Q. 先生は地球化学がご専門とお聞きしました。地球化学とはどんな学問なのでしょうか?
地球化学とは、一言で言えば、私たちの暮らす地球と、人類が生み出した科学のうちの化学の接点となる学問です。人類は化学的な知識を手にする以前から、石器や木炭といった形で自然界に存在する物質を利用してきました。そうした物質やその変化を、元素という概念を使って説明できるようになったのが、まさに地球を化学する、地球化学の始まりです。あらゆる自然科学の根本に位置するような、ある意味では古めかしい学問ともいえるでしょう。しかし現在、地球上には人類の最先端の化学によって自然環境にもともと存在しなかったような化学物質も生み出されています。それらは地球環境にどんな影響を与えるのか、人類と地球が共生していくにはどうすればいいのかを考える上で、地球化学は再び必要とされているように思います。
私の研究の基礎になっているのは、地球化学の中でも「同位体の質量分析」により地球表層の元素の移動を理解するというものです。地球上の物質はさまざまな元素から構成されていますが、多くの元素には、化学的性質はほぼ同じで原子の重さのみが違う「同位体」が複数存在しています。そうした同位体のなかには、自然界の中で非常にゆっくりと、ほかの同位体に変化(崩壊)していく不安定なものがあります。物質の中に取り込まれたこの種の不安定な同位体(放射性核種)は、砂時計の砂が上から下に時間とともに落ちていくように時代を追うごとに崩壊し、安定な同位体(娘核種)に変わっていくので、ある物質の中の同位体の割合(存在度)を測ることでその物質ができた年代を知ることができるわけです。
この年代測定のための質量分析法の手法自体は、1940年代から本格的に利用され始め、さまざまな岩石試料の年代が決定されています。さらに、物質ごとに元素の同位体存在度に違いがあることから、次第にこれを物質固有の「指紋」として物質の由来を探る研究にも応用されるようになってきました。時を同じくして、同位体の崩壊がない酸素などの軽元素の同位体存在度にも大きな変動が認められ、結果として現在はさまざまな元素の同位体存在度の変化を、物質の「指紋」として利用することが可能になっています。最近では、さらに重い元素においてもわずかに同位体存在度が変動することもわかってきて、新たな「指紋」としての可能性が注目されています。
同位体による年代測定と産地判別の一例
① マグマが冷え固まって大地ができると、岩石のなかにある割合で放射性核種とその娘核種が取り込まれる
② 古い地殻と若い火山を構成する岩石では、放射性核種を取り込む割合がそれぞれ異なる
③ 時間が経過すると放射性核種は一定の割合で娘核種へと崩壊していく。増えた娘核種の量から、その岩石ができた年代が特定できる(年代測定)
④ 岩石の種類とできた年代による娘核種の存在量の違いは土壌、さらには農産物に受け継がれるため、この違いを「指紋」として農産物に含まれる同位体存在度から産地が判別できる(産地判別)
わかりやすい例を挙げますと、古い地殻であるユーラシア大陸やオーストラリア大陸と、比較的新しい時代にできた日本列島では、岩石や土壌中に含まれる元素の同位体の存在度に差があります。このように世界中の各地域の物質に含まれる元素には指紋のように違いが刻まれていて、さまざまな元素を測ってみると、その物質がどこからやってきたのかを特定できるわけです。それでは私が取り組んでいる研究はというと、地下水や動植物など、さまざまなモノに含まれる特定の元素の濃度-化学形態-同位体存在度を測ることで、そのモノがどこからやってきたのかを調査しています。
Q. 年代測定はよく耳にしますが、元素の測定でその物質がどこからやってきたのかまで調べることができるんですね。 具体的にはどんなものを調べていらっしゃるのでしょうか?
現在取り組んでいるテーマに、お米や大豆、海藻といった農産物の産地判別があります。農産物から特定の元素を抽出して同位体の存在度を調べることで、その産地を判別するというもので、産地偽装問題への対策として実際に活用されています。大学の研究室で取り組んでいるほか、実際に化学分析を行う現場の技術者の方にも、農産物ごとにどういった元素が産地判別に適しているかなどのアドバイスもしています。食の安全はもちろん、農産物の地域ブランド化やフェアトレードといった取り組みにも活かせる研究です。今のところ、日本と中国の農産物については、従来の同位体的手法で比較的高精度な判別が可能なのですが、日本と同じく火山活動で新しく出来た土地であるカリフォルニアなどから輸入された農産物は、国内産のものとの判別が難しいのが課題ですね。
最近のトピックとしては、熊本地震の地下水への影響について調査に取り組みました。もともと、熊本の地下水中の硝酸濃度が増加している現象について、その由来をたどる研究をしていたのですが、調査期間中だった2016年に熊本地震が発生してしまったんです。すると地震の前後で地下水位の増減や水質変化が確認されたので、地下水がどこからどのように移動したのかを、熊本大学などと共同で、行政機関や民間が管理する合計200地点以上の地下水試料の同位体存在度を比較することで明らかにしました。生活や農業に直結する地下水の動きを知ることで、水質や使用量の管理など、地域の安全な水利用に役立てることができます。この研究成果は2020年6月に学術雑誌に掲載されました。
調査対象は多岐にわたる。こちらはヒグマに注意しながら北海道日高地域の廃鉱山周辺の河川を調査する様子。現地でpHや電気伝導度などを測定し、さらに詳しい化学分析を研究室で行うため、河川水や河床堆積物を採取して持ち帰る。
Q. 先生が取り組んでおられるのは身近な暮らしに関わるテーマなんですね。地球化学という学問の魅力はどんなところにあると思われますか?
近年、さまざまな学問領域が細分化される傾向にありますが、地球化学が扱うのは地球上のあらゆる場所の土や水、植物、大気など、ときには隕石や月に存在する元素も含むので、対象がとにかく幅広い総合学問なんです。化学系、生物系、物理系、さらには人文社会系と、どんな分野の研究者とでもある程度の議論ができるジェネラリストと言えばよいでしょうか。そのようなさまざまな分野を結びつける視点が、環境問題の解決には非常に重要になります。最近SDGs(国連で採択された「持続可能な開発目標」)に注目が集まっていますが、地球化学はSDGsが掲げる17の目標の大部分に貢献することができるんですよ。
対象分野の広がりだけでなく、地球化学は幅広い時間軸を扱えることも魅力ですね。たとえば海洋中の元素を取り込んで成長したサンゴを調べれば、その成長期間の海の環境変化がわかります。南極などの極域の氷に閉じ込められた空気は産業革命以前の気候変動を記憶していますし、海底に堆積したプランクトンの殻からは地球全体の温度の変遷、氷期と間氷期のスパンまでも知ることができます。地球が誕生した46億年前から現在に至る環境変化を明らかにすることで、これから先の将来予測も可能になるんです。
私が地球化学を志したのは環境問題への興味がきっかけでしたが、研究を進めるうちに自然の真理を探究すること自体の面白さにも気づいていきました。ポスドク時代、私は外部資金をもらって隕石の研究をしていたのですが、ある時ふとしたきっかけで周期表に掲載されている亜鉛の原子量が微妙におかしいことに気がついたんです。これは自分がやらなければいけない研究だと腹をくくって、研究費の用途の変更を認めてもらい徹底的に調べてみました。するとやはり当時新しく発表されていた周期表の亜鉛の原子量にはわずかにズレがあることが分かり、数年後には国際標準の原子量が改定されることになりました。
自然は複雑に入り組んでいますが、その奥に隠された根本的な真理をほんの少しだけ見せてくれることがあります。地道にコツコツと研究しているとある日突然、そんな瞬間に出くわすのです。そのときの高揚感を知ってしまうと研究者はやめられないですね。
谷水先生は兵庫県環境審議会温泉部会の特別委員という顔も持ち、有馬温泉も重要な研究対象だ。大学2年生の野外実習で有馬温泉の源泉を訪れ、お湯の出どころが地下数十kmにあることを熱く解説中
Q.先生は他分野との共同研究も盛んに行われているとお聞きしました。
自然科学分野以外での共同研究では、私の場合は人文学、特に考古学とのつながりがあります。最近まで、装飾品の琥珀の産地判別のための基礎研究を行ってきましたし、青銅器の産地判別もお手伝いしてきました。権力者のもとに集まったそうした物品の産地を調べることで、当時の権力の影響範囲が明らかになるわけです。また、青銅器を調べてみると、例えば古い時代に大陸から輸入された青銅器を国内で熔かしてリサイクルして作られた可能性までわかってくる。測定の精度が上がれば、そこから見えてくる世界も全然違ってくるわけです。
産地判別や年代測定とは別に、医薬分野との共同研究も検討しています。無機質量分析法を用いて、生体内代謝物中の特定の化合物の増減を測定することで、さまざまな病気の診断に役立てようとするものです。すでに医療分野で適用されている有機質量分析法と組み合わせることで、補完的に診断の精度を上げることができると考えています。
共同研究では、他分野の研究者の方が抱えている課題に対して私はツールとして測定技術を提供するという立場になることが多いですが、自分の知らない世界を知ることができる、知的好奇心への欲求がモチベーションになっています。
Q.次世代の育成にも力を入れられているそうですね。教育者としてはどんなビジョンをお持ちなのでしょうか?
はい。次世代といっても地球化学の研究者を増やすというだけではなく、社会全体のサイエンスリテラシーの底上げが目標です。もしあなたが大きな災害や事故に巻き込まれた時、あなたの周りに科学の専門知識や論理的思考ができる友人がいれば、きっとよりよい判断や冷静な行動を選択する助けになりますよね。そんな世の中になるように、科学の専門知識を持った人たちをたくさん送り出したいと考えています。先ほどもお話ししたとおり、地球化学はそうしたジェネラリストを育成しやすい分野だと思うんです。
そのために高校生に向けて地球化学とはどんな学問かを発信するところから取り組んでいますが、やはり教育の中心となるのは学生の卒業研究の指導ですね。研究テーマは学生の人数より多めに用意して、なるべく学生が自分の責任で興味のあるテーマを選べるようにしています。研究を進めていくとそれぞれのテーマがどこかで関係しあっていることがわかってきて、他の学生の研究発表を聞くことで自分のテーマに対する理解が深まっていく。一見バラバラに見えても、一つの大きな対象を全体から攻めているわけです。一人ひとり個別のテーマを指導するのは大変手間がかかりますが、そうした視野の広さを養ってもらいたいと思っています。
多くの人にとって大学は人生において教育を受ける最後の機会ですから、その機会を価値あるものにしてほしいという思いで教育に力を入れています。学生はそれぞれ個性がありますから、指導方法もそれに合わせて、伸ばしたいところや直したほうがいいかなと思うところのバランスが大切です。指導が学生に響いて成長を感じた時は教育者として喜びを感じますね。
研究室に設置された質量分析装置から得られた測定データについて、学生とともに分析値のよしあしを確認する谷水先生。教育に熱く取り組むもうひとつの理由は、シンプルに「学生と交流することが好きだから」とのこと