突然だが、世界史の授業のことを思い出してほしい。世代などによって違いはあるだろうが、概ね次のような部分は共通しているだろう。つまり、オランダ、イギリス、アメリカ、中国など、いろいろな国(特に西洋の大国)の歴史を学ぶということだ。
当たり前のようにも思えるが、しかしこれはどこまで当たり前なのか?今回お話を伺ったロンドン大学キングス・カレッジのサラ・マルザゴラ博士(https://www.kcl.ac.uk/people/sara-marzagora)は、これまでとは異なる枠組みで歴史を捉えようとする流れに立ち、主にアフリカで活動した知識人たちの営みの歴史を研究している。
今回、マルザゴラさんには、そうした新しい視点をとりいれながら、東アフリカのエチオピアと日本との関係についてメールインタビューで語っていただいた。
さて、エチオピアと、日本との関係について、何を思い浮かべるだろう。日本でも飲めるエチオピアのコーヒーのことかもしれない。1964年の東京オリンピックで活躍したマラソンのアベベ選手の出身地として記憶している人もいるだろう。最近ニュースでよく目にするテドロス・アダノムWHO事務局長もエチオピア(現・エリトリア)出身だそうだ。
しかし、エチオピアと日本の関係は、それだけにとどまらない。特に両大戦間期、エチオピアと日本はある意味でかなり近い距離にあったという。どんなふうに?そしてそこにはどんな背景があったか?
マルザゴラさんのお話からは、一見私たちとそれほど関係がなさそうな世界の出来事や人々の営みが、案外近いところにつながっていくことの面白さを感じることができた。
(本文中の〔〕は訳注)
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「ヨーロッパを中心にした各国の歴史」から「越境的なつながり」へ
――最初に、ご自身の研究の概要と、関心をもたれたきっかけをお聞かせくださいますか。
ヨーロッパとアメリカの大学では、人文学のプログラムは国民国家をベースに組み立てられる傾向がありました。例えば、フランス史やアメリカ政治思想といった科目、ドイツ文学の学部、ポルトガル研究の学位といったものがあるでしょう。
しかし2000年代になって、このモデルは、私たちの生きるグローバル化した世界の理解には適していない、近代になって世界が政治的・経済的に統合されてきたこと、そして思想がつねに国境を越えて流通してきたことの理解には適していない、と研究者たちは議論するようになりました。
私は、この「トランスナショナル(越境的)な転回」が重要だと考えたのです。特に、多くのアメリカやヨーロッパの研究者によるヨーロッパ中心主義的な偏見を乗り越える期待ができたからです。そのため、私はエチオピアのインテレクチュアル・ヒストリー〔知の営みに関する歴史学〕の研究において、エチオピアの世界的な立ち位置がいかにエチオピアの政治思想を形作ったのかを考えるようになりました。エチオピアの知識人が世界をどう捉え、そしてそのなかで自分たちの置かれている立場をどう理論化しているのかを探りたいなと。知識人たちが、トランスナショナルなつながりをどうやって築き、そこからどのような影響を受けてきたのかを調べ始めたところ、エチオピアの「日本化の担い手たち」の話と出会いました。
ロンドン大学キングス・カレッジのサラ・マルザゴラ博士。エチオピア・アディスアベバで開かれた「世界文学における口承の伝統」に関する学術会議での講演
エチオピアの「日本化」とはなにか?
――エチオピアの「日本化」の動きがあったということですが、その前に、現在の日本では、エチオピアとの関係は一般的にはあまり知られていないような気がします。エチオピアと日本は具体的にどんな関係を持ってきたのでしょうか。その関係を知るうえで重要な出来事はなんでしょう。
エチオピアと日本の関係のピークは1927年から1935年の間です。1927年に、この2国は通商友好条約を結び、1930年にはアディスアベバ〔エチオピアの都市〕で行われた皇帝ハイレ・セラシエ (Haile Selassie)の戴冠式に日本の使節が出席しました。
その返礼訪問で、外務大臣ヘルイ・ウォルデ・セラシエ(Heruy Wolde Selassie)率いるエチオピア代表団が1931年に日本を訪れます。使節たちは日本に約2カ月間滞在して、天皇裕仁に謁見し、そして日本の近代化のシンボルとなるあらゆる場所を巡りました。つまり、工場、会社、工業型農場、動物園、劇場、鉄道、神社、博物館、軍事教育施設です。このときの訪日の目的は、商業的なつながりを強化するため、そしてヨーロッパへの経済的な依存を弱めるためでした。外務大臣ヘルイは日本滞在に感動して、エチオピアへの帰国後に『光の場所――日本という国』と題した小冊子を執筆し、そのなかで、エチオピアも日本モデルに従うことを推奨しました。1931年のエチオピアの憲法は、1889年の明治憲法を踏襲したものです。
前列の和服姿の4人は1931年に日本を訪れたエチオピア代表団。前列一番右が皇族のアラヤ・アベバ、その隣が外務大臣ヘルイ。後列右は弁護士の角岡知良。その左はエチオピア服を着た、知良の妻
エチオピア代表団の他のメンバーには若き日のアラヤ・アベバ(Araya Abebe)〔皇帝ハイレ・セラシエの親族〕がいて、やはり日本での経験に大きな感銘を受けて、日本の女性と結婚しようと決意しました。汎アジア主義者〔アジア諸民族の団結と欧米列強からの独立を主張する思想の持ち主〕の弁護士・角岡知良が、アラヤの結婚相手探しを手伝いました。黒田雅子というお相手が決まったのですが、イタリア政府の干渉があって最終的に結婚の話はたち消えになりました。イタリア政府はエチオピアの植民地化を狙っていて、日本とエチオピアの同盟関係に反対だったのです。
アラヤ・アベバと婚約していた黒田雅子
――エチオピアの知識人たちが日本に注目していたわけですね。一体どんな理由があったのでしょうか?
20世紀初頭のエチオピアの知識人たちは、国際舞台でのエチオピアが弱い立場にあることがわかっていました。この国は公的には独立していましたが、全方位をヨーロッパの植民地に囲まれていたのです。イタリア、フランス、イギリスは領土拡張の野望を抱いていて、エチオピアの独立を脅かしていました。エチオピアは経済的にも軍事的にもこうしたヨーロッパの国々と張り合える力を持っておらず、知識人たちは、エチオピアが「後進国」「発展途上国」であるということをヨーロッパの列強が侵略の口実に使う可能性を恐れていました。したがって彼らは、エチオピア政府はすぐに国家を近代化できるのだ、ということをヨーロッパに確信させようとしました。エチオピアが繁栄すれば、ヨーロッパは植民地化の計画を正当化するのが難しくなるのではないかと、エチオピアの知識人は考えたわけです。
ここで日本が重要なモデルになりました。ヘルイ・ウォルデ・セラシエや、ケベデ・マイケル(Kebede Michael)〔エチオピアの作家〕は、日本は当初こそヨーロッパに対する周縁的な立場から近代に参入したものの、その後うまく独立を保っただけでなく、自ら世界の大国になった、と分析しました。言い換えると、エチオピアの知識人にとって日本の事例は、非白人の非ヨーロッパの国家が、ローカルな伝統を維持しながら国際的なシステムのなかで力を得ることが可能だということの証でした。エチオピアの知識人は、自分たちの君主制の政治体制とキリスト教的な政治の伝統を変えることは望んでいませんでしたので、日本は文化的なアイデンティティを失うことなく、強国であるという認識を得ていた前例だと思われていたのです。
日本モデルはわかりやすい「スローガン」だった
――日本をモデルに近代化しようという動きは、エチオピアにどんな影響をもたらしたのでしょうか?功罪両面についてお聞きしたいです。
プラスの面は、日本がエチオピアの政治思想を活性化させたことだと私は考えています。というのも、日本は、エチオピアの知識人たちが西洋vs.東洋(あるいはもっと最近の言い方をすればグローバルノースvs.グローバルサウス)の二分法の外側で考える原動力となったからです。言い換えれば、他の非西洋の国家とつながりを築くという発想をエチオピアにもたらしました。日本モデルは、西洋だけが牛耳るのではない、そして「近代」化の方法が一つだけではない、多極化した世界をエチオピアが思い描くことを可能にしました。この点から言うと、日本の例は、世界の力関係の異なるあり方についての想像をかきたてるものでした。
ところが実際には、エチオピアの知識人たちは日本のことをよく知らずに日本モデルを称賛していました。日本の歴史は、平坦に、単純化して理解されました。エチオピアと日本の似ている要素だけが取り出され、多くの相違点は深く分析されることがほとんどありませんでした。この意味で、日本は理想化された見本であって、エチオピア内部で近代化の可能性を強調するために用いられたスローガンのようなものだったといえます。しかし、議論は大抵それ以上進みませんでした。別の言い方をすると、日本がエチオピアの知識人に促したのは、異なる世界の「可能性」を考えるという点であって、「いかにして」その異なる世界へと実際に到達できるのかではなかったのです。
――そうしたエチオピアと日本との関係の歴史から、現代の人々が学ぶべきことは何だと思われますか?
私にとっては、エチオピアと日本の関係史は、「南と南」のつながりの重要なケースです。ヨーロッパとアメリカの大学で行われるインテレクチュアル・ヒストリーは、非常にヨーロッパ中心主義的になる傾向がありました。専らヨーロッパに焦点が当てられますし、ヨーロッパ以外の伝統が研究されるときには、それはいつもヨーロッパ思想の派生物として、ヨーロッパの覇権への反応や反動として扱われていました。しかし、エチオピアと日本のケースのような南と南の関係の例は、このヨーロッパ中心主義を乗り越えることを可能にします。エチオピアの思想はヨーロッパの植民地の物語への反応や反動であるだけではなく、日本のような別の知的な伝統を基盤にしていたし、そしてのちにはカリブ海に離散した黒人たちなど、他の非西洋の知的伝統に影響を与えました。
エチオピアのオロモ文化センターにて。右は、マルザゴラさんの出身校であるロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS/ソアス)での研究仲間、アエレ・ケベデ(Ayele Kebede)さん
世界文学という見方
――なるほど、知的な営みを介してさまざまな地域がダイナミックにつながっていきますね。ところで、あなたは大学で「世界文学」を教えておられます。この分野の概要についてもお話を伺いたいです。これまでの文学史との違いはどこにあるのでしょうか?
世界文学は人文学の「トランスナショナルな転回」のなかから生まれました。この学問分野の基本的な前提となっているのは、近現代の文学がかなりトランスナショナルな側面をもっていること、そして一つの言語の国民の文学を研究するという旧来のアプローチは、このトランスナショナルな動きを説明するには不十分だということです。一部の文学ジャンルは世界中に広まっています(例えば小説です)。作家はよく外国の伝統に影響を受けてきました。作家の多くは昔も今も複数の言語を使いますし、出身地以外へと旅に出かけてきました。そして遠く離れた場所について語る文学作品は数多くあります。言うまでもなく、いろいろな言語間の翻訳の歴史があるし、国際的な印刷機構、国際的な文学フェスティバル、そして国際的文学賞まである!
また、世界文学は、国民国家をもっと多元的に考え直すことも可能にします。同じ国民国家の内部でも、違う方言、状況に応じて変わる話し方、違う言語と常に出会っていますよね。
しかし、世界文学の歴史は、世界を平等に捉える文学の歴史というだけでなく、強力な文学の伝統と周縁的な文学の伝統の、不均衡な力関係の歴史でもあります。世界のそれぞれの地理には、それぞれの「中央」と「周辺」があります。私にとって、世界文学は、いかに文学がローカルおよびグローバルな権力形式と常に関わっているのか研究することを可能にする分野です。
――最後に、今後の活動について教えて下さい。出版の予定もあるとか。
今、いろいろな出版プロジェクトの仕事をしています。少し多すぎるかもしれないほどです!例えばケベデ・マイケルの思想の新たな側面についての一章を執筆しています。彼が奴隷制の歴史を理論化した方法についてです。また、世界文学とインテレクチュアル・ヒストリーにおける口承の役割についての一巻を共同編集中です。文学研究とインテレクチュアル・ヒストリーは書かれたものだけを基にした研究になりがちなのですが、口承の詩、歌、民話も世界中において、重要であり、近代的な、そして美学的に複雑な創造的表現の形です。
そしてさらに重要なのは、初の単著を完成させること。仮のタイトルは『独立の真意: 植民地主義世界におけるエチオピアの知識人たち(The True Meaning of Independence: Ethiopian Intellectuals in a Colonial World)』です。将来的には、エチオピアと日本の関係史の新しい側面の探求にも、もっと時間を割きたいと思っています。
もしこうした研究プロジェクトでのコラボレーションに関心のある方がおられたら、連絡お待ちしています!
――コラボレーションに興味のある方がおられたら、ぜひ。ということで、どうもありがとうございました。
アディスアベバのエチオピア作家協会にて