レトロ建築ブームと言われて久しい昨今。近世から大阪の中心として栄えた大阪・船場(せんば) には、“生きた建築”として現在も使われているレトロビルが点在している。1920年代から30年代にかけて建てられたそれらのレトロビルは築後約100年を経て、多くの建築が改修を必要とする 時期を迎えているという。
そこで、今回は2016年に改修を終え、2021年に国の登録有形文化財となった大阪・船場の丼池(どぶいけ)筋にあるレトロビル「丼池繊維会館」に注目。改修設計を行った近畿大学建築学部准教授の髙岡伸一先生に、現地にてリノベーション箇所の解説、及び、大阪レトロ建築のおもしろさや今後の展望についてお話を聞いた。
現在の丼池繊維会館
時代の価値観に左右されるテナントビルの宿命
-さっそくですが、丼池繊維会館の改修の経緯について教えてください。
丼池繊維会館は1922年(大正11年)、愛国貯金銀行の本店として建てられました。その後、繊維問屋の同業で買い取り、地域サロンや福利厚生施設として利用したほか、テナントビルとして収益も得ていました。
そのような長い歴史の中で何度も手が加えられてきましたが、1997年、タイル貼りの外壁をアルミのサイディング(外壁パネル)で覆う改修工事が行われ、その際、窓も新しい外壁に付け替えられました。その姿のまま18年間、一般の人から見ると普通のテナントビルのような状態になっていたのですが、空き室が目立つようになり、思い切って再生しようという話が持ち上がりました。そして外壁工事によって失われたファサード(建築物正面部のデザイン)を取り戻すことを最大の目的に、再生プロジェクト(リノベーション)が2015年12月にスタートしました。
改修前の丼池繊維会館の姿 (髙岡先生提供)
-タイル貼りの外壁を、アルミのサイディングで隠すなんてもったいないですね。
そうですよね。今なら、専門家じゃなくても誰もがそう思いますよね。でも、1997年当時の価値観では古い建物ではテナントが入らないという事情があったんだと思います。壁に新建材を貼って新しいビルに見せた方が、テナントが入る。そういう時代です。そして現在は、文化財になるような建物に限らず、もはやスクラップ&ビルドの時代ではありません。古い建物をどう再生して、どのように使っていくのか。日本の社会全体として考えていかないといけない問題だと思います。
傷跡も過去の改修もビルの歴史として残すユニークなリノベーション
-丼池繊維会館のリノベーションのおもしろさについて教えてください。
通常、歴史的な建築物を保存再生する時にはある程度セオリーがあって、基本的には“竣工当時の姿に戻す”というのが原則です。重要文化財になっているような建築はだいたいそのように再生しています。
丼池繊維会館も文化財として残すことが第一優先だとするならば、本来の装飾を復元することをまず考えないといけないのですが、この建築の場合はそれを一切やっていません。幾度となく手が加えられたその過程を、建物の歴史として残してあげようという話になったんです。後から手が加えられ変わってしまった箇所もあえて元に戻さずに、そのまま見せてしまう。アルミのサイディングを外すことは第一目的ですから、それは外しましたが、外した後の外壁もよくよく見ると、外壁を取り付けた時の下地の穴がいっぱい空いています。それもそのまま残しています。人によっては汚いと思うかもしれませんが、傷跡もビルの歴史として受け入れる。そして、今の時代に合った使い方ができるように設計し直す。そういうスタンスで改修しているのが、ユニークと言えばユニークだと思います。
-傷跡もビルの歴史として受け入れる。素敵なフレーズですね! それでは、先生こん身の改修箇所について、案内いただきながら解説をお願いします!
手を加えすぎず、会館のオリジナリティーを大切に
●改修箇所〈1〉外壁
・ファサード
1997年に取り付けられたアルミのサイディングを外すと、上の方にそろばんを縦にしたような装飾が出てきました。
屋根の下にそろばんのような装飾があるのがわかるでしょうか
しかしそのいくつかは、サイディングを取り付ける際に削り取られていることが分かりました。残っている装飾があるので復元は可能ですが、あえて復元せず、削り取られたままの状態で残しています。
削り取られていしまった装飾の跡はそのまま保存
・タイル
同じタイルはもうないので、特注はせず、欠けたままにしています。過去の左官工事で補修した部分や、サイディングを取り付ける際の印としてつけた赤いペンキ跡もそのまま残しています。
●改修箇所〈2〉2階廊下
総合企画設計を担当した合資会社マットシティ(みんなの不動産)の末村巧代表社員が保管していた塩野義製薬研究所の木製家具の扉をキャビネットとして2階廊下に配すべく、天板などの家具 を設計。テナントスペースを区切る木製サッシ枠は家具とトーンをそろえました。
右にあるキャビネットの扉は、ほかのビルからリサイクル
アクセントとして壁面に取り付けたガラスブロックも末村氏が天満橋にあるレトロビルから譲り受けたものを使用しました。
天井は新たに取り付けられたものをはがずと、梁の角に少し装飾があったり、梁と天井の境目にモールディングという縁取りが施されていたりと、オリジナルの部分が出てきました。
天井について解説する髙岡先生
天井も元々は白かったと思うのですが、経年劣化でベージュに変色。それも汚れといえば汚れなのですが、歴史を物語る色として残しました。塗装面のひび割れがひどい部分などはモルタルで補修したため、ねずみ色になっています。
●改修箇所〈3〉3階天井
現在、プロダクト・空間デザイナーの柳原照弘氏のオフィス兼ショールームとして使用しているテナントスペース。2層になっていた天井をはがすと、モルタルの天井が出現。元の照明位置には円形の掘り込みがありました。そこでそれを活かすことにして、耐久性をチェックしながら、必要箇所だけ補修したため、2階廊下とはまた違ったまだら模様になっています。
照明器具は柳原氏がデザインしたもの
●改修箇所〈4〉階段など
・木製サッシ
アルミのサイディングを取り付けた際に、新しい外壁にアルミの窓が取り付けられていました。サイディングを外すとその窓も外れてしまうため、温かみのある木製サッシを取り付けました。
階段は竣工当時のまま、いまも現役。この空気感を壊さないよう、窓は木製サッシに
●改修箇所〈5〉屋上
・屋上会議室
屋上に設置されたトタンの小屋は明らかに後から増築された部分であり、以前は倉庫として使われていました。文化財の保存という観点では当然撤去を考えるのですが、あえて残して本格的なキッチンを導入。パーティーや文化教室が開けるスペースに改装しました。元々外の屋上に出る鉄の扉や、煙突の跡はそのまま残しています。
秘密基地のような屋上スペース
船場界隈には公園などのオープンスペースがあまりないので、ここが地域活性化の拠点となるよう、新たな機能を付加した改修箇所です。
実測し図面を起こすことから始める改修
-残せる部分はそのまま残し、時代に合った使い方ができる機能を付加したリノベーションの真髄、堪能させていただきました! それでは、古い建物を改修する際の難しさやおもしろさは?
難しさは色々あります。新築にはない既存の建築ならではの課題がたくさんあります。
まずこういう古い建物の場合、そもそも図面がないことが多いんです。所有者が変わる時に引き渡されていなかったり、戦争で焼けてしまったり…。この丼池繊維会館の場合も設計図はなく、写真が数枚残っているだけでした。建物の図面がないと改修しようがないので、まずは実測。全部計って、図面を起こす。それがとても大変なんです。しかも古い建物の場合、一見、水平に見えても計ると結構ゆがんでいるんですね。水平な長い板を置くとやはりずれる。1、2cmすき間があくんです。そういうことへの対応は新築では絶対にないことです。仮に図面があってとしても、図面と現状が違うことが多いので、やはり結局は計るところから始めます。
また、実測の時点ではなかなか天井を落としたりなどはできないので、工事が始まって初めて分かる事もたくさんあります。例えば、3階のモルタル天井が現れた時など、新たな発見があるのはおもしろいことですが、どう対応するのかが難しいところです。というのも、スケジュールの制約上、その場で決めないといけないことも多いからです。これも新築にはないことですね。
解体業者さんは壊せるところは全部壊すのが仕事ですし、左官などの職人さんはキレイに仕上げることが仕事なので、全部お任せしてしまうと新築のようなリノベーションになってしまいます。なにを残してなにを補修するのか。ジャッジするのが私の役目なので、現場には頻繁に顔を出して、職人さんたちと密にコミュニケーションを取ることが重要になります。
大大阪時代に建てられた近代建築がまもなく築100年
-そもそもレトロ建築の定義とは?
特にレトロ建築に定義があるわけではないと思いますが、一般的には、明治から昭和のはじめに建てられた近代建築を指すことが多いです。特に船場には、1920年代から30年代の大正後期から昭和初期にかけて建てられたコンクリート造の建築物が多いです。ちょうど大阪市が「大大阪(だいおおさか)」と呼ばれ、人口、面積、工業出荷額において、東京を凌ぐ日本第一位だった時代で、商業も近代化が進み、木造の町家からコンクリート造の近代建築に建て替えられました。1923年の関東大震災の被害を目の当たりにした大阪の実業家や商家が、相当な危機感を持って、耐震耐火の建物に建て替えを急いだという経緯もあります。大理石を使用したり、細かい装飾が施されていたり、素材造形ともに、現在では考えられないようなぜいたくさがあるのも魅力です(大丸心斎橋店など)。丼池繊維会館は重厚な装飾を施さず、当時としてはすっきりとしたデザインですね。
-大阪建築の特徴というものはあるのでしょうか。
よく聞かれるのですが、“これが大阪の建築”というものは特にありません。ただ、戦前に建てられた近代建築で言うと、東京はどちらかというと官(役所)が建てた建築物が多いのに対して、大阪は商(民間)が建てた建物が多く残っているのが特徴です。丼池繊維会館がある船場も商家が並んでいたエリアですので、商家がこぞって近代建築を建てました。
数では東京に敵わないと思いますが、東京と大阪の都心規模は全然違うので、密度という意味では大阪はかなり高いです。残っている建物についても大阪は比較的民間が所有し、現役で使われているケースが多いと思います。
そしてここ最近、いわゆるレトロ建築ブームとして近代建築に注目が集まるようになって、古い建物にお店を出したい、オフィスを構えたい、というニーズが確実に増えてきています。私が“生きた建築”を言っているのはまさにそのこと で、建物は使って初めて価値が出てくる物だと思います。そういう意味では、大阪の船場は全国的に見ても近代建築の再生・利用が進んでいると思います。
-最後に先生の今後の展望について教えてください。
船場は北船場と南船場のエリアに分かれますが、北船場の近代建築は比較的活用が進んでいていい状態が保たれているのに対し、南船場はそもそも近代建築の数自体が少なく、かつ、丼池繊維会館と同じように、外装を改修してしまったために近代建築なのかどうか分からなくなってしまっている建築が何軒かあります。この丼池繊維会館のように、改修によって周辺の地域活性につながることを地域の方々に見てもらうことで、「うちも再生したい」というような波及効果があればいいなと思っています。
21年に丼池繊維会館、フジカワビル、大阪農林会館という 船場の南側にある3つの建物が同時に登録有形文化財になったことを機に、他の近代建築の再生が進むことを期待しています。
また、生きた建築ミュージアム大阪実行委員会事務局長として、毎年秋に「生きた建築ミュージアム フェスティバル大阪(イケフェス大阪)」と題し、大阪の魅力ある建築を公開する建築イベント開催しています。まずは一般の方々に大阪には魅力的な建築がたくさんあるということを知ってもらうことが大切だと考えているからです。イベントをやって注目が集まることで、所有者さんに残そうという気持ちになってもらい、建物の再生への道筋がつくという好循環を生んでいきたいと考えています。
過去に開催された「生きた建築ミュージアム フェスティバル大阪(イケフェス大阪)」の様子。撮影:西岡潔(髙岡先生提供)
このように大阪全体の状況を改善していくことでよりよい建物が残っていくでしょうし、新築の場合も「下手な建物は建てられない」という社会的機運を作っていかないといけないと思っています。建物に関わり続けるという意味では、設計もイベントも同じです。最初に言った通り、丼池繊維会館と同じく、1920年代から30年代にかけて建てられた近代建築はまもなく築100年を迎えます。ひとつでも多くの建物の再生を急ぎたいところです。