京都駅からほど近い、京都市立芸術大学のキャンパス。その一角で、不思議な穏やかさをまとったイベントが2ヶ月に1~2回のペースで開催されています。同大学発のプロジェクトとして2024年4月に誕生した、通称「イヌ場」です。ここは、人も犬も、それぞれが各々のスタイルで、ただそこに居ることを楽しむための空間です。犬を連れた人はもちろん、犬を連れていない人も、ふらりと立ち寄って参加することができます。
プロジェクトの立ち上げメンバーは、美術家であり同大学の学長を務める小山田徹先生と、同大学の「ギャラリー@KCUA」チーフキュレーター/プログラムディレクターの藤田瑞穂先生。イヌ場とは、イヌと人による共有空間を作ることで「多種共生のあり方について考える」というもの。それは一体どういうことなのでしょうか。1月に開催されたイヌ場のレポートと、先生お二人にお話を伺いました。
(メインビジュアル 撮影:吉本和樹 提供:京都市立芸術大学/プロジェクトメンバーの一人、写真家・映像作家の片山達貴さん(右)とミニチュアシュナウザーのぼん)
【今回お話を伺った研究者】
◎小山田 徹/美術家・京都市立芸術大学理事長兼学長
1981年に京都市立芸術大学入学、日本画を学ぶ。在学中に友人とパフォーマンスグループdumb type(ダムタイプ)を立ち上げ、国内外での公演に数多く招かれる。1998年頃から、共有空間の獲得をテーマに活動を行う。「ちっちゃい焚き火(薪ストーブ)を囲んで語らう会」などさまざまな人々が集い、交流する空間や時間を開発し、社会実装を試みる。2010年から同大学彫刻の専任教員、2021年10月から美術学部長。2025年4月より現職。
◎藤田 瑞穂/京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA チーフキュレーター・プログラムディレクター
大阪大学大学院文学研究科文化表現論専攻博士後期課程修了。博士(文学)。2014年から京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAに所属、2019年より現職。多様な分野の専門家と協働し、領域横断的な展覧会やアートプロジェクトなど、さまざまな「場」をつくる活動を行う。近年は特に、生物多様性といった視点をテーマとした芸術表現について考察している。共編著に『拡張するイメージ──人類学とアートの境界なき探究』(亜紀書房、2023)など。
ゆるりと始まったイヌ場
冬のある晴れた日、大学構内の自転車置き場の横の広場で14回目のイヌ場が開催されました。誰もいなかったのに、時間になったらぼちぼち集まる人と犬たち。簡易な椅子が円形に並べられ、真ん中には美術家・藤浩志氏の彫刻作品「ヤセ犬」もゲストとして参加しています。彫刻も本物の犬も、そこにいるだけでほっこりした空間に。

イヌ場のかわいいのぼりが掲げられている(写真左)。キャンパスには市街との壁がなく、一般の人もふらりと立ち寄ることができる(撮影:吉本和樹 提供:京都市立芸術大学)

写真左奥に写っているのが「ヤセ犬」(撮影:吉本和樹 提供:京都市立芸術大学)
イヌ場の発案者で学長の小山田先生が連れてきたのは、元盲導犬のオフトと元保護犬のフェンダー。彼らを撫でながら談笑していたら、いつの間にか学生や先生、職員さんの姿も。今までどこにいたの?と思うほど、たくさんの人たちが入れ替わり立ち替わり訪れ、気づくと、そこかしこで見知らぬ人同士話していました。寒かったので近隣の方の参加は少なかったのですが、愛犬を連れてきた人もいました。

小山田先生(写真右)とフェンダー。学生さんと自然に会話が弾む(撮影:吉本和樹 提供:京都市立芸術大学)
名刺交換や自己紹介をしなくても、犬がいるだけで話ができる不思議な空間。人と人の間にある見えない壁が、犬がいるだけでスッと消えるのです。性別も年齢も犬を飼っているもいないも関係ありません。ただ、ゆるくつながることができます。
犬たちは思い思いのスタイルでくつろいでいました。ボールに夢中でずっとボール遊びをしている犬や人に撫でてもらうのを楽しむ犬。過去のイヌ場では、何を思ったか「ヤセ犬」にマーキングしてしまう犬もいたそうです。犬同士戯れることはなかったのですが、それぞれの存在を受け入れているように見えました。
キャンパス移転で環境が変化…イヌ場始動のきっかけとは?
2023年10月、京都市立芸術大学は京都市郊外の沓掛(くつかけ)にあった旧キャンパスから京都駅東側の崇仁(すうじん)地区に移転しました。以前のキャンパスとは環境が大きく変わる中で「イヌ場」というプロジェクトは動き出しました。
焚き火を囲む場作りなど、長年にわたって人が集う場「共有空間」の可能性を探ってきた小山田先生に、そのきっかけを伺いました。

小山田先生(写真左)と藤田先生。愛犬たちと一緒にお話を伺った
「今まではいろんな方法を使って、人が集まる場所を作ってきました。郊外型の旧キャンパスではできたけれど、都市型の新キャンパスでは難しくなってしまったことがたくさんあります。旧キャンパスでは焚き火を頻繁にやっていましたし、よく犬を大学に連れてきてもいました。沓掛キャンパスの時はちょっと離れたところに研究室があったのでおおめに見てもらっていたんだと思います。ところが、移転してきた時に、事務局から犬の同伴についてはご遠慮ください、と学内に周知があったんです。新しい環境のなかで地域との関係にも配慮する必要があり、慎重な対応をされていたのだと思います。ただ、私としては前向きな形を探りたいなと思って、アートプロジェクトとして犬と人の共有空間をつくろう、と愛犬家でもある藤田さんに声をかけて、一緒にイヌ場を始めることにしました」(小山田)
小山田先生は、人がフラッと集まって、なんとなくしゃべり始められるような場作りを長く手がけてこられました。誰もが「自分が何者か」名乗らなくてもすぐに会話できる。そういう場を、犬と人の共有空間としても実現できないかと考えたそうです。
「本来、自然というのは、人間以外に緑があったり他の動物がいたりしたはずですが、今の都会の生活の中ではなかなかそういう機会がありません。そこでイヌ場では、あえて犬を介在させることで、場の主役を人間から解放し、人間中心主義ではないものにしたいと考えました。犬がそこにいるだけで、現代の生活で良しとされがちな効率だけを求める場ではなく、予測不能で穏やかな場へと変わるのです。犬が中心だと、犬が人の集まる場所に性格づけをしてくれるのではないかと考えました」(小山田)
イヌ場がうまく機能するように、全体のプロデュースや調整役を担っている藤田先生は言います。
「以前の沓掛キャンパスは木々に囲まれ、自然を身近に感じることができる場所でした。野良猫によく出会ったり、鳥の鳴き声がよく聞こえてきたりもして、小さな動物も含めた村みたいな雰囲気だったんですね。また、日本画専攻では課題の一環として鶏を通年で飼育していましたし、また彫刻専攻ではときおり、モデリングの授業のために牛や馬、豚を連れてきて飼育することがありました。ところが新しいこちらのキャンパスに移転してくると、環境が大きく変わって、学生も教職員もコンクリートの建物の中で過ごすことが多くなりました」
新キャンパスでは、誰もが目的の建物の中に入ると、なかなか外に出てこなくなりました。学内で専攻以外の人たちと会う機会も少なくなってしまったそうです。
「このままでは『この学校らしさがなくなってしまうのでは』と危惧し、犬たちの力を借りて人の流れを変えたり、人の意識を少し柔らかくしたりすることを試みました」(藤田)
愛のある共有空間を“獲得”する
新しい環境における課題感と、小山田先生の長年の取り組みが重なり生まれたイヌ場。小山田先生は、こうした場所と人との関わりにおいて「共有空間の獲得」という言葉を非常に大切にしていると言います。
「今の時代、多くの共有空間は、決まった目的があり、誰かに作られ用意されています。しかし、たとえば焚き火をしていると、たまたま通りかかった人が焚き火に当たって話をします。そういう出会いの場、共有空間で関係ができた時に、人は『獲得感』を感じるんです。それは、自分が関与してその場を作ったのだという手応えのような感覚です。一方で、最初から完璧に用意された空間には、その獲得感がありません。だから愛が芽生えないんです。大学の教室や学食を、誰も自分から進んで掃除しようなんて思わないでしょう? ここは自分の場所だという獲得感がないからです」(小山田)
イヌ場は犬がいるだけで、そこに来た人間が一生懸命に関係や場を作ろうとする場だと小山田先生は言います。
「焚き火場では、火に当たっていると薪をくべたり火を調整したりといった『ケア』や『労働』が発生します。実はイヌ場も同じで、犬がそこにいれば、ただ眺めたり犬を撫でたりするだけでなく、例えば、参加してくれている犬が排尿排便をしてしまったらみんなで掃除をしたり、犬同士が喧嘩しそうになってしまったときに間に入ったりするという『ケア』や『労働』があるんです。こうした自発的な労働が促されると、人はその場を作ることに自分も参加しているのだと強く実感します。焚き火を囲む空間や、犬のいる空間には、この能動的な獲得感があります。誰かに与えられたのではない、自分たちの手で作り上げられていく共有空間こそが、今の世の中にはもう一度必要なのではないかと思っています」(小山田)
イヌ場や焚き火場などの共有空間は、心地いいと感じる人もいますが、ともすれば「面倒くさい」と思われることもあるのではないでしょうか。
「深く関与しすぎると面倒くさいと思う人もいるでしょう。でも、そういうものがない限りは本当の獲得感や愛は芽生えません。例えば地域の祭りに参加すると、地域における獲得感を感じながら、共同体を運営していくことができます。銭湯も、内風呂がこれだけ普及しているとわざわざ行くのは面倒臭いかもしれませんが、従来は安否確認をしたり地域の子どもの成長を見守ったりできる場所が共同体の中に埋め込まれていたのです。こうした場所がないと人は孤独感を深めるでしょう。個人主義や効率主義ばかり優先しては、余計な部分がなくなって息が詰まってしまうのです。こんな現代だからこそ、イヌ場のような場作りをする必要があると考えています」(小山田)

キャンパス移転予定地の空き地で行われていた焚き火を囲む共有空間「ウィークエンドカフェ」(撮影:kentahasegawa 提供:京都市立芸術大学)
実際にイヌ場に参加してみると、改めて自己紹介しなくても、犬がそこにいるだけで見知らぬ人と会話することができ、互いの立場や肩書に縛られず垣根が取り除かれていくように感じました。凝り固まった観念や心がほぐれる場所と言ってもいいのではないでしょうか。
イヌ場を希望が持てる場所にしたい
イヌ場は今回含め14回開催されましたが、現状の課題や展望についても伺いました。小山田先生は学生への期待も込めていると言います。
「イヌ場は学内に馴染んできているとは思います。ただ、本当は、いろいろなタイプのこういう場を作るとか、人が集まる企画が学生からもっと群がり起こってほしいのですが、まだみんな『お客さん』な感じです。今、在籍している学生の大半はコロナ禍に高校時代を過ごしているということもあり、やんちゃしたり他者とのつながりを自発的に持ったりする機会を奪われてしまったので、少しずつ取り組みをみながら、学生たちが一歩踏み出す後押しになればうれしいですね。
実は、イヌ場を学内で開催するには結構たくさんの申請をする必要があります。犬が苦手な方もいますし、安全面からもさまざまな段取りをして開催しています。学生にとってはそのハードルが高いので、そうした泥臭い部分もあえて見せていく必要があるかなと考えています。イヌ場がきっかけになって、学生たちが自ら動き出すようになってほしいですね」(小山田)
学生への思いも込められ、実験的に始まったイヌ場。藤田先生は、地域とどういう関係性を作っていくか、意識的に考えながら取り組んでいけたらと考えているそうです。
「今はまだ、大学の中だけの活動に見えるかもしれません。でも本来は、地域の方々がふらっと立ち寄り、犬を介して学生と何気ない会話を交わすような日常の場所にしたいと考えています。難しい言葉で説明しなくても、一匹の犬がそこにいるだけで、街と大学のあいだにある境界が少しずつ消えていく、そんな場をめざしています。
どうしても都会にいると私たちの視野は狭くなってしまいがちです。だからこそ『人間以外の存在』に介在してもらう取り組みを通して、小山田先生がおっしゃるような、人間中心ではない新しい多種共生のあり方を考えていきたいと思っています。効率やルールに縛られて息苦しくなるのではなく、ここに来れば希望を感じられる。そう思ってもらえる場を、この地域で育てていきたいです」(藤田)
最後に、改めてイヌ場に込めた思いや展望を小山田先生に伺いました。
「イヌ場は、人間中心ではない世界を眺めるための訓練としてはすごくいいような気がしています。自然をどう捉えるかとか、自然とどう付き合うかとか考えることは、人間が叶わない、もしくは関与できない部分を感じることでもあります。コンピュータで仕事ばかりしていると、ついつい全能感が生まれて、人間中心主義の社会を作ってしまいますから…。芸術や芸術大学にできることは、さまざまな自然現象や、動物も含めた自然から学んで、それを他者と共有するために表現に変えること。これからもそういった場をつくっていきたいですね」(小山田)
自然も含めた他者との関係性を築くことができるイヌ場。犬連れの人も犬を飼っていない人も誰でも気軽に参加できるので、興味のある人はぜひ参加してみてください。犬がそこにいるというだけで、新しい発見があるかもしれません。