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  • date:2024.5.27
  • author:藤原 朋

分野や文化の垣根を越える新しい学術領域「雰囲気学」とは? 神戸大学の久山先生に聞いてみた。

今回お話を伺った研究者

久山雄甫

神戸大学大学院人文学研究科准教授、神戸雰囲気学研究所(KOIAS)代表

専門分野は近代ドイツ文学(ゲーテ)、ヨーロッパ思想史、雰囲気学。18世紀後半から19世紀前半のドイツ文学・思想史におけるガイスト(「精神」「霊」「息吹」「雰囲気」「気風」などを表すドイツ語)概念の意義変遷についてゲーテを中心に研究。2022年、神戸雰囲気学研究所(KOIAS)を設立。

「このお店は雰囲気がいいね」「最近、職場の雰囲気が悪い」「この人は雰囲気のある俳優だ」。私たちはこんな表現を日常的に使っています。でも、そもそも「雰囲気」とは何なのでしょうか?

 

身近なもののはずなのに説明するのが難しい「雰囲気」について学術的に探究していこうと、2022年、神戸大学に「神戸雰囲気学研究所(KOIAS=コイアス)」が設立されました。「雰囲気学」とはどんな学問で、どのようにして研究に取り組んでいるのでしょうか。KOIASの代表を務める久山雄甫准教授にお話を伺いました。

「雰囲気学」とは? 異分野、異文化を接続してアプローチ

「雰囲気学という名前は、私がお風呂場で考えました」と笑顔で話す久山先生は、この新しい学問「雰囲気学」について次のように説明します。

 

「雰囲気は、私たちにとって身近な言葉です。『場の空気』や『時代のムード』など、雰囲気に似た言葉もよく使いますよね。でも、『雰囲気とは何か』と改めて問われると難しい。そんな曰く言い難い『雰囲気』という現象を、学問の世界でも扱えるようにしたいと考えたのが、雰囲気学の出発点です」

 

雰囲気について包括的に論じるために、雰囲気学には二つの大きな特徴があると久山先生は語ります。一つは、分野間の横断。KOIASのメンバーの専門領域は、哲学、倫理学、美学/感性学、文学、歴史学、芸術学、美術史、心理学、地理学、建築学、演劇学、言語学と多岐にわたり、異分野のコラボレーションによって研究が進められています。

久山先生

 

もう一つは、文化間の横断。哲学概念としての「雰囲気」は、1960-70年代にドイツの新現象学と呼ばれる流れの中で生まれたため、これまでは哲学の分野で、欧米の言語を中心に研究されてきました。しかしKOIASでは、そういった従来の枠組みを超えたアプローチを行っています。

 

「私の専門分野は近代ドイツ文学・思想史で、特にドイツ語の『ガイスト』という概念をテーマとしています。ガイストとは、人知をこえた『雰囲気』のほか、『精神』『霊』『気風』などの意味を表すドイツ語ですが、この概念は東アジアで『気』と呼ばれるものとしばしば重なり合います。私も博士論文では東アジアの『気』に注目し、洋の東西をまたいだ考察を試みました」

 

「雰囲気」ととらえられているものに対して文化横断的にアプローチし、ヨーロッパと東アジアの理論を接続させたいという久山先生。ただし、決してオリエンタリズムやエキゾチズムには偏らず、フラットな視点を保ちたいと強調します。

 

「これまでは欧米中心の学問のあり方がどうしても強かった。そうではなく、さまざまな文化の伝統をフラットに見ることができるようなプラットフォームを作りたいんです。ゆくゆくは、アジア・アフリカの諸地域、オセアニア、南北アメリカといったエリアの文化にも雰囲気学の対象を広げていきたいですね」

意識しないままに影響されている? 私たちと「雰囲気」の関係

設立からまだ日が浅いKOIASにとって、直近の課題は「雰囲気学の基礎概念をつくること」だと久山先生は語ります。

 

「そもそも雰囲気って、曖昧で、非学問的なイメージがあると思うんですよね。そうではなく、雰囲気を学術的に論じられる枠組みをつくることが大切なんです。共通言語となる基礎概念をつくり、そこをプラットフォームにして、さまざまな人たちとコミュニケーションを取っていきたい」

 

雰囲気に関連する現象の身近な例として、久山先生は「天気と人間の関係性」を挙げます。

 

「例えば、近代的な人間観では、天気と人間の理性の働きは切り離せると考えられていますが、実際はどうでしょうか。同じ内容の裁判でも、晴れた気持ちのいい天気の日と、大荒れでみんながすごく気分の悪い日では、判決が違うかもしれない。もちろん、あってはならないことですし、そんなことは起こらないと考えるのが近代的な人間観です。でも、もしかしたら重要なファクターとして存在するかもしれないですよね」

 

確かに私たちは、雲一つない空を見て晴れやかな気分になったり、梅雨の時期になんとなく気分が塞いだりと、少なからず天気に左右されて暮らしています。天気のほかにも、さまざまな要因からなる「雰囲気」に意思決定が影響されることは、多くの人が日常生活で経験しているでしょう。

 

「今はそういった、雰囲気に影響される我々のあり方を論じる包括的な枠組みがないんです。論じるための共通言語がつくれたら、現実の世界をより丁寧に理解したり、より良く整えたりするための道具になるかもしれない。さまざまな歴史文化に学び、現場にできるだけ寄り添って、そうした我々のあり方を見ていく。それが雰囲気学の根本にある考え方です」

 

雰囲気学を論じるための「共通言語」とは、具体的にはどのようなものなのでしょうか。例の一つとして、久山先生は「雰囲気的暴力」という言葉について説明してくれました。

 

「KOIAS主催のシンポジウムで私自身が勉強させていただいたことなのですが、例えば、再開発が進んで街がきれいになっていく一方で、そこでもともと暮らしていた、経済的に立場の弱い人たちが居場所を失ってしまうことがあります。きれいさが持っている隠れた暴力性によって、『ここはちょっと違うな、自分のいる場所じゃないな』と感じる人がいる。そういった力学を『雰囲気的暴力』と呼んで、KOIASでも今後議論していきたいと考えています」

 

「雰囲気的暴力」は都市論の一つのトピックとして議論できるだけでなく、政治の分野では全体主義やネット世論といった問題とも関連していると言います。

 

「雰囲気を使って、はっきりとは意識させないまま、相手を意識と無意識の間で操作できてしまうことがある。雰囲気は人心操作の道具として意図的に使うことができるんです。だからこそ、客観的、批判的に見ていかなければいけないと思います」

 

雰囲気学の基礎概念をつくることで、日常的な雰囲気の捉え方も、より複層的・多面的なものになるはずだと、久山先生は力強く語ります。

 

「さまざまな知見を合わせて、できるだけ包括的で、いろんな分野で応用してもらえるような概念体系ができたらと思っています。各分野のディシプリン(規律)を大切にしながら、ディシプリン同士を橋渡しするような共通言語をつくっていきたいですね。KOIASを立ち上げてからのこの2年ほどで、『雰囲気』はさまざまな分野や文化を橋渡しするのにとても適した面白いテーマだという確信を強めています」

雰囲気学のルーツは意外なあの人

それにしても、近代ドイツ文学を専門とする久山先生が雰囲気について注目するようになったのはどうしてでしょうか。

 

「私が主に研究しているゲーテは詩人、作家として知られていますが、自然科学者でもあり、たとえば色彩についても研究しています。色彩を物理的に解き明かしたニュートン光学とは異なり、ゲーテの『色彩論』は、色彩が人間の眼にどのように映るかという点にも注目しました。『青色の壁紙の部屋は、いくらか広く見えるが寒々しい感じがする』など、現代でいう「共感覚」に通じるかたちで、いわば『色の雰囲気』に言及しているのです」

*共感覚…ある感覚刺激によって、ほかの感覚を得る現象。(たとえば、音を聞いて色を感じるなど)

 

ゲーテ『色彩論』より。 画像:wikimedia commons

 

ゲーテは詩においても、大事なことを直接言わず、余白から雰囲気を感じさせるような表現が多いと話す久山先生。「実はゲーテ研究がドイツ哲学の雰囲気概念と結びついている」と説明します。

 

「雰囲気論の基礎をつくったのが、ドイツの哲学者であるヘルマン・シュミッツとゲルノート・ベーメという人物です。面白いことに、彼らはいずれも、優れたゲーテ研究でも知られていました。私は大学院時代、ドイツに留学しベーメ先生のもとで学んだのですが、ゲーテを研究してきた私の立場からすると、雰囲気学はゲーテ研究の延長線上に位置づけられるんです」

 

ただ、新たな学術分野としての雰囲気学は、こういったドイツ哲学からの流れに縛られず、シュミッツ、ベーメの枠を越えて批判的に展開していきたいと久山先生は続けます。

 

「雰囲気学は、各学問分野の方法論を大切にしながら、さまざまな分野の知見を統合していくことに価値があると考えています」

 

久山先生がそう語る通り、KOIASには多分野の研究者が所属しているだけでなく、ドイツ、イタリア、カナダ、スロベニア、台湾といった海外の研究機関と協定を結び、分野/文化横断的な視点から研究を進めています。

雰囲気の「計測」は可能か? アートとのコラボレーション?――垣根を超えた対話を

こうした雰囲気学の研究に注目し、連携を深める企業もあります。株式会社島津製作所は、雰囲気学の発展、また文理を融合した視点で社会課題を捉える人材育成をめざし、KOIASと共同事業契約を締結。島津製作所の若手社員とKOIASのメンバーとがディスカッションを重ねる「SHIMADZU-KOIAS雰囲気学レクチャー」を定期的に行うなどしています。

島津製作所本社(京都)でのレクチャーの様子。江戸時代の書物デザインにみられる雰囲気について紹介し、現場への応用可能性などをディスカッション。

 

「島津製作所は計測機器を扱う会社ですから、雰囲気の計測や数値化についても対話を進めていく予定です。雰囲気をすべて計測できるとは思わないですが、どこまで定量化できるのか、逆に言うと、定量化できない要素は何なのかを議論していくことは面白いし、重要だと考えています」

 

さらにアートの分野では、美術館とのコラボレーションも生まれています。福島県郡山市立美術館では2024年1月30日から4月21日まで常設展「“雰囲気”を展示する」を開催。会場にKOIASのメンバーによるポップ解説が設置され、3月には久山先生によるギャラリートークも開催されました。

郡山市立美術館でのギャラリートークの様子。「季節感」「共感覚」などをテーマに、絵画のもつ雰囲気の魅力を解説。

 

「とても熱心に話を聞いてくださる方が多くて、ギャラリートークが終わった後もたくさんのコメントをいただきました。飲食店を営んでいる方が『雰囲気のお話を聞いて、先代から“お店の匂い”が大事だと言われていたのはこういうことだったのかと実感しました』とおっしゃったのが印象的でしたね。お店の匂い、つまり雰囲気づくりが大切だという話ですね」

 

今年5月には「KOIAS ART PROJECT」としてベルリンのサウンドアーティストを招いたワークショップやシンポジウムを開催。7月にも群馬を拠点とする画家を招き、ワークショップが開催される予定です。

 

「日常的な経験に即して、学問の世界でも雰囲気を語れるようにしたいというのが雰囲気学の出発点。今後もアカデミア内外の垣根を取り払って、議論や対話を大切にしていきたいですね」

 

久山先生のお話を通して、私たちは日々、知らず知らずのうちに雰囲気に流されて過ごしていると改めて気づかされました。日常生活に潜む雰囲気という存在に改めて向き合うことで、自分を客観視したり、物事を多面的に見たりできるのかもしれません。

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