コロナ禍において、私たちの暮らし方や働き方は大きく変化しました。特にコミュニケーション面では、マスクでお互いの表情が読み取りづらかったり、オンラインのやり取りで意思疎通がスムーズにいかなかったり。初めは多くの人が戸惑ったことでしょう。
そこでフト気になったのが、手話によるコミュニケーション。日常生活や仕事で手話を用いる人たちは、さまざまな制限があった中で不便を感じることはなかったのでしょうか。また、日常が戻りつつある今、コロナ禍で得た知見はどのように活用できるのでしょうか。全国でも数少ない手話研究の拠点である関西学院大学 手話言語研究センターで、センター長の松岡克尚先生、主任研究員の下谷奈津子先生と前川和美先生にお話を伺いました。
【今回お話を伺った研究者】
◎松岡 克尚(写真中)/関西学院大学人間福祉学部社会福祉学科 教授 、関西学院大学手話言語研究センター長
博士(社会福祉学)関西学院大学社会学研究科社会福祉学専攻博士課程後期課程修了 。障害者の生活支援に貢献できるソーシャルワークが求められていると考え、障害学の考え方を導入しながら「障害者ソーシャルワーク」を理論化することを研究テーマにしている。
◎下谷 奈津子(同右)/関西学院大学手話言語研究センター 主任研究員 特別任期制助教
Gardner-Webb大学アメリカ手話学科学士課程修了、香港中文大学大学院言語学科修士課程修了。2023年度より現職。手話通訳士としても国内外で活動している。NHK Eテレ『みんなの手話』を監修。
◎前川 和美(同左)/関西学院大学手話言語研究センター 主任研究員 特別任期制助教
兵庫教育大学大学院学校教育研究科修士課程修了(特別支援教育)。2019年度より研究特別任期制助教、2023年度より現職。また、NPO法人手話教師センター理事として活動している。NHK Eテレ『みんなの手話』を監修。
手話は手指だけじゃない! 重要な役割を担う“非手指要素”
手話は「手で話す」と表記することから、手指で表現するというイメージがあります。マスクをしていても手は自由に動かせるので、コミュニケーションを取る上ではあまり不便はないのでしょうか。
そんな疑問を投げかけると、下谷奈津子先生は「手話には手指以外の要素もたくさんあるんですよ」と説明してくれました。
「手話における手指以外の表現を『非手指要素=NM(Non-Manuals)』と呼びます。例えば顔なら、鼻を除くすべてのパーツ。眉・目・頬・口・舌がNMの要素にあたります。眉の上げ下げや、頬を膨らませたりすぼめたり。他にも、頭や上半身もNMに含まれるので、首を横に振る、頷く、肩をすぼめる、胸を張るといったさまざまな表現があります。これらのNMは、文法の機能を持っているんです」
文法の機能とは……? すぐには理解できずにいると、前川和美先生が手話で「実際にやってみましょうか」と返してくれました(なお、ろう者の前川先生への取材は、手話通訳の方が入って進行しました)。 そして見せてくれたのは、「佐藤さんですか」と「佐藤さんはどこですか」という手話。
前川先生による「佐藤さんですか」(左)と「佐藤さんはどこですか」の手話
「2つの違いがわかりますか?」と前川先生。一見、同じようですが、首の動かし方が違うような……?
「そうです。手の動きは全く同じで、首の動きだけが違います。『佐藤さんですか』というYes/No疑問文の時は、顔を軽く下に向ける動作。『佐藤さんはどこですか』というWH疑問文の時は、首を横に振る動作をしていました」(前川先生)
「このように、NMには文全体の構造を決める役割があります。もう少し小さい単位で言うと、顔の下半分は副詞的な機能があると言われています」(下谷先生)
続いて、前川先生が見せてくれたのは「一生懸命勉強する」「特に問題なく勉強する」「ダラダラ勉強する」という3つの表現。
顔の表現が全く違うので、手話がわからない筆者でも一目瞭然! 「すごく表情が豊かですね」と思わず感想を漏らすと、2人はこんなふうに説明してくれました。
「ろう者は表情が豊かだとよく言われます。でも文法として必要なのでやっているだけなんです。それがNMというものです」(前川先生)
「一生懸命勉強する」「ダラダラ勉強する」の手話表現を比べると、その違いは一目瞭然
「『一生懸命』の時は歯を食いしばるような感じで、『問題なく』の時は口をとがらせる感じ。 『ダラダラ』の時は舌を少し出します。雰囲気でなんとなく伝わるので、手話はジェスチャーのようだと思われがちです。でも、10人いたら10人全員が『ダラダラ=舌を出す』という規則性がある。ですから、NMは文法の一部なんです」(下谷先生)
マスク生活で改めて気づいた、NMの大切さ
実際に手話を見せながら説明していただいて、NMが文法であることがよくわかりました。顔の下半分に副詞的な機能があるということは、マスクで下半分が隠れてしまうとかなり困るのではないでしょうか。
マスク生活で苦労したことは?と尋ねると、下谷先生は「私のように聴者で手話を学習している者と、手話を母語として用いるろう者では、また違うかもしれませんが」と前置きしつつ、こう語ります。
「私の場合は、マスクを外して伝えたり、マウスシールドを使ってみたりと、いろいろな試行錯誤がありました。でも感染対策を考えると、やはり電車など公共の場ではマスクをしたまま話すことになるので、なかなかうまく伝えられない場面もありましたね」(下谷先生)
例えば、「パーキング」と特典を意味する「ポイント」という手話。どちらも手でアルファベットのPの字を表し、口の形で「パーキング」「ポイント」と表現するそうです。
「パーキングもポイントも手話は同じP」と下谷先生
「以前、前川先生にパーキングの話をしようと手をPの形にして、マスクの下で『パーキング』と口型で表したのですが、口が見えないので前川先生には『ポイント』と伝わってしまって。『なぜ急にポイントの話をしているんだろう』と前川先生は不思議に思ったようで、話がかみ合わないことがありました(笑)」(下谷先生)
「たぶん私だったら、『パーキング』の手話の前に『車』という手話を付け足して伝えるでしょうね。ろう者同士だと、お互いが自然にそういった工夫をするので、マスクでの会話でもそんなに苦労しないんですよ。そこが日本手話を母語とするろう者と聴者の違いかなと思います」(前川先生)
バイクに乗っていてヘルメットで顔が見えない時は、手指のみで表現する。傘を持っていたら片手で、荷物で両手がふさがっていたら顔のみで。そんなふうに普段から対応しているため、前川先生はマスク生活でも特に困らなかったのだとか。
「音声言語では口は一つしかないですが、手話は発声器官が複数あるんですよね。だから、使えない部分があっても他で補うことができる。ろう者の方たちは、日常的にそうしているので慣れていらっしゃるし、『これが使えないから工夫しよう』と意識さえせずに自然にできるんでしょうね」(下谷先生)
コロナ禍を経て、「NMの大切さを改めて実感しました」と振り返る下谷先生。前川先生も「手話学習者はNMが足りないなと気づいて、学生にももっと指導していかないといけないと強く感じましたね」と頷きます。
手話×テクノロジーが描く未来とは?
下谷先生は、コロナ禍に得た気づきとして、オンラインでのコミュニケーションの例も挙げてくれました。
「ろう者の方は視覚で多くの情報を受け取っているので、画面上のちょっとしたことでもすごく気になるのだと教わりました。例えば視線一つでも、画面と平行に目を合わせていないと、上から見下ろしているように見えて気になってしまう。画面の背景がごちゃごちゃしていると、聴者にとっての雑音のように感じる。オンラインではそういった細かい配慮が必要だという気づきがありました」(下谷先生)
この話を聞いて、前川先生はこう付け加えます。
「聴者の方は、オンラインミーティングの時に後ろでがやがやと音がしていたら、ノイズだと感じますよね。ごちゃごちゃした背景だと気になるのは、それと同じなんです。他にも、例えば背景のブラインドが開いていたら『まぶしくて見づらいので閉めてください』とはっきりお伝えするようにしています」(前川先生)
お互いが快適に話せるような配慮が必要だし、もし相手が気づいていなければきちんと伝えることが大切。それは聴者もろう者も同じなんですね。
コロナ禍にオンラインのコミュニケーションが広まり定着したことで、自宅でのオンライン学習で手話を学べる環境も整いつつあります。また、AIの技術も進んできたことによって、手話と音声言語の機械通訳や、日本手話とアメリカ手話の機械翻訳なども、今後は可能になっていくと予想されています。
取材に同席していたセンター長の松岡克尚先生も、今後の手話とテクノロジーの融合に期待を寄せています。
「手話通訳者の高齢化が進み、人手不足の問題が起こっている中で、これからはAIが大きな役割を担っていくでしょう。もちろんAIの導入によって手話通訳者の活躍の場が奪われるかもしれないという問題点も見逃してはならないと思います。いずれにせよ、本センターの研究活動でも、理論言語学や社会言語学からのアプローチだけでなく、さまざまなテクノロジーと関連する工学的な研究が増えていくのではないかと思っています。加えて技術社会学や倫理学との接点も問われてくるのではないでしょうか 」(松岡先生)
手話言語研究センターでは、AIが手話表現を認識する手話学習ゲーム「手話タウン」の開発協力にも取り組んでいます。また、今年(2023年)9月には「AIと新たな手話学習」をテーマとする国際シンポジウムの開催も予定しているそうです。
コロナ禍を経てオンラインの活用が進んだり、同時にAIの技術も発展していたりと、手話コミュニケーションを取り巻く環境は大きく変化していることがよくわかりました。
「今後もっと技術が進めば、ろう者の学生が大学で授業を受ける時に、AI通訳が机の上に立体的に表れて、一人ひとりに手話通訳者が付くような環境も実現するかもしれない。ろう者が宇宙飛行士になって、AIの手話通訳を使って宇宙で会話ができる日も来るかもしれません」と笑顔で語る前川先生の姿を見ていると、こちらまでワクワクした気持ちになりました。