ヒロシマを描き続けた画家
大阪大学総合学術博物館では、2019年4月から約3カ月の会期で、「四國五郎展~シベリアからヒロシマへ~」が開催された。
四國五郎は広島で生まれ、ヒロシマを描き続けた市井の画家であり詩人である。カタカナの「ヒロシマ」は、世界で初めて核爆弾を落とされた町を象徴的に示した表現である。四國は戦後の広島で峠三吉らとともに反戦文化運動を展開。生涯反戦平和をテーマに制作を続け、2014年に89歳で亡くなった。
四國五郎
今、世界で、詩画人四國五郎の再評価が進んでいるという。国内はもちろんのこと、海外からも展覧会の開催や四國の絵を使った平和教育の教材を作りたいといった要望が続々と寄せられている。アメリカでは彼の作品をテキストに歴史の授業を行っている大学や、またマサチューセッツ工科大学のジョン・ダワー名誉教授らのグループのサイトには、元原爆資料館館長・高橋昭博氏の被爆体験を描いた四國の作品が37枚掲載され、世界中からインターネットを介して閲覧できるようになっている(こちら)。
表現者として戦争の悲惨さ、残酷さをどのように伝えるのかを追究し続けた四國。戦争のリアルタイムな体験者がいなくなってしまう時代に、四國の仕事は、ますますその重要性を増している。この展覧会は、再評価を担ってきた研究者の研究成果を結集し、関西初の機会として開催されたものだ。
子どもの頃から神童と言われるほど絵が上手く、小学校の先生が大人向けのデッサン教室に連れて行ってくれるほどの高い画力を持っていた四國。
画家になる夢を抱いていたが、父を早くに亡くして早くから一家の生計を支え、さらに召集後は関東軍の苛烈な戦場に赴くことを余儀なくされ、その夢は限りなく遠のくことになる。
対戦車用地雷を抱えて敵の戦車の下に飛び込む命を受け出撃日も決まっていたが、その1、2日前に辛くも終戦。しかし、ソ連軍の捕虜としてシベリアに抑留され苛酷な労働に従事。ようやく帰国できたのは終戦の3年後だった。
つまり彼は原爆を体験してはいない。しかし、いつか一緒に絵を描こうと約束していた弟・直登の被爆死を知った四國は、詩や絵画を通じた反戦・反核兵器の運動に身を投じ、その後も反戦平和のために終生戦争を描き、広島を描き続けた。
弟・直登の肖像と鎮魂歌。肖像画には「泣きながらこれを描く」とある
戦争体験者の心の底からの実感
シベリア抑留の記録や作品を見つめる来場者。家族連れから年配の方まで、8000人弱もの方々が訪れた
シベリア抑留時代に密かに書き残し日本に持ち帰った「豆日記」が展示されていた。一切の記録の持ち出しが禁じられ、背くものには厳罰が処せられるという状況の中、どんな覚悟で持ち出したのだろう。「今ここにあることを残すことが大事なんだ。わかっている人間がやらなきゃならない。そういうことを次の世代に引き渡していくことが大事なんだ」というのが、シベリア時代の四國の口癖だったという。自分の未来も見通せない極限に近い状態でも、戦争で何が起こったのかを伝えていくことの責任を自覚していたということに驚く。
四國の反戦平和活動の一つ、一枚一枚手描きの反戦詩画を街頭に貼りだす「辻詩」の活動で描いた作品も展示されていた。
「辻詩 題名未詳(もう止してくれ!…)」
画鋲のあとが生々しく残る
「辻詩 題名未詳(若者の眼は…)」
戦後もなお言論統制が敷かれていた時代。警察が来ると逮捕されるため、仲間がはがしてはまた別の場所に貼りだした。150枚~200枚ほども描いたうち、現在残ったものはたった8枚。朝鮮戦争勃発し戦争がまた近づいてくる気配を感じ、居てもたってもいられない苛立ちが伝わってくるような作品群だ。
表紙や見返しの絵を描いた『原爆詩集』。いまだ日本が連合国軍の占領下にあった1951年に500部発行
全作品とアトリエを管理する長男の四國光さんに父親としての横顔を聞くと、「ひたすら優しく物静かで、謙虚な人でしたね。父が声を荒げているところを見たことがない。近所の子どもたちに対しても丁寧語を使い、大人のように接していました」。
四國光さん
優しい父親像と過激な反戦活動を行う平和の闘士像が合致せず、以前は不思議な感じがしたと光さん。だが、そんな温厚な父が怒った姿を、長女の美絵さんは鮮明に覚えているという。
「姉が二十歳になって初めて選挙権を得たのに、どういう理由だったか棄権した。それを知った父が、大変怒ったそうです。父のことですから、静かに深く怒るんです。姉が、『すいません。もう棄権しません』といくら言っても、『いや、女性が参政権を得るまでにどれだけ大変な思いをしたのか、あんたはわかっていない』と、延々4時間も説教をしたそうです」。
戦争を止めるには、選挙で戦争をしない政府を自分たちで選び取るしかないという強い思い。「戦争を体験してきた人間の、心の底からの実感、信念だったのだと思う」と光さんは話す。
表現物ならではの伝える力
「父は、何かの原稿で、『テーマではなく生き方である。』と述べています。絵描きとして平和をテーマに描くというような、軽い話ではない。平和を描く人生を選択した、そういう生き方の問題だと宣言した文章でした」という光さんの言葉が印象に残る。
四國五郎は何度も何度も母子をモチーフに作品を描いており、今回の展覧会でもいくつかの作品が並んでいて目を引いた。平和だが戦災を予感させるような母子、死んだ子どもを抱きかかえるベトナムの母子、戦火で死んだ母のそばでまんじりともしない子ども。どの作品も、この非人間的な冷酷さが戦争なのだと強くメッセージを伝えている。
「殺されたわが子」
「父はなぜ描いたのか、それは結局、戦争の記憶を伝えていかなければ、という使命感からでした。生きた証言者がいなくなるこれから、大事なものは、残された表現物でしょう。表現物には自分がこれだけは伝えたい、という強い想いが込められています。だから、相手に伝わり胸を打つ。接した人を感動させ、人を変えていく。それが表現の持つ力。表現物から戦争を学ぶことで、本当の戦争に近づかないようにすることが大事です」
四國五郎は、多くの方にわかってもらうため、伝えるために、注意深く表現を創った。例えば、原爆で亡くなった方々を描くにしても、顔をきれいに描いた。目をそらさずに見てもらえるように、特に子どもを怖がらせないように、配慮して描かれているというのだ。
原爆を描いた絵本『おこりじぞう』(作・山口勇子 発行・金の星社)の挿絵を描いた四國五郎が、巻末に寄せているメッセージにはこうある。
「子どもたちに、こわがらないで最後まで見てもらえて、しかもこのうえなくこわい絵本を描くことはむずかしい。こわいものなど描きたくはないのだが、こわいものを地上から無くするためには描かねばならない」。
『おこりじぞう』をはじめとする子ども向けの作品
『おこりじぞう』の原画。やわらかな筆致の中に、戦争の恐ろしさがにじむ
シベリアにいて被ばくを免れた四國五郎の描くヒロシマから、想像する力と大切なものへの愛の力を知ることができた。戦争に対しての彼の怒りと悲しみの表現は、見るものに今我々は何をすべきかを訴えかけてくる。風化しつつある戦争の記憶を呼び起こすために、一生をささげた四國五郎の思いとその生き方から多くのことを学び、戦争を身近に感じることのできた展覧会だった。
取材協力:大阪大学21世紀懐徳堂