豊中市、池田市、箕面市にまたがる標高77.3mの待兼山(まちかねやま)の丘陵に広がる大阪大学豊中キャンパス。
その下に遺跡が眠っていることがわかったのが今から30年ほど前のことだ。以来、継続してきた考古学調査の結果、待兼山2000年の歴史が徐々に明らかになってきた。
その概要を一般向けにわかりやすく教えてくれる公開講座「出土した焼き物から探る、待兼山二千年の文化」に行ってきた。6年前に大阪大学埋蔵文化財調査室に赴任して以来(いや、その前の大学院生時代も…)、掘って、掘って、また掘っての生活を続けてきた中久保辰夫先生の情熱あふれる解説に、参加者たちは熱心に聞き入った。参加者には考古学大好きという人が2割ぐらいいらっしゃったが、私を含め考古学マニアでなくても十分にワクワクしてしまう内容だった。
21世紀懐徳堂スタジオにて開催
日本の発掘調査は年に8,000件!
まずは、考古学の専門家が行っている発掘調査とは何かの解説から。
驚いたのは、発掘調査が行われている件数だ。日本ではなんと年に8,000件も行われていて、世界的に見ても多いほうだという。日本人はご先祖様たちが築き上げた歴史に大いに興味があるということか。
そのうち重要性が認められていて出土した遺跡を保存するのが前提の学術調査は1割にも満たない。残り9割は建設工事等に伴って基本的に破壊が前提となってしまう緊急調査で、この場合、出てくる遺構や遺物の保存はケースバイケースだ。
豊中キャンパスでの調査は後者。1983年のキャンパス工事で弥生時代の集落跡が発見されて以来、校舎の新築や建て替えはもちろん、駐輪場や道の整備までさまざまなキャンパス整備工事のたびに調査が行われ、多くの遺物が出土している。その一端は、大阪大学総合学術博物館の展示で見ることができる。
待兼山5号墳。これでも小さい古墳なんです
発掘調査の様子
待兼山遺跡から出土した馬型埴輪と馬曳人埴輪
地域色くっきり!?土器の文様にみる弥生人のセンス
キャンパスで発掘された遺跡を時代の古い順に並べると、最も古いのが2000年をさかのぼる弥生時代の集落跡になるそうだ。そこでは住居などの跡は発見されなかったが、弥生土器や石器などが出土した。中久保先生は発掘された遺物の実物をいくつか持ってきて、講義の間、参加者にまわして見せてくれた。
土器のカケラをじっくり観察
細かい線の文様が見える
「弥生土器は女性がつくっていたとされています。よく見ると、親指の指紋のような跡が残っているのがわかります」
2000年も土の中に埋まっていた土器の破片はもはやエッジのかけらもない感じですべすべとしているが、よく見ると確かに指紋のようなものが見える。どんな女性だったんだろうかと、頭の中で、想像がいろいろ膨らむ。しかし、ご飯をつくるのに器からつくらないといけないとしたら、面倒くさすぎて気が遠くなる。すごいぞ、弥生マダムたち。
面白かったのは、弥生土器の文様の話。日本の考古学では土器の文様について80年も研究のつみかさねがあり、弥生人は文様が大好きな人達だったとか、その文様は地域ごとに特色があったとか、いろいろなことが明らかになっているそうだ。
待兼山遺跡から出土した弥生土器の破片にはクロスの模様があったが、これは北摂のあたり特有の模様。これが河内周辺にいくともっと派手目な感じになると聞いて、参加者から笑いがもれる。地域ごとに「かわいい」とか「ええ感じ」みたいなセンスが共有され地域色になって表れていたと考えられるそう。
2000年前からそうだったなら、今ヒョウ柄ぐらい着ていて当たり前かも…。土器の文様が共通のエリアは、嫁入りする範囲と重なり、方言や郷土料理などにも一致した特徴がみられるかもという。
意外にもレア遺跡だった待兼山
弥生時代から下って古墳がつくられた時代には、4世紀の有力者の前方後円墳など5つの古墳が発掘され、その一つから見つかった馬形埴輪の頭部の一部は、その時代のものとしてはと豊能地域で初という珍しいものだった。
さらに、奈良時代、鎌倉から室町時代、戦国時代から江戸時代、幕末の頃のお墓の跡もさまざまな形で発見された。これまでの調査をトータルに眺めてみた結果、待兼山は西のふもとを中心に、連綿と続くお墓であったということが判明したという。
「日本の場合、お墓の場所は時代によって変わっていくのが普通。歴史のほとんどの時代がお墓、という場所は極めて珍しい」と中久保先生。先生自身も、発掘調査を続けるうちにこの遺跡の重要性に気づかされたという。
待兼山は、なぜずっとお墓だったかについて確かな証拠はまだ見つかっていないが、先生の見立てはこうだ。
「待兼山の西麓にのびる阪大坂からは、周辺のまちがよく見えます。おそらく、自分たちが住んでいた場所に葬られたい、先祖に眠っていてほしい、という思いが引き継がれていったからではないでしょうか」
講義の最後には、全員でキャンパスの中の遺跡が発掘されたいくつかの場所を巡るツアーが行われた。阪大坂では、「そうそう、ここって夕日もきれいやしなあ」という声も漏れた。地域の人が納得する、聖なる場所としての条件を備えていたのが待兼山だったのかもしれない。
阪大坂からの景色
遺跡への思い、これからの展望を熱く語る中久保先生
右手奥の駐輪場周辺では、2005年に中世の火葬墓が発見された
今回の講義は、先生から解説のアウトラインを聞いて参加者が疑問に思ったこと、もっと知りたいことをどしどしぶつけて解決していく構成。その後のツアーの間も含めてたくさんの方が先生に質問し、なかなか盛り上がる会になった。
土器のことにしても、少し背景を知るだけで興味が出てくるのを今日参加してみて実感。「考古学は人工物を対象にした学問」と中久保先生はおっしゃっていたが、人がつくったものは時代を越えても人の心をとらえるのだろう。
キャンパスがあることで、建設工事も多く、同じ場所を継続して発掘調査できることが待兼山遺跡の重要なメリット。今後は、まだ明らかになっていない縄文時代や平安時代がどうなっていたのか、あるいは待兼山の北側、東側に何が埋まっているかなど、欠けたピースをできるだけ集めたいという話だった。待兼山の謎のさらなる解明に要注目だ。
取材協力:大阪大学21世紀懐徳堂