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もし、大阪市中央公会堂が今の建物でなかったら? 大阪大学総合学術博物館のシンポジウムで街の景観を考える

2022年7月21日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

美術館や図書館、コンサートホール、ホテルに金融機関、新聞社などが集積する大阪・中之島。ふたつの川(堂島川と土佐堀川)に挟まれた、東西約3㎞の細長い島(中洲)です。その中之島の「顔」ともいえる建物が、大阪市中央公会堂です。

大正7(1918)年に竣工し、100年以上がたった今も市民に親しまれているこの建物を設計したのは岡田信一郎という建築家で、当時はまだ珍しかった設計競技(コンペ)によって選ばれました。

 

でももし、他の建築家による設計案が選ばれていたら? 現在の中之島はどのような景観だったのでしょうか。

 

そんな問いかけから企画された大阪大学総合学術博物館によるシンポジウム「歴史の可能性を可視化する―再現される大阪市中央公会堂コンペ案」に参加してみました。歴史や建築工学、日本美術史の専門家が、それぞれの観点から中之島の歴史と景観を考えます。

見慣れた風景を別のものに置き換えることで、新しい発見や気づきがあるでしょうか?

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シンポジウム会場は大阪市中央公会堂3階の中集会室。創建時は大食堂として作られた。

他の設計案を、現在の風景に合成してみると……

大阪市中央公会堂のコンペに参加した建築家は13人。シンポジウムでは、そのうち5人の設計案を現在の中之島の景観と合成した画像が披露されました。

 

画像を作成したのは、大阪大学総合学術博物館の研究支援推進員で日本美術史を専門とする波瀬山祥子さん。もとの設計案はあまり着色されていませんが、資料をもとに一部推測もまじえ、画像加工アプリで着色・合成した図を見せていただきました。

下は、国会議事堂の設計に関わったことでも知られる建築家・矢橋賢吉による案です。着色の参考となったのは、矢橋による設計の郡山市公会堂(福島県郡山市、大正13(1924)年)。

大阪大学総合学術博物館の波瀬山さん。画像は昼から夕刻に変化していく風景を映し出している。

大阪大学総合学術博物館の波瀬山さん。画像は昼から夕刻に変化していく風景を映し出している。

 

二つの立派な塔が印象的。コンペでは「塔が大きすぎる」という評価だったようですが、第3席に入っています。

 

下は、築地本願寺(東京・築地、昭和9(1934)年)の設計で知られる伊藤忠太による案。

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どことなく教会のように見える建物です。伊東の設計による一橋大学(旧東京商科大学)兼松講堂(昭和2(1927)年)を参考に、茶褐色に着色されています。

 

下は中條精一郎による案。

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現在の公会堂を少しあっさり目のデザインにしたような印象です。中條が設計の顧問をつとめた山形県旧県会議事堂(現・山形県郷土館文翔館、大正5(1916)年)を参考に着色されています。

 

このほか、武田五一、大江新太郎による設計案を現代の風景に合成したものを見せていただきました。

素人の目にはどれも素敵なレトロ建築という感じですが、建築を専門とする木多道宏先生(大阪大学大学院工学研究科教授)によると、建築様式という視点でおおむね下のように分類できるそうです。

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それぞれの様式の外見の特徴をごく簡単にまとめると、図の左端のゴシック系は縦ラインを基調とした様式。先ほどの2つの塔をもつ矢橋案はゴシック様式です。

その隣のルネサンスは清楚で禁欲的、バロックは「ゴージャス」。この系列の一番上にある岡田信一郎による案が第一席に選ばれ、今わたしたちが目にしている公会堂の原案となります。

 

その右側のセセッションは、それまでの様式から脱却して新しい創造をめざすスタイル。この系列の一番上にある長野宇平治の案は第2席に入っています。

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長野宇平治の設計案を解説する木多先生

 

長野の案について、公会堂の建築顧問をつとめた辰野金吾は「南側(側面)がよくできている」と、たいへん高く評価していたそうです。

辰野金吾は日本近代建築の父ともよばれ、東京駅や日本銀行本店などの設計で知られる建築家です。中央公会堂のコンペは指名式で、参加した13名の多くが辰野に東京帝大で教わった門下生であり、研究室のゼミのような雰囲気もあったかもしれません。しかも実施設計は辰野の建築事務所が担当することが決まっていました。

第一席となった岡田案も、もとはネオゴシック様式に分類されるものですが、辰野が「意匠がゴツイ」と実施設計の段階で手を加えてネオルネサンス様式に修正し、赤レンガに花崗岩の白いストライプが走る「辰野式」とよばれるデザインとなっています。

 

こう聞くと、実力者だった辰野が自分の思い通りにことを運んだように見えなくもないのですが、これには別の側面もあります。

当時、公会堂建築の寄付をしようとした岩本栄之助という人が辰野に寄付の草案を示したところ、辰野は「学者の中にも(設計の)希望者があるだろうから、ぜひ公募をお願いしたい」「(公募の)費用はわずかで、互いに得るものは極めて多大である」と語ったといいます。

コンペを通し、後進を育てようとしたように感じられるエピソードです。

「難波橋のライオン像=豊国神社の狛犬」説

中央公会堂の正面は建物の東側に設定されているのですが、建物自体は、南向きのほうがずっと間口が広いのです。

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なぜ広い南側ではなく、せまい東側が正面なのか。そのヒントになるようなお話を、大阪大学総合学術博物館教授の橋爪節也先生がされていました。

現在、公会堂が建っているあたりには明治時代より豊国神社があり、その東側から神社へ向かう参道があったとのこと。東から参拝する人の流れがすでにあったのなら、正面が東向きになるのは自然な気がします。

 

ちなみに、かつての豊国神社の参道にかかる橋(難波橋 なにわばし)のたもとにはライオンの像が鎮座していて、ライオン橋ともよばれます。

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難波橋のライオン像

 

この橋が架けられたのは大正 4 (1915)年。ライオン像は、1900 年のパリ万博にあわせセーヌ川に架けられた橋のライオン像を意識したものと言われますが、橋爪先生によるともう一つ説があって、これは豊国神社の狛犬ではないか、というのです。

橋爪先生

橋爪先生

 

一匹は口を開けていて、一匹は閉じていて、「阿形、吽形に見えるでしょう」。

確かにそう言われて見ると、狛犬にしか見えなくなってきました。

 

橋爪先生は、中央公会堂を東西南北から眺めたときの見え方を他の建造物などとの関連から解説し、中之島の「舞台効果」についても指摘されていました。

川に挟まれた中之島は視界を遮るものが少なく、離れたところからでも建物の姿を臨むことができます。川と橋の向こう側に「ドーン」と建物があらわれ、近付くにつれその壮麗な姿がせまってくる。見る人にドラマチックな印象を与えるというわけです。

大阪市中央公会堂 南面

大阪市中央公会堂 南面

 

たしかにスポットライトを浴びた舞台のような立地です。橋は舞台への花道といったところでしょうか。

熟慮の末の公会堂建設

そもそも中央公会堂は、どういうきっかけで建設されることになったのでしょう。その背景について、大阪歴史博物館学芸員の船越幹央さんより解説いただきました。

 

公会堂建設の資金100万円(現在の貨幣価値で数十億円)を大阪市に寄付したのが、さきほども少し登場した岩本栄之助という人です。

岩本栄之助について解説する大阪歴史博物館の船越さん

岩本栄之助について解説する大阪歴史博物館の船越さん

 

栄之助は北浜の株式仲買人で、明治42(1909)年、32才のときに渋沢栄一が率いる渡米実業団に参加します。アメリカで富豪による慈善事業が行われていることを知って大変感銘を受け、自らも公共事業へ寄付することを決意。さまざまな人に相談し、渋沢栄一の助言も仰いで、寄付金の用途を公会堂建設と決めました。

 

「(今の貨幣価値で)数十億円ものお金をポンと寄付するなんて、むかしのお金持ちはすごい」と思いますが、寄付の趣意書には「父母が四十年来、堅実な経営で成した財産をここに社会公共のため、有益の資に使おうと…(中略)その目的を達成することができたならば、父母の満悦と我ら兄弟の本望この上なく」…といった意味のことが連綿とつづられていて、相当の信念と深慮があったことがわかります。

 

大正期に入ると、普通選挙権を得るための運動や演説会がさかんに行われ、言論や集会の場が必要とされるようになります。そのさなかに誕生した公会堂は、開館時より政治演説会や集会の場となり、一方で著名な演奏家を招いての音楽会なども数多く開かれ、文化や言論の拠点であり続けてきました。

シンポジウム会場(中集会室)に隣接する「特別室」の観覧と解説も行われた。天井の絵は『天地開闢(かいびゃく)』。イザナギとイザナミが描かれている。

シンポジウム会場(中集会室)に隣接する「特別室」の観覧と解説も行われた。天井の絵は『天地開闢(かいびゃく)』。イザナギとイザナミが描かれている。

フリートークの様子

フリートークの様子

 

もし、他の設計案で建てられていたら

シンポジウムの最初の問い「他の建築家による設計案が選ばれていたら、現在の中之島はどのような景観だったのか」にもどって考えると、私の場合は、現在の(岡田信一郎原案による)公会堂にあまりにもなじんでいるためか、これ以上の公会堂はないように感じる一方、仮に他の設計案で建てられていたとしても、舞台のような好立地、実施設計に辰野金吾が関わっていたことを考えると、多少の印象のちがいはあっても市民に親しまれ愛される建物や景観になっていただろうという点は変わらなかったのではないかと思いました。それほど、この立地条件と辰野金吾という人の存在は大きかったと感じます。

 

一時は老朽化のため取り壊しの危機もあった公会堂ですが、市民や建築家らによる景観保存の要望を受け、大阪市が永久保存することを決定。再生事業費の一部にと新聞社が呼びかけた募金には市民や企業から7億円をはるかにこえる金額が寄せられ、1999年から2002年にかけて保存・再生工事が行われました。

 

「ついに寄附の使途を公会堂と確定し、収受されることになった以上は、もはや、この金と岩本との間も何ら関係もなきこと」「ただ市民のため便益なる公会堂を立ててもらえれば、それで私は心ひそかに喜ぶ次第」――。明治44(1911)年、岩本栄之助が語った言葉です。栄之助、そして近代建築の先駆者たちの思いは、見事に引き継がれていると感じます。

 

大学の研究ってどんなもの? 大阪大学共創DAY『つながろう!SDGsアドベンチャー!』で体験!  

2022年7月14日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

「見えない虫歯を観(み)つける」「ポケット磁石で都市鉱山」「しゃべロボと話そう」……。一風変わったテーマが気になり、大阪大学のイベントに足を運んでみました。

会場は万博記念公園(大阪)にほど近い大型ショッピングモール、ららぽーとEXPOCITY。体験やミニレクチャー、展示などを通じて大学の研究成果やSDGs(持続可能な開発目標)に向けた取り組みを紹介し、科学・研究・学術の魅力を楽しみながら学び合おうというイベントです。

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今回のテーマは『つながろう! SDGsアドベンチャー!』。健康、ジェンダー、環境、技術革新など、様々な観点でSDGsの達成に貢献する大学の研究を紹介するブースが並び、場内のステージでもテーマに関連したクイズやレクチャーが行われます。ショッピングモールという場所柄もあって気軽な雰囲気で、特に体験ブースは大にぎわい。親子連れの姿も多く見られました。

かくれた虫歯は、どれ?

まずは工学研究科の研究室による「見えない虫歯を観つけるぞ!」というブースから体験。

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手前の器具を歯の模型に押しあてると、見た目ではわからない虫歯がわかるというものです。

説明を受けて歯の模型に軽くあててみたところ、瞬時に下のような画像と数値が表示されました。

 

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3つの歯それぞれに調べて、表示された数値をシートに書き込んでいきます。

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この数値から虫歯がわかるというのです。さて、どの歯が虫歯でしょう……?

真ん中の歯の数値がずいぶん低いですね。実はこの数値は、歯の表面のかたさを表しているのです。

 

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上は虫歯模型の検査画面です。白い円の真ん中に暗く写っているのは、検査器具が歯に接触している部分。

虫歯は歯がやわらかくなるため、わずかにめりこんでしまうのですね。器具の先端が歯に接合する面積から歯のかたさを算出して、まだ黒く変色していない早期の虫歯を検出するというしくみです。

 

実際に使わせてもらって、本当に軽い力で瞬時に数値が出てくるのにはちょっと感動しました。歯医者に行くと鋭利な器物で虫歯疑いの歯をカチカチされて冷や汗をかくことがありますが、この機械なら、もう少し穏やかな気持ちで検査を受けられそうです。

ウイルス探査機 ~ウイルスをAIで判定

 ここ数年、世間をお騒がせのウイルスですが、さまざまなウイルスや細菌の種類をAIで識別するという装置が、産業科学研究所のブースで紹介されていました。

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上の画面、左側のひし形中央にある黒い点のようなところ(赤い矢印の先)に、ウイルスに似せてつくられた模造ウイルスが次々と吸い込まれていきます。

ウイルスの表面にはデコボコした突起があり、その形によってウイルス表面を流れる電流値が変化するそうです。ウイルスの吸い込み口にはその電流値を測定するセンサーがあり、画面右上の赤枠内に測定結果が映し出されます。

この波形がウイルスの種類により異なるため、たとえば新型コロナウイルスには新型コロナウイルス特有の波形があらわれます。それをAIが判定するというしくみです。

 

この装置自体にすごい技術が詰め込まれているのだと思いますが、「電気っていろんなところを流れているんだな」とか「デコボコの形によって電気の流れ方がちがうのか‥」など、わりと基本的な事柄で感心しました。

識別にかかる時間は5~10分。現在、実用化をめざしている段階だそうです。

ポケット磁石で都市鉱山

電気の次は、磁気です。理学研究科の研究室による「ポケット磁石で都市鉱山を始める」のブースを拝見。

えんぴつの芯が磁石から逃げていく

えんぴつの芯が磁石から逃げていく

 

写真の赤枠内、糸の先にぶらさがっているのは、えんぴつの芯です。

下にある磁石をゆっくりと右に動かすと、えんぴつの芯が磁石から逃げるように動いていきます。えんぴつの芯が磁石に反応するイメージがなかったのですが、芯に含まれている黒鉛は磁石に反発する性質があり、強い磁石を使うとこのような反応がみられるとのこと。

別の装置で、黒鉛と金とをわける実験もしていました。SDGsとの関連では、磁場で物質を分別してリサイクルするなどの活用方法が考えられます。

 

ちなみにこのブースの研究グループの本業は、「磁場が太陽系の生成に及ぼす影響」の研究です。

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惑星を構成する物質の種類は、太陽からの距離によって明確に分かれているそうです。それが初期太陽がもっていた巨大な磁石の力によるものか、実験と理論の両面から探っているとのこと。

 

難しそうですが、ロマンがあります。もし巨大磁石のはたらきで地球の成分が決まったのだとしたら、わたしたち人間も磁力の子ですね。

小さなものから大きなものまで、はんだ付け 

ものづくり体験コーナーもありました。接合科学研究所による「はずして→つないで→再利用!」は、使わなくなった色ガラスを分解し、はんだ付けで自分好みのステンドグラスを作るというもの。事前予約で満員御礼でした。

はんだ付けは時間と温度との勝負。集中力が必要です。

はんだ付けは時間と温度との勝負。集中力が必要です。

 

このブースには下のような電子回路も展示されていました。こうした電子回路の接合にも、はんだ付けの技術が使われています。

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部品と部品を接合するのに、部品にダメージがない低い温度で溶ける合金だけを溶かして、その溶けた合金で部品と部品を接合するのが、はんだ付けです。部品にダメージを与えずに接合でき、電気をよく通すのが特徴とのこと。

 

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そばには、飛行機模型も飾られていました。「本物の飛行機を作るのにもはんだ付け(ろう付け)の技術が使われているので」ということで、小さなものから大きなものまで、接合が活躍しています。

学問って楽しい?

 いくつかの体験内容をご紹介しましたが、このほかにもロボットとおしゃべりしたり、フードロスについて考えたり、光エネルギーの力を体験したり、…と、さまざまなテーマの体験ブースや展示がありました。子どもだけでなく大人も体験させてもらえるのは、うれしいところです。

(左上)光のエネルギーで微粒子を捕まえる「光のピンセット」(基礎工学研究科) (右上)バナナの流通プロセスからフードロスの削減を考えるコーナー(革新的フードロス共創拠点) (左下)「世界の国からこんにちは!」留学生によるお国紹介(SSI、JICA関西) (右下)ロボットとおしゃべり(基礎工学研究科)

(左上)光のエネルギーで微粒子を捕まえる「光のピンセット」(基礎工学研究科) (右上)バナナの流通プロセスからフードロスの削減を考えるコーナー(革新的フードロス共創拠点) (左下)「世界の国からこんにちは!」留学生によるお国紹介(SSI、JICA関西) (右下)ロボットとおしゃべり(基礎工学研究科)

 

先生方とともに各ブースで案内してくれたのは、学生さんと思しきお兄さんお姉さん方。とても丁寧に、楽しそうに解説してくれていました。特に子どもにとっては年齢も近く、ふだん接点のない学問の世界を身近に感じたり、憧れを抱いたりするきっかけになりそうです。楽しい体験になっていれば良いですね!

 

千年続く物語――女子宮廷装束の華、京都産業大学ギャラリー企画展をレポート

2022年6月16日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

皇室の行事や絵巻物でおなじみ、十二単などの宮廷装束。華やかな色彩にひかれ、京都産業大学ギャラリーで開催中の企画展「女子宮廷装束の華」に行ってきました。

京都産業大学名誉教授の所功先生が京都宮廷文化研究所の初代理事(現在は特別顧問)をつとめていて、同研究所の特別協力のもと開催されている展覧会です。

十二単で舞を舞えますか

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奥の展示ケースにずらりと並んだ衣装は、十二単の装束です。右から着用順に、袴、単(ひとえ)、五衣(いつつぎぬ)、打衣(うちぎぬ)・表着(うわぎ)、唐衣(からぎぬ)、裳(も)。

すべてを着付けると、下の写真のようになります。

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青と橙の取り合わせがとても素敵です。着付けに時間がかかりそうですが、二人がかりで着付けて約20分とのこと。

装束の重さは、上の写真の一式で16kgぐらいです。16kgというと、水2リットル入りのペットボトルおよそ8本分の重さにあたりますので、身にまとうのはなかなかの苦行と思われます。

ただ、平安時代の十二単は、現代のものより軽かったといいます。カイコの品種改良が進む前は糸が細く、布も薄かったと考えられるためです。

 

そうは言っても、動き回るのに適した衣装ではありませんよね。

下の人形が着けているのは「物具(もののぐ)」と呼ばれる装束で、奈良時代に中国大陸から輸入された唐風の装束から国風の十二単に変化する過渡期のスタイル。十二単よりもさらに多くの衣を着けています。

実物の4分の1サイズで再現された装束

実物の4分の1サイズで再現された装束

 

扇を掲げて舞を舞っているようですが、この重厚な衣装で、舞を舞うことがあったのでしょうか?

「人形用のポーズかな」と思いつつ展示担当の方にお聞きしたところ、宮廷行事や風俗が描かれた『年中行事絵巻』という平安時代の絵巻物には、この装束で舞う女性が描かれているそうです。本当に舞うとしたら、けっこう体力が要りそうです。

千年前の色を再現する

展示されている十二単は、染め、織り、仕立てと、現代の京都の職人さんが復元製作したものです。

華やかな色彩は化学染料によるものですが、明治時代以前は、染色といえば草木染め。会場には、その伝統的な染料について紹介されたコーナーもありました。

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写真右側に写っている赤い布は、紅花(ベニバナ)で染めたもの。今も昔も、大変高価な染料だそうです。

 

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右側に写っている糸、えも言われぬよい色です。絹糸を染めたもので、その左側の黒っぽいものは胡桃(くるみ)です。熟す前の青い実を収穫して実を削り、空気に触れさせると、見る間に茶色に発色するそうです。それを煮出して染液をつくります。

 

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これもとてもいい色。藍の一種、タデアイです。化学染料が普及する前、日本で藍染めというと、このタデアイが使われてきました。

タデアイは今も徳島や北海道などで栽培されています。先に紹介した紅花の栽培は山形、胡桃は三重など、各地で伝統の染料植物を守り伝える努力が続けられているそうです。

宮廷装束にも「道」があった――衣紋道(えもんどう)

ちょっと面白いなと思ったのが、宮廷の装束や着付けにも流派があるというお話です。「山科流」「高倉流」という二つの流派があり、男性用装束の製作や着付けの仕方に細かな違いがあるとのこと。

さらに着付けの技法と心得を説く「衣紋道」というものがあることも、今回初めて知りました(衣紋は着付けのこと)。単なる技法ではなく、「道」なのですね。

 

宮廷のハレの装束を着る人、作る人、着付ける人。その重責や晴れがましさは相当なものだったのではないかと思います。装束を見ながらそのことを思うと、千年以上前の伝統を今に伝えつづけてきた無数の人の仕事ぶりに、ただただ頭が下がります。

* * *

 

展示は7月9日(土)まで。関連イベントとしてシンポジウム「平成と令和の大礼を振り返る」が6月19日(日)に、「女子宮廷装束~十二単の着装実演~」が7月3日(日)に開催される予定です。

 

美術と社会をつなぐ! 忘れられた美術思想家・岩村透への光~東大のオンラインセミナーをレポート

2022年5月10日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

 

展覧会を見に行ってカフェでのんびりしたり、書店で素敵な装丁の本を手に取ったり、旅先でその土地の工芸品を買ったり。このような楽しみや習慣がわたしたちの日常に溶け込むようになったのは、実はわずか100年ほど前のこと。かつて一般の人には遠い存在だったアートを身近なものにするため奮闘した人々の中に、今では忘れられた一人の美術批評家がいます。それが今回の主人公、岩村透です。

 

30年前にこの人物を知り、研究を続けている東京大学大学院教授・今橋映子先生によるセミナー「忘れられた美術思想家・岩村透への光──比較文学比較文化研究の視座から語る」(主催:東京大学ヒューマニティーズセンター)に参加しました。

 

講師プロフィール

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今橋 映子 東京大学大学院総合文化研究科教授。専門は比較文学・比較文化。著書に『異都憧憬 日本人のパリ』(柏書房)『〈パリ写真〉の世紀』(白水社) 『近代日本の美術思想―美術批評家・岩村透とその時代』(白水社)など。

大学祭の劇で乞食役・・ 型やぶりな美校教師

岩村透〔1870年(明治3年)―1917年(大正6年)〕は慶應義塾と青山学院に学び、19歳の時アメリカに留学。さらにフランスの美術学校で学び、帰国後は美術批評家、西洋美術史家、美術ジャーナリスト、美術行政家などとして活躍します。

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多彩な顔をもった人ですが、「まずは東京美術学校の教授として知られるべき人」と今橋先生。東京美術学校で、西洋美術史を初めて専任で教えました。

美術批評も開始し、パリの美術学生の日常を描いた『巴里之美術学生』、美術史に関する論文を集めた『芸苑(げいえん)雑稿』などの著作で、西洋美術史の普及に努めます。

 

また美術ジャーナリストとして、雑誌『美術新報』『美術週報』で美術の最先端の情報を発信。

さらに西洋画や日本画、彫刻、装飾美術や建築など、ジャンルを超えた美術家の組織「国民美術協会」の創立を先導し、美術家の権利の保護、政府への建議、美術館設立運動など行政への働きかけも行いました。創立メンバーには、作家の森鴎外、画家の黒田清輝なども名を連ねています。

 

経歴だけを見ると、ちょっと近寄りがたいような人物を思い浮かべてしまいますが、大変おしゃべり好きで社交的な人だったそうです。東京美術学校の美術祭(今で言う大学祭)でパリの美術学生をモチーフにした芝居を仕掛け、自ら乞食役を演じたというエピソードも、その型やぶりで飾らない人柄を物語っています。

ボヘミアン in パリ

岩村が出演した芝居のタイトルは「巴里美術学生」。パリのカフェを舞台に、長い髪とあごひげにベレー帽といういでたちの学生たちが繰り広げた喜劇ですが、これには前段があります。岩村の著書『巴里之美術学生』(1903年)です。

『巴里之美術学生』(今橋映子蔵書)

『巴里之美術学生』(今橋映子蔵書)

東京美術学校の美術祭で学生たちが演じた「巴里美術学生」

 

岩村はこの本でパリの美術学生の日常を活写し、貧しくとも芸術に情熱を傾ける「ボヘミアニズム」を紹介。若い画家たちがパリに憧れるきっかけとなりました。

「芸術家、ボヘミアン」というと自由きままなイメージがありますが、岩村が持ち込もうとしたのは単なるライフスタイルではなく、芸術家としての自立、そして表現の自由を確保しようとする精神でした。

 

ボヘミアンが「自立」と結びつくのは少し意外にも思えますが、その背景のひとつにあるのが、パトロン制度の後退です。岩村がパリに留学した19世紀は、芸術家たちがパトロンという経済的な後ろ盾を失った時代。明治時代の日本も、幕府や大名に抱えられていた絵師や職人らが仕事を失い、大きな変化の渦中にありました。

「社会の中で、美術家はどうあるべきか」。海外の美術事情を見聞してきた岩村は、日本ではじめて、そのことをはっきりと語った人だったそうです。

「食えなければ意味がない」

美術家が食べていくためにはどうすればいいか。このテーマは岩村の多くの活動に通底しています。

雑誌『美術新報』『美術週報』のほか、『東京美術学校校友会月報』というメディアも使い、学者生涯のほぼすべてを通じて毎月、西洋の美術情報を収集し、翻訳し発信するという仕事を続けていました。

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今橋先生によると、その情報収集力たるや「インターネット時代の私たちですら信じられないような量」だったとのこと。その根底には「思想を成り立たせるためには情報が必要」という考えがあったようです。

 

こうした雑誌で、絵画や彫刻だけではなく、工芸、装飾美術、建築まで広く紹介し、「美術」の概念を拡張。西洋美術史家として、西洋美術の根幹とは何かということを考えた人でしたが、それと同時に、西洋画だけが美術ではない、そして伝統的な工芸だけではこれからの日本はたちゆかない。新しい装飾芸術を作り、それを生活に根付かせることが、日本の美術家が社会に受け入れられるために非常に大事だと考え、デザイナーで思想家でもあったウィリアム・モリスを紹介するなど、装飾美術の振興につとめました。

日本人の「生活と美術」を深い所で結びつけようとしたという意味で、「岩村透は日本のウィリアム・モリスだった」と今橋先生は語ります。

*ウィリアム・モリス・・・ モダン・デザインの父とも称される。芸術と生活の統一を目指してモダン・デザインを提唱した「アーツ・アンド・クラフツ運動」を先導した。

一般の人が家に飾れるものを作れ

1907年(明治40年)に、文展(文部省展覧会)という展覧会が始まり、岩村は審査員をつとめます。

こうしたシステムは美術が社会で認められるためには大事なことだと考えていましたが、あまりに大きなサイズの絵を、日常生活の空間に掛けるわけにはいきません。一般市民に受け入れられるようなテーマの小品を描くように若い美術家たちに言って、『美術新報』の雑誌社の主催で、今でいう展示即売会のようなことを行ったのです。

吾楽殿(上)の2階がギャラリー(右下)。ここで小品展示会が行われた。

吾楽殿(上)の2階がギャラリー(右下)。ここで小品展示会が行われた。

 

上の写真にある吾楽殿という画堂(今で言う画廊のこと)の小さく親密な空間で行われたこの展覧会では、洋画だけではなく陶器や人形なども展示。当時は駆け出しの若手であった陶芸家のバーナード・リーチや富本憲吉といった面々も関わっています。

ちなみに岩村は、美術や工芸品をかざる“器”である建築を、非常に重視していました。美術品の展示販売にふさわしい建物を、東京美術学校の同僚建築家や出資者の協力を得て建てています。

 

この小品展覧会にならって美術品の展示販売を始めたのが百貨店の三越です。美術と社会とを結びつける新たなシステムができてくる、その初源の場所に岩村透という人がいたということがわかります。

西洋化一辺倒の人?

明治期にアメリカやフランスに留学し、こうした活動をしていたと聞くと「西洋化一辺倒の人だったんだろうか」という疑問がわいてきますが、『美術と社会』(1915年)という著作には「日本古来の工芸や建築、民間芸術について精細に探究し振興を図りたい」、また「地方工芸の優点を調査し、その特色を保護することが急務」という意味のことが書かれていて、岩村が振興しようとした「美術」の中に、日本の伝統的な美術工芸や芸能も含まれていたことがわかります。

 

地方における美術の振興をどうするか、若い美術家たちが美術で食べていけない問題をどうするか、美術館をいかに作っていくか。明治という変革の時代に、アートと社会を結び、美術を市井に行きわたらせるため、あらゆることを行った人だったという印象を受けます。

「ものごとは絶えず関係性の中にある」――比較文学比較文化の視点

岩村の研究において、今橋先生は専門である比較文学・比較文化研究の学術理論や考え方を用いています。

比較文化とは何かいうと、単に「AとBを比べる」というだけではなく、「Aという事象をしっかり理解するために、Bをもってきて相対化し、理解する方法」ということです。そしてAというある事象は、絶えず様々なものとの関係性の中にある。様々な越境を繰り返していくというところが大事、とのこと。

 

例えば、岩村は画家志望から批評家に転じた理由について明確には語っていないようですが、ジョン・ラスキンという美術批評家をたいへん尊敬していて、その影響を受けて画家を目指し、さらにラスキンのように美術批評家になりたいと思っていたということが、調査でわかってきたそうです。比較文化研究のなかでも大事な「影響受容」というものの一例です。

 

蔵書研究も、影響受容の関係をはっきりと知るために必要な第一の作業だと言われています。

岩村透の蔵書は現在、台東区立朝倉彫塑館に収められています。岩村の弟子、朝倉文夫が岩村没後に買い取った洋書1700冊にのぼる貴重なアーカイブで、見学者は、彫塑館が百年守った、天井まである書架にぎっしり詰まった偉容を仰ぎ見ることができます(図書閲覧は不可)。※参考情報を記事の最後に記載

 

同時代の夏目漱石や森鴎外の蔵書と比較すると、岩村文庫はジャンルが広いのが特徴とのこと。文学、社会、芸術、建築、歴史、地理が等分にあり、また当時の知識人が読まねばならないと思われる本が網羅的に入っている。明治の知識人が世界をいかに見ていたかということがわかる蔵書だそうです。

 

セミナーではこのほか、比較メディア研究、世界文学、クロスジャンル(美術と建築)など、比較文学比較文化の理論や手法を用いて、どのように岩村透を研究したかを紹介。

さらに文学、美術史、社会思想史、アーツマネジメント、建築学についても知る必要があり、岩村の仕事の幅広さを反映した学際的研究となったそうです。

美術は不要不急か

岩村透は、大逆事件〔1910年(明治43年)〕で多くの美術家や文学者が言論弾圧にさらされる時代下、1914年に突然、長く勤めていた東京美術学校の職を追われます。

 

「今後の社会は無益無意味なるものの存在を許さない。すべてのものは(中略)その社会的生存の意義価値を吟味せられ、迅速に取捨選択されつつある」

 

岩村の『美術と社会』にあるこの一節を、今橋先生は「「不要不急」という、コロナ禍での例の言葉を思い出していただけると思います」と引用。「『なぜ必要なのか』ということが言えなければ存在理由がないというこの問題は、何度でも沸き起こってくる社会的な問題」と指摘し、「岩村透は大逆事件下で美術や文学がその地位を奪われそうになるところを、どのように制作家たちの思想の自由を確保するかということを考え、奮闘した人物だったと言うことができます」と話します。

 

個人的には、美術館が軒並み休館になった時期には、心が干からびた気分になったものでした。お気に入りの作品と出会うと心が潤いまくりますし、「このような素晴らしいものを見せてくださってありがとうございます」と、誰に言ったらいいのか分からないような感謝の念を抱くことがあります。

美術を誰にとっても身近なものにするため尽力した岩村透のような人の強い思いがあってこそ、今、こうして楽しむことができるのだということを忘れずにいたいと思います。

 

関連図書

今橋映子『近代日本の美術思想——美術批評家岩村透とその時代』上下巻、白水社、2021年

https://www.u-tokyo.ac.jp/biblioplaza/ja/G_00112.html

 

参考情報

朝倉彫塑館(岩村透の蔵書「岩村文庫」を所蔵)1階書斎 ※図書閲覧は不可

https://www.taitocity.net/zaidan/asakura/guidance/kannai/

 

行楽シーズンに見たい、行きたい! 大人も子どもも楽しめる大学関連のお出かけスポット特集  

2022年4月28日 / まとめ, トピック

まもなく5月、行楽シーズンの到来です。昨年の同じ時期に比べると、イベントなども少しずつ復活してきました。

感染対策に気をつけながら、お出かけも楽しみたい! 週末や祝日に利用できて、大人も子どもも楽しめそうな大学関連のお出かけスポットをご紹介します。

●大東文化大学 ビアトリクス・ポター™資料館

画像:ビアトリクス・ポター™資料館 ウェブサイトより https://www.daito.ac.jp/potter/

画像:ビアトリクス・ポター™資料館 ウェブサイト https://www.daito.ac.jp/potter/

 

世界中から愛されているピーターラビット™の生みの親、ビアトリクス・ポター™の資料館。イギリスの湖水地方にあるヒルトップ農場を再現した建物で、貴重な原画や書籍などが一般公開されています。絵本を読めるスペースもあり、子どもも一緒に楽しめそうです。月曜休園。

 

記事はこちら! ピーターラビット™の作者、知っていますか?その素顔を大東文化大学 ビアトリクス・ポター™資料館で発見!

*こちらもチェック→ 大学ミュージアム図鑑 大東文化大学ビアトリクス・ポター™資料館

●京都大学白浜水族館

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和歌山の白浜周辺にすむ無脊椎動物と魚の展示にこだわった水族館。ウミウシなど謎めいた生き物がいっぱいです。0円大学の過去記事「水族館の舞台裏を探検!バックヤードツアー」(下記リンク先)もぜひチェックしてみてください。現在の企画展は「生物学者のひみつ道具展」(7/20まで開催中)。年中無休。

 

記事はこちら! 水族館の舞台裏を探検!バックヤードツアー

*こちらもチェック→ 大学ミュージアム図鑑 京都大学 白浜水族館

●宇宙ミュージアムTeNQ 

画像:宇宙ミュージアムTeNQ ウェブサイトより https://www.tokyo-dome.co.jp/tenq/

画像:宇宙ミュージアムTeNQ ウェブサイト https://www.tokyo-dome.co.jp/tenq/

 

宇宙に関する展示やパズル、謎解きゲームなどを通じて、宇宙の魅力に触れるミュージアム。4~6月は無休。<サイエンス>のエリアでは東京大学総合研究博物館の協力のもと、研究者たちが実際に研究している様子を見学できます(実施曜日、時間は こちら よりご確認ください)。

 

●宇宙ミュージアムTeNQ  公式サイト https://www.tokyo-dome.co.jp/tenq/

 

●千葉工業大学東京スカイツリータウン®キャンパス

画像:千葉工業大学東京スカイツリータウン®キャンパス ウェブサイトより https://cit-skytree.jp/

画像:千葉工業大学東京スカイツリータウン®キャンパス ウェブサイト  https://cit-skytree.jp/

 

太陽系のバーチャルツアー体験や、ビッグバンから生命の誕生と進化の138億年を旅する3D宇宙シアターなどを楽しめる体験型ブース。ロボット技術、人工知能など、千葉工業大学の研究活動を通じて生まれた技術を体感できます。

 

記事はこちら! スカイツリーはマクロスのメッカ!? 千葉工業大学へ、ロボットと宇宙の未来体験に行こう!

 

●大阪公立大学附属植物園

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この春、大阪府立大学と大阪市立大学が統合し、公立大学として日本最大規模となった大阪公立大学の植物園(前・大阪市立大学附属植物園)。北海道から本州、四国、九州まで、各地の樹林が自然に近い形で造成され、日本各地の樹林散策を疑似体験できます。メタセコイアなどの森林も再現されていて、ゆったりと森林浴できそう。月曜休園。

 

記事はこちら! 国境を越えた学者のこころ「メタセコイア物語」

 

●文化学園服飾博物館

画像:文化学園服飾博物館ウェブサイトより https://museum.bunka.ac.jp/

画像:文化学園服飾博物館ウェブサイト https://museum.bunka.ac.jp/

 

日本では数少ない「衣」をテーマとした専門博物館。文化学園が研究のため収集した世界各地の衣服や染織品が一般公開されています。5月18日まで開催中の展覧会「ヨーロピアン・モード」では、18世紀から20世紀までの花模様のドレスを中心に出品され、文字通りの華やかな雰囲気。日祝休館。

 

●文化学園服飾博物館 公式サイト  https://museum.bunka.ac.jp/

 

●京都国際マンガミュージアム

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京都精華大学と京都市の共同事業で開館したミュージアム。5万冊のマンガを自由に読める「マンガの壁」、2020年1月に生まれ変わったメインギャラリー、マンガ制作の現場を見学できるコーナー(土日祝のみ開催)、マンガの翻訳語版を読める「マンガ万博」、……などなど、もりだくさんです。火・水休館。

 

記事はこちら! 京都国際マンガミュージアムで知った、ジャパンクールの底力!

*こちらもチェック→ 大学ミュージアム図鑑 京都国際マンガミュージアム        

●日本工業大学 工業技術博物館

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展示品の約7割が今も運用可能な状態で保存され、国鉄で長年活躍した1891(明治24)年製のSLもキャンパス内の軌道で定期運行されています。展示物のうち178点が国の登録有形文化財、63点が近代化産業遺産に登録されていて、メカ好きでなくても一見の価値がありそう。日・祝休館、入館料無料。

 

記事はこちら! 蒸気機関車が走る!明治の機械が動く! 日本工業大学の工業技術博物館はスケールが大きい

*こちらもチェック→ 大学ミュージアム図鑑 日本工業大学工業技術博物館

 

* * *

 

昨年までと比べると、開館・営業する施設が増えてきたのはうれしい限りです。しっかりと感染対策をしながら、リアルな体験を楽しみたいですね。(お出かけの際は、各施設のホームページ等で最新情報をご確認ください)

 

科学が苦手でもオモシロイ!樟蔭美科学研究所で化粧品づくりの科学の世界をのぞいてみる

2022年4月19日 / 体験レポート, 大学を楽しもう

外出の機会が減り、化粧の手抜きに歯止めがかからない。やや反省モードにあったとき、「化粧品づくりの楽しさをわかりやすく紹介!」「化粧品の科学をのぞいてみよう」という魅力的な誘い文句が目に入りました。化粧品の広告は日々目にしますが、つくる人の目線で話を聞く機会はめずらしい。樟蔭美科学研究所によるシンポジウム「高校生・大学生のための化粧品の世界~化粧品の科学を覗いてみよう~」に参加してみました。

 

樟蔭美科学研究所は、大阪樟蔭女子大学が新制大学として創立70周年を迎えたのを機に2020年に設立。

「美を通じて社会に貢献する大学」として、学問領域(人文科学、社会科学、自然科学)を超えて美に関する研究が進められています。

学内だけでなく他大学や企業の研究者も参画する研究所という位置づけで、このシンポジウムも学外の研究者や化粧品コンサルタントを講師に迎え、化粧品に興味のある高校生、大学生や一般の人を対象に、それぞれの専門分野から化粧品づくりの楽しさを紹介いただきました。

化粧品って科学なの?

講演のトップバッターは南野美紀先生(武庫川女子大学客員教授、大阪樟蔭女子大学非常勤講師)。「化粧品って科学なの?~夢を届ける化粧品は科学でできている!~」というテーマです。

南野 美紀 先生

南野 美紀 先生

 

南野先生は化粧品会社で商品開発や基礎研究などの経験を積み、自身の化粧品会社を立ち上げ、大学で化粧品教育にも携わっておられます。

化粧品は夢を売る商売なのでなかなか中身の話を聞いていただけるチャンスがない」という南野先生。化粧品が、中学や高校で学ぶ科学とどのようにつながっているのかというお話を聞かせていただきました。

 

化粧品が何からできているかというと、まずは水。そして肌を健やかにするには油も必要になります。

水と油は混ざらないので、水と油を混ぜるために、油に混ざりやすい部分と水に混ざりやすい部分を一つの分子の中に持った界面活性剤が必要になります。水と油と界面活性剤を知るということが化粧品をつくる第一ステップになります。また、メイクアップ化粧品では、パウダーなどに使われる「粉体」というものも登場します。

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ここでは、水と油と界面活性剤について見ていきましょう。

水と油にもいろいろあって‥

水は身近な存在ですが、実は化粧品技術者からすると結構厄介なものなんだそうです。水の分子には極性(分子の中の電荷の偏り)というものがあり、水分子どうしがくっつきやすい。極性があって表面張力が高いので、水をぽたっと落としても、丸い水滴になろうとして広がらない。肌になじみにくいということになります。

化粧水が肌になじむのは、「水にいろいろな保湿成分が入ると、表面張力がおさえられた状態になるから」ということです。

油にも色んな種類がありますが、よく使われるものが油脂と呼ばれるもの。身近なものでは、植物油、天ぷら油が油脂の仲間です。化粧品の原料になる油脂は、植物から採取して圧搾、精製したもので、これを加水分解してグリセリンと高級脂肪酸をつくったりしています。

 

さて、油というとなんでもかんでも混ざりそうなイメージですが、静かに加えていくと、下図のように層にわかれるのですね。ビンの一番下にあるのは、ごま油。その上に米油、次にオリーブオイル。比重が違うので、静かに入れると混ざらない。

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オイルクレンジングなどに入っている高級脂肪酸が上にもう一層乗り、さらに軽い油の炭化水素。これで5層になります。

層になった油も、一旦混ぜてしまうと均一になります。ここに水を入れると、振って混ぜても、油とは混ざらない。比重の問題で混ざらないのではなく、水の表面張力が高いので混ざらないという理屈になります。

 

そこに界面活性剤を溶かしたエタノールを入れて混ぜてみると……混ざりました。これが乳化です。

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乳化は溶けているわけではなく、油の中に水が分散している状態。「溶ける」と「分散する」は全然違うということです(高校生は覚えておくと大学入試に役立つそうです)。

 

乳化には水の中に油が分散するタイプ(例:牛乳やマヨネーズなど)、油の中に水が分散するタイプ(例:バターなど)があり、そのちがいについても解説。

化粧品の場合、たとえば乳液を水に入れて振ると、すぐに真っ白になります(下図左)。反対に、汗に強いメイクアップベースは混ざらない(同右)。

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左側の乳液は水の中に油が分散するタイプ(「O/W型」とよばれる)で、右側のメイクアップベースは油の中に水が分散するタイプ(「W/O型」)。

このように「つくる化粧品によって、どのタイプの乳化物にするかを決める」そうです。

 

化粧品技術は幸せをもたらす技術なので、使い心地とか使用実感、機能などを考えながらつくっていくことになる」という南野先生。

易しい言葉と身近なものを例に、化粧品の科学の入り口を見せてくれました。

化粧品をホントに効かせるには?

さて、こうしてつくられたスキンケア化粧品。その効果を出すには、効かせたいところに効かせたいものを届ける必要があります。

化粧品をホントに効かせるには? ~成分を届ける技術を知ろう!~」というテーマでお話しいただいたのが、徳留嘉寛先生(佐賀大学特任教授)です。

徳留 嘉寛 先生

徳留 嘉寛 先生

 

たとえばサンスクリーン(日焼け止め)は皮膚の表面で光を跳ね返すことを目的としているため、皮膚の表面にある必要があります。美白剤の場合は、メラニンが表皮の最も深いところにある基底層の色素細胞で作られるので、ここに届ける必要があります。抗しわ剤の場合は、ヒアルロンやコラーゲンをつくる線維芽細胞が皮膚の真皮にあるので、そこまで送達したい。……という具合です。

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サンスクリーン以外は皮膚の中に届ける必要があるわけですが、皮膚の中に化合物を入れるにあたって、カギの一つになるのが成分の大きさです。物質固有の大きさを示す「分子量」という指標があり、分子量500以下のものは皮膚内に入りやすいとされています。もう一つのカギは、皮膚の表面は皮脂膜で覆われているので、適度に脂に溶けることが重要とされます。

*分子の質量を 12C 原子の質量を 12 とした相対質量で表したもの。単位はない。

 

ここでは分子量について考えてみましょう。化粧品の成分としてよく見かける成分の分子量はどんなものでしょう。

例えばヒアルロン酸。保湿剤です。分子量がなんと120万もあります。500 しか入らないのに120万。これは皮膚には入らなそうだと想像できます。

一方、美白剤などで使われているビタミン Cは分子量が180。これはある程度皮膚に入りそうですね。

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この「皮膚に入る・入らない」が皮膚のどの部分で制御されているかと言うと、皮膚の一番外にある角層と呼ばれているところで制御されています。

角層には体の中からの水分蒸散を防ぐという重要な役割がありますが、水分が出ていかないということは、外から中にも入りづらいということでもあります。でも実はごく小さな隙間のようなものがあって、小さいものは通ることができます。角層は角質細胞と角層細胞間脂質というものでできていて、下図の角層細胞間脂質のところをメインに化合物が通ることができると言われています。

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角層の厚さは大体サランラップぐらいの厚さ(約20マイクロメートル)とされています。分子量が大きいものは、この角質細胞と角層細胞間脂質の隙間を通りにくいとされています。でも、通路をうまく広げたりすることができれば、通りやすくすることができます。その技術は経皮吸収技術と呼ばれていて、徳留先生が研究されている研究領域です。

巨大分子・ヒアルロン酸を皮膚に入れるには

分子量の大きいものを皮膚の中に入れる方法はいくつかありますが、徳留先生が研究されているのは「イオンコンプレックス」という方法です。

マイナスの電気を持っているものとプラスの電気を持っているものを組み合わせると、互いに絡まりあって複合体をつくるといわれています。ヒアルロン酸は分子量120万という巨大分子ですが、マイナスの電荷を持っているので、プラスのものをくっつけると、ぎゅーっと凝縮して、丸い粒のようになる。

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この粒なら通路を通ることができるでしょうか? 皮膚に塗って蛍光顕微鏡で撮影したものを見せていただくと、ヒアルロン酸(下図の緑色の部分)が、皮膚の中に入り込んでいるのがわかります。

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分子量500しか入らないところに分子量120万のものが入っていて、「本当に衝撃的だった」とのこと。

徳留先生は企業との共同研究にも取り組んでいて、この技術も商品化されています。徳留先生いわく、研究をやっていて面白いことは、世界で誰も知らないことを自分が明らかにできること。そして消費者を幸せにできるのだから「こんなにいい職業はない」と、研究の面白さとやりがいを語ってくれました。

 

徳留 先生

徳留先生

 

光で彩るメーキャップ

スキンケア化粧品を届けたいところに届けたら、あとはメイクで仕上げです。

次に紹介するのは「光で彩るメーキャップ ~光のマジックで自然な仕上がりを実現!~」。講師は髙田定樹先生(大阪樟蔭女子大学教授、樟蔭美科学研究所所長)です。

髙田 定樹 先生

髙田 定樹 先生

 

メーキャップで自然な美しい仕上がりを得るには、科学的に考えると三つのポイントがあるそうです。「色彩」「光沢感(質感)」「形態」。この三つをうまく整えれば、美しい化粧肌ができあがるとのこと。

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まずは色彩です。色彩の補正を考える前に考えておかなければならないのが、人の皮膚の光学特性です。

たとえば博多人形のような人形の顔の光の反射と、人間の皮膚での反射の仕方というのは全く別のものです。

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プラスチックなどでできた人形の顔に光が当たると全ての光が反射しますが、人間の生体皮膚の場合は、光が当たって表面で反射する量はたったの5%。残りの95%ぐらいは皮膚の中にもぐり込んでいって、皮膚の中のメラニン色素や血流中のヘモグロビンなどの色素に吸収されたり散乱したりして、光が入ったところとは違うところへ出て行く。それが人間の皮膚の光学的な特異性だそうです。

 

ここで美しい皮膚とくすんだ皮膚での反射率のちがいに注目すると、くすんだ肌に赤や青の光を足せば、きれいな肌に補正できるとのこと。

「それなら赤いメーキャップをして赤みを増やそう」というのが従来のメーキャップの考え方ですが、これをすると逆にくすんでしまいます。水彩絵の具で絵を描くときに、色を混ぜれば混ぜるほど色がくすんで暗くなるように、混ぜると色の明度が下がる。そうではなく、「光で色を混ぜよう」というのが、今回のお話です。光で色を混ぜるとどんどん明るくなっていきます(加法混色)。

 

では、どうやって化粧品に光をプラスすればいいのか?「発光体でも乗せるのか」という話ですが、そうなんです。ただし発光ではなく、光を反射するものです。

 

下の図のように、「マイカ」(雲母ともよばれる)という板状の粉体の表面に、二酸化チタンの薄膜をくっつけると、光が当たった時に赤い光が反射します。

3t_スライド3b

二酸化チタンの薄膜が100nm だと赤く反射し、膜厚を155nmにすると緑、131 nmにすると青色の光を反射するそうです。

このような発光体を使って色彩補正するのが「光のメーキャップ」というわけです。

肌の光沢とカタチ 美しく見せるテクノロジー

美肌の三要素、光沢についてはどうでしょう。肌にツヤを出したりツヤを消したりして光沢を調整するのですが、ツヤを出すには、光を強く反射する板状の粉体を、ツヤを消すには光を乱反射させる球状の粉体を使います。

3t_組図2

(近年はマイクロプラスチックが問題になっているため、代替材料への置き換えが進んでいます)

肉眼で見えないところにいろんな技術が詰め込まれています。

 

美肌の三要素、最後は形態です。形態を整えるには顔の輪郭などのマクロな補正と、毛穴や小ジワなどのミクロな補正の2つがあります。

 

マクロの補正は、たとえば小顔に見せるには顔の輪郭を暗く、中心を明るく見せて立体感を出せばいいというわけで、立体感を生むパウダーを紹介いただきました。顔全体に均一に塗れば立体的に見えるという便利なものです。

一方、毛穴や小じわなどミクロの補正では、皮膚表面の凸凹をどうやって消すかということが問題になります。

 

解決のヒントになるのが、下の写真です。水の入ったビーカーにガラス棒を入れると、水の中にガラス棒があるのがはっきり見えます。ところが、水の代わりにある液体を入れるとガラス棒が見えなくなってしまう。

これはなぜかと言うと、ガラス棒と全く同じ屈折率の液体を入れているためです。同じ屈折率になると存在がわからなくなる

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同じように、凸凹のある皮膚に、皮膚と同じ屈折率の化粧品を塗り込んで穴を埋めれば、穴がなかったかのように見えることになる。その上に球状の粉体(パウダーなど)をのせると、さらに効果は上がります。

このように、「色彩」「光沢」「形態」の補正を光の力を使って科学的に行うと、美しい肌に見せることができるというわけです。

 

こうしたメーキャップを応用すると、例えば抗がん剤治療で皮膚に反応が出ている人や、色素沈着や紅斑などがある人の皮膚を光学的に補正することができます。

また、事故などで顔の一部に欠損がある方にも、土台をシリコンで作り、その上に光のメーキャップをして、あたかもそのくぼみがなかったかのように見せることができ、外観に問題を抱えている人が社会生活を送りやすくなります。

化粧品の力によって社会に貢献していきたい」という髙田先生。光のメーキャップの原理と効果を、とてもわかりやすくお話しくださいました。

* * *

 

このほかにも、岡野由利さん(株式会社CIEL取締役)から、肌トラブルの仕組みや化粧品の安全性・有効性を確かめるプロセスについて、化粧品コンサルタントの堀越俊雄さんからはボディウォッシュなどの泡の技術について、また武庫川女子大学客員教授の神田不二宏先生からはデオドラント製品の開発について紹介いただきました。

科学オンチの私も、化粧品がさまざまな科学的知見を動員し、効果を検証してつくられていることを知ると、うまく活用して心地よく過ごしたいという気持ちになります。

 

今回のシンポジウムは、化粧品を「つくる」ことに焦点を当てた内容でしたが、進路を考える高校生や大学生に向けて、興味関心に沿ったさまざまな学問分野も紹介されました。ファッションとしての化粧なら被服学、美学、文化人類学など。化粧と心の関係は心理学、商品として売るにはマーケティングなど、化粧品を学ぶ間口は広そうです。

 

平等院鳳凰堂に響く天上の音楽を聴く――京都市立芸術大学 オンラインセミナーをレポート

2022年3月17日 / コラム, 体験レポート

あれは何年前のことでしたか、宇治の地で目にした菩薩さまの印象は忘れがたいものでございました。

優しい表情で、木目の彫りあともみずみずしく、流れる雲に乗って祈り、舞い、楽器を演奏するさまは楽しげですらあり…。

 

極楽浄土で阿弥陀如来をとりかこみ、笛や琵琶などの楽器を演奏する菩薩像。浄土教美術の中でさかんに描かれていますが、平等院鳳凰堂で見た雲中供養菩薩はとりわけ優美で軽やかで、忘れられない印象でした。

そこで奏でられる音楽はどのようなものでしょうか。

 

2月17日、京都市立芸術大学のセミナー『平等院鳳凰堂に響く天上の音楽』で、関連する音源を解説とともに聴くことができると知り、ぜひ聴きたいと思い参加しました。

講師は同センター所長の渡辺信一郎先生です。

プロフィール

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渡辺 信一郎 京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター所長。専門は中国楽制史、中国古代史。著書に『中国の国家体制をどうみるか――伝統と近代』(共編著、汲古書院)『中国古代の国家と楽制――日本雅楽の源流』(文理閣)など。

極楽浄土の管絃楽

平等院は、藤原道長の別荘を子の藤原頼通が1052年(永承7年)寺院に改めたもの。その翌年に建立された鳳凰堂の内部には雲中供養菩薩像が懸けられ、極楽浄土の光景が表現されています。

©平等院 

©平等院

平等院鳳凰堂内部 ©平等院 

平等院鳳凰堂内部 ©平等院

 

菩薩像は全部で52体あり、その多くが手に楽器を持ち、音楽を演奏しています。菩薩はどのような音楽を演奏しているのか、「楽器の編成に注意しながら耳を澄ませて聞いてみましょう」と、お話がはじまりました。

 

まずは数ある菩薩像より、四体の菩薩像の楽器を紹介いただきました。

 

・箏(そう)
雲中供養菩薩像 南16号 ©平等院 

雲中供養菩薩像 南16号 ©平等院

 

お箏(こと)です。

 

・曲頸(きょっけい)琵琶
雲中供養菩薩像 北2号 ©平等院

雲中供養菩薩像 北2号 ©平等院

 

琵琶のネック(首)の部分が折れ曲がっているので、この名がついています。

 

・腰鼓(ようこ) 
雲中供養菩薩像 北4号 ©平等院

雲中供養菩薩像 北4号 ©平等院

 

腰にかけて両手で打ちます。日本ではもう使われていない楽器ですが、中国では現役だそうです。

 

・揩鼓(かいこ、すりつづみ) 
雲中供養菩薩像 南14号 ©平等院

雲中供養菩薩像 南14号 ©平等院

 

皮を擦って音を出します。中国でも日本でも廃れましたが、法隆寺に由来するものが一つだけ残っています(上野学園日本音楽資料室所蔵)。

 

このほか、鳳凰堂の菩薩が演奏している楽器の種類は、全部あわせると20種類。

篳篥(ひちりき)、横笛(おうてき…現在の竜笛 りゅうてき)、答笙(とうしょう…現在の笙 しょう)、太鼓や鞨鼓(かっこ)など、現代の雅楽でおなじみの楽器もあれば、ハープのような楽器や、16枚の鉄片をたたいて、鉄琴のようにさまざまな高さの音を出す金属楽器など、今では使われなくなったものも数多くあります。

これらすべての楽器がそろっての合奏は、まさに極楽浄土にふさわしい華やかなものだったのではないでしょうか。

天上の音楽のふるさと

下の図は、菩薩像とほぼ同じ時期に作られた舞樂圖『信西(しんぜい)古楽図』とよばれるものです。

ここに描かれているのは、唐の時代に中国から伝わった「唐楽」という音楽の楽器で、これらと菩薩像の楽器がほぼ一致していているとのこと。菩薩像の楽器の多くが、唐から伝わったものであることがわかります。

『信西古楽図』(京都市立芸術大学芸術資料館所蔵) 図の右上の楽器は写真で紹介された腰鼓、その下には揩鼓が描かれている。 

『信西古楽図』(京都市立芸術大学芸術資料館所蔵) 図の右上の楽器は写真で紹介された腰鼓、その下には揩鼓が描かれている。

 

唐の音楽と一口でいっても、当時の中国宮廷で演奏された音楽は、西は朝鮮半島、南はカンボジアやインド、西は中央アジアのブハラ、サマルカンド、カシュガルなどから来た音楽、と非常にバリエーション豊か。その多くが当時の中国にとって外国音楽という国際的なものでした。

 

これらの音楽のうち、日本に伝えられて平等院鳳凰堂に響くことになるのは、下の地図の赤丸のあたりにある涼州(りょうしゅう)という所の「西涼楽(せいりょうがく)」、それにさらに西方の音楽が融合した「胡部楽(こぶがく)」とよばれる音楽なのだそうです。

*現在の中国甘粛省武威市

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涼州は古くから中国と西アジアを結ぶ交通の要衝でした。涼州を西へ行くと有名な敦煌の遺跡があり、そこにも菩薩が楽器を演奏する様子が描かれた壁画があります。

敦煌第220窟壁画

敦煌第220窟壁画

 

ここに描かれている楽器は鳳凰堂のものと同じで、演奏されている音楽も同じく仏教関係のものだったとのこと。「遠く敦煌まで響き合う音楽であるということがお分かりになると思います」と渡辺先生。

 

西涼楽の起源をさらにさかのぼると、中国系の音楽と、イラン系の人々が暮らしていた砂漠のオアシス都市の音楽がルーツになっているそうで、鳳凰堂に響いているのは大変国際的な音楽だったということになります。セミナーでは、この起源と楽器の変遷についても丁寧に解説いただきました。

大陸に響く音楽

最後にお待ちかねの演奏鑑賞です。平等院鳳凰堂の菩薩像が演奏しているのと同じ「胡部楽」の曲を復元した〈甘州(かんしゅう)〉という舞楽を聴かせていただきました。

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間断なく響きつづける笙の音、高い笛の音、低くやわらかな琵琶や箏の音色。ゆったりとくりかえされるメロディに耳を傾け、雲中供養菩薩のやさしい姿を思い浮かべると、しだいに頭がうっとりぼんやりして、実におだやかな心地で天上界へいざなわれます。

 

砂漠のオアシス都市にもルーツをもつことを思って聴くと、砂漠をラクダがゆく風景にも似合う気がしました。平等院鳳凰堂の音楽に、思いがけずはるかな大陸の広がりを感じられたのが印象的でした。

 

『蝶々夫人』だけではなかった 音楽のジャポニスム~京都市立芸術大学のセミナーをレポート

2022年2月22日 / コラム, 体験レポート, 大学を楽しもう

日本のマンガやアニメを愛好する海外の人は多いですが、今から100年以上前にも、西洋が日本ブームに沸いた時代がありました。浮世絵の模写を残したゴッホや、日本風の橋がかかった池を描いたモネなど、19世紀西洋の画家たちが日本の美術に強い関心をもち、その影響を受けたことはよく知られています。

 

では、音楽は? この頃、音楽にも日本ブームというものはあったのでしょうか。

『19世紀西洋音楽が描く「日本」』というテーマで京都市立芸術大学伝統音楽研究センターのオンラインセミナーが行われると知り、拝見しました。

講師をつとめるのは同センター特別研究員の光平有希先生です。

講師プロフィール

顔写真

光平 有希さん 京都市立芸術大学伝統音楽研究センター特別研究員、国際日本文化研究センター総合情報発信室特任助教。音楽療法史、東西文化交流史、日本表象西洋楽曲(ジャポニズム音楽)を研究テーマとする。

 

活動写真3

19世紀~20世紀にかけて出版された楽譜(シートミュージック)の出版地や出版社を調査中(左から2人目)

こんなにあった! 日本をイメージした曲

 「日本をイメージして西洋で作られた楽曲といえば、どのような音楽を思い浮かべますか?」と最初に光平先生が問いかけました。

日本の長崎を舞台にしたオペラ《蝶々夫人》でしょうか‥。オペラに全くくわしくない私も、特に有名な劇中歌〈ある晴れた日に〉は、知らず知らずのうちに耳にしていました。また、ドビュッシーの交響詩《海》の楽譜に、北斎のような絵が使われているのも見たことがあります。

資料(楽譜2点) 個人蔵

資料(楽譜2点) 個人蔵

 

《蝶々夫人》も《海》も、オーケストラの演奏による大曲ですが、実はその100年くらい前から、日本を題材にしたピアノ曲や歌曲がサロンや家庭などで愛好されていたそうです。

所蔵:国際日本文化研究センター

所蔵:国際日本文化研究センター

 

上の写真は「シートミュージック」とよばれる一枚刷りの楽譜です。日本でいうと江戸時代の終わりから明治時代にかけてのものですが、この頃に日本をテーマにした曲がこれほど多く作られていたとは驚きです。

 

今回はこの中からピアノ用に編曲されたものを主に紹介いただくのですが、それまでにも宣教師などとして来日し、日本の音楽に接していたヨーロッパ人はいました。彼らは日本の音楽にどのような印象をもっていたのでしょう。

音楽にすら聞こえなかった? 宣教師と日本の音楽との出会い

キリスト教伝来期の16世紀、日本で約30年間暮らしたポルトガル人宣教師フロイスの日本音楽評は、下のような具合です。

(お渡し用)伝音セミナーPPT1024_5b

さんざんな言いようですが、フロイスが生まれた16世紀のヨーロッパはオルガンを中心とした教会音楽が隆盛を誇った時代。「自らの聴覚文化にない音色に大きなカルチャーショックを受けたのでしょう」と光平先生は説明します。

 

17世紀末に、オランダ商館の医師として日本に滞在したドイツ人ケンペルも、笛や太鼓のお囃子について「味気なく、他愛ない」「歌い方はいかにも下手」と辛辣極まりない言葉を残しています。

西洋音楽で育った耳に日本の音楽がまったく異質なものだったことは分かりますが、「そこまで言わなくても」というけなしぶりです。

日本の音楽を採譜していたシーボルト

オランダ商館の医師として19世紀に来日したシーボルトは、その著書『日本』の中で日本の楽器を精密な図版で紹介しています。

所蔵:国際日本文化研究センター

所蔵:国際日本文化研究センター

 

シーボルトは自分のピアノを日本に持ち込むほどの音楽好きだったそうで、日本で耳にした音や音楽を採譜し、それをもとにした作品づくりをドイツ人の作曲家に依頼しています。そこで生まれたのが作品集《日本の旋律》です。

 

実際に一部の演奏を聞かせていただいたところ、モーツァルトかハイドンの小品のような明るく軽快なピアノ曲でして、特にわかりやすく日本の旋律が織り込まれている感じではありません。

ただ軽快な中にもやや哀愁を帯びた節回しがあり、そこにほんのりと和のフレーバーが漂っていた気がします。

西洋音楽の手法で表現されていますが、日本の音楽が西洋に伝えられた最初期の例として、歴史的な意義は大きいのだそうです。

シートミュージックの時代

《日本の旋律》は、冒頭でも少し登場した「シートミュージック」と呼ばれるもののひとつです。

所蔵:国際日本文化研究センター

所蔵:国際日本文化研究センター

 

シートミュージックが欧米で量産された19世紀から20世紀初頭は、それまで貴族や教会のためだった音楽を中産階級の市民も楽しむようになった時代。シートミュージックに現れる「日本」は、一般の人がどのように日本をみていたのかを知る手がかりとして、おもしろい資料なのだそうです。

 

先ほどの《日本の旋律》を下地にして作られた〈日本の舟歌〉という曲もあります。作曲したのは、ピアノの教材でおなじみのバイエルです。

所蔵:国際日本文化研究センター

所蔵:国際日本文化研究センター

 

こちらの演奏も聞かせていただきましたが、「日本の伝統的な音階やリズムは認められず、タイトルにのみ日本が表象されているイメージを抱きます」と光平先生。私も同感でした。

 

バイエルが  〽 ハァ~ ドッコイ~ ドッコイ~  という雰囲気の舟歌を作っていたら大変面白かったんですが、バイエルが日本の舟歌を実際に聞く機会はなく、作曲の参考にした曲も日本の旋律をそれほどわかりやすく再現していないので、無理もありません。

あのベートーヴェンが<ジャポニカ・ワルツ>?

バイエル〈日本の舟歌〉の10年ほど前に出版された〈ジャポニカ・ワルツ〉という曲には、ベートーヴェンの名が堂々と記されています。

(お渡し用)伝音セミナーPPT1024_14b

 

「おお、あのベートーヴェンが日本を題材にワルツを!」と思いたいところですが、発売時期や作風などから、本人によるものではないと考えられています。「楽譜の出版社が買い手の目を引くためにベートーヴェンの名前をつけ、キャッチ―なタイトルにして販売促進を期待したのでしょう」とのこと。

 

販売促進を期待して日本をタイトルに入れるというのもおもしろい話です。シートミュージックは商品としての色合いが非常に濃く、最新の事件やイベント、スポーツから社会問題まで、世間のさまざまな関心事が曲の主題になったそうで、西洋の人々の好奇心や想像をかきたてていた「日本」もその一つだったということのようです。

 脱・「タイトルだけ日本」

ここまで見てくると、日本の音楽は「見かけだおしの販促ツールか」と嘆きたくなりますが、何といっても日本がまだ鎖国していた時代のことです。手に入る情報が非常に限られている中、一般の人が日本に強い関心をもち、「日本」を感じさせるタイトルの楽譜を買い求めていた状況がうかがえます。

 

開国前後を境に、この状況は一変。ちょんまげ姿で欧米を訪問した幕末の使節団、万国博覧会への参加、堰を切ったように流入した美術工芸品、欧米各地で興行した日本人の芸人一座等々による空前の日本ブームを背景に、日本の伝統的な音階を用いたオペラ『黄色い王女』(サン=サーンス作曲、1872年)や、日本の当時の流行歌が使われた喜歌劇『ミカド』(1885年)など、日本の音階や旋律を取り入れた作品が現れるようになります。

 

ちなみに『ミカド』は、日本を舞台に当時のイギリス政府を風刺したドタバタ喜劇で、ロンドンで初演され、672回ものロングランを達成しています。

『ミカド』の劇中歌をアレンジしたピアノ曲〈ミカド・ポルカ〉の楽譜 所蔵:国際日本文化研究センター

『ミカド』の劇中歌をアレンジしたピアノ曲〈ミカド・ポルカ〉の楽譜 所蔵:国際日本文化研究センター

 

『ミカド』の約10年後には、ピアノ曲集《日本楽譜Nippon Gakufu》が出版されます。

作曲したのは、いわゆる “お雇い外国人”で、東京音楽学校で教鞭をとるかたわら日本音楽の研究にも熱心に取り組んだディットリヒというオーストリア人の音楽家です。日本のメロディに西洋的な和声を組み合わせ、日本の音楽になじみのない西洋人にも違和感なく受け入れられるようアレンジされています。

ディットリヒ作曲《日本楽譜Nippon Gakufu》 所蔵:国際日本文化研究センター

ディットリヒ作曲《日本楽譜Nippon Gakufu》 所蔵:国際日本文化研究センター

 

演奏を聞かせていただくと、聞きなれた〈さくらさくら〉のメロディが時折はっとするような新鮮な響きに彩られていて、新しい音楽が生まれているという印象を受けます。

そして20世紀

日本をイメージした音楽は、この後どのように変遷をとげていくのか。20世紀初頭の流れについても紹介いただきました。

オペラ『蝶々夫人』(プッチーニ作曲)の初演は1904年。〈さくらさくら〉〈君が代〉〈お江戸日本橋〉〈越後獅子〉〈かっぽれ〉などのメロディが織り込まれています。

この頃には日本の旋律や邦楽理論、文化的背景などの情報が大量に流入。プッチーニも劇作家ベラスコの脚本による『蝶々夫人』の芝居を観て感動し、オペラ化に向け日本の楽譜を収集するなど研究を重ねて作曲したそうです。

 

日本の詩歌もさまざまな言語に翻訳され、1910年代以降は俳諧や和歌をテーマに据えた作品が多く発表されます。

歌曲《3つの日本の抒情詩》(ストラヴィンスキー作曲、1912~1913年)も、そのひとつ。ストラヴィンスキーが「万葉集」「古今和歌集」の紀貫之らの和歌に感銘を受けて作曲したものです。

 

この曲はセミナー終了後に聴いてみたのですが、「異文化との接触が、長い時間をかけてこういうところに到達するのか」という感慨を抱きました。どこにも日本のメロディは見当たりませんが、たしかに日本だ、と言いたくなるような何か。

「日本の文化を咀嚼し、新しい表現方法として作品に落とし込むというジャポニスムの流れ、作品の特徴がこの時期にはよく見られます」と光平先生が解説してくれました。

 

♪  ♪  ♪

 

オンラインセミナーで紹介いただいた曲の中から特に印象に残ったものをピックアップしてご紹介しましたが、「この時代に、日本をイメージした曲がこんなにもたくさんあったのか」ということが、やはり一番印象に残っています。浮世絵を皮切りにブームを招いた日本の文化や風俗は、当時の西洋の人たちにとって相当衝撃的だったのかもしれません。

参考情報

一部の曲については、下記サイトにくわしい解説が掲載されています。(一部音源あり)

○国際日本文化研究センター「日本関係欧文史料の世界」(ライブラリー:図書6ページ・7ページ)

https://kutsukake.nichibun.ac.jp/obunsiryo/book

 

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