ほとんど0円大学 おとなも大学を使っっちゃおう

感染症はもはや現代人に必須のリテラシー。阪大微生物病研究所の超解コンテンツで学ぼう。

2023年8月22日 / 大学を楽しもう, 大学PRの世界

新型コロナウイルス感染症は、2023年5月8日から5類感染症に移行し、いまやニュースで取り上げられることも少なくなっています。夏になって増えつつあるとは言われていますが、以前のような緊張感はもはやありません。

 

「喉元過ぎれば」状態になりつつある世の中ですが、新型コロナウイルスによるものも含めて、感染症の脅威から解放されたわけではもちろんありません。考えてみれば、新型コロナウイルス以前にも、人々を恐れさせた感染症の大流行はありました。1996年のO157、2006年から2007年のノロウイルス、2009年の新型インフルエンザウィルス…。しかし、沈静化するといったんリセットされてしまい、また新しい流行がやってくるとパニクってしまう―。

 

そういうのはもうそろそろ卒業し、「感染症リテラシー」とでもいうべき基本的な知識を持っておくべき時代になっているのかもしれません。コロナ禍でめいっぱい転ばされた私たちだからこそ、ただで起きてしまってはもったいないのではないでしょうか。

 

というわけで、コロナだけでなく様々な感染症や病原体について、一から楽しく学べるコンテンツをご紹介します。仕掛け人は、大阪大学微生物病研究所(以下、阪大微研)。科学的根拠に基づく情報を、専門知識のない一般の人向けにわかりやすく提供してくれています。

コロナ禍の中で知りたい思いに応える

幅広いターゲットに向けて情報を届けているのが、「阪大微研のやわらかサイエンス 感染症と免疫のQ&A」というサイトです。

カテゴリーや疑問点、キーワードから気になるあれこれを調べてみることができる

カテゴリーや疑問点、キーワードから気になるあれこれを調べてみることができる

 

カテゴリーに分かれていて、一つ選ぶとさらに細かなカテゴリーが一覧できるので知りたい情報を選ぶのが簡単。もちろんサイト内検索機能もあるので、キーワード検索も可能です。答えのページは、一つのQ&Aが1ページで完結していて読みやすい。検索サイトから飛んできた人も迷子になることはありません。

 

たとえば、「そもそも免疫ってなんだ?」というQを見てみましょう。アンサーは簡潔で、しかもイラストが超わかりやすくていい感じ。知りたい気持ちが削がれないページです。関連した情報やさらに掘り下げた情報に飛ぶことができるリンクも適宜あるので、知識を広げたい人、深ぼりしたい人にも満足度が高そうです。

イラストはこのサイトのオリジナル。かわいいテイストでまさに“やわらかサイエンス”

イラストはこのサイトのオリジナル。かわいいテイストでまさに“やわらかサイエンス”

 

このサイトの開設には、新型コロナウイルス感染症パンデミックが大きく関わっています。同研究所企画広報推進室・中込咲綾さんは、その経緯を次のように話してくれました。

 

「新型コロナウイルス感染症のパンデミックが起こる前、2019年10月ぐらいから感染症と免疫の教科書サイトをつくろうと動き出していました。特に免疫についてはネット上の情報があまりに玉石混淆だったので、『ここに来れば真実がわかるよ、大丈夫』みたいなサイトをつくりたかったのです。そこへパンデミックが始まり、2020年1、2月ぐらいにはいよいよ世界的に広がり始めました。これは、みなさんが知りたい重要な情報から発信しないと、という思いで、『コロナウイルスとは』と当時大きな話題になっていた『PCR法』の詳細をまとめ緊急公開しました」

 

コロナ禍の真っ最中に始まった取り組みだったんですね。この情報発信はメディアや教育に携わる人からも好評だったそう。さらにパンデミックがそう簡単に収まりそうもないことがわかってきたことから、リニューアルして内容を充実させていくことに。1年ほどかけて、2021年11月にサイトがオーブンしました。

 

新型コロナウイルスの流行時は、感染防止策、ワクチン、変異株、サイトカインストームなどなど、社会の状況に合わせて人々の関心はどんどん広がっていきました。そうしたニーズに対応できるよう、情報更新を続けていったそうです。もちろん新型コロナだけでなく、他の感染症やワクチンの動きなどにも対応しています。オミクロン流行時はいち早く情報を掲載、最近では、2022年以降世界各地で患者の報告が増えているサル痘についてなど、最新情報への更新を進めています。

感染症への興味関心をもっと多くの人へ

このサイトは阪大微研とワクチンメーカーである一般社団法人阪大微生物研究会(BIKEN財団)が共同で制作しています。阪大微研は、今から90年ほど前に設立され感染症と免疫の基礎研究をリードしてきたいわば感染症の知の殿堂。また、その研究成果を応用してワクチン製造や検査業務を担い、数々の日本初ワクチンを生み出してきたのがBIKEN財団です。いわば最先端を走る専門研究機関が、ここまで一般向けに寄り添ったコンテンツを開設した理由には何があるのでしょうか。

 

「大きく分けて二つあります。一つは、情報が氾濫して、何が正しいかわからないという状況に対応して、科学的根拠に基づいた正しい知識を広く一般の方々に提供したかったということです。もう一つは、感染症研究への興味・関心が薄い日本の状況への危機感です」

 

中込さんによると、現代の日本は衛生状態もよく医学も発達しており、しかも島国だからと感染症が世界で流行してもどこか対岸の火事のような意識があったといいます。グローバル化が進んだ今、島国だからといって感染の波から逃れることはできないことを、このコロナ禍でしっかり学んだと言えるのかもしれません。

 

「そうなんです。コロナ禍は、よくも悪くもみなさんの感染症への興味関心を高めました。このタイミングで、学術研究分野としてより多くの人に関心を持ってもらいたい。そしてその中から若い研究者の獲得・育成につなげていきたいという、長期的な展望を持っています。Q&Aサイトに、詳しく知りたい人の情報やちょっと難しい研究成果へのリンクなどを織り込んでいるのは、そのためもあります」

 楽しく遊びながら基本が学べるコンテンツ

中込さんは、Q&Aだけでなく「コラムが面白いからぜひお見逃しなく」と教えてくれました。確かに、トップページの下のほうにコラムが並んでいました。気づかない人も多いらしいです。

 

コラムは、マンガや研究者インタビューなど読み物コンテンツです。マンガは、ウイルスとは何かとか、感染ルートとか、RNAワクチンとか、基本的な知識がかなりすっきり理解でき、へぇの連続でした。研究者インタビューは、サイエンスライターによる丁寧な取材とライティングで、難しい研究の話が面白く読める記事になっています。

マンガでわかるシリーズと研究者インタビュー

マンガでわかるシリーズと研究者インタビュー

 

感染症や免疫を知る最初の一歩として楽しめるコンテンツは、まだあります。その一つは、「病原体をよけろ!」という落ちゲー(上から降ってくるものを消したり、よけたりする落ちモノゲーム)です。

ダメージになるウイルスや、免疫を獲得できるものなどさまざまなキャラクターが落ちてくる 【協力】ムーンショット型研究開発事業目標2 「ウイルスー人体相互作用ネットワークの理解と制御」

ダメージになるウイルスや、免疫を獲得できるものなどさまざまなキャラクターが落ちてくる 【協力】ムーンショット型研究開発事業目標2 「ウイルスー人体相互作用ネットワークの理解と制御」

 

微生物の中には、「病原体」になるものもいれば「病原体じゃない」ものもいるという、基本の「き」から始めるゲーム。同じウイルスの仲間にも、加点キャラと減点キャラが存在します。キャラクターを知りゲームを攻略することで、微生物や病原体、感染症に対抗する薬や免疫系のことがふんわりわかる仕組み。通勤通学のスキマ時間に楽しめそうです。

 

さらに、8月の1カ月間は、免疫についてスマートフォンを使って楽しみながら学べるスタンプラリーを、大阪府吹田市にあるショッピング施設「ららぽーとEXPOCITY」で開催中です。(詳細はこちら

ふくろうの「JUJO」や「B犬」「T犬」がチャットでプレイヤーを導いてくれる。JUJOは樹状細胞、B犬はB細胞、T犬はT細胞を表現している。【協力】ムーンショット型研究開発事業目標2 「ウイルスー人体相互作用ネットワークの理解と制御」

ふくろうの「JUJO」や「B犬」「T犬」がチャットでプレイヤーを導いてくれる。JUJOは樹状細胞、B犬はB細胞、T犬はT細胞を表現している。【協力】ムーンショット型研究開発事業目標2 「ウイルスー人体相互作用ネットワークの理解と制御」

 

免疫に重要な役割を果たす樹状細胞、B細胞、T細胞がキャラクターになっていて、みんなで鬼(病原体)を鎮めるストーリー。ストーリーの元ネタは、ノーベル医学・生理学賞の研究だとか。チャットボットでキャラクターと話しながら、難しい免疫システムについてのノーベル賞受賞研究を理解できるようになっています。好評だった昨年に引き続き2回目の開催です。

 

「親御さんが子どもに正しい説明ができることが、一番最初の教育ではないでしょうか。ぜひ、親子で楽しみながら挑戦していただきたいと思っています」と中込さん。コンプリートすると商品も出るし、あと少しの期間ですが、行ってみない手はないかも。残念ながら大阪まで行けない人は、下記のページから、別のストーリーが展開する「おうちスタンプラリー」を楽しめます。

 

 新型コロナウイルス感染者数は、この夏もじわじわと増えているし、後遺症に悩んでいる人もいます。また、初夏の頃からは、子どもの夏かぜやRSウイルスなどの感染症が大流行しているという報道もありました。自分や家族を守るために正しい知識を学び、自分で正しい判断をできる人になるために、阪大微研のコンテンツは強い味方になりそう。また、感染症の科学に興味を持った若い人たちの中から、将来、優れた研究者が誕生するかもと思うと頼もしい限り。今後ますます楽しいユニークな広報活動、期待しています。

 

コロナ対策にも活用される「ナッジ」を大阪大学社会経済研究所のシンポジウムで学んでみた

2021年11月9日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

コロナ禍が始まってもう1年半。もし、新型コロナウイルスを知らない頃の自分が今この瞬間にタイムスリップしてきたとしたら、スーパーのレジ前の床にラインが引いてあるのを見てどうすると思いますか? 足跡マークとかあると、たぶん立ち止まりそう。いや、周りを見回して、立ち止まっている人が多ければ立ち止まる、のかも。ラインなど無視して進めばいいのに、必ずしも人はそうしないで自分の行動を変えてしまいます。

 

人の行動変容を促す働きかけは「ナッジ」と呼ばれ、行動経済学をはじめ心理学や社会学、認知科学など様々な学問分野の知見に基づいて理論化されています。近年では公共政策に取り入れられ、日本のコロナ対策にも大いに生かされています。そんなナッジについてのシンポジウムがウェブで開かれると聞き、参加してみました。大阪大学社会経済研究所によって開催された「行動変容を促す:コロナ禍の1年半と今後の展望」です。ナッジの専門家と自治体でナッジを活用している実務担当者がパネリストになり、コロナ対策やその他の具体的な事例を通して、ナッジをどう社会に役立てられるかを話し合いました。参加者は400人近くにのぼり、この分野への関心が高いことをうかがわせました。

 

シンポジウムの内容に入る前に、ナッジについて少しご紹介しておきます。ナッジ(nudge)とは、「ひじでそっと押す」という意味。誘惑に負けやすいとか現状維持を好むといった人間の特性を理解したうえで、ひじをちょっとつついて、「良い選択ができるように人々を手助けする」方法論です。ナッジのコンセプトは、2008年、シカゴ大学のリチャード・セイラー教授とハーバード大学のキャス・サスティーン教授によって発表され、セイラー教授はナッジと行動経済学への貢献によってノーベル経済学賞を受賞しています。

 

ナッジは良い行動を促す仕掛けですが、仕掛けられる側から見るとあくまでもやらされ感なく、あたかも自分が選んだように行動できるところがポイント。成功例としてよく取り上げられているのは、アムステルダム・スキポール空港の男子トイレの小便器の事例です。床の清掃費が高くつくのを何とかしたいと、小便器の内側に一匹のハエの絵を描いたところ、多くの人がハエを狙うようになって飛び散りが減り、清掃費用が8割もコストダウンしました。

 

登壇者プロフィール

大竹 文雄 (おおたけ ふみお)

大阪大学感染症総合教育研究拠点 特任教授(常勤)・同大学大学院経済学研究科(兼任)。専門は、行動経済学、労働経済学。コロナ禍で行動変容を促す「ナッジ」をメディアでも数多く発信している。「ナッジ」についての詳しい解説はこちら

 

松村 真宏(まつむら なおひろ)

大阪大学大学院経済学研究科 教授。自覚的な行動変容を促す仕掛けの体系的な理解を目指す「仕掛学」の創始者。仕掛けによる行動変容理論の構築と科学的証拠の蓄積、企業との共同研究による仕掛けの社会実装、また小中高校生への教育・普及活動に従事している。「仕掛学」についての詳しい解説はこちら

 

髙橋 勇太(たかはし ゆうた) 

横浜市行動デザインチーム「YBiT」代表、NPO法人PolicyGarage理事、横浜市職員、保健師。2019年、専門や所属の異なる横浜市有志職員で横浜市行動デザインチーム「YBiT」を発足。国内自治体初のナッジ・ユニットとして、「ナッジ理論」を行政の現場で活用するための普及啓発や全国での情報シェア・連携に取り組む。2021年には、ナッジ理論とデザイン思考を駆使して、地方自治体から政策を変えることをめざすNPO法人PolicyGarageの発足に携わる。

 

花木 伸行(はなき のぶゆき)

大阪大学社会経済研究所 教授、行動経済学センター長。専門は、実験・行動経済学。研究テーマは「限定合理的な意思決定主体の相互作用のマクロ経済学的な含意」等。近年は、持続可能な社会の構築に貢献するべく、西條辰義氏らが提唱する「フューチャーデザイン」の基礎的な実験研究にも取り組む。

 

新型コロナ感染対策で見られたナッジの効果とは

シンポジウムではまず、大阪大学の大竹文雄先生が登壇。この1年半の日本における新型コロナウイルス感染防止対策を振り返りながら、ナッジの効果や導入の工夫について語りました。

 

新型コロナ感染防止政策のポイントは「自分のことだけでなく他人にとっても良い行動を起こさせる」ことにあると大竹先生。「行動規制を守らない人に罰金を科すのと、休業補償など補助金を出して規制を守るようにお願いするのとは、一見正反対の政策のようですが目的は同じ。このようにお金によるインセンティブを使って行動変容を促すのは、伝統的な経済学の考え方です。これに対して行動経済学では、金銭的なインセンティブでなくナッジを使って、自分だけでなく他人にも良い行動を促そうと考えます」と説明します。

 

感染対策で実際に行われた、ナッジを使った政策の具体例もいくつか紹介されました。たとえば、専門家会議が発信した「皆さんが三密を避けるだけで、多くの人々の重症化を食い止め、命を救えます」というメッセージもその一つ。「三密を避けましょう」と訴えるだけでなく、それが他人にどう良い影響を与えてられるのかという「利他的メッセージ」を強調しています。また、2020年のゴールデンウィーク前に発信された専門家会議の提言「人との接触を8割減らす、10のポイント」では、損失を感じるような表現を避け利得を感じるようなメッセージを使いました。たとえば「ビデオ通話でオンライン帰省」は、「帰省を控えてビデオ通話を利用しよう」をアレンジし、「できなくなる」という損失を感じさせないようにしたメッセージでした。

「できない」「やってはいけない」をなるべく感じさせないようなメッセージを工夫

「できない」「やってはいけない」をなるべく感じさせないようなメッセージを工夫

 

これら、ナッジを使った効果は本当にあったのでしょうか。大竹先生が行った実証研究によると、「三密を避けると人の命を守れる」というような利他的かつ利得を感じさせるタイプのメッセージは、実際の行動変容につながったことがわかりました。ただ残念ながら、繰り返し使うと効果が弱まってしまうそうです。また、「三密を避けないと身近な人の命を危険にさらす」という損失タイプのメッセージは、その瞬間の「感染対策したい」という気持ちはとても高めるのですが、実際の行動には結びつかないとか。大竹先生は災害避難の行動についての実証実験も行っており、その結果とも合わせ、「利得メッセージの方が行動変容の効果が長期的に続く可能性が高い」と語りました。失うことを恐れる気持ちより、何かが得られると期待する気持ちの方が長続きするというのは、何かちょっと前向きな面が出た感じがして、少しホッとされられました。

感染予防行動を促進するナッジメッセージについての実証研究を実施

感染予防行動を促進するナッジメッセージについての実証研究を実施

 

さらに、ワクチン接種の話題も出ました。ワクチンの接種意欲は、感染する人が増え、周囲で接種している人が増えると高まることが明らかで、それは、人が持っている「社会規範に従う」という傾向の表れなのだそうです。ワクチン接種率を引き上げるために、接種した人にお金をあげるというのはどうでしょうか。「行動経済学的には少し問題点がある」と大竹先生。社会のために接種したいと思っている人に「接種するとお金をあげる」という選択肢を示すと、「そんな目的で接種していると思われたくない」と接種率が下がる可能性があるというのです。感染対策でお客さんが減って困っている旅行業や飲食業の人を助けるために商品券を渡すということであれば、利他的な動機が損なわれないかもしれません。また行動経済学的には、プレゼントとしてもらうとお返ししたくなるという意識が働くので、それをうまく使えるかもしれないとも話します。「感染対策にとって、行動経済学的手法はある程度有効でした。でも限界はあります。慣れてしまうことや、効果にばらつきがあることには注意が必要です」とまとめました。

 

「何だコレ?」が行動変容につながる仕掛け

二番目に登壇したのは、「仕掛学」の創始者、大阪大学の松村真宏先生です。仕掛学とは、行動変容を促す仕掛けの体系的な理解をめざす学問。これまで楽しい仕掛けを生み出してきた松村先生は、研究成果を披露しながら「そそられる仕掛け」について考察しました。たとえば、「ゴミ箱にバスケットゴールがついていたら、ごみを捨てたくなるか」というアイデアを仕掛けにして実験すると、5週間の設置で、ゴミを捨てた人が257人から411人に増加したことが紹介されました。その他にもいくつかの事例が紹介されましたが、なかでも秀逸だと思ったのは、アンケートに協力してもらう仕掛けでした。記入したアンケート用紙を入れると自動的に紙飛行機を折り、飛ばして回収ボックスに入れてくれる機械を作って導入。これで、アンケートに協力する人が2人から89人になるという飛躍的な伸びを見せました。みんな、結構、生活に遊びを求めているんですね。

アンケート用紙で紙飛行機を折って飛ばしてくれるアンケート回収機を導入すると、回答者数が劇的に増加

アンケート用紙で紙飛行機を折って飛ばしてくれるアンケート回収機を導入すると、回答者数が劇的に増加

 

仕掛けをうまく使った問題解決の例も興味深いものでした。松村先生は、JR西日本と共同で大阪駅ホームの安全確保に挑戦。エスカレーターに人が集中し過ぎて危険な状態にならないよう、一定数の人を階段に誘導する仕掛けです。「大阪環状線総選挙キャンペーン」と銘打って、「福島か天満か。アフター5に行くなら、どっち?」という質問を床や階段を使って目立つように掲示し、階段を上ると投票できるようにしました。「この階段を使うサラリーマンが共通して興味を持つ」仕掛けのアイデアだったそうですが、確かににぎにぎしくて、「何かあるかも」と期待してちょっと階段を上ってみたくなる仕掛けです。平均気温35度という夏の暑い時期に1週間実施して、階段利用者が7%増加したという結果は、十分に効果ありと判定されました。

派手な色合いで、思わず階段をのぼってみたくなる仕掛け

派手な色合いで、思わず階段をのぼってみたくなる仕掛け

 

ナッジも仕掛学も、人がついそう考えてしまう思考とか、やってしまいがちな行動をわかったうえで、行動を変えていくための提案をしてくれる学問。とくに仕掛学は、ちょっと笑える楽しい仕掛けが多いのがうれしいところ。楽しさ、面白さに惹きつけられていくうち、知らず知らず良い行動を取れているなら言うことないですよね。

 

健診受診や口座振替を促進する自治体のナッジ

最後の登壇者は、地方自治体の業務にナッジを応用している横浜市職員・高橋勇太さんです。医療費が増大する中、多くの人に健診など予防行動をとってほしいのになかなか取ってくれない、という悶々とした思いを抱いていたところ、ナッジに出会って光が見えたそうです。地方行政にとってのナッジとは、「環境を整えたり、選択肢の提示の仕方を工夫することで、本人や社会にとって望ましい行動をしやすくする手法」だと説明する高橋さん。「選択肢の提示」という言葉を聞いて、そういえば、自治体から「〇〇のサービスを利用しませんか」というチラシを、よく受け取ることを思い出しました。読まずに捨ててしまったことが何度もありますが、人や社会がよくなるように設計されたサービスが使われないのは個人にも社会にとっても大きな損失です。コロナ対策もそうですが、行政とナッジは相性がよいことが納得できました。

 

横浜市では、1年半ほどの間に60もの事例にナッジを活用しているそうです。その中身も、省エネ行動の促進、ジェネリック医薬品の活用促進、健診の受診行動の促進、口座振替の促進、避難行動の促進、区民意識調査の回収率向上などなど、非常に幅広いのに驚きました。また、ナッジは費用対効果も高いそう。イギリスでは2010年、公共政策でナッジを推進するために世界初のナッジユニットが作られましたが、公衆衛生、消費者教育、エネルギー効率化など幅広い分野にナッジを活用した結果、2年間で運営にかかった経費の22倍の効果を出すのに成功したそうです。

 

意外だったのは、ナッジは体系化されているため導入しやすいというメリットです。高橋さんは、ナッジを実践する3ステップや、活用できるツールについて具体的に教えてくれました。

ナッジを実践する3つのステップ

ナッジを実践する3つのステップ

ナッジを活用するうえでよく利用されている、2種のフレームワーク。どちらも一般公開されている

ナッジを活用するうえでよく利用されている、2種のフレームワーク。どちらも一般公開されている

 

また、ナッジ導入でどの程度の効果が上がったのかも、具体例とともに紹介され、かなり説得力がありました。

 

高橋さんは、2019年、日本の自治体初のナッジの普及啓発、事例支援を行う「横浜市行動デザインチーム(YBiT)」を設立し、他の自治体でのユニット設立支援なども行っているそうです。全国の自治体は1700あるそうですが、行う業務には共通性があります。オンラインで全国の公務員の仲間とナッジについての研究会や情報交換をするようになり、いくつかの都市ではナッジユニットを作る動きも出てきたそうです。

 

こうして3人のパネリストの話を聞くうちに、「ナッジを知りたい、やってみたい」と背中を押された視聴者もいたのではないでしょうか。最後のパネルディスカッションでは、ナッジを導入する上でのヒントにつながる話も出ました。大竹先生は、「ナッジは、基本的にクリエイティビティはいらない。基本的な原則からチェックリストやプロセスフローに従って、いくつかのアイデアを自動的に出していけばいい」と説明。とはいえ、行動を妨げているボトルネックがどこにあるのか、いろんな仮説が考えられ、必ずしも効果が出る場合ばかりとは限らないとか。「やってみると、予測していなかったところにボトルネックがあるということがしばしば起こる」ので、事前検証で効果のあるものを探しながら実装していくといいそうです。松村先生も、「やってみないとわからないのは確か。特に仕掛学は、失敗を繰り返すのが大事」と話します。

 

予測通りにいかないこともあると聞いて、またホッとしてしまいました。行動を読まれてばかりだと、何となく悔しい気もします。その辺りも組み込んで、さらにナッジは進化していくのかもしれません。ナッジの可能性の大きさに触れつつ、今後は、行政からのメッセージを聞いてどのように感じるのか、行動するのかに注意してみるのも面白そうですね。

 

 

 

観光は「不要不急」ではない。大阪観光大学観光学研究所所長に聞く、社会を救う観光とは。

2021年7月6日 / 大学の知をのぞく, この研究がスゴい!

コロナ禍で「観光」はある種ズタズタになった。観光に関わる産業はもちろん、観光が好きな人には本当に苦しい時期が続いているだろう。と言いつつ、私自身はそれほど観光に餓えておらず、その苦しみがもうひとつピンと来ていない。むしろ、コロナ禍を経験して初めて、人はこれほどまでに観光したかったのかと気づき、そんな観光とは一体何なのかが気になってきた。「観光学批判」という大胆な副題の本を出された山田良治先生なら、「そもそも観光って?」という疑問にも答えていただけそうな気がしてインタビューさせてもらった。

「人間は労働する動物」ゆえの観光学

―先生の「観光学批判」という刺激的な副題の著作を拝見しました。

 

私自身は経済学が専門で、書名に「観光」という言葉が入る本を書いたのは初めてなんです。その意味ではデビュー作なのですが、それにしては挑発的だったかもしれませんね(笑)。この本で言いたかったのは、今、そしてこれからの観光学には、今までの観光学とは根本的に違ったものが求められていくのではないかということです。

『観光を科学する―観光学批判―』(観光を見る眼 創刊号)(山田良治著、晃洋書房、2021年5月発行)

『観光を科学する―観光学批判―』(観光を見る眼 創刊号)(山田良治著、晃洋書房、2021年5月発行)

 

―どのような点でしょうか。

 

大まかに言えば、一つは、観光する側の視点に立つということです。これまでの観光学が扱っていたのは、どうすればインバウンドを増やせるかとか、どうすれば観光で地域振興ができるのかとか、観光を供給する側の目線に立つものが中心でした。もちろん、そうした問題もとても重要な問題です。しかし、観光学の最も基本に据えられるべきなのは、観光をするわれわれにとって、生活をし人生を生きていく上で観光が一体どのような意味を持つのかということではないかと考えています。

 

―いわば市民にとって、「観光とは何か」ということですね。

 

ええ。そして、もう一つは、観光に関わる様々な現象を貫く大きな流れを見出すということです。観光学は、個々の現象のコレクションではなく、それらの幹になる部分は何かということを追究していく必要があるだろうと思っています。

 

―先生は観光現象を貫くものを何だと考えておられるのですか。

 

簡単に言うと、労働です。人間は労働する動物で、労働することがその他の動物との決定的な違いです。たとえば、蜂が巣をつくる場合には、できあがった蜂の巣を意識してやっているのではありませんが、大工さんは家の完成図を頭に描いて家をつくりますね。このように人間の労働とは、目的を持って自然や人と関わることと言えます。さらに人間は、労働を通じて知識や技能を高め、自分を成長させ変革しようと意識的に行動します。本能的な欲求に従いながらも、社会的な意識に基づいて自分をコントロールできるのが人間です。

 

―労働は、観光を含む余暇とは、正反対の位置にある気がしますが…。

 

そう思うのは当然です。それは、労働の対価として賃金をもらう賃労働が一般的になったからです。賃労働は、目的もどのように行うかも自由ではなく、その成果も自分のものでないなど、いろいろな意味で拘束されています。今私たちは、たとえば夕方5時まで労働をし、それ以外の時間は余暇として日常空間で過ごしたり、たまには遠出や旅行など非日常空間で過ごしています。しかし、そんなふうに労働時間と非労働時間が分離されたのはこの200~300年ぐらいの話で、それまでの人類は労働時間という感覚を持っていませんでした。

 

―自給自足というか、衣食住をすべて自分でまかなうような生活をイメージすればいいですかね。

 

その頃は、労働の目的やそのプロセスを決めるのも自分で行い、労働の成果である生産物も自由に消費するという形で自己完結され、その限りで日々の生活を主体的に行うことができました。これに対して賃労働は一般的に、目的もプロセスも自分で決められない、生産物も自分のものではない、自由のない状態です。そこで、労働時間と非労働時間は分離されていったのです。

 

一方で、非労働時間としての余暇にも労働を目的としているものがあります。料理をつくったり家庭菜園をしたり絵を描いたりするのもそうですし、観光地に行って地元の焼き物やガラス工芸などを経験する体験型観光メニューもよくありますね。

 

―なるほど、余暇でも労働をしていますね。自分がやりたいからやる自由さがあるかどうかが違うだけです。

 

そうですね。われわれが生きていく上で観光の持つ意味を考えていくのが観光学の課題だと言いましたが、それは、人間の生活というメダルの表側を賃労働をしている拘束的な状態、裏側をそれ以外の自由な労働や消費の活動だと捉え、両方の関係の中で考えていく必要があるということです。余暇や観光のあり方は、労働時間の実態がどうであるかにものすごく影響を受けて変わってきています。観光だけ見るのでなく、人間の日常生活全体の中での観光の意味を見る必要があると思います。

観光のもつ意味が、これまで思っていたものから解きほぐされ広がっていく(写真はイメージ)

観光のもつ意味が、これまで思っていたものから解きほぐされ広がっていく(写真はイメージ)

非日常空間で見つかる答えとは

―では、観光の持つ意味についてうかがいます。人の生活や生きることにどう関わっているのでしょうか。

 

観光は、余暇の中でもとくに非日常の空間で過ごす余暇と考えていいと思いますが、非日常空間で過ごすインパクトは非常に大きなものがあります。1970年代、旅行業界のキャッチフレーズには、「自分探し」「自分発見」といったものがたくさんありました。裏を返せば、日常空間の中にいると様々な矛盾を感じ、自分は何者か、どうしたらいいのかという葛藤が強くなるということです。探さなければならない自分がある状態とは、一言でいうと、疎外感です。昔の村落共同体の中で生活しているような人たちには、自分を探すというような感覚は毛頭なかったでしょうし、現代社会になって生まれてきた感覚ということができるでしょう。そのような時に、たとえば海外で違う雰囲気の社会的空間に触れたりそこで生活したりすると、自分が持っていた意識がいかに特殊なものであるか、どのような特徴を持ったものであるかがわかる。その意味で、自分というものを改めて発見する感覚が持てるし、生き方をいろいろ考えていける作用があるのですね。

 

―今の時代は、1970年代より多様な価値観が認められてきているとは思いますが、疎外感自体は強くなっているかもしれません。

 

「つながり孤独」という言葉をご存じですか。スマホが発達してみんなとつながっているようでいて、どれだけ「いいね」をもらえるかに関心が集中し、それがもらえなければ孤独になってしまう。学生と接していても、これはコロナ以前からですが、人と人とのつながりに非常に敏感で、破綻を怖がるためか、親密につながることを非常に恐れているようです。いまはやりの言葉で言えば、一定のディスタンスを取りたがります。低成長時代特有のサバイバル競争の中、人と人とのつながりがいろんな形で遮断され、不安感が強いのだと感じます。孤独の問題は、疎外感の典型的な表れ方だと思います。観光・余暇について探求することは、このような孤独病や引きこもりといった社会問題に対しても、大きな役割を果たすと考えています。

 

―それはどういうことでしょうか。

 

余暇や観光は、鑑賞したり創造したりコミュニケーションしたり、自分で自由に考えた目的のために主体的に行います。その経験によって、たとえば、いろんな食事を体験することで多様かつ高度な味覚が発達したり、いろんなジャンルの音楽を聞いたりすることによって美しい音楽を享受する力が生まれます。人と関わるコミュニケーションの力もそうでしょう。私はそれを単に「楽しむ力」と呼んでいるんですが、これらは、その人の価値観や生きがいにつながる大切な能力であり、孤独、引きこもりに対するある種のワクチンとして作用すると思うのです。いかに楽しむ力を高度に持った市民として成長していくかは、余暇活動や観光が非常に大きな役割を果たすはずです。しかし、残念ながら日本では、余暇や観光は「不要不急」の活動、あるいは贅沢と考えられてきました。とくに仕事中心だった男性は、各種文化活動などの余暇活動を訓練してこなかったことで、引退後の引きこもりという社会問題にもつながっています。

「楽しむ力」は自然に任せていても育たないと山田先生。どう育てていくかは教育にとっても大きなテーマだという(写真はイメージ)

「楽しむ力」は自然に任せていても育たないと山田先生。どう育てていくかは教育にとっても大きなテーマだという(写真はイメージ)

観光が孤独問題を解決できる!?

―孤独の問題に対処する観光学ならではのアプローチとして、どんなことが考えられますか。

 

あるNPOの活動で、引きこもっている40代の男性を行ったことのないところに連れて行き、1時間だけ自分で自由に回って戻ってきてもらうという試みがテレビで紹介されていました。その男性は最初すごく怖がっていましたが、最後には、それをやることができてとてもよかったと話していました。これは非日常の空間に移動する観光と本質的には同じ取り組みであり、その効用の一例と考えられます。また、認知症の高齢者が、観光地でコミュニケーションをしながら楽しむ時間を過ごせるような環境を意識的につくっていくことも今後の大切な課題だと思いますね。私自身は、孤独問題の本質を社会科学の視点から解明したいという目標があり、それによって少しでも問題の解決に貢献できればと思っています。

 

―お話を聞きながら、今まであまり観光をして来なかったことを後悔し始めているのですが。

 

いや、まだ間に合いますよ(笑)。ただ仕事をリタイアしてからというのでは遅い場合があるので、できれば今から観光や余暇を楽しんでください。私がこんなことを考えるようになったのは、余暇活動や労働の意味や、自由で主体的に鑑賞・創造・交流を行うことの楽しさを身をもって感じてきたからだと思います。高校時代は、音楽と体育が得意で、音楽では合唱に力を入れ、大学・大学院時代にはフルートやピアノを1日何時間も練習して、趣味として楽しめるようになりました。スポーツでは、北アルプスをほとんど全山踏破しました。そんな中で今でも覚えているのは、高校時代、いい演奏をしたり聞いたりした時に感動して涙が出てきて、この感動するというのは何なのかという疑問を強く感じたことです。

ご自身を「大の遊び人間」という山田先生。仕事、研究に限らず、様々な余暇活動を全力で楽しんできたという

ご自身を「大の遊び人間」という山田先生。仕事、研究に限らず、様々な余暇活動を全力で楽しんできたという

 

―それが原点なのでしょうか。本質を究めたいという志向がその頃からあったんですね。

 

自由時間をどう過ごすかに人格が現れるとも言われます。ぜひ、人生を楽しんでいただきたいですね。ガンジーはこんな意味のことを言っています。「明日死ぬつもりで今日を生きよ。永遠に生きるつもりで学べ」。今さらそんなことを勉強してもなんて言わないで、永遠に生きるつもりになって、何でも挑戦してみてください。

コップ1杯の水から魚の健康や繁殖がわかる? 龍谷大学の山中裕樹先生に聞く「生物多様性」を守る新技術とは。

2021年5月20日 / 大学の知をのぞく, この研究がスゴい!

環境系のワードとして一般的になってきた「生物多様性」という言葉は、1985年にできた造語だそうだ。その背景には、地球上の生命のすべては互いにつながり支え合って環境を守っており、その生物の多様性が失われることで地球環境は乱され、最終的には私たち人間も存在できなくなるという強い危機感があった。それから約35年を経て言葉は世界中に広がったが、乱獲や開発、外来生物の流入などによる種の絶滅、生態系の破壊といった危機は膨れ上がるばかり。そんな赤信号の生物多様性を保全するのに役立つ「環境DNA分析」という画期的な新技術があると聞いて、開発チームのリーダーの一人、龍谷大学先端理工学部の山中裕樹先生にお話を伺った。

「環境DNA」って?

まずは、「環境DNA分析」の「環境DNA」とは何なのかから。環境とDNAって意外な組み合わせな気がするが、どうつながるのか。「環境DNAとは、水や土など環境の中にある、生物からこぼれ落ちたDNAのことです。皮膚が剥がれたり、糞をしたときに腸の内壁の細胞が一緒に捨てられたりするので、細胞のような状態で浮いているのではないかと思います」と山中先生。なるほど。では、どんな生物でもDNAを残しているのか。「そう。微生物から魚、鳥、哺乳類まで。海や川の水から人間のDNAもたくさん見つかりますよ」

 

では、この環境DNAを使って何が分析できるのだろう。

「水中に存在するDNAから、その環境にどのような種が棲んでいるのかを分析します。そのような生態系調査では、個体調査が一般的。たとえば川や海で魚を獲って調べるんですが、魚は種類ごとに住処が違うので、1カ所を調べるのでも、投網を投げ、たも網ですくい、もんどりを仕掛け、などなど数種類のやり方を試さなければならず、非常に大変です。しかし環境DNA分析なら、コップ1杯の水を汲むだけでどんな魚が棲んでいるのかを調べることができます」

 

お話を聞いて改めて気づいたのは、自然のありのままの姿を把握するには、地道な調査の膨大な積み重ねが必要だということだった。それに比べ、まさに画期的な「コップ1杯の水」。調査効率が格段に上がることは、素人でも想像がつく。

誰も思いつかなかった発見とは

こんな技術を、山中先生たちはどのように開発することができたのだろうか。その経緯を伺った。

「きっかけは、全く別の研究でした。僕らはコイの感染症であるコイヘルペスにコイが感染すると、どの程度のコイヘルペスウイルスが水の中に放出されるのかDNA量を測定していたんです。その時、一緒に研究していた源利文さん(神戸大学大学院人間発達環境学研究科准教授)が、『ウイルスだけでこんな桁違いのDNA量になるはずない』と不思議がられるんですね。で、二人で『これは、魚のDNAがこぼれ落ちているんじゃないだろうか。それなら、解析すれば魚の種類を突き止められるかも』と考えました。もしそんなことが可能なら、ぜひとも自分たちの手でやってみたかったんです」

 

その瞬間の、わくわくした先生たちの気持ちが伝わってじんわりする一方で、「魚のDNAがこぼれ落ちているんじゃないかと考えた」という先生の言葉がひっかかった。ということは、魚のDNAが水の中にあるって、その時は誰も知らなかったということか。

「そうなんですよ。僕らが研究をやり始める前から、微生物のような小さな生物の研究では水の中のDNAを調べており『環境DNAサンプル』と呼ばれていました。ただ、魚のような背骨を持った大きな生物のDNAが水の中にこぼれ落ちているなんて誰も思いもしなかったし、だから分析もされていなかったんです。そこに気づいたことが、大きな転換点になりました」

コロンブスの卵のように少し視点を変えることで気づけた「発見」が、環境DNAの範囲と価値を大きく広げたと言っていいだろう。

 

山中先生たちはさっそく魚を何種類か獲ってきて同じ水槽に入れ、その水に存在するDNAを分析する実験を開始。研究はスムーズに進んでDNAから種を特定できることが実証できたという。水に溶けているDNAは濃度が薄いので増幅させる技術が必要だが、他分野ですでに使われている技術であり、「特段、技術的に難しいことをしたわけではない」とか。2009年末頃から始めた研究の成果は、2011年に論文として発表された。実はフランスの研究チームが2008年に類似の手法を論文として発表していたそうで、「世界初」とは言えないが、世界でもかなり早い段階からこの技術開発をスタートしたといえる。こうして生み出された環境DNA分析は、新たな生態系調査の手法として世界中から注目され、多くの研究者によって分析できる生物種の範囲をどんどん広げてきたという。

琵琶湖まで自転車で10分という環境で幼少期を過ごした山中先生。幼い頃からの魚好きが高じて研究者の道へ

琵琶湖まで自転車で10分という環境で幼少期を過ごした山中先生。幼い頃からの魚好きが高じて研究者の道へ

 

コップ1杯の水でわかる生態系

実際の分析はどのように行われるのか、大まかに説明していただいた。

「採取した水は、ろ紙で漉します。ろ紙の上に残ったものに試薬をかけてDNAを抽出しやすい状態にしたうえで、さらに精製してDNA分子を取り出します。DNA分子は、きれいにした後で冷凍しておくとそれ以上分解が進まなくなり、半永久的に保存できるんです」

 

「DNAの分析のためにはDNAの濃度を高くしないといけないのですが、その増幅のために使われるのが、新型コロナウイルスの感染を検査する際にも使われているPCR法。たとえばアユがいるかどうかを確かめるには、アユの配列を持つDNAだけを増幅させる反応液に入れ、増幅が起こって陽性反応が出れば、その水にアユのDNAがあることがわかる仕組みです」

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PCR分析の様子

PCR分析の様子

 

アユなど一つの種を検出するだけでなく、魚の仲間のDNAだけを増幅し、その塩基配列を読み取ってどんな種のDNAがあるのかを突きとめる方法もよく行われているとか。環境DNA分析ならではのメリットとして、コンピュータがデータベースと突き合わせて特定するので外見から種を判別する専門性が必要ない、希少種では個体を傷つけずに調査できるなどの点が注目されている。最初の論文発表から10年を経た現在、調査手法として定着が進み、国の環境アセスメント(環境影響評価)にも取り入れられようとしている。

個体を傷つけない、生息地を荒らさないこともメリットだ

個体を傷つけない、生息地を荒らさないこともメリットだ

環境保全や水産業に役立つ技術

手間をかけずにより多くの生態系データを集められる環境DNA分析だが、山中先生は、「社会の様々な分野と連携することによって、その力がさらに発揮される」と話す。実際に山中先生は、滋賀県の行政、漁業協同組合、川の保全活動を行うNPOなどと協力し、琵琶湖に流れ込む川の流域別に2週間に1度というきめ細かな定期採水調査を開始した。放流しているアユがどの時期にどこまで遡上しているのかを環境DNA分析でつかみ、的確にアユが釣り場にたどり着くような放流方法につなげたいといったニーズに応えていくそうだ。

「水産資源をいかにサスティナブル(持続可能)な状態で活用していけるのかは地域社会にとっても大きな課題。まずは、魚の生態をつかむための基礎的な情報を集め、検討しながらよい方向を一緒に見つけたいと思います」

水を汲み調査する様子

水を汲み調査する様子

 

一方、世界では環境DNA分析技術を取り入れた自動分析装置の開発が進んでいるという。「その場で水を吸いあげて装置の中で分析し、そのデータを衛星経由で飛ばします。これが実用化されれば、多地点で観測したビッグデータをもとに予測を行う、アメダスのような状態も夢ではありません」と山中先生は話す。“1週間後、〇〇県の〇〇付近にマアジが出現するでしょう”といった予報が実現したら、釣り人が喜ぶのは間違いないが、それだけでなく「環境保全活動の成果の見える化にも使えます。水がきれいになって増えてきた魚がいるとわかればモチベーションは上がりますよね」と山中先生。

 

さらに、企業にとっては、工場排水などによる水質への影響だけでなく、周辺に生息する生物全体への影響がないことを社会に発信するという新たなCSR活動の展開も考えられるとか。「同時に、獲り尽くしかけている生き物を探すことも可能になる技術です。情報の使い道をよく考え、慎重に情報公開することがとても大事」という発言に、確かにそうだと考えさせられた。

さらに役立つ生物情報を引き出す技術を

山中先生に、この技術で今後、何を研究したいのか聞くと、魚類生態学者らしい答えが返ってきた。「それはやっぱり、新種の発見ですね。アマゾン川で調査をやれば、見たことのないDNA配列がいっぱい出てくるはずですからね」と目が輝いている。

 

また、環境DNA分析技術をさらにブラッシュアップするのも、山中先生たち先駆者の使命だと考えている。種の情報だけでなく、生育状態がいいのか悪いのか、年寄りか若いか、病気にかかっているか、産卵しそうか、といった魚の状態まで詳しく突きとめたいという。

 

「たとえば、外来種が入ってきて繁殖し始めたというようなことも水を調べるだけでわかれば、環境保全上、強力なツールになるはず。可能性は未知数ですが、やる価値はあります」と力強く語ってくれた。

 

「水は、生物多様性保全の基礎になる生物の分布情報が詰まっている『USBメモリ』のようなもの」という山中先生の言葉が印象に残る。今後、水からどんな情報が引き出され、何が明らかになっていくのか、大いに楽しみだ。

ひたすら読み続けた先に見えてきた。インド古代文献解明に向けた新たなアプローチ

2020年12月23日 / 大学の知をのぞく, この研究がスゴい!

Q. 先生はサンスクリット文献学の研究をされているとうかがいました。具体的には、どのような研究をされているのか教えてください。

私は、サンスクリット語で書かれた古代インドの宗教文献、ヴェーダ文献を研究しています。当時のインドの人々は自然神を信仰しており、供物を供え、神様をたたえて交流する儀礼を行っていました。そのような祭式儀礼に使われた神をたたえる言葉や祭式儀礼の方法を記した文献が、紀元前1500年からその後1000年くらいの期間にわたってたくさんつくられました。それらを総称してヴェーダ文献と呼ばれています。

 

ヴェーダ文献の中で私が専門に研究しているのは、紀元前900年ごろに成立したと言われる『マイトラーヤニー・サンヒター(以下、MS)』。祭式を哲学的に解釈する、もう少し簡単に言えば、なぜこのように行うのかという理屈を説明した文献です。

 

当時のインドの祭式は、自然の運行になぞらえて行われました。たとえば、夕方にミルクを火にくべる祭式には、太陽を火に戻すという意味があります。朝になったらもう一度ミルクを献供するのですが、これには、夜の間は太陽を火の中に保っておき、朝にもう一度太陽を火の中から生み出して昇らせるという意味が込められています。また、何かの行為を3回行う場合に、その意味は、世界は天と地と空でできているからだ、というように、一つひとつの祭式には自然と結びついた意味があり、それを説明しているのです。

 

インド哲学は、このような解釈の文献がもとになって発展しました。MSはその中で最も古い文献であり、その意味で重要な文献ですが、読み解くのが難しいことから、長い間未訳のままで残っていました。

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『マイトラーヤニー・サンヒター』との出会いを語る、天野先生

 

私がMSに出会ったのは、いろいろな文献を読んで修士論文のテーマを探していた頃です。もちろん相当に難しいものでしたが、一つひとつの単語を丹念に調べ、文の構造を考えていくと、ふっと扉が開いて手が差し伸べられる瞬間があるのです。誠実に向き合えば応えてくれるMSに魅かれ、これをライフワークにしよう、と決めてしまいました。その後ドイツのフライブルク大学に留学して研究を続け、全4巻からなるMSの1、2巻をドイツ語に訳出して論文にまとめ博士号を取りました。

 

帰国して大学の助手をした後、大学を辞めて4人の子育てをしましたが、その間も博士論文の見直し作業を進め、2009年にようやく出版することができました。未訳だったMSが一部ながら翻訳されたことで参照できる原典が増え、儀礼の解釈などの研究が進展するなど、ヴェーダ文献研究にも大きな影響を与えていると思います。初めて翻訳された重要文献の出版ということで、世界の様々なメジャー雑誌で紹介されるなど大きな反響がありました。2011年に海外の国際学会に招待されて講演したのを皮切りに、海外での講演も行っています。

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ドイツ語で出版した『マイトラーヤニー・サンヒター』の翻訳本

Q. 重要文献である『マイトラーヤニー・サンヒター』が、これまで翻訳されなかったのはどのようなところが難しかったからでしょうか? 

いくつかポイントがありますが、まず、サンスクリット語の言語としての難しさがあります。サンスクリット語を解釈する際には語彙や語形の解釈に複数の可能性が出てくる場合が多いんです。さらに、単語の間にスペースがある英語、文節に分けることができる日本語などと違って、単語の切れ目や文の切れ目にも複数の可能性があります。一つひとつの単語の意味、文の構造、前の文とのつながりなどを考え尽くしてようやく意味が見えてくる、という具合なので、非常に読むのに時間がかかります。

 

また、ヴェーダ文献とは、もともと口伝えだったものが書き留められたもので、MSにおいても写本が数種類見つかっています。それらは比較すると少しずつ違っているので、チェックして正しい語形を選んだり再建したりしなければなりません。そのうえ、MSは説明にすごく少ない言葉しか使わないんです。そこには彼らが背景として持っている理論体系や世界観がこめられているのに、さっと読んだだけでは読み取れない。たとえば、ミルクを絞るのに桶を使わず土鍋を使う、ということにとてもこだわったりするのですが、その説明についてはとても言葉足らずなのです。他の個所や他の文献を読み解いて、関係ありそうなところを突き合わせることで、ようやく何が問題にされているのかがわかる、そんな難しさもあります。土鍋によるミルク絞りの議論に関して言うと、土鍋は土でできているので大地そのものと考えられていて、ミルクは種子や精子と同じものと考えられていました。大地は種子を受け入れ育むものであるという世界観が、この背景にはありました。

MS中身

天野先生が翻訳に取り組むヴェーダ文献『マイトラーヤニー・サンヒター』

Q. 難しい文献だからこそ、挑戦し甲斐があるということでしょうか。『マイトラーヤニー・サンヒター』を研究する面白さは、どんなところにありますか?

確かに、難解なパズルを解くような言語学的な面白さに魅かれてMS研究を続けてきたというところはあります。しかし、研究を進めるうちに、文献成立に至る当時の社会状況にも興味を抱くようになりました。それは、MSが一時にできあがったのではなく、長い時間をかけて様々な人たちの影響を受けながら考えを発展させ、成立していったものであることがわかってきたからです。

 

これを知ったのは、MSの各章で言葉遣いが変わっていることに気づいたことがきっかけです。この文献だけを読み込んでいたためにわかったのだろう、それぐらい微妙な変化です。MSがつくられ始めた紀元前900年頃から、400~500年ぐらいの間、少しずつ書き足されていったのだと思います。とくに面白いと思ったのは、土着の人たちの信仰や言葉がけっこう取り入れられていることでした。一見、言語もヴェーダに揃えようとしているように見えますが、ちょっとした言葉遣いに土着信仰の影響が垣間見えるのです。ヴェーダはバラモン教の聖典です。バラモン教には厳しい階級制のもと他のカーストとは混ざらないといった排他的なイメージがありますが、意外にそうではなかったかもしれないと思うようになりました。MSの時代には、保守的な人たちもいるでしょうが、他から何かを取り入れようとした人たちもいて、もう少しフレキシブルにネットワークを築いていたように読み取れました。こうして、MSに対して最初に抱いていた、古代の閉じられた世界の産物というイメージが一新され、この中に時代を超えた人の動きや社会の動きが読み取れる可能性を感じるようになったことで、さらにMSの面白みにはまりました。

Q. 情報科学の先生と共同研究を進めていらっしゃるそうですね。意外なコラボなのですが、きっかけと研究テーマについて教えてください。

先ほどお話した、MSがその発展の中で受けた様々な影響が言語に表れている、という気づきがきっかけで、ヴェーダ文献が成立した背景となる社会の動きを解き明かせるのではないか、という発想が生まれてきました。ヴェーダ文献には、いつどこで、誰がどうやってつくったのかという情報が一切なく、成立した経緯や背景の詳しいことはわかりません。私は、MSの中に内容や言語の変化が見られたことをヒントに、もともとは同じような部族・種族でいた人々がいくつかのグループに分かれて暮らしたり活動したりしながら、互いにあるいは異部族と接触したり影響を与え合ったりして文献が成立していくという仮説のもと「相互影響モデル」を打ち立てました。その相互影響の状況をもう少し詳しく知ることができたら、文献がどういうふうにできていったかや、思想、儀礼の発展プロセスなどが、もっとわかってくるのではないかと考えました。

 

最初は、MSを白地図に見立て、ある言語現象が集中的にあらわれる場所や、まったくあらわれない場所を言語層の違いとして、それが何の影響を受けた結果なのかも含めて手書きで記述しようとしてみました。人間の力では限界がありプログラムの手を借りないといけないことはすぐわかりましたが、どうしたらいいか思い浮かびません。当時私は、出産のためにアカデミックキャリアを中断した研究者のリスタートを支援する日本学術振興会特別研究員(RPD)として大学での研究生活に戻ろうとしている頃でした。言語が違っても似たような考え方の研究をしている人はいないかと、いろいろと探しました。漢文を対象に、語彙の使い方の分析によって作者を判定するなどの研究をしている先生を見つけ、研究方法について教えてもらいに行きました。いろいろな情報系の研究者にも会いました。そんな中で、少しずつ自分がやりたいことが固まり、徐々に協力者もあらわれてきました。

 

ようやく目標に到達するための共同研究をスタートさせることができたのは、2020年4月です。テーマは「データ駆動科学が解き明かす古代インド文献の時空間的特徴」。ヴェーダ文献にあらわれる言語現象をデータ化し、一つの文献の中でどのように変化しているのか、他の文献との関連はどうなっているのかなどを分析したいと思っています。共同研究者は京都大学学術情報メディアセンター特定講師の夏川浩明先生で、情報可視化の研究者。情報可視化とは、膨大な数値データを画像に変換し視覚的な解析を可能にし、物事の因果関係を明らかにしたり、新しい現象を発見したりするための方法論です。私が求めている、言語現象の背後にあるものやそれらの関係を探るのに、データ解析や可視化が非常に役立つと考えました。夏川先生のほうは、これまで脳内の神経ネットワークや生物学ネットワーク、生態系ネットワークなど自然科学の分野を情報科学のアプローチで研究してきましたが、古代文献というまったく違う人文科学における多様で大規模なデータへ応用範囲を広げることに興味を持ったそうです。

 

サンスクリット文献学は、これまで、基本的にはサンスクリットがわかる人だけの閉じた学問でした。しかし、他の学問の方法論でサンスクリットの文献を解明するのに役立つものがあれば、どんどん取り入れるべきだと思います。また、サンスクリット文献学自体も、共有できる方法論や研究成果を様々な分野に波及させていける可能性があるはず。その意味で、共同研究は非常に重要だと思っています。今回の共同研究では、データサイエンスの研究者が古代インドをどう見ていくのかにも、とても興味があります。

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天野先生と夏川先生による研究ディスカッションの様子。来年2月12日に、本プロジェクトのワークショップ「古代文献の言語分析から読み解く社会背景のダイナミズム―『データ駆動型科学が解き明かす古代インド文献の時空間的特徴』第1回ワークショップ―」が開催される。詳細は、本プロジェクトのウェブサイトをご覧ください

Q. 共同研究は、どのように進めていらっしゃるのでしょうか。また、達成したい目標についてお聞かせください。

共同研究には、2本の柱があります。一つは、ヴェーダ文献の中で祝詞がどこに出てくるのかを調べてインデックスをつくった既存研究を活用し、どのような祝詞がどこに出てくるのかを分析・整理して文献同士の関係性を明らかにしようとするものです。一つの文献の中のコンテンツの関係や、時期によるコンテンツの変化、文献同士の関係性の変化など表現したいデータがいくつかあるので、それらをどうつなげて、どう見せられるのか、可視化の仕方を検討しているところです。

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MSと『アタルヴァヴェーダ』という呪術的伝統を持つ文献の関係(祝詞の共起)を示すデータ

 

もう一つは、MSからサンスクリット語のデータベースをつくることです。文献を読み込んでデータ化しようとする時、一つの単語に対して、これはこの動詞の過去形の三人称単数である、といった文法形の解析をしてデータベースをつくらないと、自然言語処理による言語分析はできません。ところがサンスクリット語は、英語で言えば全部の単語を発音記号でつなげて書いているようなものなので、自動的に解析することはほぼ不可能。他の方法で分析しようと考えていたところへ、サンスクリット語の自動解析にトライし、半ば実現しているドイツ人研究者と出会うことができました。彼は、MSのような文献の解析をすることでディープラーニングによりプログラムの精度も上がるのでやってみたいと思っていたそうですが、複数の解釈の可能性がある際の解決の難しさがハードルとなっていました。そこで、彼が分析にかけ、複数の可能性が出てきたものを私が確定し、それを彼がデータベースに組み入れるという協力体制を構築し、データベース化を進めることになりました。

 

文法解析データができると、文献の関係性の分析は非常にやりやすくなります。ある特徴的な構文に着目し、どういう使われ方をしているのかを判断して AやBなどと分類し、この文献にはAが多い、ここはBが多い、といった分析を手作業でやるのと比べ、コンピュータならけた違いの用例を扱うことができ、その分考察の精度も上がります。めざしているのは、MSのみならず同時代の文献全部をデータ化し、語彙の分布や特徴的な構文の抽出などを自動で行い、関係性をあぶり出せるようにするという夢のような成果です。

 

2年間で、文献の成立を担うグループ同士の関係性が時間によって変わっていくという、その外枠をまずつくることを目標にしています。それ以降はオープンサイエンスのような形をとり、データをどんどん充実させていくことができれば素晴らしいと思います。文献学では、一つの単語に的を絞り、学派や文献によって使い方がどう違うかといった、とても細かいことをたくさん研究しています。それら一つひとつの成果を、この時代のこの関係についての研究、という具合に位置づけを明確にできれば議論がより発展し、今までの研究もより生きてくるのではないかと思います。

 

共同研究と並行して、MSの残りのドイツ語訳も続けています。目標は3年以内の出版。MSには「待たせてごめんね、もっと頑張るからもう少し待っててね」という気持ちです(笑)。

Q. 古代インドの文献というと、私たちの生活には縁遠い気がしてしまいます。この研究は、どのように現代の私たちの役に立つと思いますか?

その、縁遠いことが、ポイントかもしれませんね。遠く離れたインド、しかも古代に思いをはせることは、時間と空間を超えて精神が旅をすることであり、そのことによって世界の見え方が変わったり広がったりすることが大切ではないかと考えています。古代インドの人たちは、自然に近いところで生きていました。MSのような祭式哲学をもとに、もう少し後の時代になると、さらに内面化させて突き詰めたウパニシャッド哲学が出てきます。そこでは、「梵我一如」つまり自分と宇宙は一つという悟りの境地が説かれますが、その頃のインドでは、今よりももっと自然にそういったことが理解できたのではないでしょうか。こうした現代とはまったく違う視野への転換、また同時に共感が得られるところが、古典を読む素晴らしさだと思っています。

 

サンスクリット文献学が現代の人々にどう役に立つかと聞かれたら、確かに答えるのが難しいのですが、しかし、私たち研究者はその問いから目を背けてはいけないと思います。そんな気持ちもあって、古代インドについて一般の方にも興味を持ってもらうことをめざした一般公開講座を、昨年から始めました。尼をしている姉のお寺に場所を借り、バラモン教やウパニシャッド哲学などについてお話をしました。難しいこと、何か異質なものという反応よりは、意外に共感を持って聞いてくださる方が多く、喜ばれたという手ごたえがありました。今年は新型コロナウイルスの流行もあってお休みしましたが、来年も継続してやる予定です。他の先生方にも声をかけ日本仏教や仏教美術、インド仏教などにも広げて、2021年2月から5回のリレー講座を行う予定です(詳細はこちら⇒ 一般公開講座「仏教とその源流~祈りと儀礼~」)。

 

言語学的な興味でMSの研究を始め、インド自体には興味のなかった私ですが、MSの翻訳を出した時、インドの人にとても喜ばれました。思ってもいなかった反応だったので、こうやって文化の保存という意味でインドの人たちのお役に立てることに感動しました。また、国際学会でインドの研究者に声をかけていただいたり、インドの大学から招待講義を依頼されたり、研究を通じてつながりができてきているのもうれしいことです。研究を進め、MSがどこでつくられたのがもう少し解明できたら、その場所をぜひ自分で歩いてみたいと思っています。

笠原寺講演2019写真

昨年はじめて取り組んだお寺を会場にした一般公開講座の様子

 

この記事にご興味を持っていただいた方へ

天野先生は研究活動を推進していくために、以下のような方との情報交換を望んでいます。
ご興味を持っていただいた方はお気軽にご連絡ください。

  • サンスクリット文献学に興味のある他分野の研究者
  • 文献を通じて、成立した時代背景や文化等の解明に取り組む研究者
  • 文献学と情報科学の共同研究に取り組むあるいは興味のある研究者
  • サンスクリット文献学、あるいは研究と子育ての両立などについて、講演等を依頼されたい方 など

8億年前、地球と月に何が起こったか。阪大教授に聞く小惑星シャワーの謎!

2020年10月1日 / 大学の知をのぞく, この研究がスゴい!

トップ画像:地球と月を襲った小惑星シャワーの想像図 Credit:Murayama/Osaka Univ.

月が知っていた8億年前の大事件

地球と月の歴史について、世界から注目を集める新たな発見があった。8億年前、地球と月に小惑星のシャワーが降り注ぐ天体衝突が起った可能性があることを、大阪大学大学院理学研究科・寺田健太郎教授のグループが突き止め、2020年7月、論文が英科学誌『ネイチャー コミュニケーションズ』に掲載されたのである。

 

天体衝突は、地球や太陽系の歴史に大きな影響を与えるトピック。6550万年前の天体衝突によって恐竜が絶滅したことは、最も知られている例の一つだ。地球と月への小惑星シャワーという大事件があったとなぜわかるのか、もしそれが起こったとして8億年前に地球はどうなった可能性があるのかについて、寺田先生にうかがった。

オンライン取材に応えてくださった寺田先生。背景にも宇宙を感じる・・・!

オンライン取材に応えてくださった寺田先生。背景にも宇宙を感じる・・・!

 

地球など太陽系の天体の歴史を調べるのに重要なのが、クレーターの存在だ。太陽系の天体では小惑星や彗星などが衝突する現象がよく起こり、ぶつかった衝撃で天体の表面にはクレーターができることが多い。地球のクレーターは、風化、火山活動、津波など自然現象によって削られるなどして、古いものほど消えてしまう。とくに、6~7億年より前のものはほぼ残っていない。これは、7億年前に地球が凍るスノーボールアースと呼ばれる現象が起こり、それが溶けていく際に表面を氷河が削り取ったことでクレーターが消えてしまったからだ。

「しかし、風化がほとんどない月にならそんな古いクレーターも残っています。そこで、月のクレーターに着目して、昔の地球に起こった天体衝突を調べることにしました」

恐竜絶滅時の30~60倍の衝撃に地球は?

注目したのは、クレーターの数密度(単位面積当たりの個数)が多い場所ほど古い時代にできたと考える「クレーター年代学」だ。天体の表面ができてから時間が経てば、それだけ何度も衝突にさらされてクレーターの数密度が高まるという年代測定法が50年ほど前に確立されている。「それを、クレーター自体の年代を推定するのに応用することを思いつきました」。

 

大きなクレーターは、できる時に穴の中から飛び出した物質が周囲に堆積する。これをイジェクタと呼ぶ。時間が経つとイジェクタの上にも小さなクレーターができていくのだから、大きなクレーターの周りにあるイジェクタ上の小さなクレーターの数を数えれば、数が多いほど古いクレーターだと推定できると考えたのだ。

 

月面にある直径20㎞以上のサイズのクレーター59個について、周囲の小さなクレーターの数を数えることにした。使ったのは、日本の月探査衛星「かぐや」が収集した高解像度画像データ。共同研究者でクレーター研究の第一人者である東京大学大学院理学系研究科・諸田智克准教授が解析した結果、59個のうち8個のクレーターの年代が一致していたことを突き止めた。

 

「この頃に、何か大事件、つまり、小惑星が砕けて月に相次いで降ってきたと解釈できます。それを、なぜ8億年前だと推定したのかというと、一つは、8個のクレーターの中にコペルニクスクレーターが入っていたからです」

 

コペルニクスクレーターは、直径93㎞の非常に大きなクレーター。アポロ12号がそのイジェクタを回収したと考えられ、その分析などからコペルニクスクレーターは8億年前にできたと多くの研究者が推定している。

コペルニクスクレーターの写真。周囲の緑の点々は、年代を導き出すためにカウントした直径0.1-1kmの微小クレーター。860個もあるという

コペルニクスクレーターの写真。周囲の緑の点々は、年代を導き出すためにカウントした直径0.1-1kmの微小クレーター。860個もあるという

本研究で形成年代を調べた直径20km以上のクレーター。赤丸はコペルニクスクレーターと同時期に形成されたクレーター

本研究で形成年代を調べた直径20km以上のクレーター。赤丸はコペルニクスクレーターと同時期に形成されたクレーター

 

「しかし、それだけでは根拠が少し弱い。アポロ計画では、12号以外の探査機が月のさまざまな場所から月の砂を回収しています。それを分析すると、天体衝突で形成された8億年前と推定されるガラス玉(月に小惑星などがぶつかって飛び散ったり火山活動があったりして高温になった時に月の石が一瞬溶けて液体になり、それが固まってできたもの)が数多く見つかったという研究があります。コペルニクスクレーター以外の月の広域で、同時期に天体がぶつかった証拠が見つかっているわけで、これは、我々の研究結果と非常によく合っています」

 

クレーター年代学では、経過時間とクレーターの数密度には比例関係がある(クレーターが増える割合は一定)とされているが、寺田先生たちのチームは8億年前のある時期に集中的に降り注ぎ、その後は一定に戻ったという計算モデルに改良。それを使って計算し直したところ、59個のうち8個ではなく17個のクレーターが同時期にできたと推定できた。

 

これらのクレーター一つひとつについてぶつかった天体の大きさを計算し足し合わせてみると、総量2兆トンというすごい量が月に降り注いだと考えられるという。ここから地球に降った量を計算すると、恐竜を絶滅させた天体衝突の30~60倍にも匹敵する40~50兆トンとなる。当時の地球に与えた影響は相当なものだったことが推測できる。

 

ぶつかってきた小惑星は、8億年前という年代とその存在する場所から、小惑星族(類似の固有軌道要素を持つ小惑星の集団)の中でもオイラリア族だと推定されるという。「このオイラリア族は、最近注目されているのです。日本の宇宙探査機『はやぶさ2』が探査したリュウグウ、NASAのオシリスレックスが探査しているベンヌなど地球近傍小惑星の母天体候補と言われています。意外な形で、月のクレーターとリュウグウがつながりました」 

『はやぶさ2』リュウグウ到着のイラスト  (C)池下章裕

『はやぶさ2』リュウグウ到着のイラスト  (C)池下章裕

小惑星シャワーが生命の起源になった?!

この研究の面白いところは、さまざまな新しい研究のきっかけをはらんでいるところだ。その一つは、8億年前の小惑星シャワーで、地球に何が起こったのかである。

 

今のところ、隕石が落ちた証拠となるイリジウムの濃縮といった明確な証拠はない。しかし、スノーボールアースの直前に、海洋中のリンの濃度が4倍に急増し、生命の多様性を促した可能性を指摘する報告はあるという。小惑星シャワーで地球に降ったリンの総量は、現在の海のリンの10倍程度にもなる。「それで、生命活動が飛躍的に増えたという予想は成り立つ」という寺田先生。この観点で研究が進むかもしれない。

 

また、月が水を持ったのはいつからか、という問題解決の糸口になるかもしれない。近年の研究で月に水があることは確実視されており、最近は、水をいつから持っているのかに関心が移っているそうだ。「その原因が、この小惑星シャワーだったかもしれません。そんな考え方はこれまでなかったので、これを機に研究が発展してくれればうれしいです」

 

そして、月のクレーターとリュウグウの関係の解明である。2020年の冬に『はやぶさ2』がリュウグウからサンプルをもちかえるため、その年代測定により母天体の破砕年代が示されることが期待されている。もし、8億年前の衝突の証拠が見つかれば、月のクレーターとリュウグウなどの小惑星の関係がはっきりと示されるかもしれない。

海外のマスコミから取材が殺到

寺田先生の専門は、石の年代測定、とくに小さなものを測定する技術が世界的にも評価されている。アポロ計画で持ち帰られた月試料についても、分析し切れていなかった小さな月の砂を分析した。

 

月の砂の中には、大きさ0.1ミリ程度、髪の毛ほどのガラス玉がたくさん入っている。これを分析して、月に何かが衝突したり火山活動が起こったりした時期を特定する。

 

クレーターの専門家ではない寺田先生が、クレーターによる年代の割り出し方に新しい考えを導入できた秘密は、「直径93㎞などというクレーターを観測する非常にマクロな視点に、ミクロなものを分析する視点をかけ合わせたところに、新たな発見のきっかけが生まれた」(寺田先生)ことにありそうだ。

 

今回の研究についての反響は大きく、海外のマスコミからも取材が殺到したという。ニュースとして世界に報道されたことがうれしいと寺田先生は話す。

「月は最先端科学の入口として、一般の人でも興味があるところ。数千年の間、人々が見上げてきた月について、これまでわからなかったことを最初に見つけたと思うと興奮します。世界のどこかで誰かが、興味を持って月を見上げ、さらに科学の進展へとつながればと思います」

 

寺田先生はこれまでにも大きな反響を呼ぶ新発見をしている。『ネイチャー アストロノミー』に発表された、地球の酸素が月に届いているという研究成果もその一つだ。今年10月には、これを題材に科学絵本の出版を予定しているとか。

『ねえねえはかせ、かぐや姫はどうやって月に帰ったの? - 満月に吹く地球の風のおはなし 』大阪大学出版会・10月30日より発売予定

『ねえねえはかせ、かぐや姫はどうやって月に帰ったの? - 満月に吹く地球の風のおはなし 』大阪大学出版会・10月30日より発売予定

 

2018年発刊の『ねえねえはかせ、月のうさぎは何さいなの?』に続く2冊目で、先生自身が研究した最新の成果をかみくだいて子ども向けのお話に仕立てたという。

 

今回の『ネイチャー コミュニケーションズ』掲載の新発見をテーマに「3冊目も書きたい」と意欲まんまんだ。最先端の発見が絵本にもなってしまうところが月の不思議でありロマンであり、汲めども尽きない魅力ということだろう。寺田先生によれば、コペルニクスクレーターはデジカメでも写真が撮れるとのことなので、この秋はぜひ、8億年の昔を思ってパチっとやってみてください。

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祇園祭は疫病払いの祭りだった! 佛教大の八木透先生に聞く、1000年の昔に学ぶ疫病との闘い方。

2020年9月24日 / この研究がスゴい!, 大学の知をのぞく

新型コロナウイルス感染が広がってから、100年ほど前のスペイン風邪流行の際に人々がどのように対処したのかが話題にのぼることが多くなった。しかし、もっと昔から、疫病は何度も人々を恐怖に陥れてきたはずだ。日本人が疫病をどのように恐れ、闘ってきたのだろうか。民俗学者の佛教大学・八木透教授にお話をうかがった。

疫病治しに頼りになるのは医術より修行

平安時代、都では、とくに夏場になると多くの人が食中毒のような病気にかかり、ウイルス性の感染症も結構あったという。コレラは当時まだなかったが、赤痢らしき症状はすでに記録されていたらしい。また、この頃の都は、疫病が蔓延しやすい環境でもあった。「穢れ」の観念があって多くの人が遺体や牛馬の死体を放置したし、狭いエリアに人口が集中する町全体は「三密」状態。一度流行り出すとものすごい勢いで広がった。

 

宮中には漢方の知識を持ったおかかえ医師もいたが、こと疫病となると、陰陽師や修験者、巫女などを頼るのが常だったという。

 

「医術よりも、呪術的に悪いものをはねのけるという発想が強かったのだと思います。そんなに昔でもない昭和30~40年代の頃でもまだ、医師のいない町や離島などでは、イタコ、ミコなどと呼ばれる祈祷師が病気治しをしていました。現代でもとくに原因のわからない病気やメンタルに関わる病気などについては、頼りにする風習が残っています。また、厳しい修行をした修験者には、普通の人が扱えないような神さえ調伏できるという考え方も、一部の地域でいまだに根付いています」

雅な山鉾巡行が実は疫病退散が目的だった

しかし、現代の私たちにとって、もっとなじみのある疫病払いがあると八木先生は話す。

 

「祭りです。今、祭りには楽しいイメージがありますが、伝統の大きな祭りになればなるほど、何か大きな災厄がありそれを払うために行った行事がその始まりになっています。祇園祭は、疫病払いから始まった祭りの代表例です」

 

平安時代、疫病が流行した863年、朝廷はそれを疫神や、政争に敗れ討たれた死者たちの怨霊のせいだと考え、御所の庭である神泉苑で盛大な御霊会を行った。869年はもっと悪い年で、春には東北で大地震と津波、夏には都で再び疫病が広がるなど次々と災厄が襲った。そこで朝廷は、当時の日本全国の国の数である66本の矛をつくり、現在の八坂神社である祇園社の主祭神、牛頭天王(ごずてんのう)を祀った神輿を神泉苑へ送る、臨時の御霊会を行った。以降、御霊会が祇園社で行われることが定着し、祇園祭となったという。

 

祇園社から牛頭天王が神輿に乗って御旅所に渡御するという形式は、平安時代の後期には整えられたという。牛頭天王は、日本では瞬く間にすべてのものを滅ぼす恐ろしい神であると考えられていた。当時の朝廷の人々は、その最強の力で、疫病の原因となる悪霊を鎮めようとしたらしい。毒を以て毒を制す、神とは敬う対象であると同時に怖れる対象でもあるということがよくわかる。その後、祇園祭が庶民の手にゆだねられるようになるにつれ、疫病を引き起こす原因が、悪霊や怨霊から疫神や疫病神へと変化していったのだという。

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祇園祭の風景。お祭りと聞くと、楽しげで、おめでたい印象を持つが、起源はそうでもないらしい…

 

祇園祭といえば山鉾巡行を思い出す方も多いと思うが、これは、もっと時代が下ってから創造されたスペクタクルである。豪華絢爛に飾られた山鉾が、お囃子や踊りに彩られながら練り歩く雅で風流な姿。現在、日本中の祭りに登場する約1500にものぼる山鉾、山車、屋台などは、すべて祇園祭を起源とするそうだが、確かにその風格からは全国に伝播していくだけの荘厳なパワーのようなものが感じられる。

 

「しかし、山鉾巡行は祭りの中心ではありません。山鉾があんなに高いのは、疫神は空からくると考えられていたことから、金属の飾りでぴかぴか光らせ、きらびやかな飾りでひきつけるため。氏子圏を巡って町中をさまよう疫神を集めてまわる、いわばごみ収集車のようなものだと言えばいいでしょうか。祇園祭の最も重要な神事は、御旅所へ渡御した牛頭天王の力を借りて、集めた疫神たちの怒りを鎮め都の外に送り出すところなのです」

 

今年、神輿の渡御や山鉾巡行は中止されたが、神輿に代わる乗り物を用意して、神さまを御旅所へ渡し、各山鉾町から集められた悪霊たちを鎮圧する神事は実施された。祇園祭はその起源に沿えば、最も行われるべき今年、きちんと行われたのである。

「ステイホーム」は千年前からの常識だった

古代・中世の人々は、疫病を得体のしれない神のようなものが引き起こすと考えていたという。「病気だけではない、天変地異や土砂崩れ、落雷までもひっくるめ、目に見えない災厄の原因を『疫神』や『疫病神』と呼ぶようになりました。目に見えないものって怖いですからね。名前を付けることで実体化し、それによって敵として認めて対抗意識を燃やしたとも言えます」

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鎌倉時代の絵巻物『春日権現験記』には、疫病を患う人の家の屋根の上に、鬼のような姿をした疫神がのぞいているシーンが描かれている ※出典:国立国会図書館デジタルウェブサイト(画像は一部トリミングして使用)

 

テレビなどの報道の際に必ず出てきておなじみになった新型コロナウイルスの電子顕微鏡写真も、闘う気持ちを鼓舞するのに一役買っているのかもしれない。それに加えて、どのようなウイルスなのか、どのような症状を引き起こすのかをよく知ることで、やみくもに恐れる状態から脱することができるのは確かだろう。

 

敵から身を守るすべも持っていた。「祇園祭が始まった頃は、2、30年に一度は疫病が流行していました。994年に流行した時には、疫神が都大路を横行するといううわさが飛び交い、誰も家から出なかったといいます。ウイルスや細菌の存在を知らず接触感染や空気感染などの知識はなくても、現代の『ステイホーム』に通じる防御策をとっていたんです」

 

目に見えないものを怖れ、直感的に避けながら、一方ではただ恐れるばかりでなく名前を付けたり絵を描いたりしてキャラクター化し、イメージの力を喚起していく。昔の人の、見えないものの怖さを何とかして克服しようとする努力と知恵。1000年後の私たちに、まだまだ未知なところの多い見えない敵と向き合うヒントを教えてくれているようだ。

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電子顕微鏡で見た新型コロナウイルス。この画像を繰り返し取り上げることも、恐怖に打ち勝つための工夫だといえる ※出典:"Courtesy: National Institute of Allergy and Infectious Diseases."

【勉強会代替企画】人気講座が進化した研究者の世界観に肉薄する有料コンテンツ。京都大学「変人オンデマンド」

2020年7月3日 / ほとゼロからのお知らせ, トピック

とんど0円大学では、2019年から大学の魅力的な広報活動を紹介する大学関係者向け「勉強会」を行ってきました(第1回目はこちら、第2回目はこちら)。2020年度前期は、新型コロナウィルス蔓延により開催を断念した代わりに「大学のリアルを伝える、バーチャル体験」をテーマに4つの大学の取り組みをウェブ取材し、レポートにして紹介することにしました。今回はその最終回、京都大学の「変人オンデマンド」です。大学関係者のみならず、一般の方にも興味深い内容になっていますので、ぜひご一読ください。

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紹介する取り組み

変人オンデマンド

真面目な人と変人が共存しないと人類も社会も存続できないという危機感のもと、京都大学・酒井敏教授が2017年に立ち上げ、越前屋俵太さんの軽妙なナビゲートで人気を集めている公開講座「京大変人講座」。「変人オンデマンド」はこの公開講座をもとに、2020年4月に誕生した月額1000円の会員向けオンラインサービスになる。過去に変人講座に登壇した先生も含め、毎月ひとりの先生にフォーカスした4本程度の動画をアップしている。

◎変人オンデマンド https://kyodai-original.socialcast.jp/contents/category/henjin-ondemand

教えてくれる人

酒井敏さん

京都大学大学院 人間・環境学研究科教授。専門は地球流体力学。「京大変人講座」では自身も「カオスの闇の八百万の神 ―無計画という最適解」をテーマに登壇して学内外に大きな反響を呼んだ。京大の自由な学風を地でいく「もっとも京大らしい」先生のひとり。92年、日本海洋学会岡田賞受賞。

 

越前屋俵太さん

「京大変人講座」のディレクター兼ナビゲーター。芸能プロダクションに所属せず、最初から個人事務所を立ち上げ、企画・演出・制作もこなしていた芸能界の変人。現在は関西大学、和歌山大学、高知大学、京都芸術大学、京都外国語大学などで教鞭をとるほか、書道家「俵越山」など、活動は多岐にわたる。

 

川村健太さん

京大オリジナル株式会社 研修・講習事業部長。京大らしさ研究ライトユニットメンバー。研究成果の事業化を目的に設立した京都大学の100%子会社、京大オリジナルで、京大ならではの事業を生みだそうと奮闘中。

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地味な変人たちが普通に生きていける世の中に。

― まずは、「京大変人講座」をはじめた経緯からお聞かせください。

酒井 「京大変人講座」をはじめたのは、3年ほど前です。きっかけは、僕自身の問題意識でした。世の中全体に、みんな正しくないといけないとか、みんな分かり合わなければならないとか、みんな一致団結して一緒にやらなければいけないとかいう、何か息の詰まるような雰囲気を感じていました。しかし、京大というところは、昔からそういうのが全然ない。各々勝手にやっていて、そんでええやんという緩さやいい加減な雰囲気があり、世間的にまともなことを求めるよりは、変なことをやるやつが面白いという感覚もありました。

 

変なことというのは卒業式で仮装するような、……まぁそれも悪くはありませんが、そういうのばかりではないんです。何かに夢中になっていたり、よくわからんけど一生懸命やっているやつに対してはリスペクトし、世の中的に何の役に立とうとそんなことは知ったこっちゃなくて、そいつが面白かったらいいやん、幸せそうやん、というような感覚です。それはもちろんルールではないのですが、世間から離れた京大の中では「おもろいやん」というコンセンサスがある、ある種の文化のようなものです。以前はそれでよかったのですが、だんだんと情報網が発達して大学の中で何をやっているのかが外から見えるようになってくると、「そんないい加減なことをやっていていいのか」と許されないことも出てきました。

酒井先生2

京大の変人とは何かを語る、酒井先生

 

― 結果や効率を求められるという感じでしょうか。

酒井 いい加減な話をして、「そんなもんでええんちゃうか」「そやな」で済んでいたものが、済まなくなってきました。しかし、外から「それ、あかんやろ」と言われた時、自分たちを包んできた文化や常識のようなものの大切さをことさら意識したりできなかったのです。

 

― 異文化との出会いのような感じですね。

酒井 「あかん」と言われる理由はわかるので、「ごめん」と言うしかないとか。しかし、変なことをやっている人を認める、許容するのは実は大切なことです。いい加減なところを許容したり、変なことをやっちゃったり間違えてしまった結果として、役に立つ成果が生まれるということはいっぱいあります。

 

また、変といっても、ぶっ飛んだものだけが何かを変えていくのではありません。逆にとんでもないものがうまくいく確率はめちゃくちゃ低いです。そうではなく、ちょっとした地味な変を許していくと、そのうちとんでもない変につながることがあります。イノベーションというのは、そういうふうにして少しずつ進んでいくもの。世の中を変えるのは、むしろ、地味な変人たちなのです。

 

なのに、そういう人たちが普通に生きていくということが、今の時代、すごくやりにくくなっている。そこで、なぜ変なことやいい加減なことを許したりできることが重要なのかをちゃんと説明し、それでいいんだ、という感覚を世間の人たちと共有しない限り、世の中はダメになるし京大もダメになると考えました。こういうことって、幸か不幸か、京大が言うから一番伝わる可能性があるので、たまたまそこにいる僕ができなくて、他に誰ができるねんと。まあ、3年前にここまで考えが整理できていたかというと、そうでもなかったのですが(笑)。

 

越前屋 全然できてなかったですよ(笑)。最初、酒井先生にお話をうかがった時、僕、あまりにも意味がわからずに一度断りましたからね。今みたいな話を聞いていたら、即座に「やりましょう」と言ってます(笑)。

越前屋さん

京大変人講座の名物ナビゲーター、越前屋俵太さん

「わからんことも、しゃべりながらわかっていくんです」

― 京大変人講座がめざしているのは、京大の研究者が何に夢中になったり一生懸命になったりしているのか、その頭の中の面白さや「変さ」を一般の人にもわかってもらおう、ということなのですね。研究内容をわかりやすく伝える一般的な公開講座とは、スタンスがだいぶん違う気がします。越前屋さんに依頼されたのは、どうしてでしょうか。

 

酒井 何でも理屈できっちりやろうとする時代ですが、しかし、現実に仕事を回している人たちは大抵、理屈に収まらない世界が大事だと知っています。たとえば、ラーメンが売れるのに、「真面目にやりましたから食べてください」では通用しない。自分が「これ、ほんまにうまい」と思うものにこだわってつくると、常識から外れていても受けたりします。その辺のある種のコミュニケーションを成立させるのは、理屈でなく、動物的なプリミティブな部分のつながりです。俵太さんなら、そんな本能に従って動いている研究者の姿をうまく伝えられるのではと思いました。動物としゃべっていたり、昔のテレビ番組「モーレツ科学教室」で理屈を直観的に理解し表現している俵太さんを見ていたので、この人しかいないなと。

 

越前屋 「モーレツ科学教室」というのは科学を面白おかしく伝える関西テレビの深夜番組で、僕が初めて企画・プロデュースから編集までやった仕事です。マニアックなファンがいたんですけど、酒井先生をはじめ変人として酒井先生が呼んだ京大の先生たちの多くが見ていたのには驚きました。

 

酒井 僕らが論文に書くような成果を得るまでのプロセスは、「なんやこれ」というような発見とか、あっち行ったりこっち行ったり、すったもんだしたりするカオスの状態です。研究のモチベーションは、論文として理屈のきれいな世界をつくることでなく、むしろ、このカオスの時のワクワク感にあるんですが、そこをみなさんに共感していただけるような表現方法を僕らは持ち合わせていません。アウトプットといえば、カオスの部分を省いてきれいに整った論文、つまり理屈なわけですから。でも、この番組は、理屈じゃなく、その前のプロセスをイメージとしてそのまま表現し、しかもエンターテインメントにしているのがすごいと思っていました。

 

― 越前屋さんの起用が見事に当たり、講座は大ヒットしました。本を2冊も出版するなど、大成功を収めています。その理由はどこにあるのでしょうか。

※2019年4月に出した『京大変人講座』(三笠書房)は3万部を超すヒットを記録。2020年4月には第二弾『もっと!京大変人講座』も刊行した

 

越前屋 毎回、250~300人ぐらいの人が来場し、ほぼ満杯の状態。常連さんばかりでなく、いつも半分ぐらいは新しい人ですね。先生たちの難しい話をわかりやすくトランスレートしているので、面白いと思ってくれているんでしょう。

 

酒井 京大の中から見ると、当たり前だと思っていることが通用しなくなってきて、ガチガチになってきている。しかしそれをあまり口にすることもはばかられる雰囲気が出てきているところに僕がストレートに言っちゃったんで、びっくりした人もいると思います。でも、賛同してくれる人も結構います。また、学生には特に来てもらいたかったので、いろいろ悩んだというのはありますね。

 

越前屋 酒井先生が一番心配されていたのは、学生から変人ぶりが失われることでした。間違ってもいいからやりたいことをやればいい、ということをわかってほしかった。でも、最初、学生はあまり来ませんでしたね。ある学生から「変人講座のことはみんな知っています。でも、大学当局が『変人講座』をやるって言って、誰が行くんですか」と言われました。「そうではなくて、一人の先生が勝手に始めたんだよ!」というと、ビックリして、「それは面白い!行きます!」ってなった。京大の学生はさすがに見どころがあると思いましたね。大学当局の言う変人なんか面白くないだろうというわけです。

 

酒井 オフィシャルにはしたくないが、アピールしなきゃいけない。そのころから、学内のビラやポスターへの規制も厳しくなってきて勝手に貼れない。多くの人に知ってもらい継続していくためには、なんとなくオフィシャルな感じを出して大学側に正面から反対されないようにする必要もあると考え、最初に山極壽一総長を呼びました。ポスターに総長の顔を一つ入れておけば、簡単にははがされない(笑)。

 

越前屋 ただ、総長ご自身が変人講座を気に入ってしまって、結局オフィシャルで動くことになりました。

 

― 越前屋さんは、京大変人の世界に連れていくナビゲーターなわけですが、どんな思いで取り組んでおられるのでしょうか。

越前屋 酒井先生は、今話に出ている京大の「おもろいやん」を伝えられる変人を、紹介する順番も含めて一生懸命考えられています。だからこそ、酒井先生が表現したいことが、僕がきちんとトランスレートできているのかどうか、一番気になりますね。登壇される先生によって伝えたいことが違うので、同じやり方はできません。台本はありませんが、酒井先生も合わせて3人で事前にお会いし、この先生はこういう人で伝えたいことはこういうことだと理解して臨んでいます。

 

とはいえ、そんなに簡単ではありません。初めは僕も意地があったので、先生がおっしゃっていることを全部理解しようとしていたのですが、やはり苦しい。ライブでみんなが理解できなくなると、どうしても空気が重くなり、「ここをキチンとトランスレートしないとあかんのちゃうか」と焦る時もありました。ある時、先生が話されていることが、あまりにも難解でわからなかったので、思わず「これ、意味わかりませんよね」と客席に聞いたら、全員「わからへん」と言うので、先生に「先生はもちろんわかってますよね?」とふったら「僕もわからへん!」もう大爆笑です。「わからんことしゃべったらあきませんやん」って突っ込んだら「いや、こういうことは、しゃべりながら自分もわかっていくんです」って。「あっ、なるほど!これが京大なんかなあ」と思いました。そういうこともあって今は、7割方は何とかトランスレートするようにしますが、残り3割は、あえてほったらかしています。

第9回京大変人講座「仁義なきアリ社会の掟」

ほとぜろでレポートした、第9回京大変人講座「仁義なきアリ社会の掟」のワンシーン。ライブ感あふれる講座に、思わず引き込まれる(レポートはこちら

こういうコンテンツでお金がとれないとまずい。

― それではようやく本題、京大変人講座から立ち上がった「変人オンデマンド」についてです。その経緯や狙いについて教えてください。

越前屋 京大オリジナルという、京大のコンテンツを正しく広めるための会社があります。変人講座をオフィシャルにする機会に、うまく世の中に知ってもらう工夫をしてもらおうと助けを借りることになりました。この会社の川村さんは、もともと個人的に変人講座を応援してくれていた人です。

 

川村 変人講座に通いながら何か一緒にしたいな、と思いながらも、安易にこれを外に出していいのかというのも自分なりに考えていました。京大オリジナルは、京大のコンテンツを収益化するのがミッション。産学連携もその大きなファクターですが、産学連携自体で京大らしさを出すというのは、簡単なことではないんです。研究成果のみに焦点を当てると、京大ではなく他大学でも良いということになってしまう可能性もあります。そこに、酒井先生が京大の良さ、変人っぽさを明確にされた変人講座のようなコンテンツこそ外に出して世の中に広めることで、産学連携につながっていくような、京大らしさををアピールすることができると考えました。

 

越前屋 変人講座には、「出前講座をしてくれ」という依頼がよくあったんですよ。上場企業をはじめいろいろな企業に行きました。また、京大で開かれる講座にわざわざ九州や北海道から夜行バスに乗ってくる人たちもいます。もちろん、来たくても来れない人もいます。本が出たのを皮切りに「全国の人に変人講座を届けたいよね」となっていたのが、今回のオンデマンドにつながっているのかなと。

変人オンデマンド2

変人オンデマンドのトップページ。猿、猿人、なぜか人は逆立ちする……。奇想天外なロゴがこのコンテンツらしい

 

― では、新型コロナウィルス感染拡大とは直接関係ないのですか。

川村 もともと、3、4月頃からやろうという計画でしたので、たまたま時期が重なったのです。

 

― 収益化を図ったこと、また「京大変人講座」とは違う「変人オンデマンド」というネーミングになったことには、どのような意図があるのでしょうか。

川村 収益がつくというのは、世の中に認められてニーズが増えるということ。儲けようありきではなく、良さをちゃんと伝えることで自然に収益がついてくるし、京大に興味を持つきっかけにできるのではないかと考えました。収益化については、単なる利益追求ではなく、上げた収益をもとに更にコンテンツ開発をして京大変人講座を更に広めていったり、先生方の研究費用に還元したりすることをめざしています。

 

 

変人講座自体は、無料ではじめたものですから、途中で有料化するのはおかしな話です。また変人講座は京大でしか見られませんので、それとは違う、全国どこでも見られる新たなコンテンツとして開発していくことにしました。

 

総長は変人講座に対して、研究のみでなく研究者の持っている世界観が出ているのが面白いとおっしゃっています。実は学生でもなかなかそこに触れられる機会は多くないんです。酒井先生がおっしゃったように、論文の完成形でなくプロセスで失敗しているさまとか、その中でよくわからないことを考えている世界観などは、なかなか授業だけでは伝えられないのです。

 

それがオンデマンドならやりやすい。会場でライブでやらなきゃならない変人講座と違って、先生の研究室に入っていったりとかもできますしね。先日から、土佐尚子先生の動画を公開しているのですが、テレビを入れたことのない秘密のラボが出てきました。普段は入れないところを外部に発信できるので、より先生の世界観を出すことができます。過去に変人講座に登壇していただいた先生についても、変人オンデマンドでまだまだ掘り下げて紹介できるのではないかと思っています。

川村さん2

川村さんは、変人オンデマンドの魅力を説明してくれた

 

― より人間をクローズアップしたコンテンツが見られるから、「変人オンデマンド」なのですね。動画のディレクションは越前屋さんが担当されているのですか。

越前屋 はい。構成もやっています。やりながらいろいろと工夫しています。酒井先生の回ではただ座って話を聞くだけではなく、僕がカメラを持って酒井先生の普段を追ったんです。そうすると、先生が庭師に見えたりDIYおじさんに見えたりして面白かった。あまり事前に演出をせずに、成り行きに身を委ねながら、その時の最大の面白い表現を追求しながら先生が言わんとしていることを伝えていきたいと思っています。

 

―「変人オンデマンド」の未来について、何かお考えはありますか。

越前屋 お金を払ってもいいと思わせる、価値ある情報であるようにしていかないと、という思いですね。個人的な夢として、世界変人会議とか開きたいです。イグノーベル賞のように、京大で生まれた変人講座が成長し、京大という枠を飛び越えて、世界変人学会みたいになったらうれしいです。変人は世界中にいるはずですから、そういう人を一堂に集めてやりたいです。

 

もう一つは、学生の育成です。変人講座を手伝ってくれる学生が何人かいるのですが、その中に、「すごかったですね、今日の俵太さんのあの回しは」と話しかけてきた子がいました。てっきり先生が凄い!って話かと思ったので、これには驚きました。「MCのことわかるんか」と聞いたら「僕はああいうことがしたいんです」と言うんですね。このようなファシリテーター、コミュニケーターになれる学生を育てていかないとだめかなと思いました。

 

川村 確かに、俵太さんのようなナビゲーター、トランスレーターが必要です。それはやっていきたいですね。

 

酒井 さっきのお金を取るのはなぜか、という話でいけば、僕は、大学は本来、こういうコンテンツでお金が取れないとまずいのではないかと思っています。今、非常に体系化された正しい情報というのは、ほとんどただでもらえます。たとえば、ウィキペディアですね。教科書を買う金さえあれば授業料を払って大学に来なくても勉強ができるのに、なぜ大学に来ないといけないかということです。

 

新型コロナウィルスの感染対策でオンライン授業になってしまって、思った以上にオンライン授業ができてそれなりに満足している部分があるのですが、学生に「これでいい」と言われたら大学は困ります。これはテイクアウトメニューにすぎず、本当は、ワインを飲みながら店の雰囲気も含めていい時間を過ごすための料理だったはず。だいぶ前から大学には、お金を払わなくてももらえるものを、かっこつけて売っていた部分があったのですが、それがコロナであからさまになりました。そうなったときに何を売るのか、何のために大学に来るかというと、正しい知識ではなくて、まさに、何が面白くてこんなことやっているのかというような部分です。変人講座の価値はそこで、高めていきたいと思います。ただ、その魅力は100%伝えてしまってはあかん。ちょろっと出して、やっぱり大学に来たいわ、と思わせたいです。

 

―「変人オンデマンド」は、現在、無料コンテンツを公開中とうかがいました。どのような中身なのか少し教えてください。

越前屋 山極先生に総長としてではなく、ゴリラの研究者である総長が登場します。自分でもおっしゃってましたが、「ゴリラの社会と人間の社会を行ったり来たりする男」の全貌をお見せしています。

 

川村 普段は、京都大学の総長として登壇される機会が多いのですが、今回は総長としてではなく、普段余り見ることができない研究者としての山極先生としてのパーソナリティが一瞬垣間見られる動画になっています。

 

越前屋 ゴリラの話をしているときの山極先生は、うれしそうです。収録の終わりに「今日は楽しかった」とおっしゃってくれたのが印象的でした。

 

酒井 総長は基本的に無観客試合は嫌いです。コミュニケーションやその場で伝わるものに、非常にこだわっているところがある。オンラインで、ただ一方的にしゃべるのは嫌だというのが基本的なスタンスだと思うのですが、たぶん、俵太さんと話しながら伝えるのが面白かったのでしょう。

 

川村 「学者の世界観は、自分だけでは出せないんだよ」とおっしゃってました。面白い内容ですので、ぜひご覧になってください。

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