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  • date:2026.1.29
  • author:関根デッカオ

水の都を彩る“八百八橋”の歴史と魅力とは? 「ブラタモリ」でガイドも務めた大阪大学の船越幹央先生に聞いてみた

今回お話を伺った研究者

船越幹央

大阪大学総合学術博物館 教授・副館長

大阪市立博物館、大阪歴史博物館で学芸員を務め、現職。専門は都市論、日本近代史、庶民文化史。フィールドワークを中心とした調査手法で、大阪の都市文化を研究する。「ブラタモリ」(NHK)で大阪、京都をガイドした経験も。著書に『大阪の橋ものがたり』(創元社、共著)、『看板の世界: 都市を彩る広告の歴史』(大巧社)などがある。

大小たくさんの河川が流れ、「水の都」とも称される大阪。その都市構造から、おのずとそこかしこに橋が架けられることともなり、それらはあまりの数の多さから「八百八橋(はっぴゃくやばし」の愛称で古くから親しまれてきました。大幅な市域拡張がなされた昭和初期には、大阪市内に最大で1600もの橋が渡されていたとする説も。数のうえでいえば、808のおよそ2倍もの橋を市民が往来していたことになります。

 

何気なく歩いていると通り過ぎてしまいがちですが、現代もさまざまな形で個性を主張する大阪の橋。この記事では、これほどまでに多くの橋が架けられるに至った地理的条件、豊臣秀吉の大胆な都市開発の影響、そして近代以降の街づくりの一環としての架橋に至るまで、大阪の都市文化に詳しい大阪大学総合学術博物館 副館長の船越幹央先生に話をお聞きしました。さらに橋を通して「いまの大阪」をより深く楽しむ鑑賞法についても教えていただきました。

 

それでは、知られざる大阪の橋の世界へ眼差しを向けてみましょう。

 

※冒頭の写真は天満橋(筆者撮影)

お話を伺った船越幹央先生

八百八橋の形成に至る“地理的前史”と“ゼネコン武将”

そもそもなぜ、大阪には多くの橋が架けられることになったのでしょうか? 前提として、かつて大阪市内のほとんどが海だったことが挙げられると船越先生は指摘します。その要因は縄文時代、氷河期に形成された氷が溶けて海面が上昇したこと。奈良県との府県境にあたる生駒山麓付近までが海となり、河内湾と呼ばれる湾が形づくられます。そこに半島として突き出していたのが、大阪平野のなかでも標高の高い上町台地でした。このころはまだ、梅田やなんばといった繁華街も海の底だったのです。

 

「私が勤務する大阪大学総合学術博物館に近い阪急曽根駅近くにも崖が残されていますが、そこはかつての海岸線です。古墳時代の5世紀ごろに入ると、河内湾は淀川と大和川から運ばれてくる砂によって、徐々に湖になっていきました。同時に周辺には、土地が低く水はけの悪い低湿地帯が目立ち始めます。ここが内陸都市である京都や奈良との大きな違いで、むしろ河川から堆積した土砂で形成された沖積平野に発展した江戸と共通する特徴があるといえます」

 

大量の土砂が流れ込むにつれ河内湾はやがて河内湖となり、中世に入ると上町台地の東側には少しずつ村落が形成。さらに明応5年(1496)に浄土真宗の僧・蓮如が上町台地の北端、現在の大阪城付近にのちに大坂本願寺となる御坊の建立を始めると、一帯には寺内町が発展するようになりました。船越先生によれば、ちょうどこの時期が大坂が大都市としての歩みを始めたころ。本願寺が織田信長との石山合戦に敗れ、入れ替わるように天下人となった豊臣秀吉が伏見から大坂に入って、本願寺の跡地に大坂城の建設を始めると、その流れはますます加速します。

 

「大坂城を中心に都市開発を進めた秀吉は、聚楽第の建設や備中高松城の水攻めといった経歴からも分かるように、土木工事の名手でもありました。秀吉が目をつけたのは標高の低い上町台地の西側。大坂城から大阪湾に向かうように、新たな街をつくるべく土地造成に乗り出したのです」

現在の大阪市周辺。秀吉が造成した上町台地北端の西側には人工の河川が整備され、多くの橋が架かる(国土情報ウェブマッピングシステムより作成)

 

ダンプカーなどない秀吉の時代の城下町開発は、いわば「地産地消」。城の防衛を固めるため、丘陵部を下った低湿地に堀川を築くにあたっては、その場で掘削した土砂を水分を多く含んだ「緩い土地」の地盤固めに充てました。大坂城の西を南北に貫く東横堀川を開削する際は、自然のくぼみを利用したといいます。江戸期に入って完成した道頓堀川の上流が川幅約30メートルなのに対し、下流では50メートルにもおよぶ理由は、海に近い土地の方が土地改良により多くの土砂を必要としたからとも推定されます。

 

こうやって人工的にできた新たな「川」には、自然と橋を架ける必要が生じることに。橋は、大坂の都市成長と並行してその数を増やしていったのです。一方で船越先生からは、こんな興味深い指摘も。

 

「古代から、人やモノが行き交う街道沿いの整備は重要でした。しかし、長らく熊野詣に利用されてきた熊野街道は、標高の高い上町台地の上を通過していたため、川が通る余地はなかった。反面、歴史の浅い紀州街道は台地の下に位置する堺筋を経由していた。秀吉が登場する以前、街道に小さな橋が架かっていたとしても不思議ではないですね」

 

八百八橋の原型を築いた「ゼネコン武将・秀吉」以前にも、大坂には橋の街としての歴史の萌芽があったのかもしれません。

江戸から昭和にかけて大輪の花を咲かせた“橋の都”

大坂の陣を経て権力が徳川の手に渡って以降も、西国統治の最重要拠点として大坂では旺盛な都市開発が続けられました。江戸堀川、長堀川など、現在も地名に名を残す堀川が開削され、長堀川と西横堀川との交差点にはその名の通り4つの橋からなる四ツ橋が架橋。また、大坂城の周囲には天満橋、高麗橋など幕府が直接管理する12の公儀橋(こうぎばし)が架けられ、城の守りを固めました。また、京街道の起点だった京橋や紀州街道が延びる日本橋も、公儀橋に指定されました。

 

一方そのころ、江戸や京都では100を超える公儀橋が建設されていたとのこと。比べると、大坂のそれはずいぶん少ないようにも感じられます。それもそのはずで、大阪は武家以上に町人が力を持った街。町人が維持・管理する町橋(まちばし)の数が圧倒的に多かったと船越先生はいいます。橋のありようは、そのまま都市の性格ともリンクしているというわけです。いずれにしても、秀吉が遺した大坂という街の「形」が八百八橋の土台になっていそうです。

 

「人工の河川である堀川は川幅も狭く、橋が架けやすい条件が整っていたともいえます。それに加えて、江戸時代に入ると土木技術も飛躍的に進展してきた。当時の最先端技術で、いまにたとえるならAIの進歩をイメージするといいかもしれません。大坂においても川幅の広い大川(旧淀川)にも、難波橋、天神橋といった200メートル級の長大な橋が建設されるようになりました」

 

現代の中之島でも存在感を放つ難波橋、天神橋は天満橋とともに「浪華三大橋」と称され、浮世絵の連作『浪花百景』に観光名所として紹介されるほどに。堀川とは異なる川幅を持つ自然の河川を渡るには、渡し船が当たり前の時代にあって人々はさぞ驚いたことでしょう。

 

「江戸後期には現在の大阪市北区、中央区、西区に該当する大坂三郷と呼ばれる狭いエリアに、808には遠くおよばないものの200以上もの橋が架けられていました。これらの橋は江戸後期に出版された『浪華橋々繁栄見立相撲』に掲載され、相撲の番付表になぞらえる形で東の大関は天神橋、西の大関は難波橋といったように、通行量の多さをもとにしたランクづけがなされています」

 

時は流れ、大阪市内の橋の数がピークを迎えるのは昭和10年代。度重なる市域拡張で、市政が敷かれたころと比べると12倍もの面積を持つようになった「大大阪」は、その市内になんと1600以上の橋を数えるまでになっていました。もっともこれらは、戦後のがれき処理や高速道路の整備といった戦後復興に伴う堀川の埋め立てにより、姿を消していくことになりますが、ほんの一瞬であっても大阪の街が八百八橋を倍近いスケールで体現できたことは、日本を代表する水都として特筆すべきことでしょう。

 

ちなみに八百八橋の呼び名が定着した時期については、まだ確定的な資料が出ていないそうです。興味をそそられる部分ですが、江戸の八百八町と対になるように八百八橋は明治時代になって呼び習わされるようになったのか――今後の研究が待たれます。

フィールドワークの一環として街歩きイベントを開催する船越先生。写真は心斎橋にて

“橋マニア”が教えるおすすめブリッジ3選とその鑑賞法

ここまで大阪の橋の歴史をひも解いてきました。続いては令和のいまも見に行ける橋の魅力について話を聞いてみることに。構造や歴史的価値などさまざまな側面から、日々フィールドワークを重ねる船越先生の視点で「おすすめ」を語ってもらいました。

 

天神橋

「浪華三大橋の一つ。現在のものは昭和9年(1934)に架橋されたものです。このころに架けられた橋には、行政主導によるヨーロッパの設計思想が息づいているのも特徴。アーチを道路の下に持ってきて橋上の眺望をよくするスタイルは天神橋に限らず、中之島の中心にある多くの橋で踏襲されており、都市景観までトータルデザインされていたことがよく分かります」

中之島をまたぐように架かる天神橋

 

高麗橋

「東横堀川に架かる高麗橋は、橋の西詰にあった櫓屋敷を模した親柱が特徴です。橋の下部のアーチは、東京の聖橋を思わせるすかし構造となっており、軽快な印象を与えるのもポイント。この橋の東詰にかつて里程元標が置かれていた事実からは、地理的に重要な位置を占めていたこともうかがえます。全長約3キロの東横堀川には14の橋が架かっていますが、下流の平野橋をはじめ見どころはたくさんあります。大阪の橋を気軽に楽しむうえで、またとないエリアではないでしょうか」

高麗橋。現在は直上を交差するように阪神高速が走る

 

なみはや大橋

「港区と大正区を結ぶ全長1740メートルもの長大橋。自動車専用と思いきや、歩行者も歩いて渡ることができ、高い位置から港湾部の工業地帯を見下ろすことができます。高度経済成長期の大阪を感じられるという意味では、上田正樹の『悲しい色やね』の世界観に通ずるものもありますね(笑)。同様に、めがね橋として親しまれる千本松大橋も往時の活気を感じられるスポット。夜景も美しく、界隈を走る無料の渡船と組み合わせて訪ねるのもいいかもしれません」

工場地帯を見下ろすなみはや大橋

 

土木構造物は、100年選手でも当たり前。大阪には「近い過去」を感じさせてくれる橋が、まだまだたくさん残されています。それらをより深く味わうには「自らの足を使って橋上だけでなく、側面や裏面まで見ることで構造や形式を知ることが大切」と船越先生。ここ最近は人や車が通れない水管橋にも注目しているそうです。八百八橋の何よりの魅力は、いずれもが「見放題」であるということ。土木遺産が見直されつつあるいま、水の都ならではの構造美を見つけに出かけてみるのはいかがでしょうか。

 

 

(編集者:谷脇栗太、稲田妃美/ライター:関根デッカオ)

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