美術館や図書館、コンサートホール、ホテルに金融機関、新聞社などが集積する大阪・中之島。ふたつの川(堂島川と土佐堀川)に挟まれた、東西約3㎞の細長い島(中洲)です。その中之島の「顔」ともいえる建物が、大阪市中央公会堂です。
大正7(1918)年に竣工し、100年以上がたった今も市民に親しまれているこの建物を設計したのは岡田信一郎という建築家で、当時はまだ珍しかった設計競技(コンペ)によって選ばれました。
でももし、他の建築家による設計案が選ばれていたら? 現在の中之島はどのような景観だったのでしょうか。
そんな問いかけから企画された大阪大学総合学術博物館によるシンポジウム「歴史の可能性を可視化する―再現される大阪市中央公会堂コンペ案」に参加してみました。歴史や建築工学、日本美術史の専門家が、それぞれの観点から中之島の歴史と景観を考えます。
見慣れた風景を別のものに置き換えることで、新しい発見や気づきがあるでしょうか?
シンポジウム会場は大阪市中央公会堂3階の中集会室。創建時は大食堂として作られた。
他の設計案を、現在の風景に合成してみると……
大阪市中央公会堂のコンペに参加した建築家は13人。シンポジウムでは、そのうち5人の設計案を現在の中之島の景観と合成した画像が披露されました。
画像を作成したのは、大阪大学総合学術博物館の研究支援推進員で日本美術史を専門とする波瀬山祥子さん。もとの設計案はあまり着色されていませんが、資料をもとに一部推測もまじえ、画像加工アプリで着色・合成した図を見せていただきました。
下は、国会議事堂の設計に関わったことでも知られる建築家・矢橋賢吉による案です。着色の参考となったのは、矢橋による設計の郡山市公会堂(福島県郡山市、大正13(1924)年)。
大阪大学総合学術博物館の波瀬山さん。画像は昼から夕刻に変化していく風景を映し出している。
二つの立派な塔が印象的。コンペでは「塔が大きすぎる」という評価だったようですが、第3席に入っています。
下は、築地本願寺(東京・築地、昭和9(1934)年)の設計で知られる伊藤忠太による案。
どことなく教会のように見える建物です。伊東の設計による一橋大学(旧東京商科大学)兼松講堂(昭和2(1927)年)を参考に、茶褐色に着色されています。
下は中條精一郎による案。
現在の公会堂を少しあっさり目のデザインにしたような印象です。中條が設計の顧問をつとめた山形県旧県会議事堂(現・山形県郷土館文翔館、大正5(1916)年)を参考に着色されています。
このほか、武田五一、大江新太郎による設計案を現代の風景に合成したものを見せていただきました。
素人の目にはどれも素敵なレトロ建築という感じですが、建築を専門とする木多道宏先生(大阪大学大学院工学研究科教授)によると、建築様式という視点でおおむね下のように分類できるそうです。
それぞれの様式の外見の特徴をごく簡単にまとめると、図の左端のゴシック系は縦ラインを基調とした様式。先ほどの2つの塔をもつ矢橋案はゴシック様式です。
その隣のルネサンスは清楚で禁欲的、バロックは「ゴージャス」。この系列の一番上にある岡田信一郎による案が第一席に選ばれ、今わたしたちが目にしている公会堂の原案となります。
その右側のセセッションは、それまでの様式から脱却して新しい創造をめざすスタイル。この系列の一番上にある長野宇平治の案は第2席に入っています。
長野宇平治の設計案を解説する木多先生
長野の案について、公会堂の建築顧問をつとめた辰野金吾は「南側(側面)がよくできている」と、たいへん高く評価していたそうです。
辰野金吾は日本近代建築の父ともよばれ、東京駅や日本銀行本店などの設計で知られる建築家です。中央公会堂のコンペは指名式で、参加した13名の多くが辰野に東京帝大で教わった門下生であり、研究室のゼミのような雰囲気もあったかもしれません。しかも実施設計は辰野の建築事務所が担当することが決まっていました。
第一席となった岡田案も、もとはネオゴシック様式に分類されるものですが、辰野が「意匠がゴツイ」と実施設計の段階で手を加えてネオルネサンス様式に修正し、赤レンガに花崗岩の白いストライプが走る「辰野式」とよばれるデザインとなっています。
こう聞くと、実力者だった辰野が自分の思い通りにことを運んだように見えなくもないのですが、これには別の側面もあります。
当時、公会堂建築の寄付をしようとした岩本栄之助という人が辰野に寄付の草案を示したところ、辰野は「学者の中にも(設計の)希望者があるだろうから、ぜひ公募をお願いしたい」「(公募の)費用はわずかで、互いに得るものは極めて多大である」と語ったといいます。
コンペを通し、後進を育てようとしたように感じられるエピソードです。
「難波橋のライオン像=豊国神社の狛犬」説
中央公会堂の正面は建物の東側に設定されているのですが、建物自体は、南向きのほうがずっと間口が広いのです。
なぜ広い南側ではなく、せまい東側が正面なのか。そのヒントになるようなお話を、大阪大学総合学術博物館教授の橋爪節也先生がされていました。
現在、公会堂が建っているあたりには明治時代より豊国神社があり、その東側から神社へ向かう参道があったとのこと。東から参拝する人の流れがすでにあったのなら、正面が東向きになるのは自然な気がします。
ちなみに、かつての豊国神社の参道にかかる橋(難波橋 なにわばし)のたもとにはライオンの像が鎮座していて、ライオン橋ともよばれます。
難波橋のライオン像
この橋が架けられたのは大正 4 (1915)年。ライオン像は、1900 年のパリ万博にあわせセーヌ川に架けられた橋のライオン像を意識したものと言われますが、橋爪先生によるともう一つ説があって、これは豊国神社の狛犬ではないか、というのです。
橋爪先生
一匹は口を開けていて、一匹は閉じていて、「阿形、吽形に見えるでしょう」。
確かにそう言われて見ると、狛犬にしか見えなくなってきました。
橋爪先生は、中央公会堂を東西南北から眺めたときの見え方を他の建造物などとの関連から解説し、中之島の「舞台効果」についても指摘されていました。
川に挟まれた中之島は視界を遮るものが少なく、離れたところからでも建物の姿を臨むことができます。川と橋の向こう側に「ドーン」と建物があらわれ、近付くにつれその壮麗な姿がせまってくる。見る人にドラマチックな印象を与えるというわけです。
大阪市中央公会堂 南面
たしかにスポットライトを浴びた舞台のような立地です。橋は舞台への花道といったところでしょうか。
熟慮の末の公会堂建設
そもそも中央公会堂は、どういうきっかけで建設されることになったのでしょう。その背景について、大阪歴史博物館学芸員の船越幹央さんより解説いただきました。
公会堂建設の資金100万円(現在の貨幣価値で数十億円)を大阪市に寄付したのが、さきほども少し登場した岩本栄之助という人です。
岩本栄之助について解説する大阪歴史博物館の船越さん
栄之助は北浜の株式仲買人で、明治42(1909)年、32才のときに渋沢栄一が率いる渡米実業団に参加します。アメリカで富豪による慈善事業が行われていることを知って大変感銘を受け、自らも公共事業へ寄付することを決意。さまざまな人に相談し、渋沢栄一の助言も仰いで、寄付金の用途を公会堂建設と決めました。
「(今の貨幣価値で)数十億円ものお金をポンと寄付するなんて、むかしのお金持ちはすごい」と思いますが、寄付の趣意書には「父母が四十年来、堅実な経営で成した財産をここに社会公共のため、有益の資に使おうと…(中略)その目的を達成することができたならば、父母の満悦と我ら兄弟の本望この上なく」…といった意味のことが連綿とつづられていて、相当の信念と深慮があったことがわかります。
大正期に入ると、普通選挙権を得るための運動や演説会がさかんに行われ、言論や集会の場が必要とされるようになります。そのさなかに誕生した公会堂は、開館時より政治演説会や集会の場となり、一方で著名な演奏家を招いての音楽会なども数多く開かれ、文化や言論の拠点であり続けてきました。
シンポジウム会場(中集会室)に隣接する「特別室」の観覧と解説も行われた。天井の絵は『天地開闢(かいびゃく)』。イザナギとイザナミが描かれている。
フリートークの様子
もし、他の設計案で建てられていたら
シンポジウムの最初の問い「他の建築家による設計案が選ばれていたら、現在の中之島はどのような景観だったのか」にもどって考えると、私の場合は、現在の(岡田信一郎原案による)公会堂にあまりにもなじんでいるためか、これ以上の公会堂はないように感じる一方、仮に他の設計案で建てられていたとしても、舞台のような好立地、実施設計に辰野金吾が関わっていたことを考えると、多少の印象のちがいはあっても市民に親しまれ愛される建物や景観になっていただろうという点は変わらなかったのではないかと思いました。それほど、この立地条件と辰野金吾という人の存在は大きかったと感じます。
一時は老朽化のため取り壊しの危機もあった公会堂ですが、市民や建築家らによる景観保存の要望を受け、大阪市が永久保存することを決定。再生事業費の一部にと新聞社が呼びかけた募金には市民や企業から7億円をはるかにこえる金額が寄せられ、1999年から2002年にかけて保存・再生工事が行われました。
「ついに寄附の使途を公会堂と確定し、収受されることになった以上は、もはや、この金と岩本との間も何ら関係もなきこと」「ただ市民のため便益なる公会堂を立ててもらえれば、それで私は心ひそかに喜ぶ次第」――。明治44(1911)年、岩本栄之助が語った言葉です。栄之助、そして近代建築の先駆者たちの思いは、見事に引き継がれていると感じます。