(画像:大阪市立大学植物園(交野市私市)のメタセコイア並木)
みなさん「冬のソナタ」という韓流ドラマを覚えていますか? ヨン様が出演し、大ブームとなったあのドラマです。冬ソナの名場面の並木道…といえばピンとくるかたもいらっしゃるかもしれません。その並木道に植えられているのが、今回の主役「メタセコイア」です。
「メタセコイアの過去にはドラマチックなお話があるんです!」そう教えてくださったのは大阪市立大学理学部附属植物園職員の佐々木さん。今回は佐々木さんのお話と、『メタセコイアと文化創造』(著者:岡野 浩・塚腰 実、大阪公立大学共同出版会、2015年)を基に、メタセコイアの知られざる物語をお教えしちゃいます。
メタセコイアが発見されるまで
メタセコイア物語の鍵をにぎるのは三木 茂博士(大阪市立大学理学部附属植物園3代目園長)。三木博士が化石の調査をはじめたのは1931年のこと。
当時、三木博士は水草を中心とした植物の形態や分類を研究していました。では、なぜメタセコイアを発見するに至ったのでしょうか。
三木博士は、地層の中に含まれる植物化石を見て、化石を調べれば、日本の植物の歴史を知ることができると考え、植物化石の研究を始めました。三木博士が研究した化石は、圧縮化石と呼ばれる植物の組織が残っている化石で、現在の植物を見る目で植物化石を研究しました。
そして化石を調査していくうちに、それまで「セコイア」や「ヌマスギ」とされていた化石の中に、異なる化石を発見し、絶滅した植物として「メタセコイアと名付けました。
1941年に、三木博士はこの研究をまとめた論文を執筆し、世界各国の研究者に送付した後、戦地に赴任しました。
その4年後の1945年。中国湖北省で見つかっていた樹木が、それまで知られていない落葉針葉樹と言うことが分かり、採取された標本が、国立中央大学森林学部の鄭博士(Cheng)と胡博士(Hu)の元へ送られました。調査の結果、胡博士たちはこの植物を三木博士が発見していた「メタセコイア」だと発表しました(1948年 Hu and Cheng 1948)。絶滅したと思われていた植物が現存していた、と発表されたのです。しかし、発見された中国湖北省に住む現地の人々は、何百年も前から水杉(スイサー)と名付け、祠の中心部にあるご神木として大切に奉っていました。
何百年も前からご神木として奉られていた木は、ダーウィンが唱えた「生きた化石※」だった…。しかし、この話の裏にはさらにドラマックな物語が隠れていたんです。
※「生きた化石(生きている化石)」――“living fossil”という言葉を最初に使用したのはチャールズ・ダーウィン。「太古に繁栄していたものが、今は何らかの形で細々と生き残っている」「他では失われてしまった太古の特徴をいまだに保持している」といったことが「生きた化石」の特徴とされています。
謎が残る「生きている化石」
戦地から帰国した三木博士を待っていたのは、京都大学の地下倉庫に置かれていた論文の山。それは1941年に三木博士が戦地へ向かう前に世界各地へ送付したはずのものでした。戦争の影響を受け、交戦国に郵便が届けられていなかったのです。
つまりこの時点で、「メタセコイア」という存在は世界に普及していませんでした。世界に三木博士の研究結果が知られていなかった1945年、胡博士は未知の植物であった「メタセコイア」を自身が付けた学名で発表することも可能だったわけです。しかし、胡博士は「メタセコイア」の名前で論文を書き、世間に発表しました。
胡博士がなぜ三木博士が発表した「メタセコイア」の存在を知っていたのか。それは、日本の影響力が強かった中国には郵便が届けられていたからだと考えられていました。しかし、胡博士の息子である胡徳昆氏いわく、「1941年に胡博士が働いていた場所は日本から郵便が届く状況ではなかった」とのこと。どうして胡博士は三木博士が発見した「メタセコイア」の存在を知っていたのかを明らかにするため、三木博士や胡博士、そしてアメリカのチェイニー博士との関係を調査していく予定だそう。
戦争という世界が混沌した中で、胡博士は博士号を取得したハーバード大学のメリル博士の意見に反して三木博士の付した名前を学名とした…。そんな胡博士に武士道に通ずるものを感じるのは私だけではないはず。普段何気なく見ているメタセコイアの発見にはこんなにドラマチックな物語があったんですね。
こうした発見の歴史からメタセコイアは「生きている化石」と呼ばれるようになりました。後編ではメタセコイアの普及についてお話します。なぜ全国各地にメタセコイアは存在しているのか…その謎が解けます! お楽しみに!
後編はこちら!
大阪市立大学 杉本キャンパスのメタセコイア並木