2018年10月に大阪大学で「湯川秀樹博士愛用の黒板でアートとサイエンスを語ろう」というイベントが開かれた。日本人初のノーベル賞受賞者、湯川秀樹博士が米コロンビア大学で使った黒板の実物に触れられるというのにも興味がそそられるが、もっと言えば、世の中に黒板だけで90分語り尽くす会が存在することもすごい。実際に想像以上の白熱教室で、「黒板、なめたらあかんな」としみじみ感じ入った。
湯川黒板がここにあるわけ
会場は、大阪大学豊中キャンパスの一角、大学院理学研究科で学ぶ学生たちのためのコミュニケーションスペースだ。登場人物は、黒板を愛してやまない理論物理学者の橋本幸士教授(同大大学院理学研究科)と黒板アートで今をときめく高校の美術教諭、濵﨑祐貴先生のお二人。
今日の主役の黒板は、想像していたより深く青みがかっている。濵﨑先生が描いた、笑顔を見せる湯川秀樹博士の上半身は、等身大サイズちょっと増という迫力がすごい!
そこに湯川博士がいるかのような臨場感!
イベントは、橋本先生による「湯川秀樹博士愛用の黒板」がここにある理由の説明から始まった。コロンビア大学の校舎立て替えの際に「ユカワが使っていた部屋の黒板だし、必要な人がいるのでは?」と世界に発信され、当時、理化学研究所に勤めていた橋本先生が手を挙げ、2014年に無償で譲渡された。
由来について話す橋本先生。うしろに写っている写真が濱崎先生による絵の元になったもの
厚みこそ1cm弱と薄いが、重さは2枚で100kgを超すという天然スレート(粘板岩)製。イベント終了後に触ってみたが、ヒヤッと冷たくて本当にすべすべしており、これまで知っていた黒板とはまったくの別物だ。チョークで書くときに詰まった高い音がするのも、石製ならではだ。
70年前のアメリカから時空の旅
湯川博士は京都帝国大学理学部物理学科を卒業した後、大阪帝国大学理学部で講師、助教授を勤め、その間に中間子論を生み出し中間子の存在を予言。数年後にイギリスの物理学者がその中間子(パイ中間子)を発見したことから、1949年、米コロンビア大学の客員教授だった42歳の時にノーベル賞を受賞することになった。
同大でその記者会見に臨んだ時の写真をモデルに、濱崎先生が朝から黒板に描いた博士。その背景には、ノーベル賞の受賞対象となった中間子論の核となる部分の数式があるはずだが、イベント開始時はあえて空白のままにしてあった。
それを、理論物理学者の橋本先生が書き入れて黒板画を完成させ、数式についてのミニ講義が始まった。記者会見から70年を経て、その瞬間が再現されたかのよう。アートとサイエンスのコラボで時空を一気に飛び越えてしまった。
大学院レベルのミニ講義を体験・・・難しいということはわかった
物理講義は私には難しすぎたが、心に残ったのは「湯川博士が黒板の前で記者会見したのが、理論物理学者らしい」という橋本先生の言葉。理論物理学や数学の世界では、黒板に数式を書きながらアイデアを試したり人に伝えたりするのが日常で、世界の著名な物理学研究所でもそうした風景が見られるという。そういえば、福山雅治主演の「ガリレオ」でもお約束のシーンだった。
「子どもが道路に石墨でお絵かきをするのと同じ。思ったことを形にするなら、早いほうがいいし、身近なほうがいい。さらにそれをシェアするなら大きなほうがいい」。
理論物理学者は黒板に向かってアイデアを数式にし、「これはどうなっているのか?」「本当はこんなふうになるんじゃないの?」などと式で語り合う。「湯川博士もこの黒板で、自分のアイデアを形に残すために頭から出すという作業を行っていたのでしょう」。
ワンランク上の板書
次に濵﨑先生が自分の作品や仕事ぶりを紹介。濵﨑先生は、2016年にピカソの「ゲルニカ」を白いチョークだけで黒板いっぱいに模写した作品がSNS上の話題をさらい、以降、勤務している高校の美術の授業の教材として、また美術部の活動として、あるいは卒業生へのはなむけとして描かれた作品などが注目を集め続けている。
富嶽三十六景、最後の晩餐、ジブリ作品などを描いた黒板アートなどを紹介
いつしか「黒板アート」と呼ばれるようになっても、濵﨑先生の信条は「私は芸術家ではなく教師であり、最も大切にしているのは生徒である」ということ。世界的名画や人気アニメの印象的場面を黒板上に再現する作品群は教える手段であり、「ワンランク上の板書」だと考えているそうだ。
黒板画の極意も明らかになった。「私が普段使っているのは6色。限りがある中で、どう色を使おうか考えるのが楽しい」。黒板地の緑をいかに残すかというのが作品の決め手で、湯川博士の絵も髪の毛や眉、ネクタイの柄などは黒板そのままの色だ。全部書き込んでしまうと味気なく、8分(はちぶ)がちょうどいいのだそうだ。
黒板の声を聴け
後半は、「今日は、『黒板の友だち』にお会いするのを楽しみに来た」という初対面の二人が、黒板を巡ってさまざまな方向から語り合った。
「チョークへのこだわり」問題では、橋本先生が、チョークメーカーの羽衣チョークが、廃業(2015年3月生産・販売終了)したことを話題に。ある大学の数学の教授に与えられる賞の賞品が羽衣チョークというぐらい品質の高さで世界から愛されていたと話すと、濵﨑 先生も、「チョーク界のロールスロイスと言われていますからね」と返す。さらに、珍しいチョークを持参。一筆でいろんな色が出せるマーブルチョークや巨大チョーク、超小さな黒板消しまで出てきて会場が沸いた。
こんな巨大チョーク登場!
「湯川黒板のすごさ」問題では、濵﨑先生が、「めちゃくちゃ滑らかな書き味。生まれて初めて」と感嘆する。グレーの部分は指で軽くこすって表現するが、この黒板は本当に滑らかなのでちょっとこすっても全部落ちてしまう。「どうしたらいいんやろうと、朝から黒板と対話していました」と話すと、橋本先生は「うわー、その対話に僕もまぜてほしかったなあ」と残念そう。
核心の「黒板の魅力」話になると、さらに熱量が上がる。濵﨑先生は、黒板には手描きの温かさがあり、大きさやスケール感もコンピュータに勝ると言い、「授業が終わって、役目を終えたら消してしまうのも、惜しまれつつ去るみたいなかっこよさがある」。素晴らしい作品群もすべて消してしまっている。黒板も描きっぱなしだと色がしみついたり劣化したりし「呼吸ができないようだから」と、その理由には思いやりが滲む。
黒板への思いを語る濵崎先生
一方の橋本先生は、「黒板に書くことで頭の中で整理されていく。その板書には、思考の過程が刻まれている」と、黒板が研究の相棒であることをアピール。濵﨑先生の「呼吸ができないよう」発言に応え、イギリス・オックスフォード大学の博物館に貴重品としてガラスケースの中に展示されている、アインシュタインが書いたまま消さずにある黒板のエピソードを語り、きっと触ってもボロボロで、なんの息吹も感じられないものになっているのではないかと語る。
二人とも、「黒板は、誰かから誰かに何かを伝えるもの。そのために表現するもの」だという。板書はメッセージだったのか。その大切な意味にほとんど気づいてこなかったことを、大いに反省した。「思考との出会いもくれるということを今日、学びました」と話す濵﨑先生に、「黒板の素晴らしさを語れたこの出会いに感謝しています」と返す橋本先生。黒板とともに過ごす人生は相当に奥行きがあることを教えてくれたイベントだった。