ものごとにはすべて“はじまり”というものがある。 タバスコを日本に普及させたのは、アントニオ猪木氏だし、ウィスキーづくりのノウハウを持ち込んだのは、最近マッサンで一躍脚光を浴びるようになった竹鶴政孝氏。ほとゼロで、これまでに取り上げたことのある「サイエンスカフェ」という取り組みを日本に持ち込んだのも、実はある人物のおかげなのである。人物の名は、伊藤榮彦氏。今回は伊藤先生(といつもは親しみを込めて呼んでいる)に、サイエンスカフェがなぜ生まれたのかを、先生がこれまで歩まれた道とともに語っていただいた。
そもそものはじまり、佐賀での日々。
まず伊藤先生について、簡単にその経歴を伝えておこう。1928年生まれの86歳。戦時中に墜落する戦闘機の下敷きになり、2年間寝込んだという破天荒なエピソードをもつ。先生は京都大学卒業後、同大学で助手として勤務していたが、知人の誘いを受けて佐賀大学に赴任することになる。この佐賀大学での経験こそが、後にサイエンスカフェを日本ではじめて開催したNPO法人「科学カフェ京都」を立ち上げる遠因になったと先生は言う。
「佐賀大学ではよく学生たちに遊んでもらったんですよ。向こうは車を持っている学生が多くてね。それで、先生、火山の噴火を見に行きましょうとか、何かあるたびに声をかけてもらったものです」
伊藤先生が九州のあちこちに出かけるなかで、次第に現地の小中高生に研究について話をしたり、小中高校の先生と交流を持つようになっていった。そんなかかわり合いがきっかけとなり、1994年に「さが科学少年団」という団体を先生は立ち上げることになった。これは月に一度、子ども向けのセミナーを開催し、子どもたちに科学を身近に感じてもらうことを主目的にした団体である。
今でこそ子ども向け理科教室や科学教室といったイベントを多くの大学が開催しているが、当時はかなりめずらしかったと先生は言う。しかし、「おかげでメディアにたくさん取り上げてもらい、さまざまな人が援助を申し出てくれた。講師には困りませんでした」
講師、というと、首都圏や京阪神エリアなど、いわゆる都会と呼ばれるエリアに住んでいる人だと、つい大学教授をイメージしてしまわないだろうか? 少なくとも私はこういう仕事をしているため、「さが科学少年団」ではてっきりどこかの大学教授が子ども向けの講演をしていたのだろうと想像した。だが、実際はどうも違うようなのである。
「『さが科学少年団』の講師の大半は、中学校や高校の理科の先生です。地方では大学の数があまり多くないでしょ。だから子どもたちの理科教育を支えるのは、自主的に活動する学校の先生たちなんですよ」
当時、「さが科学少年団」に講師を派遣してくれた佐賀県の科学団体は11団体。団体名が書かれた資料を見てみると「佐賀植物友の会」に「佐賀天文協会」、なかには「佐賀トンボ研究会」といったマニアックなものまであって、どれもなかなか面白そうである。そして先生はこれら団体に横のつながりがないことに気づき、「佐賀県科学団体連絡会」を組織。団体同士の情報交換が積極的にできる環境を整えることに尽力した。
さらにその後、先生が佐賀大学の理工学部長の任に就いたこともあって、2001年に「シニアーネット佐賀」という、50歳以上の高齢者を対象にコンピュータの使い方を教える団体もつくった。
次から次へと新しい取り組みをはじめるバイタリティ。これはすごいと言うしかない。当たり前だが、これら取り組みは大学教授という本業をこなしたうえでやっているのだ。でも当の本人は、これら業績を鼻にかける気はさらさらない。
「さが科学少年団は子ども、連絡会は大人、そしてシニアーネットは老人が対象。まったく意図していたわけではないんですけど、気がつけば全世代と関わっていたわけです」先生はそう言って楽しそうに笑う。
佐賀大学を退官し、京都へ。
「シニアーネット佐賀」を設立してから2年後、伊藤先生は佐賀大学を退官し、住み慣れた土地である京都に居を移す。そう、京都、である。やっとここからが、サイエンスカフェを日本で最初にはじめた「科学カフェ京都」の立ち上げの話になるのだ。
「そもそものきっかけは文部科学省が発行する『科学技術白書』に海外の事例として、サイエンスカフェの取り組みが掲載されていたのを目にしたことです。古くはギリシャ時代から、ヨーロッパには市民が科学を楽しんだり、科学者が市民に教えることに喜びを感じたりする文化がありました。日本にはそれがない。これは面白いと感じました」
興味をもった伊藤先生は、まったく面識のないダンカン・ダラス氏というイギリスのサイエンスカフェ運動の指導者に電子メールを送り、サイエンスカフェの情報を得るとともに、今後、国際的に一緒に活動しようと約束をとりつける。
さらにもう一人、NPO法人「STUDY UNION」の代表を務め、社会教育に積極的に取り組む関浩成氏ともダンカン氏と同様の手法、つまりいきなり連絡を入れて、「科学カフェ京都」を立ち上げる仲間に引き入れることに成功する。
「彼(関氏)のことは新聞記事で知って、サイエンスカフェはぜひこの人と一緒にやりたいと思い連絡先を調べてコンタクトをとりました。そうしたら、すぐ返事がきて、会って主旨を説明すると、いいですよ、と。似ているところがあるのかもしれませんね。トントン拍子で話が進みました」