卒業論文。自分の選んだ学問に、1年あるいはそれ以上の時間をかけてじっくり向き合う大学生活の集大成だ。徹夜で研究に励んだり、ゼミ発表や諮問に緊張しながら挑んだ思い出のある方もいらっしゃるだろう。筆者もその一人で、精一杯背伸びをしてまだ誰も知らない世界の秘密を解き明かそうとしていたあの頃を振り返ると、今でも背筋が伸びる思いがする。そしてちょっと胃がチクチクする。
そんな汗と涙の結晶の卒業論文だが、もったいないことに一般的には指導教官などのごく限られた人以外の目に触れる機会はあまりない。しかし、一部の学科や研究室では卒論発表会が一般公開されていて、学外からでも自由に聴講できるということをご存知だろうか?
2016年にスタートし、今年その第1期生を送り出す大阪音楽大学ミュージックコミュニケーション専攻。そのはじめての卒業論文発表会が一般公開でおこなわれた。学生たちが4年間の集大成としてどんなことを論文にまとめたのか、聴きに行ってみた。
「音楽で人と社会をつなぐ」学生たちの卒業論文
大阪音楽大学ミュージックコミュニケーション専攻。ここで学生たちは、地域の音楽イベントのプロデュース(企画・実行・後片付けまで)を通して「音楽で人と社会をつなぐ仕掛け人」としての技能と経験を身につける。それに加えて、4回生は自らテーマを決めて卒論に取り組んでいる。今年はその1期生が晴れて卒業を迎える。
普段学生たちが過ごしているゼミ室。オシャレで開放的な雰囲気だ。
はじめての卒業論文発表会が一般公開で開催されたのは、彼らが日頃から地域社会の中での活動を続けてきた経緯があるからだ。会場は大学の講義室。先生や学生はもちろん、一般公開を聞きつけてやってきた地域の方々も多数集まる中、9名の卒業生を代表して3名が登壇した。
それぞれの問題意識が反映されたユニークなテーマ
Web上で発表会の告知を目にした時から気になっていたのは、今回発表される3名の「音楽教育」「合唱」「VRライブ」というバラエティ豊かなテーマ設定だ。テーマを選んだのにはそれぞれ理由があった。
一人目は、学校教育におけるリコーダーに注目した植田唯莉さんの発表。植田さん自身が音楽の教員を目指していたため、これからの教育実践にかかわるテーマを選んだそうだ。小・中学校で音楽科は教科としてどのような役割を果たしているのかを教育指導要領から分析し、教育現場でのリコーダーの活用に関する提言をまとめ、「これからの音楽科には、多様な音楽活動を通してさまざまな価値観を認め合う心を育成する役割が求められる」と結論づけた。
音楽を生活に取り入れることで、人生を豊かに過ごす。そのきっかけになるのが小・中学校の音楽教育だ。
二人目の発表者は、合唱団で指揮者として活動し、数々のコンクールを経験してきた坂井威文さん。自身の活動を通して、合唱の良し悪しを評価する基準が業界内で一定していないことに疑問を持った。そこで卒論では、合唱を構成している諸要素を整理し、どの側面を重要視するかによって評価や指導方法が変わることを検証。「卒論を通して合唱にも多様な価値観があることを示すことができた。今後の合唱活動でも、それぞれの良さを認め合っていきたい」という言葉が印象的だった。
同じ歌でも、合唱のスタイルによって聞き手が受ける印象はまるで違う。それぞれの良さを「見える化」するのが坂井さんの研究だ。
こうして聞いてみると、それぞれが日々さまざまな形で音楽にかかわり、あるいは卒業後も音楽を生活や仕事の一部に据えていく中で、自分にかかわりの深いテーマを設定して卒論に取り組んできたことがわかる。卒論は単なる卒業要件にあらず。研究を通して自分と世界との間に橋をかけることなのだ。
次元を超えたライブパフォーマンス「VRライブ」はライブなのか?
そんな中で、筆者が一番興味を惹かれたのは、発表会のトリを飾った山手健人さんの発表だ。テーマは近年盛り上がりを見せているコンテンツ「VRライブ」について。
みなさんはVRライブをご存知だろうか? VR(バーチャル・リアリティ)といえば『レディ・プレイヤー1』などのSF映画を真っ先に思い浮かべてしまうが、もはやフィクションの世界にとどまらず現実の生活に根付いた技術になってきている。その代表が、バーチャル空間でCGキャラクターを使って動画を配信する「VTuber」、そしてVR技術を用いて音楽ライブを楽しむ「VRライブ」だ。
発表では、VTuberに代表されるような3Dアバターを用いて、ヘッドマウントディスプレイで鑑賞するVRライブに焦点を当てて考察。全く新しい音楽体験であるVRライブが、これまでのライブやコンサートがもたらす体験とどのように違うのか、VRライブは果たして「ライブ」と呼べるものなのか、現状と課題を提示した。
3DCGのキャラクターによる次元を超えたライブパフォーマンスが、多くの人を魅了している。
山手さんによると、ライブやコンサートの定義自体も時代や語り手によって一様ではないものの、従来のライブは「ライブ会場と日常の空間が連続した体験」である。それに対してVRライブは、さまざまな技術や演出により多くの人々が同時に音楽を楽しめるものの、日常空間と非連続的で途中で視聴をやめてしまうことすらできる、MCが生配信であっても肝心の歌唱パフォーマンスは録画された音声や映像を使われることが多い、さらに生配信であってもタイムラグが生じることは避けられない、といった決定的な体験の差がある。こういったことから、少なくとも現状はVRライブはライブというよりも、動画コンテンツの一形態の域を出ていないのではないか、というのがひとまずの結論だ。
しかし、だからVRライブは従来のライブよりも劣るのかというと、そうではない。音楽の楽しみ方やライフスタイルそのものが多様化する現在、音楽業界にとっても観客にとっても「ライブ」のありかたは過渡期を迎えている。そんな中で、遠方からでも気軽に参加できたり、物理的な条件に依存しないVRライブが今後重要な位置を占めてくるのは間違いないだろう。
山手さん自身、2018年ごろからVRchat(VR空間でアバターを介してユーザー同士が交流するサービス)をはじめ、日常的にVRの世界に接しているという。誰もがフラットに参加でき、自由に表現活動が行える場に「夢があるな」と感じたそうだ。今回の発表もそうした実体験がベースにあって、VRという新しい公共空間に豊かな文化が育ってきていることを伝えるものだった。
地域の中で培われた、多様性へのまなざし
3名の発表はどれもそれぞれの音楽への思いがあふれ、非常に興味をそそられた。上記では触れることができなかったが、質疑応答の時間、先生方だけでなく地域住民の方々(やはり音楽にかかわられている方が多かった)からも鋭い質問が飛び交っていたことも、彼らが地域社会の中で学びを深めてきたことを物語っているようで印象深い。
発表会の最後は、専攻の先生方のコメントで締めくくられた。
小島剛先生
「まだまだ突っ込みどころも多いですが、多様化をきわめる社会をどのようにとらえるかという問題に積極的にアプローチする姿勢が垣間見えました。その気持ちを心の真ん中に置いて、それぞれの進路でがんばってほしいです」
西村理先生
「専攻の学びでは主に音楽イベントのプロデュースを経験した学生達ですが、その中で音楽とは何かをそれぞれが考え、自分の関心に引き寄せて卒業論文に取りかかりました。今日は3名の発表でしたが、後の6名も力作です。地域の皆さまには、来年も是非発表を聞きに来ていただきたいと思います」
久保田テツ先生
「3名の発表を終えてみると、意図したわけではなく『多様性』という共通のテーマが見えてきました。そして、こうして地域の方々に聞いていただき、鋭い質問をいただくことで彼らの学びが完成したように思います。
ミュージックコミュニケーション専攻では、大学の中に閉じずに、外の世界とどのように関わっていくのかをいつも考えています。そのためにはこうして開かれた場で、音楽を言葉で伝えていくということが大切だと再認識しました」
左から西村先生、久保田先生、小島先生。
奇しくも新型コロナウイルスの影響で、人と人とのかかわりや文化活動が停滞してしまっている。そんな中、学生たちの卒業論文をとおして多様な人と音楽のあり方に思いを巡らせることができたのは、とても心に残る体験だった。あなたのまわりの大学生がどんなことを考え、どんな研究をしているのか、機会があれば少し覗いてみてはいかがだろうか?