展覧会を見に行ってカフェでのんびりしたり、書店で素敵な装丁の本を手に取ったり、旅先でその土地の工芸品を買ったり。このような楽しみや習慣がわたしたちの日常に溶け込むようになったのは、実はわずか100年ほど前のこと。かつて一般の人には遠い存在だったアートを身近なものにするため奮闘した人々の中に、今では忘れられた一人の美術批評家がいます。それが今回の主人公、岩村透です。
30年前にこの人物を知り、研究を続けている東京大学大学院教授・今橋映子先生によるセミナー「忘れられた美術思想家・岩村透への光──比較文学比較文化研究の視座から語る」(主催:東京大学ヒューマニティーズセンター)に参加しました。
講師プロフィール
今橋 映子 東京大学大学院総合文化研究科教授。専門は比較文学・比較文化。著書に『異都憧憬 日本人のパリ』(柏書房)『〈パリ写真〉の世紀』(白水社) 『近代日本の美術思想―美術批評家・岩村透とその時代』(白水社)など。
大学祭の劇で乞食役・・ 型やぶりな美校教師
岩村透〔1870年(明治3年)―1917年(大正6年)〕は慶應義塾と青山学院に学び、19歳の時アメリカに留学。さらにフランスの美術学校で学び、帰国後は美術批評家、西洋美術史家、美術ジャーナリスト、美術行政家などとして活躍します。
多彩な顔をもった人ですが、「まずは東京美術学校の教授として知られるべき人」と今橋先生。東京美術学校で、西洋美術史を初めて専任で教えました。
美術批評も開始し、パリの美術学生の日常を描いた『巴里之美術学生』、美術史に関する論文を集めた『芸苑(げいえん)雑稿』などの著作で、西洋美術史の普及に努めます。
また美術ジャーナリストとして、雑誌『美術新報』『美術週報』で美術の最先端の情報を発信。
さらに西洋画や日本画、彫刻、装飾美術や建築など、ジャンルを超えた美術家の組織「国民美術協会」の創立を先導し、美術家の権利の保護、政府への建議、美術館設立運動など行政への働きかけも行いました。創立メンバーには、作家の森鴎外、画家の黒田清輝なども名を連ねています。
経歴だけを見ると、ちょっと近寄りがたいような人物を思い浮かべてしまいますが、大変おしゃべり好きで社交的な人だったそうです。東京美術学校の美術祭(今で言う大学祭)でパリの美術学生をモチーフにした芝居を仕掛け、自ら乞食役を演じたというエピソードも、その型やぶりで飾らない人柄を物語っています。
ボヘミアン in パリ
岩村が出演した芝居のタイトルは「巴里美術学生」。パリのカフェを舞台に、長い髪とあごひげにベレー帽といういでたちの学生たちが繰り広げた喜劇ですが、これには前段があります。岩村の著書『巴里之美術学生』(1903年)です。
『巴里之美術学生』(今橋映子蔵書)
東京美術学校の美術祭で学生たちが演じた「巴里美術学生」
岩村はこの本でパリの美術学生の日常を活写し、貧しくとも芸術に情熱を傾ける「ボヘミアニズム」を紹介。若い画家たちがパリに憧れるきっかけとなりました。
「芸術家、ボヘミアン」というと自由きままなイメージがありますが、岩村が持ち込もうとしたのは単なるライフスタイルではなく、芸術家としての自立、そして表現の自由を確保しようとする精神でした。
ボヘミアンが「自立」と結びつくのは少し意外にも思えますが、その背景のひとつにあるのが、パトロン制度の後退です。岩村がパリに留学した19世紀は、芸術家たちがパトロンという経済的な後ろ盾を失った時代。明治時代の日本も、幕府や大名に抱えられていた絵師や職人らが仕事を失い、大きな変化の渦中にありました。
「社会の中で、美術家はどうあるべきか」。海外の美術事情を見聞してきた岩村は、日本ではじめて、そのことをはっきりと語った人だったそうです。
「食えなければ意味がない」
美術家が食べていくためにはどうすればいいか。このテーマは岩村の多くの活動に通底しています。
雑誌『美術新報』『美術週報』のほか、『東京美術学校校友会月報』というメディアも使い、学者生涯のほぼすべてを通じて毎月、西洋の美術情報を収集し、翻訳し発信するという仕事を続けていました。
今橋先生によると、その情報収集力たるや「インターネット時代の私たちですら信じられないような量」だったとのこと。その根底には「思想を成り立たせるためには情報が必要」という考えがあったようです。
こうした雑誌で、絵画や彫刻だけではなく、工芸、装飾美術、建築まで広く紹介し、「美術」の概念を拡張。西洋美術史家として、西洋美術の根幹とは何かということを考えた人でしたが、それと同時に、西洋画だけが美術ではない、そして伝統的な工芸だけではこれからの日本はたちゆかない。新しい装飾芸術を作り、それを生活に根付かせることが、日本の美術家が社会に受け入れられるために非常に大事だと考え、デザイナーで思想家でもあったウィリアム・モリス*を紹介するなど、装飾美術の振興につとめました。
日本人の「生活と美術」を深い所で結びつけようとしたという意味で、「岩村透は日本のウィリアム・モリスだった」と今橋先生は語ります。
*ウィリアム・モリス・・・ モダン・デザインの父とも称される。芸術と生活の統一を目指してモダン・デザインを提唱した「アーツ・アンド・クラフツ運動」を先導した。
一般の人が家に飾れるものを作れ
1907年(明治40年)に、文展(文部省展覧会)という展覧会が始まり、岩村は審査員をつとめます。
こうしたシステムは美術が社会で認められるためには大事なことだと考えていましたが、あまりに大きなサイズの絵を、日常生活の空間に掛けるわけにはいきません。一般市民に受け入れられるようなテーマの小品を描くように若い美術家たちに言って、『美術新報』の雑誌社の主催で、今でいう展示即売会のようなことを行ったのです。
吾楽殿(上)の2階がギャラリー(右下)。ここで小品展示会が行われた。
上の写真にある吾楽殿という画堂(今で言う画廊のこと)の小さく親密な空間で行われたこの展覧会では、洋画だけではなく陶器や人形なども展示。当時は駆け出しの若手であった陶芸家のバーナード・リーチや富本憲吉といった面々も関わっています。
ちなみに岩村は、美術や工芸品をかざる“器”である建築を、非常に重視していました。美術品の展示販売にふさわしい建物を、東京美術学校の同僚建築家や出資者の協力を得て建てています。
この小品展覧会にならって美術品の展示販売を始めたのが百貨店の三越です。美術と社会とを結びつける新たなシステムができてくる、その初源の場所に岩村透という人がいたということがわかります。
西洋化一辺倒の人?
明治期にアメリカやフランスに留学し、こうした活動をしていたと聞くと「西洋化一辺倒の人だったんだろうか」という疑問がわいてきますが、『美術と社会』(1915年)という著作には「日本古来の工芸や建築、民間芸術について精細に探究し振興を図りたい」、また「地方工芸の優点を調査し、その特色を保護することが急務」という意味のことが書かれていて、岩村が振興しようとした「美術」の中に、日本の伝統的な美術工芸や芸能も含まれていたことがわかります。
地方における美術の振興をどうするか、若い美術家たちが美術で食べていけない問題をどうするか、美術館をいかに作っていくか。明治という変革の時代に、アートと社会を結び、美術を市井に行きわたらせるため、あらゆることを行った人だったという印象を受けます。
「ものごとは絶えず関係性の中にある」――比較文学比較文化の視点
岩村の研究において、今橋先生は専門である比較文学・比較文化研究の学術理論や考え方を用いています。
比較文化とは何かいうと、単に「AとBを比べる」というだけではなく、「Aという事象をしっかり理解するために、Bをもってきて相対化し、理解する方法」ということです。そしてAというある事象は、絶えず様々なものとの関係性の中にある。様々な越境を繰り返していくというところが大事、とのこと。
例えば、岩村は画家志望から批評家に転じた理由について明確には語っていないようですが、ジョン・ラスキンという美術批評家をたいへん尊敬していて、その影響を受けて画家を目指し、さらにラスキンのように美術批評家になりたいと思っていたということが、調査でわかってきたそうです。比較文化研究のなかでも大事な「影響受容」というものの一例です。
蔵書研究も、影響受容の関係をはっきりと知るために必要な第一の作業だと言われています。
岩村透の蔵書は現在、台東区立朝倉彫塑館に収められています。岩村の弟子、朝倉文夫が岩村没後に買い取った洋書1700冊にのぼる貴重なアーカイブで、見学者は、彫塑館が百年守った、天井まである書架にぎっしり詰まった偉容を仰ぎ見ることができます※(図書閲覧は不可)。※参考情報を記事の最後に記載
同時代の夏目漱石や森鴎外の蔵書と比較すると、岩村文庫はジャンルが広いのが特徴とのこと。文学、社会、芸術、建築、歴史、地理が等分にあり、また当時の知識人が読まねばならないと思われる本が網羅的に入っている。明治の知識人が世界をいかに見ていたかということがわかる蔵書だそうです。
セミナーではこのほか、比較メディア研究、世界文学、クロスジャンル(美術と建築)など、比較文学比較文化の理論や手法を用いて、どのように岩村透を研究したかを紹介。
さらに文学、美術史、社会思想史、アーツマネジメント、建築学についても知る必要があり、岩村の仕事の幅広さを反映した学際的研究となったそうです。
美術は不要不急か
岩村透は、大逆事件〔1910年(明治43年)〕で多くの美術家や文学者が言論弾圧にさらされる時代下、1914年に突然、長く勤めていた東京美術学校の職を追われます。
「今後の社会は無益無意味なるものの存在を許さない。すべてのものは(中略)その社会的生存の意義価値を吟味せられ、迅速に取捨選択されつつある」
岩村の『美術と社会』にあるこの一節を、今橋先生は「「不要不急」という、コロナ禍での例の言葉を思い出していただけると思います」と引用。「『なぜ必要なのか』ということが言えなければ存在理由がないというこの問題は、何度でも沸き起こってくる社会的な問題」と指摘し、「岩村透は大逆事件下で美術や文学がその地位を奪われそうになるところを、どのように制作家たちの思想の自由を確保するかということを考え、奮闘した人物だったと言うことができます」と話します。
個人的には、美術館が軒並み休館になった時期には、心が干からびた気分になったものでした。お気に入りの作品と出会うと心が潤いまくりますし、「このような素晴らしいものを見せてくださってありがとうございます」と、誰に言ったらいいのか分からないような感謝の念を抱くことがあります。
美術を誰にとっても身近なものにするため尽力した岩村透のような人の強い思いがあってこそ、今、こうして楽しむことができるのだということを忘れずにいたいと思います。
関連図書
今橋映子『近代日本の美術思想——美術批評家岩村透とその時代』上下巻、白水社、2021年
https://www.u-tokyo.ac.jp/biblioplaza/ja/G_00112.html
参考情報
朝倉彫塑館(岩村透の蔵書「岩村文庫」を所蔵)1階書斎 ※図書閲覧は不可
https://www.taitocity.net/zaidan/asakura/guidance/kannai/