今から100年前、まだインターネットはおろか電話も普及していない時代に、それぞれの土地に根付きながらお互いの「趣味」でつながる国際的なネットワークがありました。その名も「我楽他宗(がらくたしゅう)」。「宗」の文字からは疑似宗教のような雰囲気も伝わってくるようなこの謎の集団について立命館大学グローバル教養学部准教授のヘレナ・チャプコヴァー先生にお話を伺いました。
ヘレナ先生は2021年2月に多摩美術大学アートテーク・ギャラリーで開催された展覧会「我楽他宗―民藝とモダンデザイナー」のキュレーションを務めました。本展覧会は大正から昭和にかけて一世を風靡した蒐集家集団「我楽他宗」について初めて日本で紹介する機会となりました。
筆者は「民藝運動が盛んになっていた大正時代の日本において趣味を介してつながる国際的な蒐集家集団が存在した」という日本の民藝史の裏側のようなものに惹きつけられ、展覧会に足を運びました。実際に鑑賞してみると単なる好事家の集まりという側面だけではなく、ジェンダーを超えた平等性や当時の新宗教「神智学」との関わり、芸術関係だけではない多様な人々が交わるネットワークなど予期せぬ事実が盛り沢山の展覧会でした。平等性について言えば、外国人であること、それぞれの肩書、性別などで区別されず自由に意見を交わすことが出来る「風通しの良さ」を感じられ、この考え方は100年経った今でもこの「我楽他宗」から何かを学ぶことができるように思います。まずはこの集団の始祖である三田平凡寺という人物の紹介から始めます。
「我楽他宗―民藝とモダンデザイナー」展示風景 撮影:須田行紀
全ては三田平凡寺から始まった
我楽他宗の創始者は「趣味の王様」として知られる三田平凡寺(1876-1960)。本名を三田林蔵と言い、彼は幼い頃の事故が原因で14歳で聴力を失います。生来病弱であったことも起因して、学校にも通えず最終学歴は小学校までと言われています。それに反して、彼自身の博覧強記ぶりは止まることを知らず水墨画、狂歌など江戸由来の趣味的教養を高め、それに加えて旺盛な読書経験から近代的な知識も身に付け、独自の価値観が形成されていきました。
明治の終わり頃から林蔵は「平凡寺」を名乗り始めます。実家が材木商を廃した際に出た木材や建具などの「廃物」を使って自分専用の離れを立てそこを「拝仏」とかけて「廃物堂」と名付け、お堂があるのだからということで、その場所を「趣味山平凡寺」とダジャレ感覚で名づけられました。ここに集う数名の趣味家との間で偶発的に生じた遊び心がのちの「我楽他宗」の活動に繋がっていきます。
紙屑に埋もれる三田平凡寺
我楽他宗はネットワークである
それでは、ここからはヘレナ先生にお話を伺っていきます。
――まず、我楽他宗とはどのような集団なのでしょうか。
1919年から1940年まで活動した蒐集家の集団です。仏教において聖数とされる「33」名の正会員が常に在籍し、それぞれのパートナーや知人なども含めて会員として活動していました。東京以外の地方にいる会員は「別院」と呼び、支所として平凡寺と連絡を取り合っていました。それぞれの土地で蒐集したものについて絵や書を書き送り合ったり、会合ではお互いのコレクションを見せ合ったり食事をしながら大いに盛り上がっていたそうです。
――現代で言う「オフ会」のはしりのように聞こえますね。具体的にはどのようなものが蒐集されていたのでしょうか。
彼らが蒐集したものは招き猫のような動物グッズや富士山にまつわる物、郷土玩具、千社札と鈴など文字通りガラクタばかりでした。一見すると「変人の集まり」と言えます。
ただ調べていくうちに、彼らに特徴的なのはその蒐集の奇異さだけではなくて美術家や建築家や学者、外交官などあらゆる職業の人が身分を問わず参加していたことが分かってきました。「集団」や「宗」という漢字がついているので「宗教団体」とも形容されがちですが、私は彼ら彼女らを「ネットワーク」だという視点を持って研究に臨みました。
アサヒグラフ連載「エキセントリックな人たちと彼らのコレクション」
――前提として「ネットワーク」であるということですね。この中には具体的にどのような人物が在籍していたのでしょうか。
日本人では『滑稽新聞』などを発行していたジャーナリストの宮武外骨や小学校教員をしながら版画家として活躍した板祐生など個性的な文化人がいました。このネットワークで特徴的なのは外国との繋がりです。例えば、チェコ出身アメリカ人の建築家アントニン・レーモンド。彼は帝国ホテルをフランク・ロイド・ライトと共に設計をしたり、近代モダニズム建築において重要な人物です。アントニン・レーモンドは、インテリアデザイナーだった妻のノエミ・レーモンドの紹介で我楽他宗に参加します。他には、インド人のグルチャラン・シング。彼はインドの工芸運動を興した第一人者として知られています。日本の民藝運動を率いた柳宗悦などとも親交を深める傍ら、我楽他宗の集まりにもたびたび顔を出していました。他にはポーランドから抽象画家のステファン・ルビエンスキー伯爵、アメリカから人類学者のフレデリック・スタールなど各国の文化における重要人物が同席していたわけです。
我楽他宗の外国人メンバーたち
レーモンド夫妻と平凡寺の出会い
――近代日本にこのような要人たちのつながりがあったのですね…なぜこのネットワークが今になって注目されるようになってきたのでしょうか。
このネットワークにはあらゆる分野の多彩な人物たちがいたことは前述のとおりですが、これらの人物についてはそれぞれ研究が掘り下げられています。しかし、多くの研究者にとって彼らの趣味活動はその功績にとってはいわば「B面」、あまり重要視されるような活動ではないと考えられていました。要は後回しになってしまっていたんですね。
私はもともとアントニン・レーモンドの研究をしていて、彼の自伝の中の日本での生活についての記述で我楽他宗というワードを発見しました。10年以上前にこの小さな事実が気になり、研究するに至りました。
――その小さな発見が、今年2月の展覧会に繋がっていくわけですよね。
そうですね。2005年に例の自伝の一説を読んで、2009年の日本長期滞在時に本腰を入れて調査を始めました。その年には、まず初めに我楽他宗関連のものを蒐集しているコレクターの藤野滋さんに直接コンタクトをとれたことが大きかったです。
――最初のキーパーソンに出会うことができたのですね。
はい、今回実施した展覧会の95%は藤野さんの蒐集したものと言っても過言ではありません。
――2009年にその膨大なコレクションに出会い、その後はどうしていったのですか?
それから5年が経ったころに「神智学協会」と呼ばれる学会の会員になり、そこで今回の展覧会の監修を務めることになる安藤礼二先生(多摩美術大学美術学部芸術学科教授)にお会いしました。その頃には我楽他宗について江戸時代のものとか民芸品の蒐集と関係があるだけではなく、その他に新宗教とか当時日本に来日していた外国人とのつながりなど他にもあらゆる事実が判明してきました。
2017年時点までの研究報告を学会のシンポジウムで話して、講演後に安藤先生もやはり何かするべきだと言ってくださって具体的な行動に移すことになりました。
――その後、多摩美術大学で展覧会をするという案が出てきたというわけですね。そもそも「神智学」とはどういった学問なのでしょうか。
1870年代にロシアに生まれたブラヴァツキー夫人がニューヨークで創始した新宗教あるいは新しい生活様式ともいえるものです。当初は「秘密仏教」(エソテリック・ブッディズム)と呼ばれていました。神智学の起源にはチベット密教が関わっていると言われています。神智学が既に広まっていた1920年代当時は東洋思想には何か未知なるものがあることを敏感に察知していた西洋人は多かったのです。生活様式の面で言えば、菜食主義やヨガなども実践していました。先ほど、話にも出てきたノエミ・レーモンドは神智学のロッジと呼ばれる場所で勉強をしています。このロッジは教会のような宗教施設というよりは私塾のような教育施設に近い場所ですね。そこに平凡寺やポーランドのルビエンスキー伯爵も参加していたわけです。
ルビエンスキーから平凡寺へと捧げられた絵画。『趣味と平凡』第11-13号掲載。
――ノエミ・レーモンドが神智学協会で平凡寺に出会い感化されたということですよね。
そうです。彼女が我楽他宗に参加した理由の一つとしては日本の伝統美術を勉強したかったことが挙げられます。平凡寺から書道や木版画を学んでいました。他にもお遍路巡りで使用される納札などについても教わり、その圧倒的な知識や技術は彼の魅力の一つであると言えます。伝統的なものに限らず、身近にあるつまらないものでもその魅力を見出し語れる平凡寺独自の視点にも感銘を受けていたと思います。彼女の作品を考察してみると、ノエミさんのインテリアデザインは確実に日本に影響を受けていると思います。
――平凡寺が彼女らに新しい視点を授けたということですね。
当時来日していた外国人は横浜でスーベニアショップ(土産物屋)に行くとか帝国ホテルでコーヒーを飲んだりとか一般の日本人とは異なる行動範囲で動いていたんですよね。何か見たいと思い立っても日本を深く知らない限り選択肢は限られていたと思います。いわゆる「観光客向け」のものですね。そこに日本の古い時代の美術からガラクタまでありとあらゆるものを知り尽くした平凡寺が現れた。そういう人たちにとっては、平凡寺は宇宙みたいな存在だったはずです。そして、その出会いのきっかけは神智学が深く関わっていたわけです。
――この集合写真を見ていると構図がばっちりですよね。
会合がある時は頻繁に集合写真を撮っていたようです。これも新しもの好きの三田平凡寺らしい発想だと思います。彼は写真の技術も磨いており、我楽他宗の集合写真は常にクオリティが高かったんです。
平凡寺の魅力の話に戻れば、とにかく新しもの好きであった彼は外国のことにも興味があり、「趣味山平凡寺」への外国人の積極的な参加は最新の海外事情を聴きたいという彼の知識欲もあってそれを実現させていたと言えます。
我楽他宗は単なる蒐集家の集まりではなかった
――お互いの趣味が共通言語となり、「山」に集結したわけですね。
実を言うと、私は彼らが何を蒐集したかは興味の対象ではないんです。「蒐集」という行為自体が大切で、役に立たないモノに惹かれてしまう心理それ自体にとても興味を惹かれています。変なモノの蒐集家であるという肩書が我楽他宗の会員になる入口なのです。三田平凡寺の目指していたものは近代化する日本の中で何か特別な場所を作ることだったと思います。
彼自身はアウトサイダーであったけど、周りを囲んでいたのは世界中から集まった文化人あるいはエリートの集団でした。その肩書を一旦置いて付き合いができる空間というのも特徴かと思います。彼らは「趣味山」に入れば自由になれるのです。
――そのアウトサイダー的要素は我楽他宗の「他」の文字にも表れていると思います。
「趣味をきわめることにおいては皆平等」をモットーに趣味山はメンバーの立場や参加回数やジェンダーは気にせずに話ができる場を設けられていたと思います。
この「他」という漢字についてですが、今回の展覧会の表記はこれでそろえていますが、平凡寺は様々な「た」を使用していました。詩や日本の古語にも精通していた平凡寺は「当て字」が好きだったそうです。この我楽他宗という名称もその代表的なものと言えます。実は「た」だけではなく「がら」も色々なヴァリエーションがあります。他にも「世だれ會(よだれかい)」など宗会にも都度名前をつけたり、手紙でもよく遊んでいました。とにかくひねりを加えるんです。これらを翻訳するのはとても苦労しました…
――確かにそれぞれのニュアンスを伝えるのは骨が折れる作業ですね。そして刊行物も大量にあるのですよね。
代表的なものでいえば『趣味と平凡』という機関誌があります。これも非常に凝った作りで江戸時代の商人が利用する会計帳簿の形に似せています。数字にも拘りがあり、「33」ページで統一するというルールもあったようです。他には、イベントの様子を伝える「我楽他宗寳(がらくたしゅうほう)」という会報誌などを葉書の形で印刷して発行していました。内容は会員の関心を反映したものが多く、外国の文献に掲載された蒐集に関するエッセイや新しい事物についてのメモなどです。
記事の中では、この時代に日本ではあまり知られていなかった「精神病」という概念を紹介するなど情報の収集力には長けていたと思います。
『趣味と平凡』各号の表紙
――交流の場でもあり情報網でもあるのですね。最後に、度々現れる「平凡」という言葉について教えてください。
平凡性というのはすなわち平等性のことを指します。障害を持ち、学歴を持たず、世間に対して劣等感と距離感を抱いていた過去を持つ平凡寺にとって、家柄、性別、国籍を含めて、肩書を問わない「平凡=平等」こそが彼の求めていた理想の世界であったのです。
――その考え方は今のグローバル化が急激に進む世の中にもとても重要な気がします。今後この我楽他宗の研究はどのような展開をしていくのでしょうか。
海外から展覧会のオファーが何件か来ています。アメリカはニューヨークやハワイから、ヨーロッパはプラハですね。インドのグルチャラン・シングのコレクションアーカイブとも今回の展覧会をきっかけに良好な関係を結ぶことができました。コロナ禍が明けたら2023年の春にデリーでも展覧会を実現したいという構想もあります。
――100年の時を超えて「我楽他宗」がグローバルに展開していくのですね!本日は貴重なお話ありがとうございました。