ほとゼロではこれまでさまざまな研究者の方にお話を伺ってきました。そのなかから「今、改めてこの話題を掘り下げたい」「あの研究の続きが気になる」といった研究にスポットを当て、研究者の著書を紹介していきます。
第2弾は、研究者の質問バトンで「犬はどこまで人間の言葉がわかるの?」という疑問に答えてくださった麻布大学の菊水健史先生と、同じく麻布大学の永澤美保先生の共著『ヒト、イヌと語る コーディーとKの物語』を取り上げます。(編集部)
夢の中に昔飼っていたイヌが出てきて、人間の言葉であれこれ話してくれる。目が覚めてちょっとがっかりする……そんなことがよくある。筆者が犬と暮らしていたのはもう十年以上も前だけど、イヌと分かりあいたいという気持ちはなかなか消えない。
菊水先生への前回の取材では、イヌは身近な人間の言葉をある程度聞き分けたり、気持ちに共感したりしている……というお話を聞かせていただいたけど、本当のところ、私たちはイヌのことをどこまで理解できているのだろうか。そして、イヌたちは私たちの暮らしのなかで何を感じているのだろうか。
『ヒト、イヌと語る コーディーとKの物語』は、菊水先生(本文中では「K」)とそのパートナーであるスタンダード・プードルのコーディー、両者の視点から「ヒトとイヌが共にいること」を語るとてもユニークな科学エッセイだ。
イヌとヒトの視点を行き来しながら描く日常
本書では、ブリーダーのもとで生まれたコーディーがKと出会い、成長し、たくさんの家族や仲間と絆を深めてゆく過程が描かれる。たとえば、まだ幼いコーディーから見たKとのボール遊びの場面はこんなふうだ。
「今日のKは、僕の大好きな「クジラボール」を投げて遊んでいる。Kは投げっぱなしなので、僕が拾いに行ってやらなければならない。これは青と白がはっきり分かれていて、芝生に落ちてもわかりやすいし、拾ってきてやるついでに軽く噛むとキューキューと音が鳴るのが楽しくて、僕はKにボールを渡して、もう一度投げるように促す。…」
コーディーは「ご主人様!」というタイプではないみたいで、Kに対する「仕方ないなあ」という態度がなんとも微笑ましい。続いて、同じ場面がKの視点から語られる(ちなみに、Kのパートは菊水先生ご本人が、コーディーのパートは永澤先生が執筆されている)。
「… 公園のボール遊びは楽しい。噛むと音の出るおもちゃは、おそらくイヌの狩猟本能を刺激するのか、一生懸命探して捕まえる。イヌの視力はヒトの五分の一から一〇分の一しかないが、その代わり動体視力は優れている。おそらく色を見るための錐体細胞が少ない分、明暗を見分ける桿体細胞が多くて、影の動きに対して敏感だからだろう。…」
コーディーがコントラストのはっきりした「クジラのボール」を気に入っているのには、どうやらイヌの目の仕組みも関係しているようだ。こんなふうに、イヌから見えている(であろう)世界、ヒトから見たイヌの様子、両者を橋渡しする科学の目によって、コーディーとKが共に暮らすさまざまな場面が描かれていく。やがて家族や仲間が増え、コーディーとKの関係も円熟していく様子がたまらなく良い。
本文3章扉絵より。実は、本書のイラストは筆者谷脇が担当させていただきました。
進化のはてに、イヌとヒトが共にあるということ
見えている世界の違う者同士が、寄り添いあって生きている。イヌとヒトの関係は本当に不思議だ。
本書のまえがきで紹介されている研究によると、ヒトの親子の絆や信頼関係の形成に関係するオキシトシンという分子が、ヒトとイヌとの間でも作用しているという。ヒトの言葉を聞き分けたり共感したりする能力については以前の取材でもお聞きしたが、さらに、イヌはヒトと共生するようになって新しい表情筋を獲得した、という話も出てくる(上目遣いで訴えかけてくるような表情をするときの、 目の周りの筋肉だそうだ)。
イヌは進化の過程でヒトとともに生きることを選択し、コミュニケーションの手段を発達させてきた。コーディーとKの日常はとても個人的な体験として描かれているけれど、一方でこうした壮大な進化の歴史の一部でもあるのだ。
筆者は冒頭でイヌが喋る夢の話をしたが、イヌは喋れないのではなくて、ものすごく頑張ってヒトの声に耳を傾け、ヒトに話しかけているではないか。飼っていたイヌの話をもっと聞いて、もっと話しかけてあげればよかった……と少しだけ悔やんでいる。
イヌと暮らしている人にとって、本書は日常の見え方が変わる一冊になるだろう。イヌと暮らしたことのある人、これからイヌを迎える人にもぜひ読んでもらいたい。
菊水健史先生からのコメント
今回は研究者としてではなく、イヌの一飼い主として記載しました。自分の犬研究において、初めて迎い入れたコーディーとの実際の生活から学んだことが沢山ありました。研究的なことだけではありませんでした。イヌを迎えたことによる自分の生活の変化、特に生活の彩りがかわり、とても活動的な生活を送ることができました。今回は、そのようなコーディーへの恩返しの意味も含まれています。研究者のみならず、一般の方にも楽しんでもらえればと思っております。
永澤美保先生からのコメント
私のイヌ研究はコーディーとの出会いから本格的に始まったといっても過言ではありません。研究者の端くれとして、長らくイヌを擬人化したい衝動に蓋をしてきましたが、この本では思い切り解禁しました。でも、そうしたくなることこそがイヌの魅力です。この本を読むことで、皆さんも想像力たくましくイヌに寄り添い、イヌとの生活を楽しんでもらえることを願っております。