ほとんど0円大学 おとなも大学を使っっちゃおう

【第11回】ほとゼロ主催・大学広報勉強会レポート。卒業生との“よい関係”をどうつくる?

2025年9月16日 / ほとゼロからのお知らせ, トピック

ほとんど0円大学では、大学関係者を対象とした勉強会を定期的に開催しています(過去の勉強会レポートはこちら)。今回のテーマは「卒業生とのコミュニケーション その意義と方法を考える」。大学の価値を社会に発信してゆくという広報の視点に立つと、卒業生は最も身近な“社会”とも言える存在。一方、卒業生にとっても、大学はそれぞれに思い入れのある場所のはず。両者にとって“よい関係”をどう考え、つくっていけばよいのでしょうか。

 

今回は、関西学院大学、外語会NEXT(東京外国語大学の若手同窓会組織)、東京大学から登壇者をお招きし、大学と卒業生との関係づくりについて伺いました。

卒業生の「言葉と生き方」を通して大学の価値を発信する

最初に登壇いただいたのは、関西学院 広報部企画広報課の中谷良規さんです。関西学院では、ブランディング施策の一環として「Mastery for Service」というサイトを2024年に開設。学院内で培ってきた価値観を社会に発信するにあたって、卒業生という存在に着目したとのこと。その経緯や、施策によって生まれたつながりについて発表いただきました。

 

キリスト教主義に基づく教育を掲げる関西学院には、100年以上にわたって受け継がれてきたスクールモットーがあります。それが「Mastery for Service(奉仕のための練達)」、隣人や社会、世界に貢献するために自らを鍛えるという学院の精神を表したもので、現在も関西学院の学生たちに親しまれています。

 

2022年度に学院のブランディング事業を立ち上げることになり、議論を重ねる中で、唯一無二の価値であるMastery for Serviceをコアバリューに据えることになったと中谷さんは振り返ります。

 

「卒業生なら誰でも知っている・言えるようなスクールモットーがあることは、他大学にはない本学の強みです。しかし、本来は内向きの言葉ですから、そのまま本学のブランド価値として社会一般に認知してもらうのは難しい。そこで、すでに社会に出てMastery for Serviceの精神を実践している卒業生の言葉や生き方を通してこの価値を伝えていくこと、さらには、そんな卒業生と学院との継続的なつながりをつくっていくことが、そのままブランディングになるのではないか、ということになったのです」

関西学院の中谷良規さん

 

こうした考えのもと、ブランドサイト「Mastery for Service」が立ち上げられることになりました。

 

まず、卒業生たちがどんな場所で活躍しているのか、情報を集めて整理します。このプラットフォーム自体が大学にとって大きな資産です。次に、活躍する卒業生にコンタクトを取り、インタビュー記事などのコンテンツを作成・発信してゆきます。このサイクルを続けながら卒業生や在学生、その保護者の間でサイトを認知してもらい、そこから「じわじわ染み出すように」段階を踏んで社会一般に関西学院の価値=Mastery for Serviceの精神を伝えてゆくという長期計画です。

 

「サイトのグランドデザインをつくる上で、スクールモットーをどう表現するかを議論したのですが、結論としては、卒業生のありのままの姿を届け、その解釈は読者に委ねようということに。あくまで卒業生が主人公で、それぞれの『言葉と生き方』のリアリティが鍵になるよう、シンプルで透明感のあるデザインに落ち着きました」

ブランドサイト「Mastery for Service」を通して、卒業生たちの言葉と生き方を集約・発信している

 

サイトのメインコンテンツは、卒業生に「私にとってのMastery for Service」を短い言葉で表現してもらう「Message」と、一人ひとりの活動にせまる「Interview」の2つ。記事にコメントを寄せられる機能も実装しました。コンテンツを更新するとたくさんの反響があり、取材を受けた卒業生自身から感謝の声が届くこともあるそう。サイトやプロモーション活動を通して卒業生同士の間で共感が生まれ、大学とのつながりを再認識するきっかけとしても機能しているようです。

 

記事の公開後も卒業生とのやりとりは続き、それが双方向の「良い関係」を生み出していると中谷さん。最後は、「卒業生の言葉や生き方は、訴える力が本当に強いと感じています。スクールモットーをコアバリューに据え、卒業生の力を借りているからこそ、ブランド価値を創造できていると感じています」と締めくくりました。

「つながりたい」という同窓生の気持ちに応える、新しい同窓会のかたち

続いて登壇いただいたのは、東京外国語大学の若手同窓会組織「外語会NEXT」会長の関谷昴さん。同窓生の視点から、継続的なコミュニティづくりについてお話しいただきました。

 

「休学して世界中の東京外大同窓生を訪ねる旅に出かけ、各地の同窓会支部のネットワークを活用して約130人の同窓生にお話を聞くことができました。ですが、その旅に出かける前は、私自身、同窓会組織が何をやっていて、どんな人が所属しているのかも全然知らなかったんです。せっかくのネットワークをもっと誰でも活用できるものにしたいという思いがありました」

外語会NEXT 会長の関谷昴さん

 

大学の同窓会といえば、定期的に届く会報やメルマガがあり、集まるのは数年に一度というイメージがありますが、それだけでは同窓会組織に入っている意味をあまり感じられない人が多いのではないか、と関谷さん。そこで、同窓会組織「東京外語会」の中の若手有志グループ「外語会NEXT」会長として、同窓生が継続的に関わり続けることができるさまざまな場づくりに取り組んできたそうです。同窓生同士だからこその安心感やネットワークを活かした場づくりは、SNSからリアルイベントまで多岐にわたります。

 

コミュニケーションの土台となるのは、20~40代の同窓生が多く参加するFacebookグループ「TUFSコミュニティ」。イベントのお知らせから仕事の紹介まで、情報が活発に飛び交います。さらに、日常的にオフラインで集える場所として、月に一回、銀座のソーシャルバーを貸し切って同窓生が月替りバーテンダーを務める「外語Bar」を開催。毎回違う人がバーテンダーを務めるとあって、訪れる人は毎回7割程度が新規なのだそう。盛況ぶりがうかがえます。

 

年に一度の「TUFES(タフフェス)」は、ダンスにトーク、フードにアート展示まですべて東京外大の同窓生が手掛けるフェスイベント。子ども連れでも参加できるのが特徴です。新型コロナウイルス流行期にはオンラインで、今年はオンライン・オフライン両方で開催したとのこと。

TUFESの様子。さまざまな同窓生たちが得意なことを持ち寄り、誰もが楽しめる場になっている

 

全体で見ると、SNSでの日常的なつながりと一ヶ月、一年ごとのイベントでリズムを作り、さらにオンラインのつながりによって地方や海外在住の同窓生も参加しやすいように工夫しているとのこと。そうしてできたネットワークを活かして、同窓生それぞれがつながり、さらに活動を広げてゆくことが最終的な目標だといいます。

 

同窓生をどう巻き込んでゆくかという課題に対して、関谷さんは以下のように話してくれました。

 

「一つ目は、接点と受け皿をどう作ってゆくか。同窓生や大学とつながりを持ちたいと思っている同窓生は多いですが、従来の同窓会では接点がほとんど無いか、あっても一過性になりがちでした。外語会NEXTでは、外語Barをはじめいろいろな接点を用意して、そのあとの受け皿、活躍の場を作ることで、継続的に関われるようにしています。

 

もう一つは、コミュニティを耕すという視点です。どういう同窓生がいて、どんな関係性を作っていくか。その活動自体にゴールを設定するのではなく、何か次の方向性が決まったときに一緒に動けるように、良い関係性の素地を作っておくことが大切だと思っています」

 

今後は同窓生専用サイトなど、オンライン上の新しい場づくりを強化していくとのこと。楽しいことがどんどん起こりそうな、若々しいパッションを感じる発表でした。

ファンドレイジングのはじまりは、「卒業生に大学の今を知ってもらうこと」

最後の登壇者は、東京大学ディべロップメントオフィス 卒業生ユニット長の堺 飛鳥さん。大学のファンドレイジング(資金調達・支援者獲得)の観点から、卒業生に大学の今を知ってもらい、寄付につなげる活動についてお話しいただきました。

 

まずは近年の国立大学をめぐる環境の大きな変化について。2004年の国立大学法人化以降、国からの運営費交付金は徐々に削減されており、大学の自立運営が求められるようになってきました。一方で、教育プログラムの充実や研究力強化といったニーズの高まりや物価高騰、設備の老朽化に対応するため、必要な運営費は上昇。産学連携や科研費などの外部資金獲得に加えて、寄付金の重要性が高まっています。

 

そこで、堺さんが所属する卒業生ユニットでは、卒業生からの寄付や支援を拡大するため、卒業生に向けたさまざまな施策を実施しているそうです。

東京大学の堺 飛鳥さん

 

その入り口となるのが、「卒業生に大学の今を知ってもらうこと」だと堺さんは言います。発信媒体はSNSやメルマガ、広報誌などをフル活用。卒業生がキャンパスを訪問する際の案内「卒業生の東京大学ガイドブック」の作成や各種の講演会、卒業生が関わる酒蔵を集めた「利き酒の会」など、もう一度大学に足を運んでもらうための取り組みに力を入れているそうです。

 

さらに、そうした取り組みから一歩踏み込んで、寄付への導線を作ることも大切です。大学から同窓会の集まりに出向き、大学の現状を話して寄付を募ったり、クレジットカード端末を持参してその場で入金してもらったりすることもあるそう。また、卒業生に寄付の呼びかけ人になってもらい、多くの寄付を集めた人を表彰する「チアドネ」制度も導入。数々の地道な取り組みによって、寄付実績は順調に伸びてきているそうです。

寄付先となるプロジェクトは細分化されていて、卒業生それぞれが思いを寄せる用途に寄付することができる

 

「金額の多寡に目が行ってしまうところではあるのですが、私たちはむしろ、多様な方々がそれぞれの思いやきっかけで寄付されているというそれぞれのストーリーも大切にしたいと思っています。もちろん、直接寄付だけでなく、イベントを一緒に盛り上げていただいたり、学生スポーツを観に来てくださったりすることもとてもありがたいです。まずは大学に足を運んでいただいて、もう一度大学を知っていただく。知っていただくことが母校への愛着につながり、支援にもつながるんだという思いで活動しています」

 

東京大学の寄付サイトでは、卒業生を中心とした寄付者へのインタビュー記事や寄付者からのメッセージも公開されているとのこと。覗いてみると、東京大学の教育・研究への期待や、先輩から後輩への「恩送り」など、寄付に込められたさまざまな思いが伝わってきました。

 

以上で前半な発表は終了。それぞれ立場や取り組みは異なるものの、いずれも人と人の有機的なつながりをいかに作り、広げていくかを大切にされている様子を垣間見ることができました。

継続的なつながり、若手の取り込み……さらに良い関係づくりに必要なのは?

休憩を挟んで後半は座談会です。参加者から寄せられた質問に、中谷さん、関谷さん、堺さんそれぞれの視点から答えていただきました。

 

最初の質問は「卒業生との関係を一過性ではなく継続的なものにしていくには?」。中谷さんは、サイトに設置したコメント機能が役割を果たしていると回答しました。「メッセージやインタビューといったコンテンツは一方向的な発信ですが、コメント機能を通して双方向のコミュニケーションが成立しています。どんなコメントがあったか大学から卒業生に伝えることが会話の機会にもなっていて、結果的には二度美味しい、三度美味しい仕組みになりました」。

 

外語会NEXTの関谷さんは「年齢層によってニーズが違うので、それぞれに合わせた施策が必要。自分も35歳になったら外語会NEXTは下の世代に譲って、ミドル世代向けの活動を始めようかなと思っています」と回答。東京大学の堺さんも同意して、「(同窓会組織を)停滞させないために、運営的な立場の人の世代交代を大学側から後押しする必要は感じています。中の人はなかなか言い出せないでしょうから」とざっくばらんに話してくれました。

 

そんな流れで、次は「若い世代の卒業生をどう巻き込んでいくか」という話題に。中谷さんによると、大学や同窓会で連絡先を把握できている卒業生は年齢層が高めの方が多いとのこと。一方、SNSなどで横のつながりをもっている若手世代を取り込むことは、ネットワークを広げていくのには欠かせないと言います。堺さんも同様の視点で、若手のキーパーソンを開拓してその人をハブにイベントを展開する、サポーターのような形で大学に関わってくれる人を募集するなどの具体的な施策の案を挙げました。

 

まさにそんな若手キーパーソンである関谷さんは、自身の活動を振り返って「真っ先に効果や意義を求めるのではなく、一緒に楽しいことをやるというエンタメ的な要素が大切」だと言います。関わる人それぞれにとっての「楽しさ」を用意しつつ、その裏でちゃんと意義を説明できるようにしておくことも必要だ、と同窓生と運営の両方の視点で話してくれました。

和やかな雰囲気で進行した座談会の様子

 

そのほかにもさまざまな質問が飛び交い、活発に意見が交わされた勉強会でした。大学や同窓生と関わりたい、けれど機会がない……そんな卒業生の思いの受け皿となるようなコミュニケーションをデザインすることは、「学内」でも漠然とした「社会」でもない、人と人とのつながりという視点から大学の価値を捉え直すことにもつながりそうです。

 

世界の大学! 第15回:テルアビブ大学への留学生活で体験したイスラエルの社会。多様な人々が暮らす世界で分断を乗り越えるには?

2025年8月26日 / 海外大学レポート, コラム

私たちは、自分とは異なる場所や立場にいる人々のことをどれだけ想像できるでしょうか。ニュースでは日々さまざまな情報が流れてきますが、大きな出来事の背後にあるはずの市井の人々の生活や声に触れる機会はなかなかありません。

 

今まさに不安定な中東情勢の中心にあり、パレスチナへの占領・虐殺に国際的な非難が集まるイスラエルにも、多様な人々が暮らしています。そんなイスラエル・テルアビブ大学への留学経験をもち、イスラエル-パレスチナ問題に関心を寄せて発信を続けているのが、北村健祐さんです。今回は北村さんに、留学生活を通して知った社会の状況、国や宗教だけではくくれない多様な人々との交流について伺いました。

 

イスラエル国内はもちろん、重大な人道的危機に置かれているパレスチナや、その他さまざまな状況下を生きる人々へ想像を巡らせるためのひとつの視点としてお読みいただけると幸いです。

 

編集部より:

イスラエル-パレスチナ問題の歴史や2023年10月7日以降のイスラエル軍によるガザへの攻撃、西岸地区への入植問題については、以下の記事でも触れています。ぜひ併せてご一読ください。

抵抗、葛藤、そして誇りをビートに乗せて。パレスチナ・ラップについて慶應義塾大学の山本薫先生に教えてもらった。(2024/8/20公開)

また、各地の現在の状況については、各メディアの最新情報など多様な情報源を参照されることをおすすめします。

ユダヤ系、アラブ系、そして各地からの留学生が通う大学

北村さんは、2022年からテルアビブ大学に留学されたそうですね。どんな経緯でテルアビブ大学を選んだのでしょうか。

 

「2019年に高校を卒業後、一度はマレーシアの大学に進学したんですが、新型コロナウイルスの影響で思っていたよりも現地に滞在することができなくて。帰国して休学期間中に見つけたのが、イスラエルのテルアビブ大学でした。当時の僕は、イスラエルや中東の政治・情勢についてそんなに知識があったわけでもありませんでした。テルアビブ大学には留学生向けのリベラルアーツプログラムという多分野をまたいで勉強できるコースがあって、主専攻、副専攻、サブ教科を選択して履修することができるので、行きたい学部を決めかねていた僕に合っているんじゃないかと思ったんです。入学したのが2022年2月で、2023年8月から半年間の休学を挟み、2024年の2月からもう一度渡航し、現在はまた休学中で日本に戻ってきています」

お話を伺った北村健祐さん。写真はエルサレムにある岩のドームにて

 

テルアビブ大学は、イスラエルの中ではどんな位置づけの大学なんですか?

 

「イスラエルの経済的な首都、テルアビブにある公立大学で、僕の印象としては、日本でいう東京大学のような位置づけですね。一方、政治や信仰上の中心地であるエルサレム(※)にはヘブライ大学という大学があって、こちらが京都大学っぽいかなと。生徒数は3万人以上で、僕が通っていたプログラムでは2000人くらいの留学生を受け入れていました。

 

留学生の大部分は、世界各地から集まったユダヤ系の人々です。北米、南米、欧州、オーストラリア、アフリカと各大陸から人が集まっていて、いろんな国の話を聞くことができたのが印象深いです。非ユダヤ系の留学生は少数派で、僕も含めてアジア系が多かったですね。なぜそんなに世界各地から留学生が集まるかというと、コロンビア大学とデュアルディグリープログラム(2つの大学に在籍し、カリキュラムを履修・修了することで、両大学から学位を取得できる)を結んでいるからというのが大きな理由のようです。

 

留学ではなく現地の学生として、ユダヤ系はもちろんですが、アラブ系(パレスチナ系)の学生もたくさん通っているのがテルアビブ大学の特徴です。あと、男女比でいうと、僕の周囲であれば、女子学生が若干多いぐらいでしょうか」

(※エルサレムはユダヤ教、イスラム教、キリスト教の聖地。1967年にイスラエルが全土を占領し、首都と宣言しているが、国際的には認められていない。現在も東エルサレムはパレスチナ人の居住地だが、イスラエルによる入植が進められていることが問題となっている)

 

いろいろなルーツや信仰をもつ人がいるんですね。

 

「イスラエルはユダヤ人国家と言われるとおり、ユダヤ系の人が多いのですが、人口の25%ほどはアラブ系が占めています。そのアラブ系の人々は、国の政策の上でも、実社会でも、さまざまな抑圧を受けやすい立場にあります。もちろん、テルアビブ大学も公立機関なので、イスラエル政府のもとで積極的に差別や占領・虐殺に加担してしまっている面があるのは確かです……。その一方で、国内では比較的リベラルな大学とも言われているのは、さまざまな思想や信仰、ルーツをもった人たちが実際に大学という場を作っていて、学問の自由を守っていこうという風土があるからではないか、と僕は感じています」

テルアビブ大学、キャンパス。「緑色をしたオウムの群れに毎日出会います」と北村さん

 

大学の自治、学問の自由の重みについて考えられます。そんなテルアビブ大学で、北村さんはどんなことを勉強されていたんですか?

 

「主専攻は哲学で、ギリシャから始まる西洋哲学を幅広く学んでいました。副専攻は中東研究で、アラブ諸国の歴史やアラブの春(2010年代に起こったアラブ諸国の民主化運動)、宗教と政治の関係などを学びました。それに加えて、心理学とユダヤ・イスラエル研究も履修していました。ユダヤ・イスラエル研究の授業では、やっぱり視点がイスラエル側に偏っているなと思うことはありました。けれど逆に、ユダヤ系の先生が中立的な立場でイスラエルの社会構造を教えてくれる授業もあって、そこでパレスチナ系マイノリティの人々について学ぶことができたのは良かったなと思います。

 

僕は最終的に選びませんでしたが、留学コースではその他、文学、ライフサイエンス、デジタルカルチャー・アンド・コミュニケーション、アントレプレナーシップ・アンド・イノベーションといった専攻があって、理系から人文・社会科学系まで幅広く学べるようになっていました」

宗教、ミサイル、日本とは異なる環境で暮らす

日本とは異なる点として宗教があると思います。ユダヤ教やイスラム教といった宗教は、大学の中でどのように扱われているのでしょうか。

 

「大学全体としては、ユダヤ教の祝日が休講になるなどユダヤ・フレンドリーな制度設計になっているのですが、学生や教職員の間ではそれぞれの文化を尊重する雰囲気がありました。イスラム教だと、ラマダン(断食月)が明けたときにキャンパス内でも盛大にお祝いをしますし、ユダヤ教ではハヌカという油と火のお祭りがあって、その象徴であるドーナツが無料で配られたりします。僕自身はユダヤ教徒でもイスラム教徒でもありませんが、どちらのお祭りにも参加していました。

 

街に出るとキリスト教徒の方もいて、韓国系のプロテスタントの方がご自宅で開かれている教会に特にお世話になりました。ご飯を食べさせてもらったり、体調を崩して心細いときに泊めてもらったり……。イスラエルは物価がものすごく高くて、日本の学食のように安く食べられる場所もなかったので、宗派を問わずそういう方々にとても助けられました」

 

そのように聞くと、心温まりますね……。

ユダヤ教の祝日・ハヌカのときに、キャンパスで配られた無料のドーナツ

 

「ただやっぱり、僕自身が非ユダヤ系というマイノリティだったので、いろいろな場面で疎外感は感じました。とても残念ですが、キャンパス内でもアラブ系・パレスチナ系の人に対する偏見もありますね。僕の友達にヒジャブをつけたアラブ系女性がいるんですが、学生なのに清掃員さんと間違えられることがありました。宗教やジェンダーと職業、社会階層みたいなものが、人々の意識の中でなんとなく結びつけられているんです……。

 

そして、当然ながら治安の面ではとても不安定です。ミサイルが飛んできたり、身近な場所でテロが起こったりすることもしばしばありました。イランからのミサイル攻撃は事前に通告があって、ニュースで『今夜はシェルターで過ごしてください』と注意喚起があるんです。ミサイルだけでなく、『殺人ドローン』なんて聞いたこともないような言葉がニュースで流れてきたり……。建物や家屋にはシェルターの設置が義務付けられていて、寮の地下シェルターで過ごしたりもしました。だけど、いつの間にか感覚が麻痺して、普通の日常として受け入れていましたね」

 

感覚が麻痺してしまうというのはとても恐ろしいことですね……。一方で、日本に住んでいても、イスラエル軍によるガザ地区の人々への虐殺行為や、封鎖によって引き起こされている飢餓に関する報道が毎日のように流れてきます。こんな状況は一日も早く終わってほしい、と改めて思います。

 
パレスチナ、ヨルダン川西岸地区にて。小さな展示会で見かけたガザ出身のアーティストの作品

パレスチナ、ヨルダン川西岸地区にて。小さな展示会で見かけたガザ出身のアーティストの作品

「イスラエルにいる意味」が変化していった

イスラエルや中東に関する知識をあまり持たずに渡航されたということでしたが、大学生活の中で変化していったことは?

 

「留学生活のなかで『イスラエルにいることの意味』が大きく変わっていったと思います。最初はイスラエルに対して農業や科学技術が発達した国というポジティブなイメージしかなかったけれど、留学を通していろいろな暗い面も見えてきて……。僕がちょうど日本に一時帰国していた2023年の10月7日にハマスの越境攻撃があって、それに続いてイスラエル軍のガザ地区への侵攻が報じられるようになりました。イスラエルによるパレスチナ占領政策の問題について自分から勉強するようになったのはそれからです。今も勉強中で、まだまだ偉そうに話せる立場ではないのですが……。

 

近年のイスラエル国内では、独裁政権に対する批判の声がとても高まっています。日本とは真逆で政治の話をすることをためらわない空気があるので、世界のあちこちから来た友達といろいろなことを話しましたし、独裁政権に反対するデモや、パレスチナへの占領・虐殺に反対するデモにも参加しました。そうした活動に対する政府の締め付けも強くて、逮捕者が出ることもあります。

 

学生団体が企画している現地訪問に参加して、ヨルダン川西岸地区や東エルサレムに住んでいるパレスチナの人々にもできる限り会いに行きました。東エルサレムで書店を営んでおられるパレスチナ人の方にお話を伺ったんですが、その方も留学を経験されていて、パレスチナが国際的に独立国と認められていないため出国の際の書類の手続きがものすごく大変だったと聞き、自分がいかに特権的な立場にいるのかを痛感しました……」

イスラエル、テルアビブの街頭にて。ネタニヤフ首相の写真の下に書かれているのは「!סכנה=danger!」

イスラエル、ナザレ。共産主義系のコミュニティが開催する反戦デモで「Stop the Genocide = 虐殺をやめろ」のプラカードを掲げる人々

 

日本からだと、イスラエル、ガザ、あるいはアメリカや他のアラブ諸国といった国・地域間の大きな括りでの情報に触れることがほとんどです。実際にそこに住む人と話をするのはとても大切だと感じます。

 

「僕にとっては、イスラエルにいながら大学の内外でいろいろな立場の人と話す機会があったのは本当に幸いでした。宗派やルーツを問わず、平和な共存をめざしている人はイスラエル国内にもたくさんいて、大学構内でもそうしたデモや集会が毎日のように行われています。もちろん日本からでも、報道される情報をもとに自分で考え、占領や虐殺をしっかり批判していくのは非常に大切なことだと思います。

 

これは一年目にルームメイトだったユダヤ系アメリカ人の友人からの受け売りなのですが、イスラエル側、パレスチナ側という対立軸が作られてしまっている状況で、人道の側、不必要な分断を許さないという側に立って連帯しなければいけないんじゃないでしょうか。その友人とは今も大親友で、この前は日本まで遊びに来てくれたんですよ」

大学の寮から徒歩15分ほどの、とあるビーチで見た夕陽

分断を乗り越えるために、話し、考え続ける

留学生活を通して社会の歪みや暴力を間近に感じつつも、「振り返ってみると、思い出すのは楽しかったことばかりなんです」と北村さん。地中海を望む浜辺で夕陽を見ながら、友達といろいろなことを話したのが印象に残っている、と話してくれました。

 

異なる立場、異なる場所にいる人のことを思い、目の前の人との対話を続けることで、なんとかこの分断の時代を終わらせることができれば……そう願わずにはいられません。

「珍獣図鑑」ついに書籍化!『先生!なぜその生きものに惚れたんですか?』に研究者の静かな情熱を詰め込みました

2025年7月29日 / ほとゼロからのお知らせ, トピック

滅多に出会うことのない珍しい生物や、身近にいながらアッと驚く不思議な生態をもつ生物……。めくるめく生きものの世界を探究する研究者たちにインタビューするほとゼロ名物企画「珍獣図鑑」が、なんとこのたび書籍化することとなりました!!

 

これまで多くの研究者の方々を取材させていただき、2024年にはほとゼロ初の一般読者向けトークイベントを開催するなど、ほとゼロ編集部としても思い入れの深いこの企画。いつかは……と密かに願い続けていただけあって、感慨もひとしおなのです。

 

書籍化にあたり、サイト掲載記事から6本を選んで大幅加筆、さらに新たに4人の研究者に取材した書き下ろしを加え、計10人の研究者のお話を収録したインタビュー集となりました。

 

というわけで本日は、8月26日に刊行される珍獣図鑑本、改め『先生!なぜその生きものに惚れたんですか?』(ほとんど0円大学編集部 著、玄光社 刊)についてご紹介していきます。

名作記事6本を再取材して、それぞれの「惚れ」をさらに深堀り

珍獣図鑑では、これまで27人の生物研究者の方々にご協力いただき、オオグソクムシからガイコツパンダホヤまで多種多様な生きものについてご紹介してきました。取材をしていてとくにワクワクするのは、その研究者ならではのユニークな視点や熱量が垣間見えた瞬間です。

 

オオグソクムシにも「心」があるんじゃないか。

ナメクジは、殻がないというだけでカタツムリよりも冷遇されてるんじゃないか。

人間とナマコ、じつは似た者同士なんじゃないか。

 

……ちょっとその話、詳しく聞かせてください!となりますよね。

 

研究はあくまでも科学的事実の検証を積み重ねていくものですが、その根底には、研究者が研究対象に向ける静かな情熱があるはずです。今回の書籍では、それをあえて「惚れ」と呼ぶことにしました。

 

研究者がもつさまざまな形の「惚れ」を深堀りすべく、過去の記事の中から

ウォンバット

キイロシリアゲアリ

ナマコ

カモノハシ

オオグソクムシ

ナメクジ

の6本を選び、追加のインタビューを実施。気になる研究のその後の展開や、それぞれの生きものに寄せる思いについて伺い、大幅に加筆修正しました。生きものや研究者への解像度がグッと上がっているはずです。

紙面のイメージ。なんと全ページフルカラー!
生きものの魅力や研究の着眼点を「惚れポイント」として紹介しています

街なかからアマゾンまで、生きものを追う4人の研究者に新たにインタビュー

さらにさらに、書籍版への書き下ろしとして、新たに4人の研究者にインタビューさせていただきました。ここではその内容を少しだけご紹介します。

 

生きものと研究者それぞれの距離感を絶妙に表現したかわいいイラストは、イラストレーターの菅幸子(さすが)さんに描いていただきました!

ナマケモノ 村松大輔先生(奈良教育大学)

アマゾンでナマケモノの調査を行う村松先生は、哺乳類なのに外気温と連動して体温すら変化するなど、その驚異の省エネ戦略に迫ります。「動かない動物」を調査する大変さや心構えについても伺いました。

カラス 松原始先生(東京大学)

30年以上にわたってカラスを追い続ける松原先生。人間のそばで生きるカラスたちを観察していると、そのたくましさや、賢いイメージとは少し違った愛嬌ある部分も見えてくるそうです。

シャチ 大泉宏先生(東海大学)

ハクジラ類を専門とする鯨類研究者の大泉先生。まだ緒についたばかりだという北海道近海のシャチについての研究や、野生のシャチとの印象深い出会いについてお聞きしました。

ダイオウイカ ✕ 広橋教貴先生(島根大学)

広橋先生は、日本海沿岸に打ち上げられたダイオウイカを追う「ダイオウイカハンター団」を結成して活動中。「僕はイカの研究者じゃないんですけど」と語る広橋先生の、ダイオウイカの生殖に関する最新の研究とは?

 

いずれのインタビューも、生きものの生態と謎、研究の面白さや苦労、それぞれの研究者の自然観・生物観をギュッと詰め込んだ力作となっています。繰り返しますが、ほとゼロのサイトには未掲載のインタビューなので、ぜひ書籍でお楽しみください!

研究者の視点を通して、世界の広さを感じられる一冊

ほとゼロでは、大学という場所の活用方法、とりわけ、「学ぶこと」を通して新しい何かを知ったり、これまでにないものの見方に出会ったりする楽しさを発信してきました。本書はその現時点での集大成的な一冊……と言っても過言ではないでしょう。生きものが好きな人も、そうでもない人も、研究者の視点を通して世界の広さを感じていただけたなら、これより嬉しいことはありません。

 

8月26日、全国の書店で発売されるので、見かけられたらぜひ手にとってみてください。amazonほかネット書店でのご予約も絶賛受付中です!

https://amzn.to/46bCCZ3

 

 

「現実からズレた世界」で善悪を探究する。広島工業大学の萬屋博喜先生に聞いた、SF漫画から学ぶ倫理学

2025年4月22日 / この研究がスゴい!, 大学の知をのぞく

もしも不死の生命を手に入れることができたら、人間は幸せになれるだろうか?

あるいは、優秀な人工知能がすべてを決めてくれる社会は「良い社会」だろうか?

 

これらの問いは、小説や漫画、映画といったフィクションの世界でしばしば描かれてきたものだ。少し前なら絵空事と笑ってすませることができたかもしれないが、現実に起きているAIの急速な進歩と浸透を目の当たりにしていると、どうにも笑っていられなくなる。

 

並行世界や遠い未来などなど、現実とは少しズレた世界を描いた物語の中にこそ、現実の諸問題を考えるヒントがある――そう話すのは、10年近くにわたってSF漫画を題材に哲学や倫理学の講義を行い、昨年『SFマンガで倫理学 何が善くて何が悪いのか』を上梓した広島工業大学の萬屋博喜先生だ。荒唐無稽な設定の漫画から、一体どんな問いを読み取ることができるのだろうか? お話を伺った。

人としてのルールを批判的に検証し、「善いこと・悪いこと」を突き詰める

英語圏の哲学が専門で、特に最近は「行為の哲学」を研究している萬屋先生。たとえば、落雷でパソコンが壊れてしまったとして、自然現象に責任を問うことはできない。しかし、だれかが意図的にパソコンを床に落としたときなど、人間の行為には責任を問うことができる場合がある。行為とはなにかを分析することが、倫理学を研究するうえでの重要な前提になるそうだ。

 

ところでそもそも倫理学って? 学校で習う道徳や倫理とはどう違うのだろうか。

 

「倫理学とは文字通り、倫理についての哲学です。倫理や道徳は、人間が集団生活を送るなかで、人として従うべきルール(モラル)のことといえるでしょう。自然に出来上がってくる倫理と制度化された道徳は別物だとする考え方もありますが、大きな意味では同じものだと私は考えています。ただし、そうしたルールの学び方には2つのアプローチがあるんです。それが道徳教育と倫理学です。

 

みなさん、小学校で道徳という科目を習いましたよね。道徳教育は、人に優しくしなさいとか、嘘をついてはいけませんとか、いわば先人が示した人としてのルールを習得して、実践できるようにするためのものです。

対して、それら既存のルールを批判的に検証して、『何が善いことで何が悪いことなのか』という議論の前提になるような出発点まで立ち戻って考えるのが、倫理学なのです」

Zoomでお話を聞かせてくださった萬屋博喜先生

 

道徳、マナー、法律や規則など、世の中には明文化されている・いないにかかわらずさまざまなルールがある。ルールを守っていれば日常生活で困ることはなさそうにも思えるけど、倫理学を学ぶ意味はどんなところにあるのだろう。

 

「たとえば現在、生成AIをめぐっていろいろな議論が交わされていますよね。誰もが簡単に生成AIを使えるようになってはじめて、著作権侵害などの問題が認識され、法整備の必要性が問われはじめています。法律や道徳教育は、どうしても現実の後追いになってしまう。一方、倫理学は、『仮にこういうことが起こった場合にどう考えるべきか』という仮定のもとで議論を積み重ねていくことで、将来起こりうることについても事前に考えて備えることができる。私たちが進むべき道について先読みできるんです。

 

それに、世の中で正しいとされているルールでも、別の側面から見たときに間違っていることもある。そうした既存のルールの点検作業をすることで、人々が間違ったルールに苦しめられることを防ぐのも倫理学の役目です」

 

未来について考えたり、世の中を違う側面から見たり……たしかに、倫理学にはSF的な想像力に通じるところがありそうだ。

『火の鳥』『寄生獣』から感じたモヤモヤに、倫理学が手がかりをくれた

萬屋先生が青春時代を過ごした1990年代後半は、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件、酒鬼薔薇聖斗事件と、世の中の倫理観を揺るがす出来事が相次いだ時期だ。宗教が抱える問題、「キレる17歳」と世代で括られることの暴力など、萬屋少年の中で後に倫理学への興味につながる問題意識がふつふつと育っていた。それと同時期に出会ったのが、いくつかの漫画だったそうだ。

 

「当時、図書館に置いてある漫画といえば『はだしのゲン』か『火の鳥』ぐらいだったんですよね。原爆被害の凄惨さを描いた『はだしのゲン』を読んで衝撃を受けたんですが、『火の鳥』はそのときほとんど理解できなくて。でもわからないなりに、何かモヤモヤが残ったんです。それから、友達から借りた『寄生獣』も読みました。周囲の友達はストーリー展開やキャラクターの話で盛り上がっていたんですが、自分が引っかかってるのはそこじゃないんだよなとまたモヤモヤして……。後になって倫理学と出会ったとき、そのときのモヤモヤの正体が倫理学の問いだったんだと気がついたんです」

 

手塚治虫の『火の鳥』は、不死をもたらす火の鳥を巡って運命に翻弄される人間たちを描いた傑作だ。冒頭に挙げた「不死は人間に何をもたらすのか」といったテーマのほか、クローン人間やロボットなどさまざまなキャラクターを通して、人間が生命を操作することの是非を問いかけてくる。萬屋少年をモヤモヤさせた「なぜクローン人間を造ることは『悪い』ことなのか」……という問題も、まさに生命倫理に関わる問いだ。

 

岩明均の『寄生獣』は、人間に寄生する宇宙生物パラサイトと主人公の奇妙な共生関係を中心に、それをとりまくキャラクターたちが織りなす群像劇。作中でパラサイトの側に立つある人物は、「人間こそが地球に寄生し蝕む存在なのではないか?」と問いかけ、善悪の価値観に揺さぶりをかける。倫理学では人間中心主義/人間非中心主義の対立として議論されてきた問題である。

手塚治虫文庫全集『火の鳥⑨』 (講談社)©手塚プロダクション
人間のクローンをテーマにした「生命編」が収録されている

岩明均『寄生獣』1巻(講談社)

 

「今でこそ大人も漫画を読んであれこれ考察するのがブームになっていますが、当時は漫画=娯楽という偏見が残っていたので、周りにいくらその深さを説明しようとしても理解してもらえないことが多かったですね。私自身もそれを伝える道具立てを持っていませんでしたし……。

 

大学で講義を持つようになったときに教材として漫画を選んだのは、ページやコマ単位で議論の題材を提示しやすかったからという側面もあるんですが、思考の媒体としての漫画の力をアピールしたいという気持ちもすごくありました。倫理学のメガネをかけて漫画を読むこと、それ自体が倫理学的に思考していることになるんだ、と。自分で振り返ってみても、かなり大胆なことをやってきたなと思います(笑)」

SF漫画『地球へ…』から、AIが普及する現在への警告?

思考媒体としての漫画の力、とりわけSF漫画の力とはどんなものなのだろうか。

 

「SFで描かれるのは、現実とは少し違う並行世界や、現実の延長線上に訪れるかもしれない高度な科学技術社会、文明崩壊後の未来など、私たちの現実からズレた世界です。世界の前提が変わっても、人間の価値というものは変わらずあり続けられるのか? それが絵と言葉のセットで提示されることで、その世界の生活に入り込んで考えやすくなる。漫画を通してズレた世界について考えることが、ひいては私たちの現実について考えることにもなってくるかもしれません」

 

例として萬屋先生が挙げたのが、竹宮惠子の『地球(テラ)へ…』だ。舞台は遠い未来。人工知能によって統治された社会で、超能力に目覚め人工知能の支配から脱却した新人類ミュウと、人工知能から新人類抹殺を命じられた旧人類、双方の視点で物語は描かれる。迫害から逃れて宇宙を流浪するミュウたちは自らの意思で考えて行動するが、旧人類は人工知能の「助言」を決して疑わない。物語の後半、地球に降り立ったミュウは旧人類に対して人権を求め、「人の心が決定した結果になら従おう」と語りかけるが……。

 

「『地球へ…』で描かれるのは、コンピュータにすべての判断を委ねた人類社会です。この漫画が連載されていたのは1977年~80年ですが、半世紀近く経った今、生成AIの普及でまさにそんな時代が訪れつつあるのではないかと思っています。AIに尋ねれば、人間が頭を寄せ合って議論するよりも遥かに早く、合理的な答えを提示してくれる。政策立案や政治的な意思決定にAIが導入されるのも時間の問題ではないでしょうか。

 

倫理学者のなかには、『人工知能が〈道徳的助言者〉として設計されれば、人間の良き相談相手になる』とする意見もあります。それに対して、『はじめは良き相談相手であっても、いつの間にか人工知能に判断そのものを委ねてしまうことになるのだ』という指摘もあります。まさに『地球へ…』で描かれた未来ですね。

 

もう少し日常に近づけて考えてみると、たとえば大学の授業で出された課題に対して、AIが出したいくつかの選択肢から人間が最良と思うものを選ぶことは、その人の回答として認められるでしょうか。学生が提出した課題を採点する教員としても直面せざるを得ない問題です。あるいは、SNSを見ていてもAIを思わせるアカウントが会話しているのをよく目にします。人間の意見とAIの意見を区別することは、すでに想像以上に難しくなっているかもしれません」

 

AIはものすごく便利で、医療から芸術まであらゆる分野に貢献しているのは紛れもない事実だ。けれど『地球へ…』に学ぶならば、人間が自分の頭で考えることを手放してはならない一線というのもきっとあるような気がする。はたして私たちは、AIとうまく共存していくことができるだろうか。

多視点から漫画の世界に入り込み、「自分の答え」を見つけてみよう

昨今流行りの「〇〇について考察してみた」系動画は、作品の中に隠された「正解」にいち早くたどり着こうとするゲームのように見える。「そういう答え合わせ的なものが流行るのは少し怖いですね」と萬屋先生。著書や講義では、作品の中に描かれたテーマに対して倫理学の観点から複数の考え方を提示しつつも、最後は必ず「あなたはどう思いますか?」と投げかける形にしているという。

 

「ものごとに自分なりの答えを見つけることと、絶対の答えを求めることを混同してほしくないんです。倫理学にとって大切なのは、外から与えられた答えに頼らないことです。主張には自分の生き方や経験が反映されていないといけない。だから白黒つけられない問題が多いですし、ずっと議論が続いている。

 

誤解してほしくないんですが、だからといって答えがないわけじゃありません。『私はこういう根拠があって、この答えにたどり着いた』ということが言えれば、それは立派な『あなたの答え』として、倫理学の議論で価値を持つことになるんです」

 

漫画を読むときも、私たちは主人公の感情や主張だけを絶対的な答えとして受け取っているわけではないと萬屋先生は言う。たしかに、吾峠呼世晴の『鬼滅の刃』について言えば、主人公である炭治郎の常軌を逸した純粋さには到底ついていけないし、人間くさい事情を抱えた鬼の側に共感することもある。もう少し俯瞰すれば、ト書きで挿入されるような作中の社会の仕組みにも思うところがある。作者が描きたい大きなテーマは一貫していたとしても、「そのテーマを受け取って、あなたならどう思うか」と問えば十人十色の答えが返ってくるだろう。

 

そうやって見つけた自分なりの答えやモヤモヤを、倫理学の問いとして深めていくには、どうすればいいのだろうか。

 

「先ほど、倫理学のメガネを掛けて漫画を読むことが思考することになる、と話しました。そのメガネとは、これまで倫理学で扱われてきたトピックや理論に関する知識です。前提知識をもったうえで作品を読めば、あなたの中でモヤモヤしていたものがクリアに見えてくるはずです。『SFマンガで倫理学』でも、扱うトピックごとに哲学者や倫理学者の理論を紹介していますし、それでもっと知りたいと思ったら個別のテーマや理論に関する入門書を読んでみることをおすすめします。知識を身につけて、フィクションの中で思考して、現実の生活に当てはめてみる。これらを行ったり来たりすることが、世の中のルールや善悪について考える訓練になるでしょう」

萬屋博喜先生の著書『SFマンガで倫理学』(さくら舎)

 

「このマンガがすごい!」に選ばれた最新作から往年の名作までくまなくチェックして、倫理学のトピックに合うものを探しながら講義を組み立てているという萬屋先生。倫理学ではまだ開拓されていないテーマが漫画の中から見つかることもあるというから、フィクションの力は底知れない。

 

「現実に社会で起こっている問題について、すぐには答えの出ない議論をするのはなかなかしんどいものです。そのため、現実社会の複雑な問題を直接考えるのではなく、フィクションというフィルターを通して考えれば、ディスカッションにおいても心理的な安全を確保しつつ、遠慮なく意見を交わすことができる。それもフィクションの力です。一方で、受け取り方を誤れば、作中に描かれたことが真実なのだと思い込まされてしまう恐ろしさもあります。どんな作品も多様に読むことができるはずですから、教材にする際も何か絶対的な答えを導くような扱い方にならないように注意したいですね」

 

 

現実世界では、AIだけでなく戦争、差別、環境問題と大嵐が吹き荒れている。これまで正義だと言われていたことが簡単にひっくり返される日々に、心が慣れてきてしまってはいないだろうか。けれど人として生きていくなら、譲ってはいけない倫理の一線がどこかにあるはずだ。荒野で迷子にならないように、SF漫画で自分の答えを見つける訓練をしてみるといいかもしれない。

キャンパスライフは波乱万丈!?大阪大学発・リアルな大学生活を追体験するボードゲーム「DAIGAKU」で遊んでみた

2025年2月4日 / 体験レポート, 大学の地域貢献, 大学を楽しもう

取材で大学生と話す機会がままあるのだが、最近の学生さんたちは勉強に就活にバイトに課外活動にととにかく忙しそうだ。自分の学生時代を振り返ると遊びとバイトの記憶しか残っていないけど、勉強や就活も少しぐらいはしていたはずで、今の学生さんほどではないにしてもせわしない日々を送っていたのだろう。あの頃のよくわからない充実感と少しの後ろめたさを心のどこかに抱えつつ、今日も元気に社会人をやっている。

 

さて、本日紹介するのは、そんなキャンパスライフをだれでも体験できる「DAIGAKU ~いばら色のキャンパスライフ~」。大阪大学の学生たちと教員が中心となって開発したボードゲーム型教材だという。さっそく編集部で遊んでみた。

「DAIGAKU いばら色のキャンパスライフ」のパッケージ

個性豊かな大学生になりきって、波乱万丈のキャンパスライフを体験

ゲームの目的は、各プレイヤーが大学生になりきって4年間の学生生活を充実させること。いろいろな活動を通して自分で決めた目標の達成をめざしたり、予期せぬハプニングに振り回されたりしながら、「学識」「情報」「リソース」「人間性」という4つの資本を集めていくことになる。

 

最初にプレイヤーのキャラクター設定を決める。キャラクターカードを引くとそれぞれ「奨学生」、「下宿生」、「上昇志向」、「破天荒」となった。これから同級生として4年間をともに過ごす4人だが、奨学生なら奨学金を借りてスタートする(あとで返さなくてはならない)など、キャラによって初期条件が異なっている。

 

次に、それぞれが学生生活で大切にしたいことをふたつ選ぶ。たとえば、「上昇志向」さんは経験を積んで起業したいということで、留学/旅行就活/起業を選んでいた(すっかりキャラが入っている)。これらの目標を達成するために、必要な資本を集めてゆくという流れだ。

入学準備は整った。4年後、果たして4人はどうなっているのだろうか……?

学生時代の友人たちの顔が脳裏に浮かぶ

目標を設定する「いそしみマス」。最初はキャラクターごとにひとつ指定されていて、あとのひとつを自由に選ぶ。各年度の節目でふたつのうちひとつを変更することもできる。勉学、就活、サークル、バイトなどとともに「のんびり」や「ソロ活/趣味」という選択肢があることに良い意味で時代を感じる

 

人生ゲームのようにルーレットを回してコマを進めるわけではない。授業、バイト、趣味、ボランティア……といった生活マスの中から、自分がやりたいと思った行動を選んでいく。バイトをすればお金が手に入り、授業に出れば時間と精神を消耗するが学識が手に入る、という具合だ。どうやらバイトや課外活動に明け暮れるプレイヤーが多いようだが、勉強の方は大丈夫なのだろうか。

一年目では、オレンジ色の枠の中から2つの行動を選んで「ペルソナ」と呼ばれる駒を置き、資本をゲットする。あえて授業に出ない自由もあるが、その選択が後々響いてくることに

人間関係のトラブルに感染症……さまざまなハプニングが降りかかる

そんなこんなでそれぞれが2回行動を選ぶと1年目が終わり、節目を迎える。ここで学費を払ったり目標を見直したりといろいろあるのだが、厄介なのがハプニングカードを必ず引かなければならないことだ。ハプニングカードは「日常」と「波乱」に分かれていて、「陽キャと疎遠になる」という日常カードに苦笑いさせられたかと思えば、社会を揺るがす出来事も起こる。

 

下宿生さんが引いたのは、波乱カード「感染症の蔓延」。なんと2年生では全員の行動ターンが1回少なくなることに。つまり、知識もお金も経験も得られるチャンスが半分になってしまうということで、影響の大きさにどよめきが起こる。コロナ禍で行動制限に直面した学生さんたちに話を聞くことは何度かあったが、こうして追体験することになるとは……。

 

他にも、「大学デビューで空回り」「カルトの勧誘」「住宅トラブル」などなど実際に学生の身に起こりがちなハプニングの数々がリアリティを与えている。これから大学生活を迎える人にとっては、ゲームを通してこうした落とし穴を知っておくことが備えにもなるだろう。

「陽キャと疎遠に」。1年生にありがちなモヤッと感

まだ記憶に新しいコロナ禍の行動制限を反映した「感染症の蔓延」カード。QRコードを読み取ると詳しい解説が読めるようになっている

 

2年目、3年目と進むにつれて選べる行動が増え、だんだんと資本も貯まってくる。一方、学費が払えなかったりキャパシティを超えるハプニングに見舞われたりすると、ペナルティとして心に「ささくれ」が溜まってくる。こいつを消すことはできないため、ゲーム終了まで増えることはあっても減ることはない。

「ささくれ」、絶妙な表現だ

よくよく見れば「卒業要件」が書いてある

 

ゲーム終盤の4年目。プレイヤーシートに書かれた「卒業要件(学識が5個位上必要)」の存在に気づき、バイトや趣味に打ち込んでいたプレイヤーたちが慌てはじめる。なんだか懐かしい光景だ。要件に満たなくてもゲームオーバーになるわけではないが、ささくれが残ってしまう。それも人生である。

それぞれの4年間を語り合う

あっという間に4年間が過ぎ去っていった。得点計算の前に「ポートフォリオ」を発表する時間だ。自身のキャラクターやこれまでに起こったハプニングを振り返って、ひとつのストーリーとしてそれぞれが語り、筋の通ったストーリーを発表した人にはボーナスポイントが入る。せっかくなので、それぞれのストーリーを紹介しよう。読者のみなさんが最も共感できたのはどの学生だろうか?

 

下宿生さんの学生生活は感染症の蔓延で幕を開けた。バイトを諦めざるを得ず、資格取得という目標を定めて打ち込んできたが、外出自粛中にも下宿の隣人の騒音に悩まされ、スマホ依存に陥るという負のスパイラルに。最後は指導教官の異動という大きめの波乱に見舞われ、卒業要件には届かなかった。

 

奨学金を借りて学生生活をスタートした奨学生さんは、突然の不況や保護者の収入減によって奨学金をさらに追加することに。返還のためにバイト中心の生活になったが、それが良いモチベーションにもつながったからか、後半は徐々に上向き、就活でまずまずの結果を残すことができた。

 

破天荒さんは趣味の音楽に打ち込んだ。カルトの勧誘を受けたり自己啓発書にハマったりと少々危うい学生生活を送り、就活にも積極的になれない中、留学生との交流を機に、音楽修行のために渡米を決意。学識は卒業要件に満たなかったが、語り口はどこか晴れやかだった。

 

入学当初から起業を目標にしていた上昇志向さんは、入学早々クレカを作って活発に活動。それゆえ周りから浮いてしまったり、飲み会でアルハラを受けたりと苦労も経験するが、持ち前の前向きさで学業でも結果を残して企業との共同研究にこぎつけ、夢への一歩を踏み出した。

 

ポートフォリオの評価が終わると、最終的に得られた資本とささくれの数、達成できた目標を「充実度」のポイントに換算して勝敗を決める。学識をためてポートフォリオで高い評価を得た上昇志向さんと、バイトに打ち込み奨学金を完済した奨学生さんが8.5点の同点で勝利となった。あとの二人も、勝敗以上の貴重な経験を得たはずだ。

お金で苦労する人、周囲に振り回される人、孤独に陥りがちな人と、大学生にはそれぞれの困難がある。人生の縮図だ

 

大学で過ごす数年間は、多くの人にとってはさまざまな選択肢が一気に広がる時期だ。できることの可能性は限りないけれど、時間やお金や体力は限られているし、うまいやり方を誰かが教えてくれるわけでもない。目標を立ててバランスよく舵取りをしていく難しさを改めて実感した。自分が学生のときにこんなゲームがあればよかったのに……などと思いつつ、大人どうしで学生時代の思い出を語り合いながらわいわい遊ぶにも楽しいゲームだった。

 

公式サイト(https://www.daigaku.info/)では、ハプニングについて大学教員や現役大学生が解説する「まなびの芽」や、各種ダウンロードコンテンツも公開されているので、チェックしてみてはいかがだろうか。

 

ほとゼロ10周年記念トークイベント「珍獣Night」11月2日開催! 生き物にとっての〈私〉を3人の生物研究者が語る一夜

2024年10月3日 / ほとゼロからのお知らせ, トピック

「ほとんど0円大学」は今年でなんと10周年。この節目の年に読者のみなさまともっとお近づきになりたい!ということで、一般向けとしては初のトークイベントを開催いたします。おなじみの連載企画「珍獣図鑑」で取材させていただいた生物研究者3名をお招きして、ときにユルく、ときに熱く語っていただく企画となっています。

本日は、11月2日(土)に大阪の会場とオンラインで同時開催される「珍獣Night」の見どころを一足早くご紹介します!

 

◆ほとんど0円大学10周年記念トークイベント「珍獣Night」◆

日時:2024年11月2日(土)18:00~20:00

会場:MOTON PLACE(大阪・天満橋)・オンライン同時開催

参加費:会場500円(おみやげ付き)/オンライン無料

お申し込み締切:10月29日(定員に達し次第締め切らせていただきます)

詳細・お申し込みについては特設ページをご覧ください。

 

人間の常識は通用しない!? 生き物にとっての「私」に迫る

「珍獣図鑑」は、滅多にお目にかかれない珍しい生き物や、身近だけれど意外と詳しく知られていない生き物の研究者にお話を伺い、そのユニークな生態や最新の研究を紹介する名物コーナー。2020年にスタートし、これまで30種近くの生き物たちの生き様と、それに向き合う研究者のまなざしを紹介してきました。

 

そんな珍獣図鑑から生まれたのが今回のイベントです。テーマは「生き物にとって〈私〉とは何か?」

 

多くの人間にとって、〈私〉はただ一人、揺るぎないものという感覚があるもの。だからこそ、自己実現や人間関係といった悩みが尽きないわけで……。けれど生物の世界を覗いてみると、一生のうちに姿を大きく変えたり、いくつもに分裂したり、多数の個体が集まってひとつの生き物のように振る舞ったり、他の生物に寄生したり、寄生されたりと、〈私〉のあり方は決して一様ではないことに気付かされます。

 

それぞれの生物たちは一体どんな〈私〉を生きているのか? そもそも、生き物はどのようにして〈私=自己〉を獲得してきたのか? イベントでは、ナマコ研究者の一橋和義先生、アリ研究者の後藤彩子先生、変形菌研究者の増井真那さんをお呼びして、それぞれの生物の〈私〉について語り明かしていただきます。

ナマコ、アリ、変形菌の研究者によるクロストーク

「珍獣図鑑」でもとびきりユニークで驚きに満ちたお話を聞かせてくださった3名の登壇者を、過去の記事を振り返りながらご紹介していきましょう。扱う生物も研究内容もばらばらな3名のトークがどんなふうに展開されるのか、当日をぜひお楽しみに!

ナマコ研究者 一橋和義先生(東京大学医学部附属病院 助教)

ナマコの音受容を研究し、ナマコの生態を歌った楽曲も発表している一橋和義先生。「珍獣図鑑(18):省エネだけど意外に大胆! ナマコの生き方「なまこも~ど」のススメ」では、海底の砂や泥に含まれるわずかな有機物を食べて暮らす省エネな生き方の秘密や、敵に襲われると消化管を吐き出す、毒をふりまくといったアグレッシブな一面を教えていただきました。とくに印象的だったのは、「人間とナマコは、ストレスに対する反応など似ている部分もある」というお話。ドロドロに溶けたり分裂したり、人間とは程遠いように思えるナマコはどんな〈私〉を生きているのか、さらに詳しく伺いたいと思います。

アリ研究者 後藤彩子先生(甲南大学理工学部 准教授)

アリ科の昆虫を研究し、女王アリだけでも数万匹を飼育する後藤彩子先生。珍獣図鑑(14):交尾は生涯一度きり。なのに10年以上産卵を続ける女王アリの秘密にせまる」では、社会性昆虫であるアリの繁殖分業のバリエーションや、10 年以上にわたり精子を体内に貯蔵して産卵し続けるという女王アリの驚くべき能力について伺いました。とくにキイロシリアゲアリは、複数の女王が協力してひとつの巣を作るという特異な生態があるそうです。巣全体で子孫を残すためにそれぞれ特化した役割に従事するアリたちですが、個と集団の間にどんな〈私〉を見出すことができるのでしょうか?

変形菌研究者 増井 真那さん(慶應義塾大学先端生命科学研究所(修士課程))

変形菌とはアメーバの仲間の単細胞生物で、不定形な変形体からキノコのような子実体へと変身し、胞子を飛ばして繁殖するというユニークすぎる生態の持ち主。増井真那さんは幼少期から変形菌の研究を続けています。「珍獣図鑑(10):アメーバ状からキノコのように変身! だけど菌類じゃなく動物でも植物でもない、不思議でカワイイ単細胞、変形菌」 ではその生態とともに、増井さんが変形菌の研究をはじめたきっかけなどについても伺いました。小学3年生のときから取り組んでいる研究テーマがズバリ「変形菌の自他認識」――変形菌はなぜ、どのように自己と非自己を認識しているのか、というもの。自身の姿を変えて世代交代するばかりか、他の個体と混ざり合うこともあるという変形菌の〈私〉についてたっぷり伺います。

 

会場参加者には特別なおみやげをプレゼント!

というわけで、10周年記念トークイベント「珍獣Night」のお知らせをお届けしました。ユルっとしつつもディープな、ほとゼロらしい一夜をお届けできるように準備を進めています。

 

そしてなんとなんと、会場参加の方にはおみやげとして、今回登場する生き物いずれかのアクリルキーホルダーをプレゼント! 鋭意制作中ですのでこちらもお楽しみに。

もちろん、遠方の方はオンライン配信をぜひご利用ください。一同、皆様とお会いできるのを心待ちにしています!

 

トークイベント「珍獣Night」特設ページ

 

【第10回】ほとゼロ主催・大学広報勉強会レポート。大きな節目で何を・どう伝える? 周年広報のあり方とは。

2024年9月17日 / ほとゼロからのお知らせ, トピック

ほとんど0円大学では、大学広報関係者を対象とした大学広報勉強会を定期的に開催しています(勉強会レポートの一覧はこちら)。2024年8月2日に開催した第10回勉強会のテーマは「目的もやり方も千差万別!? 周年広報を話し合う」。大学設立50周年、100周年……と大きな節目を迎える年は、大学の来し方を振り返り、未来へのビジョンを学内外に発信できる格好の機会です。けれど、周年と周年の間は5年、10年とスパンが開くため学内でノウハウを蓄積しづらいという側面も。

今回は日本福祉大学、青山学院、京都大学から担当者をお招きして、それぞれの大学での周年広報の事例について伺いました。

福祉の価値を再定義する、日本福祉大学 学園創立70周年プロジェクト

最初に登壇いただいたのは日本福祉大学 学園広報室長の榊原裕文さん。2023年に70周年を迎え、「Well-being for All~幸せを創造する大学へ~」というスローガンを掲げて2025年度までの3年計画で周年事業に取り組んでいる真っ最中です。特徴的なのは、周年事業を大学が抱える課題に取り組む契機として位置づけている点。「単発の打ち上げではなく、その後も継続する企画でなければ予算がつきません。周年の3年間で0を1にして、その後時間をかけて10まで積み上げていくということをこれまでも続けてきました」と榊原さん。では、今回取り組む課題とは?

日本福祉大学の榊原裕文さん

 

「世間から見た『福祉』と、本学が追求する『ふくし』の捉え方にはギャップがあります。福祉というと、世間では介護のイメージが強いですが、本学ではもっと広い意味で、「誰もがふつうにくらせるしあわせ」を考え、追求することを「ふくし」と捉えています。とくに福祉に馴染みのない若い世代に対して、どうすれば『ふくし』の価値を伝えられるかという視点で事業に取り組んでいます」

 

その事業のひとつが、70周年特設サイト内の「日本福祉大学チャレンジファイル」。日本福祉大学の教員らが、研究・教育・社会貢献活動に取り組む姿をインタビューや動画で紹介するコンテンツです。覗いてみると、スマート農業、生活保護バッシング、開発途上国の教育支援など、これも“ふくし”につながる問題なのかとハッとさせられるテーマがズラリ。ひとつひとつの記事の内容も充実していて、質・量ともにかなりの熱量です。事例紹介を通じて読者にふくしを「自分化」してほしいという思いで、最終的には70もの事例を公開する予定とのこと。この他にも、ソーシャルワーカーの源流と言われる浅賀ふさ氏の人生をたどるラジオドラマの制作、障害者アートによる中部国際空港のダストボックスのデザイン公募、障害者アートを使った新聞広告など、周年事業という枠組みの中で社会に向けた発信に取り組んでいるそうです。

「日本福祉大学チャレンジファイル」の紹介(発表スライドより)

 

最後は「福祉のイメージを変えるために、きちんと継続していく。より良く生きるということを発信し続けることを発信し続ける大学でありたい」と、周年という契機を長期的な視点で活かす大切さを語ってくださいました。

「青学マインド」を伝え共有する、青山学院150周年記念プロジェクト

次の発表は青山学院より、本部広報部 広報課長の髙木茂行さんです。学院創立150周年、大学としては75周年を迎える本年、青学では学内外を巻き込んだ周年事業を展開中です。

青山学院の髙木茂行さん

 

髙木さんによると、周年事業のねらいは150周年を祝うお祭り的な盛り上がりを通して在校生、卒業生、保護者など学院の関係者とのつながりを確認すること。その軸として最初に制定されたのが「響け、青学マインド。」というキャッチコピーでした。次に楽譜をイメージしたロゴマークを作り、学院内での周知をはかってきたそうです。

 

各部署から企画が上がり、まさに学院全体を挙げたお祭りとなっている周年事業。150周年特設サイトはそれらの情報を集約するポータルサイトとして位置づけました。

 

特設サイト内の「EverGreen150」は、教員、学生、卒業生など青山学院に関わるいろいろな人が、「1・5・0」にちなんだおすすめの作品を紹介するという一風変わったコンテンツです。その他にも、アンバサダーとして起用した学院ゆかりの芸能人へのインタビュー、青学の人や建物に関するクイズコーナーなど、いずれも「つながり」を感じさせるコンテンツが充実。著名人の起用によって学外からも注目を集めつつ、学内や卒業生一人ひとりが主役であることがしっかり伝わってきます。

特設サイト内のコンテンツ「EverGreen150」

 

11月の創立記念日に向けて、今まさにいろいろな企画が進行中。実務面でここまでを振り返って、各部署が主導する企画を全体として統括することに課題を感じていると髙木さん。学院を構成する各学校間の温度差が縮まればさらに盛り上がってくるのでは、とも分析します。

 

最後に、周年事業の意義について、「周年イベントを通して愛校心を育み、在学中はもちろん、卒業後も青山学院とつながり続けてほしい。また周年事業を通して『青学マインド』を確認し、新たなブランディングにもつなげていきたい」と締めくくりました。

長期スパンで周年を盛り上げる、京都大学125周年記念事業プロジェクト

最後の発表は、京都大学 成長戦略本部の小河布記子さん。2022年の京都大学創立125周年に向けて取り組んだプロジェクトについてお話しいただきました。京都大学の場合、周年広報の開始は4年前の2018年と早め。長期スパンの計画によって周知を拡大するとともに、広報と連携することで大学基金への寄付を募るという目的もあったそうです。

京都大学の小河布記子さん

京都大学の小河布記子さん

 

そこで重要になるのが、「いつ、誰に、何を」伝えるかということ。最初に取り組んだのはステートメントとスローガン、シンボルマークの制定でした。時計台の意匠を取り入れたシンボルマークは名刺や封筒、教職員がつけるピンバッジまであらゆる場所に展開して、学内への周知に活用。続いて記念広報誌を発行し、毎号巻頭に総長のメッセージを掲載して周年に向けた全学的な取り組みの機運を醸成していきました。

 

そして2019年に特設サイトがオープン。はじめに公開したのは、京都大学のルーツを掘り下げるコンテンツや各界で活躍する卒業生へのインタビューでした。こうした取材を通して、教職員や同窓生に周年を知ってもらうねらいもあったそうです。続いて、在学生や学内の若手研究者の活躍にスポットを当てたコンテンツで徐々に学生へも認知を広げていきます。さらに、京大周辺の思い出の場所とエピソードを投稿してもらう参加型コンテンツを公開。より多くの関係者に興味・関心を持ってもらえるよう段階的にコンテンツを充実させていきました。周年事業の集大成は、2022年6月と11月に開催された記念行事。その参加募集や開催報告にも特設サイトが活用されました。

京都大学創立125周年事業特設サイト。周年事業の終了後もアーカイブとして残されている

 

こうした広報活動と連携することで、研究・教育を支える寄付金も順調に集まったそう。4年に渡るプロジェクトを完遂するだけでも大変なことですが、さらにその先、次の周年に向けた引き継ぎが課題だと小河さんは語ります。実はそのことを意識して、打ち合わせや行事の裏方の様子なども録画で残しているのだそう。この徹底ぶりには驚かされます。「大学にとって周年とは通過点なのですが、同窓生も含めた大学関係者全員の思いを一つにして、未来に進むための大切な節目にもなると考えています」と締めくくっていただきました。

節目を祝う周年広報は、次の未来へ進む活力

休憩を挟んで後半は座談会。ここでは、周年広報の実務についての話題で盛り上がりました。

 

周年広報で避けては通れないのが、全学的な取り組みとして学内の認知を広め、協力体制を築くこと。認知の拡大については、周年のロゴマークのワッペンを作って学内に配布すると良い感触があった(青山学院・髙木さん)、周年のロゴマーク入りの名刺、発表スライド、Zoom背景などを作って浸透を図った(日本福祉大学・榊原さん)など、やはりロゴやキャッチコピーといったシンボルの力は大きいようです。京都大学の小河さんも、最初は一部局の取り組みのように捉えられて各部局との関係構築に苦労をされたそう。各部局が主催するイベントに125周年の冠をつけてもらい、その集客を広報でバックアップするなど、互いのメリットをすり合わせながら学内を巻き込んでいったというお話が印象的でした。

座談会の風景

 

周年広報でとくに手応えを感じた企画はどんなものだったのでしょうか。京都大学では、同窓生に寄稿してもらう企画がコミュニケーションツールとして役立ったといいます。「ぜひあなたに書いてほしい」と依頼すること自体が大学はあなたをリスペクトしているというメッセージになり、寄稿者から別の同窓生を紹介してもらうという広がりも生まれたそう。青山学院は芸能人を起用した企画で認知拡大をはかりましたが、髙木さんとしては著名人とそうではない卒業生・在校生がほどよく混ざりあったEverGreeen150に手応えを感じているそう。「投稿者にも満足してもらえる企画になった」と振り返ります。日本福祉大学の榊原さんは「継続性を重視しているので、今はまだ評価できない」としつつ、60周年を期に実施した「国際協力出願」や、50周年から現在まで継続しているエッセイコンテストを成功例として挙げてくれました。

 

目的や取り組みは三者三様でしたが、次の10年、50年、100年に向けて進んでゆくための活力として、周年広報の意義を改めて感じた勉強会でした。

抵抗、葛藤、そして誇りをビートに乗せて。パレスチナ・ラップについて慶應義塾大学の山本薫先生に教えてもらった。

2024年8月20日 / 大学の知をのぞく, この研究がスゴい!

 

昨年10月以降、パレスチナ・ガザ地区ではイスラエル軍による侵攻によって多くの命が奪われ、地区内のほとんどの住民が避難生活を余儀なくされている。ヨルダン川西岸地区でも多くの人々が投獄され、事態が終息する兆しはなかなか見えないばかりか、長引けば長引くほど人々の置かれた状況は悪化してゆくばかりだ。

パレスチナの人々の苦しみは昨年いきなり始まったわけではない。イギリスによる委任統治期にパレスチナへのユダヤ人の入植が急増し、1948年にイスラエルが建国された。以来、80年近くに渡る占領・植民政策下で、人々は生命と自由を脅かされ続けている。

 

そんな現実をパレスチナからビートに乗せて世界に発信しているのが、パレスチナ人ラッパーたちだ。かれらはどんな現実を生き、どんな声を発しているのだろうか。パレスチナのラップミュージックを研究する山本薫先生(慶應義塾大学)にお話を伺った。
(冒頭の画像はイスラエルの都市ハイファでのDAMのコンサートの模様。提供:山本薫先生)

アラブの民衆を動かす抵抗文化としてのラップミュージック

まずはこの曲を聴いていただきたい。パレスチナ・ラップを代表するラップグループ、DAMの代表曲「Who’s The Terrorist」だ。

damrap · Who`s The Terrorist -(REMIX)مين ارهابي

 

「誰がテロリストだ? 俺がテロリスト? 自分の国に住んでるだけだぜ 誰がテロリストだ? お前がテロリストだ 俺は自分の国に住んでるだけだぜ」(和訳:山本薫先生。以下同様)とアラビア語で繰り返すフレーズによって、「イスラエルの支配体制に抗うアラブ人=テロリスト」とみなされる理不尽への抗議の意思がストレートに表現されている。昨年10月以来の状況を思い浮かべる方もいるかもしれないが、DAMがイスラエルでこの曲を発表して世界の注目を集めたのは2001年のこと。その前年の2000年にパレスチナで起きた民衆一斉蜂起(第二次インティファーダ)に触発されてできた曲だという。

DAMは山本先生が最も注目するラッパー/ラップグループのひとつだ。

 

映画や音楽といったポップカルチャーを通じて学生たちにアラブ文化を教え、パレスチナ問題にも関心を寄せてきた山本先生がパレスチナ・ラップに興味を持ったきっかけは、一本の映画との出会いだったそうだ。

 

「パレスチナのラッパーたちを追った『Slingshot Hip Hop』(2008年、アメリカ)という映画を知人に教えてもらったんです。ぜひとも観てみたいと思い、パレスチナ系アメリカ人であるジャッキー・リーム・サッローム監督を日本に招いて上映会を行いました。これが大きな反響を呼んで、2013年には『自由と壁とヒップホップ』という邦題で劇場公開されました。あわせて映画の中心的存在であるDAMの来日公演も実現し、その後もパレスチナのラッパーと交流を持ちながらパレスチナ・ラップを日本に紹介する活動を続けています」

 

 

YouTubeで公開されている『自由と壁とヒップホップ』のダイジェスト版には、DAMの来日公演の様子も収められている。こうして現在進行系のパレスチナ・ラップと邂逅した山本先生だが、その後、伝統的なアラブ文化とラップとの接点に気付かされる出来事を体験したという。

 

「2010年代初頭に、アラブ諸国の民主化運動〈アラブの春〉が起こり、民衆の抗議運動によってエジプトのムバーラク大統領が辞任に追い込まれるなど世界に大きな衝撃を与えました。そんな一連の出来事のなかで私が心を惹かれたのは、音楽や詩が社会を動かす役割を果たしていたことです。詩人が壇上に立って民衆を鼓舞したり、若いミュージシャンがそれに曲をつけたものがSNSで拡散されたり……そんなうねりの中にラッパーの姿もありました。調べてみるとエジプトだけでなく、リビアやシリア、その当時アラブの春の動きが及んでいたどこの国でも、若い人たちがラップで意思を表明して、多くの人の心を動かすという現象が起きていました。映画を通して知っていたパレスチナ・ラップと、アラブの抵抗の文化が自分の中でつながった瞬間でした」

 

山本先生によると、アラブ圏では古くから、詩で自分たちの価値観や歴史を表現することが政治や生活で重要なこととされてきたそうだ。独特の音楽的なリズムを持つアラブ詩は、歌や楽器とともに人々の耳を楽しませてきた大衆文化でもある。人々が権力に対する抗議の意思を込めて詩を読み、歌うことは、こうした伝統の上に成り立つ表現だ。欧米からやってきたラップも、こうした抵抗詩の伝統と接触することで、新しい抵抗の表現として若者を中心に受け入れられたことは想像に難くない。

一様にはくくれない「パレスチナ人」ラッパーたち

ラップミュージックは1970年代アメリカのブラック・コミュニティで生まれた。その源流を踏まえてラップとは何かを考えてみると、社会の辺縁に置かれた人々が自身の属するコミュニティを背負って立ち(いわゆる「レペゼン(represent)」)、そのリアルな感情や直面する問題をビートとリリック(詞)に乗せて表現する音楽、と言うことができるだろう。パレスチナ・ラップの場合は当然、パレスチナ人が自分たちの置かれた状況を歌う音楽、ということになる。けれど山本先生によると、そもそも「パレスチナ人」を一言で言い表すのは簡単ではないという。

 

「広い意味では、パレスチナはアラブ文化圏と呼ばれる地域の一部です。モロッコからイラクやクウェートまで広範に及ぶこれらの国々は、オスマン帝国の崩壊後、西欧諸国によって分割統治され、後に独立していった歴史を持ちます。各国はアラビア語という共通言語でゆるやかにつながりながらも、それぞれに異なる歴史や文化を育んできました。そのなかでパレスチナが特異なのは、いまだに独立国家をもつことができていないという点です。

 

パレスチナは第一次大戦後、イギリスの委任統治領となり、ユダヤ人の入植が急増しました。第二次大戦後の1947年には国連がパレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家に分割する決議を採択し、48年にイスラエルが建国されます。それに反発するアラブ諸国との間で起きた第一次中東戦争でイスラエルはさらに領土を拡大し、多くのアラブ人が住処を追われ、難民となりました。その結果、現在パレスチナと呼ばれているヨルダン川西岸地区やガザ地区に追いやられた人々もいれば、他国に逃れた人々もいました。一方、日本ではあまり知られていませんが、イスラエル建国後もさまざまな経緯から、同地に留まって市民権を得たアラブ系の人々もいます。『パレスチナ人』の中には、パレスチナにルーツをもつこうしたすべての人々が含まれうるのです」

 

先述の『自由と壁とヒップホップ』では、イスラエルとガザ、境遇の異なるパレスチナ人ラッパーたちの交流が描かれている。その監督もまたパレスチナ系のアメリカ人であることを考えれば、国をもたないパレスチナの人々がラップを通してひとつにつながった映画とも言える、と山本先生は語る。

DAM来日時のトークイベント。右端が山本先生、左端の赤いブーツの女性が『自由と壁とヒップホップ』のジャッキー・リーム・サッローム監督。この時はDAMのリーダーのターメルが急病で来日できず、メンバー二人でステージをこなした(提供:山本薫先生)

パレスチナ・ラップの先駆的存在、DAMの葛藤と誇り

そんなパレスチナ・ラップの先駆的存在が、最初に紹介したDAMだ。1990年代末に結成された当初は英語ラップを模倣するようなスタイルだったが、アラブ系イスラエル人である彼らは2000年代からアラビア語を使い、自分たちの置かれた複雑な状況をラップを通じて発信し続けている。DAMの存在は多くの若者に影響を与え、イスラエルで、ガザで、ヨルダン川西岸で、それぞれのリアルを歌うパレスチナ・ラッパーたちが誕生することになる。DAMがラップで訴えるリアルとはどのようなものなのだろう?

 

「ガザや西岸の人々もイスラエル国内のアラブ系の人々も、それぞれに困難な状況に置かれていますが、実はその困難の質はかなり異なっています。イスラエル国内のパレスチナ人は、ガザのように爆撃で命が危険にさらされたり、西岸のように町中にイスラエル軍がいて理不尽に拘束されたりするわけではありません。しかし、言動がデモの扇動とみなされれば逮捕されますし、職場でアラビア語を話しただけで仕事をクビになることもあるなど、ユダヤ人社会の中で厳しい差別と言論弾圧にさらされています。DAMはそんな差別への抵抗の意思を表明しながら、一方では、命の危険にさらされているガザや西岸の同胞たちと自分たちとでは立場が違うという負い目もリリックにしています。

 

また、DAMに限らずイスラエル出身のアラブ系の作家やラッパーたちは、いつもふたつのテーマを表現してきたと私は見ています。ひとつは、イスラエル建国前から今日までこの地で生きてきたアラブ人としての自らの存在証明。もうひとつは、パレスチナとイスラエルが共生する未来への願いです。

 

ユダヤ社会から差別され、西岸やガザの人々との間にも溝がある。イスラエルのパレスチナ人たちは四面楚歌の生を生きていますが、かれらはイスラエルかパレスチナかの二項対立では問題は決して解決しないということもよく知っています。イスラエル国内でアラブ系の人口増加率はユダヤ系を上回っており、全人口の20%に達しています。かれらは何十年も前からイスラエルの入植の歴史を見てきた生き証人であり、イスラエルの体制側から見れば目障りな存在です。かといって、どちらかがどちらかを追い出したり、根絶やしにしたりするなどということも不可能です。ふたつの国がひとつの土地で共生していくしか道はないのです」

DAMのメンバー スヘイルが、かれらのホームタウンであるイスラエル・リッダ市のアラブ人地区を案内しているところ。市当局によってアラブ人市民の家屋がとりこわされた一帯(提供:山本薫先生)

 

実は、DAMはその活動初期、イスラエルの音楽シーンでの活躍を企図して公用語であるヘブライ語の楽曲を中心に発表していたそうだ。しかし、冒頭でも触れた2000年の第二次インティファーダをきっかけとしてアラビア語楽曲に軸足を移すようになる。かれらの足跡は、アラブ系イスラエル人としての葛藤とパレスチナ人としての誇りを雄弁に物語っているようだ。山本先生が一番好きな楽曲だというDAMの「Stranger in My Own Country」では、アラブの伝統音楽の要素や古典詩をサンプリングしながら、まさにこうした葛藤と誇りが歌われている。

 

 

DAMはまた、アラブ社会内部のネガティブな問題、たとえば女性差別やルッキズム、若者に結婚や出産を強く押し付ける風潮に対しても声を上げているという。「イスラエルの支配を批判している自分たちが、アラブ社会の中で同じように差別や抑圧を生んでいるのはおかしいだろう、というとてもシンプルなメッセージです。こうした自省的な視点もパレスチナ・ラップのひとつの特徴だと思います」

 

DAMの楽曲をいくつか挙げるだけでも、かれらが自分たちの暮らす社会を多層的に捉え、そのなかでの自分たちの役割を見据えていることがわかってきた。

レペゼン・ガザの少年ラッパー、言語を超えて「音楽で生きる」ことの切実さ

一方、イスラエル軍によって封鎖されているガザ地区でも、DAMに影響を受けた世代や欧米のラップに触れた若いラッパーが活躍している。

 

「ガザや西岸のラッパーが発信する表現は、やはりイスラエルによる占領から一刻も早く開放されて、自由になりたいという願いが大前提にあります。と同時に、これはパレスチナのどの地域のラッパーにも共通していることですが、ユダヤ人という民族やユダヤ教という宗教を否定しているわけではまったくなく、対等な立場で共存したいという願いを表現の中に見て取ることができるということです。憎むべきは戦争、占領、差別であり、それらを許してきた世界のシステムなのだ、とかれらは歌います」

 

もちろん、メジャーなポップミュージックと比べれば、ラップはアングラなジャンルだ。けれど、ガザのヒップホップライブには文字通り老若男女、ヒジャブで頭を覆った女性から現代的なファッションに身を包んだ若者までさまざまな人で賑わい、ラッパーたちの言葉に共感を寄せているという。

 

2020年にYouTubeに登場したMCアブドゥルは2008年生まれで当時弱冠11歳。空爆で破壊されたガザの街を背景に、ガザの現状をリリックにした流暢な英語ラップで世界的に有名になった。若きラッパーの堂々たるパフォーマンスをご覧いただきたい。

 

 

 「パレスチナは占領されてる何十年も ここは僕らのホームだった何百年も
 この土地は世代を越え 僕の家族みんなの記憶」(MC Abdul - Palestine)

 

MCアブドゥルはインターネットで欧米のラップに触れ、独学で英語を習得したというから驚きだ。しかしこれは彼に限ったことではない。とくに外部との人的な交流がほぼ不可能なガザでは、多くの人がインターネットを通じて英語を熱心に学び、世界とつながろうとしているのだそうだ。若者が音楽や英語に打ち込む理由のひとつは、隔離されたガザからいつか外に出ていくためだという。

 

「かれらにとって『音楽で食っていく』のは切実な願いです。ヒップホップアーティストとして国外から招聘がかかれば、自由な環境のもとで自分の人生を切り拓いてゆけるかもしれないからです。実際、欧米のライブツアーに出演し、そのまま帰国せず、現地での生活を始めるラッパーも多いです。けれど、欧米の音楽シーンで活動を続けていくのも並大抵のことではありません。

 

著名なラッパーのほとんどが国を出ていくなか、あえてイスラエルやパレスチナにとどまることを選び、現地の人々が置かれた状況を世界に発信し続けるラッパーもいます。DAMもそうですし、ガザ初のラップグループPRのメンバーであるアイマンは、ガザでNGO職員として働いたり、子どもたちにラップを教える学校を作ったりと地域に根ざした活動をしながら音楽活動を続けてきました。もちろん、すでに成功しているかれらだからこそ選べた道といえるかもしれませんが……」

 

ここで立ち止まっておきたいのだが、パレスチナ問題はもとをたどれば欧州の植民地政策とユダヤ人迫害に端を発しており、現在も欧米諸国が積極的に加担している問題である。パレスチナの若者が英語で楽曲を発表し、欧米社会にフックアップされることではじめて自由を手にすることができるという現状が、そもそも歪なことなのだ。音楽が言語や国境を越えてつなぐものは確かにあるだろう。しかし、つながった先の私たちがパレスチナの現実と向き合うことから逃げてしまえば、かれらのナラティブをただ消費するだけになってしまうのではないだろうか。

ラップと同じく、グラフィティもパレスチナの人々にとって重要な抵抗の手段だ。ヨルダン川西岸地区のアーイダ難民キャンプの前に建てられた分離壁とグラフィティ(提供:山本薫先生)

グラフィティに覆われたベツレヘムの分離壁(提供:山本薫先生)

パレスチナ・ラッパーたちの今

2023年10月以降、イスラエル軍によるガザ地区への攻撃によって何万人もの人が亡くなり、ガザに暮らすほとんどの人が避難を余儀なくされている。もちろんラッパーたちも例外ではない。2024年の今、パレスチナ・ラップはどうなっているのだろう。

 

「MCアブドゥルは偶然滞在中だった米国から帰国することができなくなり、ガザの家族の無事を願う悲痛な楽曲をYouTubeに投稿をしています。この先、彼がガザに戻れる日が来るのだろうかと考えると胸が痛みます。彼以外のガザのラッパーたちもほとんど国外にいて、残念ながらほとんど発信は途絶えている状況です。ガザに唯一残っていたPRのアイマンは、イスラエル軍の苛烈な攻撃が続く中、半年以上ガザからの発信を続けていましたが、家族を守るために先ごろエジプトのカイロに避難したとの報せを受けました。

 

イスラエルで活動するDAMは、ついこの間、新曲を発表しました。『くだらねぇ』を連呼し、ここに踏みとどまるか見切りをつけて外に出るか、本当に追い詰められているという心情を、内容とは裏腹に軽いダンスミュージックに乗せて歌う楽曲です。イスラエル国内では昨年10月以降、政権や社会に対して批判が一切できないような状態が続いているようで、これまで積極的に発言していた政治家や人権団体もみんな黙ってしまっています」

 

口に出すことの許されないメッセージを飲み込み、「くだらねぇ」を連呼しながらDAMは瀬戸際の抵抗を続けている。

パレスチナの人々の息遣いを受け取り、想像力をはたらかせること

最後に、パレスチナ・ラップの紹介を通じて山本先生が伝えたいことについて伺った。

 

「『パレスチナ問題は複雑だ』と言われがちですが、私はすごくシンプルな問題だと思っています。ある人間集団が別の人間集団を支配して、その権利や自由を奪っているということです。その状態を80年近くも国際社会が議論してきたのに、いまだに解消されていない。これは日本も決して無関係ではなく、世界全体で解決しなければならない問題です。

 

馴染みのない土地のことだからと敬遠してしまう人がいるのもわかります。だからこそ、音楽や映画を通して、現地に生きている人々の感じていることをダイレクトに感じてみてほしいのです。自分たちと同じ感情を持った人間が、こんな理不尽な思いを何十年も強いられている。しかもその理不尽というのは、矛盾を抱えた世界全体の構造のしわ寄せがパレスチナに集中して起きているものだという、そんなつながりに少しでも思いを馳せていただければ嬉しいです」

 

パレスチナで、イスラエルで、アメリカで、その他にもあらゆる場所でそれぞれの現実を生きる人々がいる。けれど、生きた人間の上にミサイルや爆弾が降ってくる現実など本当は決してあってはならないのだ。かれらのため、私たち自身のために、今、どんな言葉を差し出すことができるだろうか。マイクは私たちの手にも握られているはずだ。

 

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