仕事や日常生活で困ったとき、「ドラえもんの道具があればいいのにな」と妄想した経験はありませんか?
東京大学生産技術研究所(以下、東大生研)の松山桃世先生が開発した「ひみつの研究道具箱」は、ドラえもんが四次元ポケットから取り出す道具を彷彿とさせるようなカードゲーム。でも、ピンチを脱するための「道具」となるカードに書かれているのは、マンガやアニメに出てくる夢物語ではなく、すべて実際に東大生研で開発された最新技術です。
「最先端の技術を使ってピンチに挑むなんて、SFみたいで面白そう」「カードのイラストがかわいい」と興味津々のほとんど0円大学編集スタッフが、まずはゲームを体験してみました。さらに、開発者の松山先生に、カードが生まれた背景や込められた思い、活用事例についても伺いました。
東大生研の最新技術でピンチを切り抜ける!
「ひみつの研究道具箱」は、Web上で誰でも気軽に体験できます。遊び方はシンプル。まず「今月のピンチ」「学校編」「会社編」「人間関係編」「家・まち編」「日本・地球編」から挑戦したいカテゴリーを選ぶと、ピンチがランダムに1つ提示されます。さらに、ランダムに表示される5枚の技術カードを使い、与えられたピンチを切り抜けるアイデアをひねり出します。
どんなピンチが出るのかもお楽しみ。「マスクで相手の感情が読み取れない!」という日常的なものや「日照り続きで、日本全体が水不足に!」といった規模の大きなピンチもある
技術カードは全部で52枚。すべて生産技術研究所で今まさに研究されている最新技術です。原子や分子といったミクロの世界で活躍する技術から、都市・地球・宇宙レベルの世界を対象とする技術まで、工学のほぼすべての分野をカバーしているのは、大学の附置研究所としては日本最大級の規模を誇る東大生研ならではです。
ほとんど0円大学編集部が引いたのは「隣町で致死率の高い感染症が発生!」というピンチカード。「自律型海中ロボット」「半導体フィルム」「水循環の予測」「スーパーコンクリート」「パブリックスペース設計」の5枚の技術カードでピンチに挑みます……!
上がピンチカード。下は手札となる5枚の技術カード。緑の矢印ボタンを押すと技術の簡単な説明が表示されるが、詳細はなく想像が広がる
「ひび割れが治る・何度でも作り直せるスーパーコンクリートで、隣町との間に隔離壁を作ろう」
「もし感染していない人類のほうが少ない状態になってしまったらどうする?」
「全自動で海の中を探査する自律型海中ロボットで、子どもたちだけでも海中に避難させては?」
「海中ロボットの艦内には半導体フィルムを貼って、艦内でも娯楽が楽しめるようにして、ウイルスが死に絶えるのを待とう」
SFのストーリーを考えるような感覚で自由にアイデアを出し合います。一人で考えるよりも、みんなでワイワイと話しながら考えると、自分では思いもよらない発見があってより楽しめそうです。
このゲームは実際にはどのような場面で活用されているのでしょうか?そもそもなぜこのゲームを開発することになったのでしょう?ここからは、開発者の松山先生に詳しくお話を伺います。
市民の知を研究者に伝えるコミュニケーションツール
もともとは分子生物学の研究に携わっていた松山先生。現在は科学コミュニケーションを専門とし、研究や実践に取り組んでいます。
「科学コミュニケーションという言葉を聞くと、アカデミックな内容を一般の人たちにいかにわかりやすく伝えるかというアウトリーチをイメージする人が多いと思います。もちろんそれも重要で不可欠な活動ですが、市民が持っている知を研究者に伝える、逆方向のコミュニケーションもとても大切なんです」
双方向の科学コミュニケーションについて、松山先生が説明してくださったスライド
松山先生が双方向の科学コミュニケーションの重要性を強く意識するようになったのは、東日本大震災の経験がきっかけでした。当時、日本科学未来館の科学コミュニケーターを務めていた松山先生は、来館者の人たちからさまざまな声を聞いたと言います。
「これまで科学技術の素晴らしさばかりを発信して、危険な側面を伝えてこなかったのではないかという批判もありましたし、情報が錯綜する中で何を信じていいかわからないという不安の声もありました。そんな声を聞いて、科学は私たちがより良く生きるための知であることを知ってもらいたいという思いが強くなって。そのためには科学の内容を伝えるだけではなく、社会・倫理・法・経済といった多様な視点で科学を捉えて、みんなで共有できるような場やツールが必要だと考えはじめました」
そこで松山先生は、科学技術を題材として「あなたは賛成ですか、反対ですか」「その理由は何ですか」と問いかけ、回答を付箋に書いて掲示するコーナーを作ったり、対話を通してそれぞれの意見を共有して考える場を設けたりする活動を始めました。すると、参加者が科学技術への理解を深められるのはもちろん、その場に研究者がやって来て参加者の声を聞き、「参考になった」と喜ぶ場面にもたびたび遭遇したそうです。
「消費者、生活者の知恵を集めて、開発段階で研究に組み込むことができれば、研究者にとっても市民にとっても、よい良い技術が生まれていくはずだと実感しました。そのためのツールを作れないかと考え、カードゲームの発想につながったんです」
カードゲームを作る上では、どのような点を工夫したのでしょうか。
「研究者が全く把握していない問題意識や価値観を知りたいわけですから、研究現場からなるべく遠いコミュニティの人たちが楽しめることを最も重視しました。そのため、デザインはやわらかい雰囲気にして、技術の説明も詳細を詰め込みすぎず、文字量を極力削って本質だけを伝えるように心がけました」
さらに、カードゲームを使ってワークショップを行う際にも、気を付けていることがあると言います。
「正解を出すのが目的ではなく、答えのユニークさや多様さを評価軸にしてくださいといつも伝えています。多様な価値観を共有することで、物事の理解が深まり、技術と自分の関係性を考えるための視点が増えていく。それが一番大切なんです」
教育や文理融合のツールとしても活用
2019年に開発された「ひみつの研究道具箱」。当初はまちづくりをテーマにしたワークショップや、東大生研の広報活動で使われていましたが、現在は主に2つの目的で活用されています。
1つは、教育目的。小中学校や高校で活用が広がっています。例えば、東京都中野区にある新渡戸文化中学校では、半年間にわたり「ひみつの研究道具箱」を使って探究学習を行いました。スーパーコンクリートを用いてどんなイノベーションができるか、生徒たちがワークショップや調べ学習を行い、生産技術研究所で研究者にプレゼンテーションしたそうです。
プレゼンテーションの様子
「プレゼンの後、研究者と一緒にディスカッションする中で、中学生から『うちのペットにあげたい』という声があがったので、研究者が白菜でスーパーコンクリート※を作ってプレゼントしたんです。すると、ペットがものすごく気に入って離さなくなったらしくて(笑)。今後は飼料としての可能性もあるかもしれないという、研究者の新たな気づきにつながりました。生徒たちも、アイデアを出して研究者と直接話せた経験が刺激になったようです」
※コンクリートがれきや廃棄食材など要らなくなった「ゴミ」を粉末にして、加熱しながら圧力をかけるだけで産み出せる新発想の建材・材料。食材でも強度ある建材ができる。
もう1つの目的は、文理融合。例えば、2024年3月に行われたリサーチ・アドミニストレーター(URA)のシンポジウムでは、違う分野の専門知をどう組み合わせて何ができるのかを探索するツールとして、「ひみつの研究道具箱」が活用されました。
「これまでのワークショップで見えてきたのは、社会課題解決のプロセスの中で、人文社会系と工学系がそれぞれ得意とする場面があるということです。そもそも課題とは何かを定義するのは、人文社会系の得意分野ですし、具体的にどう解決するかという場面では工学が強い。新しい技術が入ることによってどのような問題が起こり得るかを考える際には、また人文社会系の強みが生かされるでしょう。このように各ステップで両者が手を取り合って知を交換しながら進めれば、よりうまく社会課題を解決できるかもしれません。そこで、このシンポジウムでは技術カードに人文社会系のカードを加え、文理を融合させてピンチを解決するプロセスを描きました」
社会学、法学、教育学といったカードが加わり、より多様なアイデアを生む源泉となった
人文社会系の知をカードとして落とし込むのも、そのカードを使いこなすのも、かなり難易度が高そうですが、「ひみつの研究道具箱」の新たな可能性が広がりつつあるのを感じます。
技術と自分の関係性を考えるきっかけに
「ひみつの研究道具箱」を使ったワークショップは、これまでに全国で30~40回ほど開催されてきました。さらに、Webサイト上の体験後、誰でもアイデアを投稿できるようになっているため、すでに数百個ものアイデアが集まっています。
「これまで蓄積してきた多くのアイデアを研究者にどのように届けていくのかが今後の課題です。先ほどの中学校での事例もそうですが、やはり市民と直接対話をして新しい刺激を受けたときに、研究者がすごく前のめりになるので、アイデアをただデータとして渡すのではなく、対話の場を設けていくことが有効ではないかと考えています」
まだアイデアが実現した例はないものの、これまでのワークショップで大きな手ごたえを感じていると松山先生は語ります。
「たまたま連れて来られて『科学なんて別に興味ない』と言っていた子が、ゲームをするうちに目をキラキラさせて楽しそうにアイデアを出している様子をたくさん目にしました。当初の目的である、科学から遠いコミュニティを巻き込む力はあると実感していますね。以前、視覚障害者の方向けにワークショップをしたときには、研究者が認識すらしていない、技術の活躍できる舞台がまだまだ多くあると感じました。さまざまなコミュニティに持ち込むことで、あっと驚くようなアイデアが得られるかもしれません」
動画は千葉市でのワークショップ「もしかするちば~自然×科学×まちづくり~」の様子。教育システムの高度化やリサイクルの発達など、バラエティ豊かな未来の千葉の姿が描き出された
さらに近年は、ELSI(Ethical, Legal and Social Issues:倫理的・法的・社会的課題)やRRI(Responsible Research and Innovation:責任ある研究・イノベーション)の考え方が重要視される中で、研究開発のプロセスに多様な人たちを巻き込むツールとして、「ひみつの研究道具箱」が果たす役割が高まっています。
これまでのワークショップでは、ゲームの第1ラウンドは練習がてら気軽なテーマ、第2ラウンドはSDGsの1つのゴールなど社会課題をテーマとして取り組んでいましたが、最近はさらに第3ラウンドを設け、「その技術は倫理的・法的・社会的にどんな問題をはらんでいますか」「正と負の両面を考えた上で、その技術を本当に実現したいですか」といった議題でさらに深く話し合う時間を作っているそうです。
「RRIという考え方を研究者側が意識するのはもちろんですが、これから社会を構成する若い人たちにも知ってもらいたいですし、自分たちにも関係があるんだ、関係していいんだという感覚を培ってほしい。そのためのツールとしても活用していけたらと思っています」
松山先生の言葉から、「ひみつの研究道具箱」は最新技術を知ったり活用法を考えてみたりして、科学の分野に親しめるだけでなく、技術と社会、技術と自分、といった関係性を考えるためのツールでもあることがよくわかります。最後に松山先生は、技術との向き合い方について、こんなふうに語ってくれました。
「私は、技術は何でもすべて諸手を挙げて受け入れるべきものだとは思っていないんです。大切なのは、必要な人と必要でない人がちゃんと選択できること。そして、必要でないという選択をした人が不利益を被らないことではないでしょうか。技術を使う人は恩恵を享受できればいいし、使わない人も違う形で幸せに過ごせるような社会であってほしいと願っています」
「新しい技術ができたらこれを使わなければいけない、使えない人はリテラシーが低いと切り捨てられるような社会にはならないでほしいと思っています」と話す松山先生