいは一部しか聞いていないという答えや、聞いてみたがはぐらかされたというパターンが多く、思っていた以上に継承されていない印象を受けたと上手先生は話します。
「たとえば入浴の際に親の体のケロイド跡を見て、これどうしたのと聞いてみたけれど答えてくれなかったので、聞いてはいけないように感じたという人もいました。トラウマ体験の特徴の一つは言葉にできないということです。本当につらい体験をした人ほど思い出すのもつらく、家庭内でも話せなかったのではないでしょうか」。親は話さず、子どもは聞けないという「二重の沈黙の壁」が存在すると上手先生は指摘します。
こうした「沈黙の継承」に対しては、親が亡くなった今、もっと話を聞いておけばよかったという後悔の声も聞かれました。
「私がこれまで調査の中で出会った被爆二世の方々の語りの中には、子どもの頃に家族から被爆体験を聞いたものの、当時は実感が伴わず、『そうだったんだ』とか『いつもの話だ』くらいに思っていたと言われることがあります。けれども、その後、自分が親になり、例えば自分の子どもの病気など命に関わるような状況に直面したときに、かつて聞いた家族の体験が初めてリアリティを持って蘇り、『こういうことだったんだと初めてわかった』、そんなふうに語られることがあります」
このように人生の経験を積み重ねることによってはじめて共感できる体験を、上手先生は「共感的追体験」と呼んでいます。この共感的追体験は、被爆2世がはじめて親とつながり、わかり合える大きなきっかけとなり、いろいろな意味で大事になってくると上手先生は考えています。共感的追体験が転機になり、被爆体験を後世に伝えなければならないという使命感が芽生え、平和活動に参加する人もいるそうです。
また、広島では多くの人が被爆2世、3世であるため、当たり前すぎて意識していなかったという人の多くが、出産や病気をきっかけに、被爆2世、3世としてのアイデンティティに対する認識が変化したこともわかりました。
平和への関心の強さやアイデンティティの変化は、次世代が被爆体験による負の影響を乗り越えるための重要な心理的動きである可能性も考えられるそうです。ただ、個人差や周囲の環境といったさまざまな要因があるため、「何がレジリエンス(回復)につながったのか示すことができればとは考えているのですが、安易に一言でまとめることはできません。多面的に検討する必要があります」と上手先生は付け加えました。
小さな声を伝え、平和教育にも生かしたい
さらに、オンラインでのアンケート調査も行われました(2018年、198名、平均年齢48.6歳)が、こうした調査では被爆2世、3世の人たちすべての声を拾えるわけではない点に注意が必要だと上手先生は言います。
「今回の調査に協力いただいた方々は、被爆2世、3世として偏見や差別も受けていないし、とくに困ったこともないといった人がほとんどでした。しかし、インタビューやアンケート調査では、声をあげにくい立場にある人や、つらい経験を語りにくい人々の声が届きにくいという傾向があります。実際に、調査のあと被爆2世の人たちのいろいろな会に参加してみると、直接的な放射線の影響で障がいが残ってしまった人や、がんになるのではないかという不安を抱く人、あるいは同じ被爆者の中でも、立場の違いに苦しんだり、周囲からの偏見や差別に悩んだ方など、今もなお苦しみを抱えている方々の存在が、あらためて浮かび上がってきました。
こうした届きにくい声にも耳を傾けられるよう、被爆2世本人だけでなく、支援などで関わってきた人たちにも対象を広げて、調査を続けている上手先生。さらに原爆だけでなく、沖縄や日本全体の戦争体験についても、違いや共通点を明らかにしたいと話します。

2025年5月、ニュージーランドのオークランド大学との共同研究で、被爆者や被爆二世、研究者、継承活動を行ってきた方々に合同でインタビューを行った
「戦後80年を迎えて、当事者の人たちはどんどんいなくなっています。しかし、戦争を体験した親世代が戦争のトラウマにより家庭内で暴力をふるっていた可能性も指摘されるようになり、暴力を受けた子ども世代の問題は続いています。親が亡くなられたことで、ようやく胸の内を言葉にできるようになった、という方もいらっしゃるでしょう。心身ともにネガティブな影響を受けずに生活できている人がいる一方、周囲からの差別や偏見などでつらい思いをしてきた人たちの声に耳を傾け、その背景にも目を向けていくことが、歴史と向き合うことの意味となるのではないでしょうか。原爆体験の次世代への継承や心理的影響について研究する心理学者は非常に少なく、誰も関心を向けなくなってしまうことは怖いと感じます。コツコツやり続けていき、後進に継承していかなければならないと思っています」
後進への継承の一つとして、上手先生が近年取り組んでいるのが平和教育です。
「いま、子どもたちに平和教育で、何をどこまで伝えるべきなのかが議論されています。たとえば広島の平和記念資料館には多くの修学旅行生が訪れますが、戦争のリアルで残酷な情報に接することで傷ついてしまう子どももいるため、子どものための展示が企画されています。こうした問題に、心理学の立場から役に立てればと考えています」
子ども向けの展示(対象は小学3年生~中学生)は、2028年に開設予定となっており、上手先生は被爆者、小中学校の校長、専門家といった11人で構成される有識者検討会議の一人として参加しています。
戦後80年が過ぎ、原爆や戦争体験を語る当事者が少なくなるなか、次世代がどう記憶を受け継ぐかが問われています。上手先生がふれた「共感的追体験」は、平和教育はもちろん、私たちが体験を知り、学ぶなかで、当事者がいなくなってもできることといえます。まずは知ろうとすることが、負の記憶を未来に生かす鍵になるのかもしれません。