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化粧と「触れるケア」の秘めたる効果 化粧療法の話を武庫川化粧品イノベーションセンターで聞く

2022年9月29日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

化粧をすることで気持ちが前向きになったり、「さあ、出かけよう」と気持ちが切り替わったり。外見によって気持ちにも変化が起こることは、多くの人が経験することだと思います。

メークやスキンケアを通じて心身の健康の維持・向上をめざす化粧療法のお話を、武庫川女子大学武庫川化粧品イノベーションセンター(M-COSMIC)の市民講座で聞いてきました。

 

今回の講師は武庫川女子大学客員教授の谷都美子先生です。谷先生は化粧品会社で営業、美容研究、商品開発やマーケティングなどに従事。2014年より化粧療法に取り組んでおられます。

講師紹介

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谷 都美子 武庫川女子大学薬学部 健康生命薬科学科客員教授

(一社)日本介護美容セラピスト協会代表理事、(一社)日本化粧医療学会理事、化粧医療専門士、化粧医療アンバサダー。

 

まずは、化粧療法とはどういうものか?というお話から。

化粧というと、ふだんの生活で一般の人がする化粧や、プロのメーキャップアーティストが俳優やモデルにするような化粧を思い浮かべますが、ほかにもいろいろな種類があります。

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*講座スライドをもとに作成

 

これらはすべて化粧療法に分類されるのですが、谷先生が取り組んでいるのは主に高齢者施設などで行われる介護美容です。外見を整えると自分に自信をもち、人と積極的に関わりたくなったりするのは、介護美容を利用する方も同じ。表情が明るくなり、コミュニケーションへの意欲が高まります。 

気持ちも装う化粧は「気粧」

外見は、その人の内面にも大きな影響を与えていると言えそうですが、どのくらい気になるものなのでしょう。

65歳以上の高齢者(男女)を対象に行われた調査「高齢者が気になること」(特定非営利法人 老いの工学研究所、2017年)によると、高齢男女が気になることの1位は「身体能力の衰え」、2位が「認知症」で「外見の衰え」は5位。一方、女性だけに限定すると「外見の衰え」と答えた人は2位で、1位の「認知症」に次いで多い結果となっています。 

男性と比較すると、女性は外見を気にする人がより多く、その分キレイになったときの心の変化も大きいようです。

化粧療法の「ビフォーアフター」の写真を見せていただくと、効果は一目瞭然です。

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肌や唇の色が明るくなるだけでなく、表情が別人のようにイキイキと変化しているのに驚きます。「今さら化粧なんて」と最初はしり込みしていた方からも、実際に化粧をすると「気分がいい」「コロッと気持ちが変わる」「最高!」などの感想が聞かれるとのこと。「化粧は気持ちを装う『気粧』」という先生の言葉に納得です。 

きれいな色、香り…、化粧で楽しくリハビリ

こうした化粧は、介護や美容についての訓練を受けた資格をもつセラピストが行いますが、「すべてプロにおまかせというわけではなく、本人も考えたり手を動かしたりして参加します」と谷先生。

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口紅やチークなど「どんな色がいいですか?」と問いかけて好きな色を考えてもらい、できる範囲で手を動かしてもらうそうです。

 

突然ですが、クイズです。認知症予防に一番効果的な化粧は、次のどれだと思いますか?

①ファンデーション ②チーク ③アイメーク ④眉 ⑤口紅

 

会場では多くの人の手が「口紅」で挙がったのですが、正解は「眉」。眉を左右対称にきれいに描くには、集中力や、眉墨を持って正確に動かす指先の力が必要。思考や判断をつかさどる脳の前頭葉も活性化します(眉以外の化粧にもその効果はあります)。

日常的に化粧をすることで、たとえば容器のキャップを開けられなかった人が開けられるようになるなどのリハビリ効果も期待できるそうです。

 

調査データもいくつか見せていただきました。下図の左側のグラフは、週1回の化粧療法を3カ月間続けたときの免疫力の変化をあらわしています。

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出典:日本免疫学会発表 宇野・谷

 

免疫力が上昇するほか、食欲や睡眠の質が改善、高齢者うつが少なくなる、さらに人間関係がよくなるなどの効果もみられます。谷先生はつねづね「美容は美だけでなく、健康につながる」と主張しているそうですが、それがよくわかる結果です。

人間は中身が大事とも思いますが、人が他人と出会ったときにまず見るのは、やはり顔。顔という自分の看板に自信をもつことで何かと調子が良くなるという話を聞くと、人間って社会的な生き物なんだな、と改めて感じます。

「触れるケア」の効果に注目

化粧をするときは相手の顔に触れることになりますが、顔は他人に触れられることに抵抗を感じるプライベートゾーン。「いきなり顔に触れることはせず、抵抗を比較的感じにくい腕にやさしく触れて、心を開いてもらってから顔の化粧を行います」(谷先生)。

やさしく触れることで痛みや不安をやわらげ、気持ちを落ち着かせる「触れるケア」はエビデンスのある技術で、認知症の緩和ケア、がんの緩和ケア、障害児医療、ストレスケアなど多岐にわたり活用されているそうです。

谷先生も、東日本大震災の被災地で2012年から5年間にわたり約6400人にハンドマッサージのケアをされています。

ハンドマッサージの様子

ハンドマッサージの様子

 

ハンドマッサージを利用した人の感想は「難しいこと抜きに気持ちよかった」「心までほんわかした」「距離が縮まった」など。肌と肌のふれあいによるコミュニケーションは相手の心に寄り添い、悲しいときや傷ついたときの心の支えになります。

触れ方のコツは?

触れるケアでの気持ちいい触れ方とは、どのようなものでしょう。講座では、触れ方のコツも教えていただきました。

まずはアイコンタクト。そして、プライベートゾーンから離れた、触れられても抵抗が少ない部分に触れます。まず肩からひじにかけて触れながらコミュニケーションをとり、手や顔に触れます。

 

谷先生によると、気持ちいいと感じてもらうのに大切なのは「ゆっくりと」触れること。一秒に4~5cmくらいのゆっくりとしたスピードだと副交感神経が優位になって心が落ち着きますが、一秒に10cmの速さだと交感神経が優位になり、落ち着かなくなってしまいます。

ゆっくりと触れると、皮膚の神経線維(「C触覚繊維」とよばれる)が反応し、オキシトシンが分泌されるそうです。オキシトシンは「愛情ホルモン」「幸せホルモン」ともよばれるホルモンで、母性行動の促進、痛みや不安の軽減、愛着・愛情形成などのはたらきがあります。

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前腕や顔など産毛の生えているところにはC触覚繊維が多く、ストレスを感じたときなど、自分でなでるようにしても気持ちが落ち着くそうです。

 

小学校でも授業にハンドマッサージを取り入れているところがあり、コロナ禍でいら立っていた子どもが落ち着いたり、親子でハンドマッサージをして元気になったりという効果があるといいます。もともと元気な人でも気持ちが軽くなる効果があり、「言葉だけでなく、身体を通じて思いやりやつながりを感じられるところが大切です」と谷先生。

化粧で外見を美しくすることや、肌に触れるコミュニケーションが心身の健康につながる。ふだんの生活でも、自分自身や身近な人のためにできることが増えそうです。

 

色は世につれ、世は色につれ ファッション・カラーにみる時代の移り変わり――共立女子大学・共立女子短期大学の公開講座をレポート

2022年8月25日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

 

「歌は世につれ、世は歌につれ」ということわざがありますが、色もまた、時代を反映したものが流行し、その時代のムードが色に影響を受けることがあります。私たちに最も身近な装いの色(ファッション・カラー)を通して時代ごとの変化を視覚的に考察します。――そんなテーマで行われた共立女子大学・共立女子短期大学による公開講座『江戸・東京の色彩~ファッション・カラーにみる時代の移り変わり~』に興味をひかれ、聴講してみました。

 

講師は共立女子短期大学教授の渡辺明日香先生。渡辺先生は、1990年代よりストリートファッションの定点観測に基づく現代ファッションの研究をされています。今回の講座では、ファッション・カラーと時代の移り変わりとの関係を、江戸時代から令和の現在、そして少し先の未来まで考えます。

講師プロフィール

🄫学校法人共立女子学園

🄫学校法人共立女子学園

渡辺 明日香 共立女子短期大学生活科学科 教授

専門は現代ファッション。1994年より、ストリートファッションの定点観測に基づき研究を行う。著書に「ストリートファッション論」(産業能率大学出版部)、「東京ファッションクロニクル」(青幻舎)、「時代をまとうファッション」(NHK出版)など。

時代を映すファッション コロナ禍では?

まず最近の状況に目をむけてみると、例えばファッションブランドが集積する表参道や明治通りではコロナ禍で閉店したお店も多い一方、一歩奥に入った通りには古着屋がたくさんできているそうです。古着はリーズナブルでほとんどが一点物、色彩もちょっとくすんでレトロな雰囲気のビンテージカラーが主流。ファストファッションをどんどん買ってどんどん消費するという仕組みではない、新しいファッションの装い方を若者は模索していると先生はみています。

🄫学校法人共立女子学園

🄫学校法人共立女子学園

 

コロナ禍では「消えそうな色コーデ」「カフェオレコーデ」と呼ばれる配色、また清潔を感じさせる「白」も支持されました。

色のトレンドを発信する「日本流行色協会(JAFCA)」が2020年末、来たる2021年のムードを象徴するテーマカラーとして選んだ色は「白」。白は清潔感、潔白、明るさなどともに「白紙に戻す」など、はじまりを示す色ということで選ばれました。

あいにくコロナ禍は長引いていますが、新たなはじまりへの希求は誰もが抱いているところではないかと思います。

権力に屈しない心意気 江戸っ子の「いき」と流行色

現代のファッションにはあらゆる色があふれていますが、むかしはどうだったのでしょう。

染織産業が発展した江戸時代、藍染めの藍色や友禅染などの華やかな色彩とともにこの時代の色を特徴づけているのが、茶色や鼠色などの渋い色目です。

参考:『大江戸の色彩』城一夫(青幻舎)を元に作成

参考:『大江戸の色彩』城一夫(青幻舎)を元に作成

 

上は「四十八茶百鼠(しじゅうはっちゃ ひゃくねずみ)」とよばれる色の一部です。四十八や百は文字通りの数ではなく「たくさん」という意味で、実際には茶系、鼠色系ともに100以上の種類があるとのこと。そのバリエーションの豊かさには驚きます。「奢侈禁止令」や「倹約令」など幕府によってたびたび出された衣服の素材や色や柄に関する規制の下で、着用をゆるされた茶色や鼠色への感覚は繊細さをきわめていったようです。

 

表地にはこのような地味な色を用い、表から見えない裏地に着用を禁じられた紫や紅色を用いるといったことも行われていました。お上の締め付けにやすやすとは屈しない、江戸っ子の「いき」です。

色とは何より生ずるや ~明治時代の色彩学教育

西洋化の波がおしよせた明治時代、洋装化が政府主導ですすめられます。鹿鳴館では洋装が推奨され、女子学生には活動しやすい海老茶袴が普及。ファッションの和洋折衷時代のはじまりです。

 

急激な西洋化政策は教育においても同じ。明治維新から間もない明治6(1873)年、色彩を学ぶ科目が小学校教則に盛り込まれます。

「問う 色とは何より生ずるや」 「答 太陽の光より生ずる」 

…といった問答形式で展開する「小学色図問答」という当時の教材では、ニュートンのプリズムによる分光などもあつかわれています。

寺子屋から改造されたばかりの小学校にこのような教育内容が導入されていたとは驚きですが、なじみのうすい科学的な理論を浸透させるのは難しかったようで、わずか 8 年後には色彩に関係する教育内容そのものが小学教則(教育課程)から姿を消し、再び教育の表舞台に現れるまでに長い年月がかかっています。

流行色を名付けていた与謝野晶子

衣料の色は長らく天然染料(草木染め)で染められてきましたが、19世紀の半ばに化学染料がイギリスで発明され、日本でも明治から大正にかけて化学染料の普及による色彩革命がおこります。

流行色命名直筆メモ 与謝野晶子 1936(昭和11)年 髙島屋史料館所蔵

流行色命名直筆メモ   与謝野晶子 1936(昭和11)年 髙島屋史料館所蔵

 

「木の間緑」「月の出色」「花あふひ」……。上の手書きメモは、歌人の与謝野晶子が流行色を命名するにあたって書いたものです。

大正2年(1913)年、髙島屋は与謝野晶子や堀口大學ら文化人を顧問に迎え、毎回テーマと流行色を提示する呉服催事を始めます。晶子は流行色を命名したり、色やきものに関連した歌を詠んだり。それがパンフレットに掲載されたりしました。

明治の後半から大正期にかけては、髙島屋や三越などの呉服店が次々と百貨店へと業態を転換していった過渡期にあたります。百貨店が自社のPR誌などを発行し、流行を創出する時代の幕開けでした。

 

下は1927(昭和 2)年、晶子が命名した春の選定色「青海波(せいかいは)」の歌です。

宣伝用とはいえさすがに香り高く、「佳き藍」と歌われるきものを手にとってみたくなります。晶子による流行色の命名は大正8(1919)年から昭和15(1940)年まで続き、その数は286色にのぼりました。

アパレル、家電製品、はてはレコードまで 流行を創出する一大キャンペーン

昭和に入り、戦時中の色を失った時代を経て、戦後は映画の影響を受けたシネモードなどが流行。昭和28(1953)年には、色のトレンドを選定・発信する日本流行色協会が発足しています。

高度経済成長期の昭和37(1962)年、日本流行色協会が発表した色は「シャーベットトーン」。

「シャーベットトーン」のカラーパレット 提供/一社・日本流行色協会(JAFCA)

「シャーベットトーン」のカラーパレット 提供/一社・日本流行色協会(JAFCA)

 

1950年代よりポリエステルやナイロンといった合成繊維の生産が始まり、1960年代に量産されるようになりますが、当時の技術では鮮やかな色には染まらず、上の画像のようにちょっとくすんだ色になっていました。それを「クール」「ひんやりがおしゃれ」と銘打ち、合成繊維メーカーを中心に、業界をまたいだキャンペーンがくりひろげられたのです。

キャンペーン参加企業は化粧品会社(シャーベットトーンの口紅)、電機メーカー(シャーベットトーンの電化製品)、百貨店(シーズンのファッションカラー)など50社以上。菓子メーカーは(本物の)シャーベットを発売し、レコード会社は「私のシャーベット」という歌まで売り出すという大々的なものでした。

 

好みが多様化した現代では想像しづらいことですが、1960年代にはこのような大規模なカラーキャンペーンが盛んにおこなわれたそうです。

未来をどんな色で描くか

🄫学校法人共立女子学園

🄫学校法人共立女子学園

 

オイルショックの影響を受け濁色が流行した1970年代、目まぐるしく流行色が生まれた1980年代をへて、バブル崩壊。1990年代はカジュアル化がすすみ、ストリートからうまれる「リアルクローズ」が登場。自分の好みで複数のブランドや色、着こなしをくみあわせるなど、多様化していきます。

2000年代は高級志向とファストファッションへの二極化がすすみ、2010年代はSNSから流行が生まれるように。そして現在のコロナ禍へと続きます。

 

未来は、どのようになるのでしょう。少し先の未来の色彩空間の一つのヒントとして、映画を一つ紹介いただきました。「竜とそばかすの姫」という2021年のアニメーション映画で、インターネットの仮想世界を舞台にした少女の成長を描いたものです。

 

参考動画

東宝MOVIEチャンネル『竜とそばかすの姫』予告2【2021年7月16日(金)公開】

https://youtu.be/KNynvdKvLc8

 

仮想世界や SNSの色彩というと、非常に鮮やかで輝度の高い色をイメージしがちですが、この映画ではやや彩度を抑えた色使いになっています。少し先の未来に対するイメージのようなものが、少しトーンダウンしているところがこの作品の特徴だと先生は見ています。

 

「身体をはなれたファッション」「アイデンティティと色彩との結びつき」も未来の色のキーワードとして挙がりました。メタバースなどの仮想空間では、自分の年齢や性別など身体の制約から解放されたファッションや色彩を楽しめるようになるというものです。

現代の日本は過去のどの時代よりも自由に色を選べる時代だと思いますが、もって生まれた肌や髪の色、気候風土や文化の影響を感じることもあります。さまざまな制限がはずれた仮想空間で、どんな色をまとうのか。案外、言葉よりもわかりやすく自分を語ってくれるかもしれません。

 

「水のような、空気のような書体を作りたい」 書体設計士・鳥海修さんの話を成安造形大学で聞く

2022年8月9日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

駅の看板やスマホ、パソコン、本や新聞など、私たちが毎日のように接している文字。ふだん意識することはないが、一文字ずつ、人の手でデザインして作られている。

これまでに100以上もの書体開発にかかわってきた書体設計士の鳥海修(とりのうみ おさむ)さんも、文字を作る人だ。

鳥海さんが開発した書体「游明朝」「游ゴシック」「ヒラギノ明朝」「ヒラギノゴシック」などはMacとWindowsの二大OSに搭載され、Webや書籍、雑誌、高速道路の看板などでも目にすることができる。きっと多くの人が、意識することなく接しているだろう。

 

ほとんど作り手の意図を感じさせないようなたたずまいで知識や情報や知恵を伝える媒介となる、そんな書体を作る人は日々どんな思いで文字と向き合っているのだろう。

鳥海さんによる講演「インフラとしての文字」が成安造形大学(滋賀県)で行われ、聴講させていただいた。梅雨が明けてまもない猛暑の日、学生と一般の方あわせて約70名が会場で耳をかたむけた。

講師プロフィール

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鳥海 修 1955年山形県生まれ。多摩美術大学卒業。79年株式会社写研入社。89年に有限会社字游工房を鈴木勉、片田啓一の3名で設立。株式会社SCREENグラフィックソリューションズの「ヒラギノシリーズ」、「こぶりなゴシック」などを委託制作。自社ブランドとして「游書体ライブラリー」の「游明朝体」、「游ゴシック体」など、ベーシック書体を中心に100書体以上の書体開発に携わる。

「活字の元」の衝撃

まずは、鳥海さんと文字デザインとの出会いのお話から。

鳥海さんは山形県遊佐町の出身。まわりに田んぼが広がる風景の中で育ち、車が好きだった鳥海さんは車のデザイナーをめざすようになる。美大のプロダクトデザイン学科を受けるが不合格となり、グラフィックデザイン学科に進学。だがグラフィックデザインには、「申し訳ないけど、まったく興味がなかった」という。

3年生のときに文字デザインの授業を選択したのも、文字デザインが好きだったからではなく1、2年生のときもやっていたレタリングで単位を取れそうだから、という理由だった。

 

文字デザインの授業では、当時TBSテレビでテレビ番組のタイトルを書いていた先生に連れられ、寄席文字を書く橘流家元の橘右近(たちばな うこん)など、文字を職業としている人たちのもとを訪れることがあった。

一番影響を受けたのが毎日新聞社だった。毎日新聞社に行くと、隅の方できれいなレタリングをしている人がいて、一文字8cmから10cmのカタカナを書いている。何をするための文字かわからず聞いてみると、「活字の元だよ」と答えてくれた。

 

今でこそ、パソコンにさまざまなフォントが入っていて活字は身近な存在になっているが、当時は鉛でできた金属活字と、写植(写真植字…ネガ状の文字を印画紙に印字する技術)しかなかった時代。金属活字や写植を扱うのは専門の業者で、一般の人が扱ったり目にしたりするものではなかった。

 

それまで新聞や本の文字が「人の手で作られている」と考えたことが無かった鳥海さんは、レタリングの文字が「活字の元」と聞いて、頭が混乱する。個性や自己主張のようなものをグラフィックデザインに感じていた鳥海さんにとって、新聞や本で目にする活字が人の手でデザインされていると知ったときの衝撃は大きかった。

 

その時、毎日新聞社に小塚昌彦という人がいた。のちに「小塚明朝」などの書体を作った人だが、その人が言ったひとことが、鳥海さんの進路を決定づけた。

「小塚さんが、『日本人にとって、活字は水であり、米である』と言ったんですよ。その言葉を聞いたときに、私は『これ、やりたい』と思ったんです。そのときから今にいたるまで、私はそれ(活字)しかやっていない」。

「落ちても入るつもりだった」文字を作る会社

誰が作ったかわからないような、読みやすくてきれいな文字を自分も作りたい。大学4年の夏、大学で文字デザインの求人を見て入社試験を受けたのが、写真植字機や書体を作る「写研」という会社だった。一社しか受けず、「落ちても入るつもりだった」という。

 

入社したとき、まわりはほとんどが高校や専門学校を卒業した人だったが、彼らにできることが鳥海さんにできなかった。烏口や溝引きとよばれる描画用具や技法を使って文字を作るのだが、線もきれいに引けないし形もうまく取れない。社内で一番字が上手な人のところに行って話を聞いたり、社内の書道部に入ったり。仕事をするというよりも勉強していたような感じだった。

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写研に勤めて10年後、同じ会社に勤めていた3名で「字游工房」という会社を設立。そこで作ったヒラギノ書体がMacとWindowsに搭載され、大日本印刷株式会社の秀英体、凸版印刷株式会社の游明朝など、日本の主だった本文書体を数多く手がけることになる。

谷川俊太郎に捧げる書体

2017年から2018年にかけて、鳥海さんは谷川俊太郎さんの詩のために専用のかな書体を作った。そのとき、いくつかの書体を試作して谷川さんに見せたところ、あろうことか谷川さんは、「文字に興味がない」と言う。自分は詩を書くところまでが仕事だから、と。

 

谷川さんを知れば知るほど、詩を読めば読むほど谷川さんという人のイメージは固定できず、「谷川さんの書体を作るなど不遜すぎる」と思うようになる。せめて谷川さんに笑われない書体を作ろうと、「谷川さんに捧げる」つもりで書体を作ったところ、なんと!「私たちの文字」という詩を書いてくれたそうだ。この書体づくりの経緯は『本をつくる』(河出書房新社)にくわしい。

『本をつくる』(河出書房新社)より

『本をつくる』(河出書房新社)より

 

この本を読むと、書体とはここまで考え抜いて作られるものか、と気が遠くなる。谷川さんが好きだという良寛(江戸時代後期の僧侶・歌人・書家)の字、谷川さんの詩や意識下にあるもの、文字の歴史、そして鳥海さん自身。すべてが数ミリ角の文字の中に詰まっていると思えてくる。

読みやすい文字は3500年の歴史の上にある

書体を設計するうえで、文字の歴史を知ることは欠かせないと言う鳥海さん。今回の講演会では、中国で生まれた甲骨文字から説きおこし、現代までの日本の文字の歴史についても解説いただいた。

日本に漢字が伝えられたのは弥生時代。飛鳥時代の終わり(六世紀ごろ)から漢字の音訓を借りて日本語の音をあらわす万葉仮名が発展し、平安時代はその一部を取り出して変形するなどアレンジされた「かな文字」があらわれる。

(※万葉仮名…「山」を「也麻(やま)」などと表す。仮名が発達する以前に用いられた表記法)

 

下は、かな芸術の頂点といわれる『高野切古今集(第一種)伝 紀貫之筆』。

『高野切古今集(第一種)伝 紀貫之筆』を解説する鳥海さん

『高野切古今集(第一種)伝 紀貫之筆』を解説する鳥海さん

 

鳥海さんらがひらがなを作るとき、「どこに帰ってくるのかというと、ここに帰ってくる」のだそうだ。「バックにこういうものがあると知っているだけで随分違う」という。

 

書体は読みやすくきれいでなければならない。個性を出してはいけないと言われるが、「人がつくる以上、個性は出る」と鳥海さんは言う。なるべく自分から出てくる形を尊重して文字を作りたい。だが、読みやすい文字は3500年の漢字の歴史の上にある。つねに歴史が下地にあり、そこにデバイスや時代の変化を加味して文字を作ることが重要だという。

 

鳥海さんが理想の文字をめざす姿勢には妥協がなく、まるで修行僧のようなのだが、講演会は終始笑顔で、受講生に「作っていて楽しいひらがなは何ですか」と聞かれると「全部楽しい。 面相筆一本で、『うおぉ!』と言う位、印象が変わったりする。そういうのが楽しい」と屈託がない。

大学3年で「活字の元」を人が作っていることを知ったときの驚き、興味、好奇心が今でも原点になっているという。

 

「文字は社会のインフラ、文化の礎」「文字は知識や情報を得たり、物語を読んで感動したりするお手伝いのためにある。『これ、鳥海が作った』と思わせてはいけない」「水のような、空気のような書体を作りたい」……。

鳥海さんが文字について語る言葉は、どれも鳥海さんが作る文字に似て控えめで、すぅっと心に届いて、根を下ろす。そんな言葉であり、仕事だと思った。

 

「色」で暑さ対策?! いろいろな「色」に関する話題まとめ

2022年7月28日 / まとめ, トピック

暑中お見舞い申し上げます。一年でもっとも暑い季節の到来です。年々暑さがヒートアップしてお疲れの方も多いと思いますが、こんなときこそビタミンカラーの野菜を食べたり、涼しげな色の蛍の光に癒されたり……と、色で元気をとりもどしませんか。今回はいろいろな分野の「色」に関する記事を集めました。

 

* * *

 

●健康にかかせない野菜パワー「抗酸化」研究を学ぶ! 摂南大 農学セミナーレポート

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多くのスーパーの入り口付近で、まず出迎えてくれるのが、色とりどりの野菜や果物。多くの植物は黄色のカロテノイドを含んでおり、毒となる活性酸素を除去、この色素は人間の病気予防にも役立つといいます。植物の色には意味がある。その鮮やかさ、ダテではないようです。

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●クローンが実物超える? クローン文化財の生みの親、東京藝大の宮廻先生に聞いてみた

左がマネの「笛を吹く少年」の立体再現、右は油彩画のクローン文化財

暑さ対策をかねて、涼しい美術館に行くという手もありますね。
こちらの記事は、クローン文化財についてのインタビューです。文化財の保護や修復に、デジタル技術とアナログの利点を活かした新しい手法が活躍。それがクローン文化財です。科学分析した絵具によるオリジナルの作品再現や、名画で使われている色の分解展示など、展覧会の様子とあわせてお楽しみください。

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●恐竜時代の「ホタルの光」を再現。中部大学・大場裕一先生に聞く、発光生物の不思議な魅力

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夏の風物詩のひとつとなっているホタル。ホタルが地球上に現れたのは約1億年前で、この時代のホタルの光を再現したという研究者へのインタビューです。人間の目にはきれいで涼しげな発光色ですが、ホタルにとっては身を守るための意味があったようです。さて、その色とは……。
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●千年続く物語――女子宮廷装束の華、京都産業大学ギャラリー企画展をレポート

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華やかさにおいて、この装束の右に出るものはそう無いのではないでしょうか。十二単など、宮廷装束に関する展示のレポートです。色の美しさに目を奪われると同時に、「重たそう」「昔も夏は暑かっただろうに」などと余計な心配をしてしまいます。
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科学、歴史、文化、と異なる視点の「色」に関する記事をご紹介しました。今回の記事にはありませんが、「色」と時代や社会といった切り口もあります。近日中にファッション・カラーに関する記事もお届けしますので、お楽しみに。

もし、大阪市中央公会堂が今の建物でなかったら? 大阪大学総合学術博物館のシンポジウムで街の景観を考える

2022年7月21日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

美術館や図書館、コンサートホール、ホテルに金融機関、新聞社などが集積する大阪・中之島。ふたつの川(堂島川と土佐堀川)に挟まれた、東西約3㎞の細長い島(中洲)です。その中之島の「顔」ともいえる建物が、大阪市中央公会堂です。

大正7(1918)年に竣工し、100年以上がたった今も市民に親しまれているこの建物を設計したのは岡田信一郎という建築家で、当時はまだ珍しかった設計競技(コンペ)によって選ばれました。

 

でももし、他の建築家による設計案が選ばれていたら? 現在の中之島はどのような景観だったのでしょうか。

 

そんな問いかけから企画された大阪大学総合学術博物館によるシンポジウム「歴史の可能性を可視化する―再現される大阪市中央公会堂コンペ案」に参加してみました。歴史や建築工学、日本美術史の専門家が、それぞれの観点から中之島の歴史と景観を考えます。

見慣れた風景を別のものに置き換えることで、新しい発見や気づきがあるでしょうか?

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シンポジウム会場は大阪市中央公会堂3階の中集会室。創建時は大食堂として作られた。

他の設計案を、現在の風景に合成してみると……

大阪市中央公会堂のコンペに参加した建築家は13人。シンポジウムでは、そのうち5人の設計案を現在の中之島の景観と合成した画像が披露されました。

 

画像を作成したのは、大阪大学総合学術博物館の研究支援推進員で日本美術史を専門とする波瀬山祥子さん。もとの設計案はあまり着色されていませんが、資料をもとに一部推測もまじえ、画像加工アプリで着色・合成した図を見せていただきました。

下は、国会議事堂の設計に関わったことでも知られる建築家・矢橋賢吉による案です。着色の参考となったのは、矢橋による設計の郡山市公会堂(福島県郡山市、大正13(1924)年)。

大阪大学総合学術博物館の波瀬山さん。画像は昼から夕刻に変化していく風景を映し出している。

大阪大学総合学術博物館の波瀬山さん。画像は昼から夕刻に変化していく風景を映し出している。

 

二つの立派な塔が印象的。コンペでは「塔が大きすぎる」という評価だったようですが、第3席に入っています。

 

下は、築地本願寺(東京・築地、昭和9(1934)年)の設計で知られる伊藤忠太による案。

色付き_伊藤忠太透視図合成_昼

どことなく教会のように見える建物です。伊東の設計による一橋大学(旧東京商科大学)兼松講堂(昭和2(1927)年)を参考に、茶褐色に着色されています。

 

下は中條精一郎による案。

色付き_中條透視図合成_昼

現在の公会堂を少しあっさり目のデザインにしたような印象です。中條が設計の顧問をつとめた山形県旧県会議事堂(現・山形県郷土館文翔館、大正5(1916)年)を参考に着色されています。

 

このほか、武田五一、大江新太郎による設計案を現代の風景に合成したものを見せていただきました。

素人の目にはどれも素敵なレトロ建築という感じですが、建築を専門とする木多道宏先生(大阪大学大学院工学研究科教授)によると、建築様式という視点でおおむね下のように分類できるそうです。

モタ_ン中之島_木多 (コンヘ_案評価)

それぞれの様式の外見の特徴をごく簡単にまとめると、図の左端のゴシック系は縦ラインを基調とした様式。先ほどの2つの塔をもつ矢橋案はゴシック様式です。

その隣のルネサンスは清楚で禁欲的、バロックは「ゴージャス」。この系列の一番上にある岡田信一郎による案が第一席に選ばれ、今わたしたちが目にしている公会堂の原案となります。

 

その右側のセセッションは、それまでの様式から脱却して新しい創造をめざすスタイル。この系列の一番上にある長野宇平治の案は第2席に入っています。

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長野宇平治の設計案を解説する木多先生

 

長野の案について、公会堂の建築顧問をつとめた辰野金吾は「南側(側面)がよくできている」と、たいへん高く評価していたそうです。

辰野金吾は日本近代建築の父ともよばれ、東京駅や日本銀行本店などの設計で知られる建築家です。中央公会堂のコンペは指名式で、参加した13名の多くが辰野に東京帝大で教わった門下生であり、研究室のゼミのような雰囲気もあったかもしれません。しかも実施設計は辰野の建築事務所が担当することが決まっていました。

第一席となった岡田案も、もとはネオゴシック様式に分類されるものですが、辰野が「意匠がゴツイ」と実施設計の段階で手を加えてネオルネサンス様式に修正し、赤レンガに花崗岩の白いストライプが走る「辰野式」とよばれるデザインとなっています。

 

こう聞くと、実力者だった辰野が自分の思い通りにことを運んだように見えなくもないのですが、これには別の側面もあります。

当時、公会堂建築の寄付をしようとした岩本栄之助という人が辰野に寄付の草案を示したところ、辰野は「学者の中にも(設計の)希望者があるだろうから、ぜひ公募をお願いしたい」「(公募の)費用はわずかで、互いに得るものは極めて多大である」と語ったといいます。

コンペを通し、後進を育てようとしたように感じられるエピソードです。

「難波橋のライオン像=豊国神社の狛犬」説

中央公会堂の正面は建物の東側に設定されているのですが、建物自体は、南向きのほうがずっと間口が広いのです。

建物敷地-1

なぜ広い南側ではなく、せまい東側が正面なのか。そのヒントになるようなお話を、大阪大学総合学術博物館教授の橋爪節也先生がされていました。

現在、公会堂が建っているあたりには明治時代より豊国神社があり、その東側から神社へ向かう参道があったとのこと。東から参拝する人の流れがすでにあったのなら、正面が東向きになるのは自然な気がします。

 

ちなみに、かつての豊国神社の参道にかかる橋(難波橋 なにわばし)のたもとにはライオンの像が鎮座していて、ライオン橋ともよばれます。

ライオン 調整ずみ_trm

難波橋のライオン像

 

この橋が架けられたのは大正 4 (1915)年。ライオン像は、1900 年のパリ万博にあわせセーヌ川に架けられた橋のライオン像を意識したものと言われますが、橋爪先生によるともう一つ説があって、これは豊国神社の狛犬ではないか、というのです。

橋爪先生

橋爪先生

 

一匹は口を開けていて、一匹は閉じていて、「阿形、吽形に見えるでしょう」。

確かにそう言われて見ると、狛犬にしか見えなくなってきました。

 

橋爪先生は、中央公会堂を東西南北から眺めたときの見え方を他の建造物などとの関連から解説し、中之島の「舞台効果」についても指摘されていました。

川に挟まれた中之島は視界を遮るものが少なく、離れたところからでも建物の姿を臨むことができます。川と橋の向こう側に「ドーン」と建物があらわれ、近付くにつれその壮麗な姿がせまってくる。見る人にドラマチックな印象を与えるというわけです。

大阪市中央公会堂 南面

大阪市中央公会堂 南面

 

たしかにスポットライトを浴びた舞台のような立地です。橋は舞台への花道といったところでしょうか。

熟慮の末の公会堂建設

そもそも中央公会堂は、どういうきっかけで建設されることになったのでしょう。その背景について、大阪歴史博物館学芸員の船越幹央さんより解説いただきました。

 

公会堂建設の資金100万円(現在の貨幣価値で数十億円)を大阪市に寄付したのが、さきほども少し登場した岩本栄之助という人です。

岩本栄之助について解説する大阪歴史博物館の船越さん

岩本栄之助について解説する大阪歴史博物館の船越さん

 

栄之助は北浜の株式仲買人で、明治42(1909)年、32才のときに渋沢栄一が率いる渡米実業団に参加します。アメリカで富豪による慈善事業が行われていることを知って大変感銘を受け、自らも公共事業へ寄付することを決意。さまざまな人に相談し、渋沢栄一の助言も仰いで、寄付金の用途を公会堂建設と決めました。

 

「(今の貨幣価値で)数十億円ものお金をポンと寄付するなんて、むかしのお金持ちはすごい」と思いますが、寄付の趣意書には「父母が四十年来、堅実な経営で成した財産をここに社会公共のため、有益の資に使おうと…(中略)その目的を達成することができたならば、父母の満悦と我ら兄弟の本望この上なく」…といった意味のことが連綿とつづられていて、相当の信念と深慮があったことがわかります。

 

大正期に入ると、普通選挙権を得るための運動や演説会がさかんに行われ、言論や集会の場が必要とされるようになります。そのさなかに誕生した公会堂は、開館時より政治演説会や集会の場となり、一方で著名な演奏家を招いての音楽会なども数多く開かれ、文化や言論の拠点であり続けてきました。

シンポジウム会場(中集会室)に隣接する「特別室」の観覧と解説も行われた。天井の絵は『天地開闢(かいびゃく)』。イザナギとイザナミが描かれている。

シンポジウム会場(中集会室)に隣接する「特別室」の観覧と解説も行われた。天井の絵は『天地開闢(かいびゃく)』。イザナギとイザナミが描かれている。

フリートークの様子

フリートークの様子

 

もし、他の設計案で建てられていたら

シンポジウムの最初の問い「他の建築家による設計案が選ばれていたら、現在の中之島はどのような景観だったのか」にもどって考えると、私の場合は、現在の(岡田信一郎原案による)公会堂にあまりにもなじんでいるためか、これ以上の公会堂はないように感じる一方、仮に他の設計案で建てられていたとしても、舞台のような好立地、実施設計に辰野金吾が関わっていたことを考えると、多少の印象のちがいはあっても市民に親しまれ愛される建物や景観になっていただろうという点は変わらなかったのではないかと思いました。それほど、この立地条件と辰野金吾という人の存在は大きかったと感じます。

 

一時は老朽化のため取り壊しの危機もあった公会堂ですが、市民や建築家らによる景観保存の要望を受け、大阪市が永久保存することを決定。再生事業費の一部にと新聞社が呼びかけた募金には市民や企業から7億円をはるかにこえる金額が寄せられ、1999年から2002年にかけて保存・再生工事が行われました。

 

「ついに寄附の使途を公会堂と確定し、収受されることになった以上は、もはや、この金と岩本との間も何ら関係もなきこと」「ただ市民のため便益なる公会堂を立ててもらえれば、それで私は心ひそかに喜ぶ次第」――。明治44(1911)年、岩本栄之助が語った言葉です。栄之助、そして近代建築の先駆者たちの思いは、見事に引き継がれていると感じます。

 

大学の研究ってどんなもの? 大阪大学共創DAY『つながろう!SDGsアドベンチャー!』で体験!  

2022年7月14日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

「見えない虫歯を観(み)つける」「ポケット磁石で都市鉱山」「しゃべロボと話そう」……。一風変わったテーマが気になり、大阪大学のイベントに足を運んでみました。

会場は万博記念公園(大阪)にほど近い大型ショッピングモール、ららぽーとEXPOCITY。体験やミニレクチャー、展示などを通じて大学の研究成果やSDGs(持続可能な開発目標)に向けた取り組みを紹介し、科学・研究・学術の魅力を楽しみながら学び合おうというイベントです。

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今回のテーマは『つながろう! SDGsアドベンチャー!』。健康、ジェンダー、環境、技術革新など、様々な観点でSDGsの達成に貢献する大学の研究を紹介するブースが並び、場内のステージでもテーマに関連したクイズやレクチャーが行われます。ショッピングモールという場所柄もあって気軽な雰囲気で、特に体験ブースは大にぎわい。親子連れの姿も多く見られました。

かくれた虫歯は、どれ?

まずは工学研究科の研究室による「見えない虫歯を観つけるぞ!」というブースから体験。

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手前の器具を歯の模型に押しあてると、見た目ではわからない虫歯がわかるというものです。

説明を受けて歯の模型に軽くあててみたところ、瞬時に下のような画像と数値が表示されました。

 

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3つの歯それぞれに調べて、表示された数値をシートに書き込んでいきます。

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この数値から虫歯がわかるというのです。さて、どの歯が虫歯でしょう……?

真ん中の歯の数値がずいぶん低いですね。実はこの数値は、歯の表面のかたさを表しているのです。

 

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上は虫歯模型の検査画面です。白い円の真ん中に暗く写っているのは、検査器具が歯に接触している部分。

虫歯は歯がやわらかくなるため、わずかにめりこんでしまうのですね。器具の先端が歯に接合する面積から歯のかたさを算出して、まだ黒く変色していない早期の虫歯を検出するというしくみです。

 

実際に使わせてもらって、本当に軽い力で瞬時に数値が出てくるのにはちょっと感動しました。歯医者に行くと鋭利な器物で虫歯疑いの歯をカチカチされて冷や汗をかくことがありますが、この機械なら、もう少し穏やかな気持ちで検査を受けられそうです。

ウイルス探査機 ~ウイルスをAIで判定

 ここ数年、世間をお騒がせのウイルスですが、さまざまなウイルスや細菌の種類をAIで識別するという装置が、産業科学研究所のブースで紹介されていました。

6_DSC_0789

 

7_モニター画面1

上の画面、左側のひし形中央にある黒い点のようなところ(赤い矢印の先)に、ウイルスに似せてつくられた模造ウイルスが次々と吸い込まれていきます。

ウイルスの表面にはデコボコした突起があり、その形によってウイルス表面を流れる電流値が変化するそうです。ウイルスの吸い込み口にはその電流値を測定するセンサーがあり、画面右上の赤枠内に測定結果が映し出されます。

この波形がウイルスの種類により異なるため、たとえば新型コロナウイルスには新型コロナウイルス特有の波形があらわれます。それをAIが判定するというしくみです。

 

この装置自体にすごい技術が詰め込まれているのだと思いますが、「電気っていろんなところを流れているんだな」とか「デコボコの形によって電気の流れ方がちがうのか‥」など、わりと基本的な事柄で感心しました。

識別にかかる時間は5~10分。現在、実用化をめざしている段階だそうです。

ポケット磁石で都市鉱山

電気の次は、磁気です。理学研究科の研究室による「ポケット磁石で都市鉱山を始める」のブースを拝見。

えんぴつの芯が磁石から逃げていく

えんぴつの芯が磁石から逃げていく

 

写真の赤枠内、糸の先にぶらさがっているのは、えんぴつの芯です。

下にある磁石をゆっくりと右に動かすと、えんぴつの芯が磁石から逃げるように動いていきます。えんぴつの芯が磁石に反応するイメージがなかったのですが、芯に含まれている黒鉛は磁石に反発する性質があり、強い磁石を使うとこのような反応がみられるとのこと。

別の装置で、黒鉛と金とをわける実験もしていました。SDGsとの関連では、磁場で物質を分別してリサイクルするなどの活用方法が考えられます。

 

ちなみにこのブースの研究グループの本業は、「磁場が太陽系の生成に及ぼす影響」の研究です。

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惑星を構成する物質の種類は、太陽からの距離によって明確に分かれているそうです。それが初期太陽がもっていた巨大な磁石の力によるものか、実験と理論の両面から探っているとのこと。

 

難しそうですが、ロマンがあります。もし巨大磁石のはたらきで地球の成分が決まったのだとしたら、わたしたち人間も磁力の子ですね。

小さなものから大きなものまで、はんだ付け 

ものづくり体験コーナーもありました。接合科学研究所による「はずして→つないで→再利用!」は、使わなくなった色ガラスを分解し、はんだ付けで自分好みのステンドグラスを作るというもの。事前予約で満員御礼でした。

はんだ付けは時間と温度との勝負。集中力が必要です。

はんだ付けは時間と温度との勝負。集中力が必要です。

 

このブースには下のような電子回路も展示されていました。こうした電子回路の接合にも、はんだ付けの技術が使われています。

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部品と部品を接合するのに、部品にダメージがない低い温度で溶ける合金だけを溶かして、その溶けた合金で部品と部品を接合するのが、はんだ付けです。部品にダメージを与えずに接合でき、電気をよく通すのが特徴とのこと。

 

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そばには、飛行機模型も飾られていました。「本物の飛行機を作るのにもはんだ付け(ろう付け)の技術が使われているので」ということで、小さなものから大きなものまで、接合が活躍しています。

学問って楽しい?

 いくつかの体験内容をご紹介しましたが、このほかにもロボットとおしゃべりしたり、フードロスについて考えたり、光エネルギーの力を体験したり、…と、さまざまなテーマの体験ブースや展示がありました。子どもだけでなく大人も体験させてもらえるのは、うれしいところです。

(左上)光のエネルギーで微粒子を捕まえる「光のピンセット」(基礎工学研究科) (右上)バナナの流通プロセスからフードロスの削減を考えるコーナー(革新的フードロス共創拠点) (左下)「世界の国からこんにちは!」留学生によるお国紹介(SSI、JICA関西) (右下)ロボットとおしゃべり(基礎工学研究科)

(左上)光のエネルギーで微粒子を捕まえる「光のピンセット」(基礎工学研究科) (右上)バナナの流通プロセスからフードロスの削減を考えるコーナー(革新的フードロス共創拠点) (左下)「世界の国からこんにちは!」留学生によるお国紹介(SSI、JICA関西) (右下)ロボットとおしゃべり(基礎工学研究科)

 

先生方とともに各ブースで案内してくれたのは、学生さんと思しきお兄さんお姉さん方。とても丁寧に、楽しそうに解説してくれていました。特に子どもにとっては年齢も近く、ふだん接点のない学問の世界を身近に感じたり、憧れを抱いたりするきっかけになりそうです。楽しい体験になっていれば良いですね!

 

千年続く物語――女子宮廷装束の華、京都産業大学ギャラリー企画展をレポート

2022年6月16日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

皇室の行事や絵巻物でおなじみ、十二単などの宮廷装束。華やかな色彩にひかれ、京都産業大学ギャラリーで開催中の企画展「女子宮廷装束の華」に行ってきました。

京都産業大学名誉教授の所功先生が京都宮廷文化研究所の初代理事(現在は特別顧問)をつとめていて、同研究所の特別協力のもと開催されている展覧会です。

十二単で舞を舞えますか

★DSC_0725_02

奥の展示ケースにずらりと並んだ衣装は、十二単の装束です。右から着用順に、袴、単(ひとえ)、五衣(いつつぎぬ)、打衣(うちぎぬ)・表着(うわぎ)、唐衣(からぎぬ)、裳(も)。

すべてを着付けると、下の写真のようになります。

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青と橙の取り合わせがとても素敵です。着付けに時間がかかりそうですが、二人がかりで着付けて約20分とのこと。

装束の重さは、上の写真の一式で16kgぐらいです。16kgというと、水2リットル入りのペットボトルおよそ8本分の重さにあたりますので、身にまとうのはなかなかの苦行と思われます。

ただ、平安時代の十二単は、現代のものより軽かったといいます。カイコの品種改良が進む前は糸が細く、布も薄かったと考えられるためです。

 

そうは言っても、動き回るのに適した衣装ではありませんよね。

下の人形が着けているのは「物具(もののぐ)」と呼ばれる装束で、奈良時代に中国大陸から輸入された唐風の装束から国風の十二単に変化する過渡期のスタイル。十二単よりもさらに多くの衣を着けています。

実物の4分の1サイズで再現された装束

実物の4分の1サイズで再現された装束

 

扇を掲げて舞を舞っているようですが、この重厚な衣装で、舞を舞うことがあったのでしょうか?

「人形用のポーズかな」と思いつつ展示担当の方にお聞きしたところ、宮廷行事や風俗が描かれた『年中行事絵巻』という平安時代の絵巻物には、この装束で舞う女性が描かれているそうです。本当に舞うとしたら、けっこう体力が要りそうです。

千年前の色を再現する

展示されている十二単は、染め、織り、仕立てと、現代の京都の職人さんが復元製作したものです。

華やかな色彩は化学染料によるものですが、明治時代以前は、染色といえば草木染め。会場には、その伝統的な染料について紹介されたコーナーもありました。

★DSC_0631_02

写真右側に写っている赤い布は、紅花(ベニバナ)で染めたもの。今も昔も、大変高価な染料だそうです。

 

★DSC_0641_02

右側に写っている糸、えも言われぬよい色です。絹糸を染めたもので、その左側の黒っぽいものは胡桃(くるみ)です。熟す前の青い実を収穫して実を削り、空気に触れさせると、見る間に茶色に発色するそうです。それを煮出して染液をつくります。

 

★DSC_0658_03

これもとてもいい色。藍の一種、タデアイです。化学染料が普及する前、日本で藍染めというと、このタデアイが使われてきました。

タデアイは今も徳島や北海道などで栽培されています。先に紹介した紅花の栽培は山形、胡桃は三重など、各地で伝統の染料植物を守り伝える努力が続けられているそうです。

宮廷装束にも「道」があった――衣紋道(えもんどう)

ちょっと面白いなと思ったのが、宮廷の装束や着付けにも流派があるというお話です。「山科流」「高倉流」という二つの流派があり、男性用装束の製作や着付けの仕方に細かな違いがあるとのこと。

さらに着付けの技法と心得を説く「衣紋道」というものがあることも、今回初めて知りました(衣紋は着付けのこと)。単なる技法ではなく、「道」なのですね。

 

宮廷のハレの装束を着る人、作る人、着付ける人。その重責や晴れがましさは相当なものだったのではないかと思います。装束を見ながらそのことを思うと、千年以上前の伝統を今に伝えつづけてきた無数の人の仕事ぶりに、ただただ頭が下がります。

* * *

 

展示は7月9日(土)まで。関連イベントとしてシンポジウム「平成と令和の大礼を振り返る」が6月19日(日)に、「女子宮廷装束~十二単の着装実演~」が7月3日(日)に開催される予定です。

 

美術と社会をつなぐ! 忘れられた美術思想家・岩村透への光~東大のオンラインセミナーをレポート

2022年5月10日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

 

展覧会を見に行ってカフェでのんびりしたり、書店で素敵な装丁の本を手に取ったり、旅先でその土地の工芸品を買ったり。このような楽しみや習慣がわたしたちの日常に溶け込むようになったのは、実はわずか100年ほど前のこと。かつて一般の人には遠い存在だったアートを身近なものにするため奮闘した人々の中に、今では忘れられた一人の美術批評家がいます。それが今回の主人公、岩村透です。

 

30年前にこの人物を知り、研究を続けている東京大学大学院教授・今橋映子先生によるセミナー「忘れられた美術思想家・岩村透への光──比較文学比較文化研究の視座から語る」(主催:東京大学ヒューマニティーズセンター)に参加しました。

 

講師プロフィール

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今橋 映子 東京大学大学院総合文化研究科教授。専門は比較文学・比較文化。著書に『異都憧憬 日本人のパリ』(柏書房)『〈パリ写真〉の世紀』(白水社) 『近代日本の美術思想―美術批評家・岩村透とその時代』(白水社)など。

大学祭の劇で乞食役・・ 型やぶりな美校教師

岩村透〔1870年(明治3年)―1917年(大正6年)〕は慶應義塾と青山学院に学び、19歳の時アメリカに留学。さらにフランスの美術学校で学び、帰国後は美術批評家、西洋美術史家、美術ジャーナリスト、美術行政家などとして活躍します。

1_肖像

 

多彩な顔をもった人ですが、「まずは東京美術学校の教授として知られるべき人」と今橋先生。東京美術学校で、西洋美術史を初めて専任で教えました。

美術批評も開始し、パリの美術学生の日常を描いた『巴里之美術学生』、美術史に関する論文を集めた『芸苑(げいえん)雑稿』などの著作で、西洋美術史の普及に努めます。

 

また美術ジャーナリストとして、雑誌『美術新報』『美術週報』で美術の最先端の情報を発信。

さらに西洋画や日本画、彫刻、装飾美術や建築など、ジャンルを超えた美術家の組織「国民美術協会」の創立を先導し、美術家の権利の保護、政府への建議、美術館設立運動など行政への働きかけも行いました。創立メンバーには、作家の森鴎外、画家の黒田清輝なども名を連ねています。

 

経歴だけを見ると、ちょっと近寄りがたいような人物を思い浮かべてしまいますが、大変おしゃべり好きで社交的な人だったそうです。東京美術学校の美術祭(今で言う大学祭)でパリの美術学生をモチーフにした芝居を仕掛け、自ら乞食役を演じたというエピソードも、その型やぶりで飾らない人柄を物語っています。

ボヘミアン in パリ

岩村が出演した芝居のタイトルは「巴里美術学生」。パリのカフェを舞台に、長い髪とあごひげにベレー帽といういでたちの学生たちが繰り広げた喜劇ですが、これには前段があります。岩村の著書『巴里之美術学生』(1903年)です。

『巴里之美術学生』(今橋映子蔵書)

『巴里之美術学生』(今橋映子蔵書)

東京美術学校の美術祭で学生たちが演じた「巴里美術学生」

 

岩村はこの本でパリの美術学生の日常を活写し、貧しくとも芸術に情熱を傾ける「ボヘミアニズム」を紹介。若い画家たちがパリに憧れるきっかけとなりました。

「芸術家、ボヘミアン」というと自由きままなイメージがありますが、岩村が持ち込もうとしたのは単なるライフスタイルではなく、芸術家としての自立、そして表現の自由を確保しようとする精神でした。

 

ボヘミアンが「自立」と結びつくのは少し意外にも思えますが、その背景のひとつにあるのが、パトロン制度の後退です。岩村がパリに留学した19世紀は、芸術家たちがパトロンという経済的な後ろ盾を失った時代。明治時代の日本も、幕府や大名に抱えられていた絵師や職人らが仕事を失い、大きな変化の渦中にありました。

「社会の中で、美術家はどうあるべきか」。海外の美術事情を見聞してきた岩村は、日本ではじめて、そのことをはっきりと語った人だったそうです。

「食えなければ意味がない」

美術家が食べていくためにはどうすればいいか。このテーマは岩村の多くの活動に通底しています。

雑誌『美術新報』『美術週報』のほか、『東京美術学校校友会月報』というメディアも使い、学者生涯のほぼすべてを通じて毎月、西洋の美術情報を収集し、翻訳し発信するという仕事を続けていました。

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今橋先生によると、その情報収集力たるや「インターネット時代の私たちですら信じられないような量」だったとのこと。その根底には「思想を成り立たせるためには情報が必要」という考えがあったようです。

 

こうした雑誌で、絵画や彫刻だけではなく、工芸、装飾美術、建築まで広く紹介し、「美術」の概念を拡張。西洋美術史家として、西洋美術の根幹とは何かということを考えた人でしたが、それと同時に、西洋画だけが美術ではない、そして伝統的な工芸だけではこれからの日本はたちゆかない。新しい装飾芸術を作り、それを生活に根付かせることが、日本の美術家が社会に受け入れられるために非常に大事だと考え、デザイナーで思想家でもあったウィリアム・モリスを紹介するなど、装飾美術の振興につとめました。

日本人の「生活と美術」を深い所で結びつけようとしたという意味で、「岩村透は日本のウィリアム・モリスだった」と今橋先生は語ります。

*ウィリアム・モリス・・・ モダン・デザインの父とも称される。芸術と生活の統一を目指してモダン・デザインを提唱した「アーツ・アンド・クラフツ運動」を先導した。

一般の人が家に飾れるものを作れ

1907年(明治40年)に、文展(文部省展覧会)という展覧会が始まり、岩村は審査員をつとめます。

こうしたシステムは美術が社会で認められるためには大事なことだと考えていましたが、あまりに大きなサイズの絵を、日常生活の空間に掛けるわけにはいきません。一般市民に受け入れられるようなテーマの小品を描くように若い美術家たちに言って、『美術新報』の雑誌社の主催で、今でいう展示即売会のようなことを行ったのです。

吾楽殿(上)の2階がギャラリー(右下)。ここで小品展示会が行われた。

吾楽殿(上)の2階がギャラリー(右下)。ここで小品展示会が行われた。

 

上の写真にある吾楽殿という画堂(今で言う画廊のこと)の小さく親密な空間で行われたこの展覧会では、洋画だけではなく陶器や人形なども展示。当時は駆け出しの若手であった陶芸家のバーナード・リーチや富本憲吉といった面々も関わっています。

ちなみに岩村は、美術や工芸品をかざる“器”である建築を、非常に重視していました。美術品の展示販売にふさわしい建物を、東京美術学校の同僚建築家や出資者の協力を得て建てています。

 

この小品展覧会にならって美術品の展示販売を始めたのが百貨店の三越です。美術と社会とを結びつける新たなシステムができてくる、その初源の場所に岩村透という人がいたということがわかります。

西洋化一辺倒の人?

明治期にアメリカやフランスに留学し、こうした活動をしていたと聞くと「西洋化一辺倒の人だったんだろうか」という疑問がわいてきますが、『美術と社会』(1915年)という著作には「日本古来の工芸や建築、民間芸術について精細に探究し振興を図りたい」、また「地方工芸の優点を調査し、その特色を保護することが急務」という意味のことが書かれていて、岩村が振興しようとした「美術」の中に、日本の伝統的な美術工芸や芸能も含まれていたことがわかります。

 

地方における美術の振興をどうするか、若い美術家たちが美術で食べていけない問題をどうするか、美術館をいかに作っていくか。明治という変革の時代に、アートと社会を結び、美術を市井に行きわたらせるため、あらゆることを行った人だったという印象を受けます。

「ものごとは絶えず関係性の中にある」――比較文学比較文化の視点

岩村の研究において、今橋先生は専門である比較文学・比較文化研究の学術理論や考え方を用いています。

比較文化とは何かいうと、単に「AとBを比べる」というだけではなく、「Aという事象をしっかり理解するために、Bをもってきて相対化し、理解する方法」ということです。そしてAというある事象は、絶えず様々なものとの関係性の中にある。様々な越境を繰り返していくというところが大事、とのこと。

 

例えば、岩村は画家志望から批評家に転じた理由について明確には語っていないようですが、ジョン・ラスキンという美術批評家をたいへん尊敬していて、その影響を受けて画家を目指し、さらにラスキンのように美術批評家になりたいと思っていたということが、調査でわかってきたそうです。比較文化研究のなかでも大事な「影響受容」というものの一例です。

 

蔵書研究も、影響受容の関係をはっきりと知るために必要な第一の作業だと言われています。

岩村透の蔵書は現在、台東区立朝倉彫塑館に収められています。岩村の弟子、朝倉文夫が岩村没後に買い取った洋書1700冊にのぼる貴重なアーカイブで、見学者は、彫塑館が百年守った、天井まである書架にぎっしり詰まった偉容を仰ぎ見ることができます(図書閲覧は不可)。※参考情報を記事の最後に記載

 

同時代の夏目漱石や森鴎外の蔵書と比較すると、岩村文庫はジャンルが広いのが特徴とのこと。文学、社会、芸術、建築、歴史、地理が等分にあり、また当時の知識人が読まねばならないと思われる本が網羅的に入っている。明治の知識人が世界をいかに見ていたかということがわかる蔵書だそうです。

 

セミナーではこのほか、比較メディア研究、世界文学、クロスジャンル(美術と建築)など、比較文学比較文化の理論や手法を用いて、どのように岩村透を研究したかを紹介。

さらに文学、美術史、社会思想史、アーツマネジメント、建築学についても知る必要があり、岩村の仕事の幅広さを反映した学際的研究となったそうです。

美術は不要不急か

岩村透は、大逆事件〔1910年(明治43年)〕で多くの美術家や文学者が言論弾圧にさらされる時代下、1914年に突然、長く勤めていた東京美術学校の職を追われます。

 

「今後の社会は無益無意味なるものの存在を許さない。すべてのものは(中略)その社会的生存の意義価値を吟味せられ、迅速に取捨選択されつつある」

 

岩村の『美術と社会』にあるこの一節を、今橋先生は「「不要不急」という、コロナ禍での例の言葉を思い出していただけると思います」と引用。「『なぜ必要なのか』ということが言えなければ存在理由がないというこの問題は、何度でも沸き起こってくる社会的な問題」と指摘し、「岩村透は大逆事件下で美術や文学がその地位を奪われそうになるところを、どのように制作家たちの思想の自由を確保するかということを考え、奮闘した人物だったと言うことができます」と話します。

 

個人的には、美術館が軒並み休館になった時期には、心が干からびた気分になったものでした。お気に入りの作品と出会うと心が潤いまくりますし、「このような素晴らしいものを見せてくださってありがとうございます」と、誰に言ったらいいのか分からないような感謝の念を抱くことがあります。

美術を誰にとっても身近なものにするため尽力した岩村透のような人の強い思いがあってこそ、今、こうして楽しむことができるのだということを忘れずにいたいと思います。

 

関連図書

今橋映子『近代日本の美術思想——美術批評家岩村透とその時代』上下巻、白水社、2021年

https://www.u-tokyo.ac.jp/biblioplaza/ja/G_00112.html

 

参考情報

朝倉彫塑館(岩村透の蔵書「岩村文庫」を所蔵)1階書斎 ※図書閲覧は不可

https://www.taitocity.net/zaidan/asakura/guidance/kannai/

 

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