映画や小説、アニメ、漫画…サブカルの世界を学問の視点で掘り下げるシリーズ第4弾。
今回のテーマは、公共経済学×『ムーミン』です。
第1作が発表されてから2020年で75周年を迎え、今も世界中で愛され続けている『ムーミン』シリーズ。その中の一冊『ムーミン谷の仲間たち』を、公共経済学の視点から読み解きます。
社会全体の幸せはどうやって決まる?
フィンランドを代表する芸術家、トーべ・ヤンソンが生み出した『ムーミン』シリーズは、小説や絵本、コミック、アニメ、キャラクターグッズなど、さまざまな形で親しまれています。
本を読んだことのない人でも、ムーミン、スナフキン、リトルミイ…といった愛らしくも個性的な登場人物たちを知っているのではないでしょうか?
今回取り上げるのは、『ムーミン』シリーズの中で唯一の短編集『ムーミン谷の仲間たち』。ムーミン谷のおなじみのキャラクターが登場する、9つのお話が収められています。
今回は近畿大学の仲林真子先生に、公共経済学の視点からこの本をどのように捉えるか、お話を伺います。
『ムーミン全集【新版】ムーミン谷の仲間たち』著者:トーベ・ヤンソン/山室静訳(講談社)
仲林先生は、ムーミン谷を一つのコミュニティ=地域社会と捉え、個々のキャラクターの幸せとムーミン谷全体の幸せがどのようになっているかを考えたと言います。
「公共経済学では、社会的厚生関数というものを使って、社会全体の幸せを分析します。サミュエルソンとバーグソンという経済学者は、この社会的厚生関数を、社会を構成する一人ひとりのメンバーの効用に依存すると定義しました。効用とは、いわゆる満足のこと。私の授業では、うれしさとか、食べ物を食べた時だったらおいしさとか、とにかく気持ちが上がるような、ハッピーな状態になることだと説明しています」
社会的厚生関数を表した数式の一つを、仲林先生が示してくれました。
W=U1+U2+……Un
「これは、功利主義に基づく社会的厚生関数として有名なベンサム型社会的厚生関数です。社会全体の幸せを、その社会を構成するメンバーの幸せの合計として表しています。1番目の人の幸せ、2番目の人の幸せ、それを全員分足したものを、W=社会全体の幸せとして定義しています。ムーミン谷で言うとこんな感じですね」
ムーミン谷の幸せ=ムーミンの幸せ+スナフキンの幸せ+リトルミイの幸せ+……
キャラクターたちの幸せを足し算したものが、ムーミン谷全体の幸せ。とてもわかりやすい考え方ですが、実は大きな問題をはらんでいると言います。
「たとえば1番目の人の幸せが増えて、2番目の人の幸せが減った時に、増えた分のほうが大きかったら、全体としては前より良くなったことになってしまう。つまり、不幸せだった人がさらに不幸せになったとしても、その問題が消えて見えなくなってしまうんです。その結果、格差が広がっていきます」
これがまさしく資本主義が抱える問題、そして格差社会につながっていると仲林先生は指摘します。一方、ムーミン谷はどうでしょうか。
「ムーミン谷は、おそらく格差社会ではないですよね(笑)。個性的なキャラクターたちが好き勝手に、そこそこ幸せそうに暮らしている。この物語の中に、今の私たちに必要なヒントがあるのではないかと思うんです」
コロナ禍の中で実施された近畿大学のウェブ企画「今だから読んでもらいたい本」。そこでおすすめ本の一つとして『ムーミン谷の仲間たち』を選んだ仲林先生。推薦した理由は、個人の幸せと社会の幸せを考えてほしいから、とのこと
子どもの成育環境と自己肯定感
ここからは、『ムーミン谷の仲間たち』の中のエピソードを取り上げ、詳しくお話をお聞きします。9つの短編から、仲林先生がピックアップしたのは2つ。1つ目は、『目に見えない子』というお話です。
『目に見えない子』の主人公・ニンニは、育ての親から皮肉や意地悪を言われ続けたせいで、姿が見えなくなってしまった、という女の子。ムーミンの家に連れてこられたニンニは、ムーミン一家と一緒に暮らしていくうちに、足が見え、手が見え、少しずつ体を取り戻していきます。
「子どもの虐待やネグレクトが問題となっている中で、まさにそのものの話だなと。これが70年以上前に書かれていることに驚嘆しますね」と仲林先生。先生は現在、教育に関する研究に取り組んでいると言います。
「私が対象としているのはもう少し大きい子ども、主に学校の校風や校訓が、学習の成果にどんな影響を与えているか、という研究をしています。人の成長や目標の達成に、成育環境がどのように影響するのか。たとえば厳しい学校では成績が良くなるのか、それともちょっとゆるい学校のほうが良いのか。叱咤激励するほうが良いのか、褒めちぎったほうが良いのか、などさまざまな分析をしていきます」
成育環境が子どもに与える影響というテーマは、まさにニンニの物語と重なります。この物語が、教育分野における一つの問題提起になっていると仲林先生は語ります。
「実はこういった教育に関する研究も、公共経済学の守備範囲なんです。経済学の中には教育経済学という分野もあります。教育は広い意味で公共財にあたりますし、個人にとっては消費と投資という2つ面があります。消費ととらえれば効用が上がりますし、投資ととらえれば将来収益を生みます」
「経済学とは少し離れますけど」と前置きして、仲林先生はこう続けます。
「最近、自己肯定感という言葉をよく耳にしますよね。ニンニの体が少しずつ見えていくところは、自己肯定感のバロメーターのように感じました。お話の最後、ムーミンママのために怒ったことで、ずっと見えなかったニンニの顔が見えるんですよね。大事な人のために本気で怒ることができるかどうか、強くなれるかどうか。それが(自己愛ではない)自己肯定感において大切なことなんだと。そういった意味でもこのお話は示唆に富んだ話だと思いますね」
ずっと怒ることができなかったニンニに、リトルミイはこんな言葉を投げかけます。
「たたかうってことをおぼえないかぎり、あんたは自分の顔を持てるわけないわ」
そしてニンニは、大好きなムーミンママを守るために本気で怒り、自分の顔を取り戻すのです。
仲林先生の示す「自己肯定感」というキーワードから、新たな視点で物語を味わえたように感じます。
幸せな老後を過ごすためのヒント
仲林先生がもう1つ選んだのは、『静かなのが好きなヘムレンさん』というお話です。
早く歳を取って年金をもらって、静かに暮らしたいと願っていたヘムレンさんは、親戚から土地を受け継いで隠居生活を始めます。でも、洪水で遊園地が流されてしまったと悲しむ子どもたちにせがまれて、結局自分の土地に遊園地を作ってあげるのです。静かであることを何よりも好むヘムレンさんが、最後には子どもたちを喜ばせることに幸せを感じるようになるというお話です。
「今日本では、超高齢社会や年金が政策の主要なテーマになっています。世界一ともいわれる超高齢社会で、退職後の20~30年をどう過ごすのか。静かに暮らしたいと望む人は多いでしょうが、人と関わらない生活は味気ないものかもしれませんよね。ヘムレンさんの物語が、幸せな老後の在り方や、健康寿命を延ばすためのヒントを与えてくれているようにも思えますね」
超高齢社会において、年金は公共経済学の中でも重要なテーマだと言います。
「公共経済学の主なテーマの一つですね。たとえば今の日本では、80歳代の人と20歳代の人は同じ国に生まれているのに、社会保障の観点ではまったく状況が変わってしまう。公共経済学ではそういった問題の分析も行います。年金だけでなく医療や介護も含めて、中心となるテーマです」
ムーミンに描かれた一つの幸せの形
効率と公平もまた、公共経済学の大きなそして普遍的なテーマの一つだと仲林先生は語ります。
「従来の経済学では、効率性を一つの基準として考えてきました。でも効率を追求していくと、強い人がより豊かになり、弱い人がより貧しくなって、公平ではなくなってしまう。先ほどのベンサム型の社会的厚生関数はそれを表していました。効率と公平は、経済学の中では両立しないんです。だから、効率と公平の間のどこに立ち位置を取るのか、おそらく10人いたら10通りの考え方があると思います」
そのバランスの取り方が、ムーミンの世界ではうまくいっているのではないかと仲林先生は続けます。
「誰かをうらやんだり、すねたり。小さなもめごとや人間関係のストレスが案外リアルに描かれつつも、手を差し伸べる姿がムーミン谷にはあるんですね。困った人に食事をふるまったり、一人ぼっちの人に声をかけたり、格差が広がらないうちに、みんなのほんの少しずつの気遣いによって解消されて、コミュニティの中で自然にバランスを取っているように感じます。誰かひとりが我慢をし過ぎたら、持続可能じゃなくなりますよね。でもムーミン谷では誰も無理をしていなくて、バランスが絶妙なんです」
「少し飛躍するかもしれませんが」と仲林先生はこんなふうに語ってくれました。
「最近、公助・共助・自助の考え方が注目されています。ムーミン谷は、まさにこの共助と自助のバランスが絶妙で、そのことによって幸せが保たれているように感じます。フィンランドは、国連が発表した世界幸福度ランキングで2020年まで3年連続第1位です。ムーミン谷はそのフィンランドで、作者であるトーべ・ヤンソンさんが70年以上前に考えた社会厚生の在り方、一つの幸せの形だと思います」
最後には、「楽しく読んだらそれでいいと思いますけど」と笑う仲林先生。
楽しく読んでいるうちに、何かに気付いてハッとしたり、あれこれ考えさせられたり。それがムーミンの魅力なのかもしれません。
公共経済学という一つの視点を通じて、ムーミンの世界をより深く味わう貴重なひとときでした。