ほとんど0円大学 おとなも大学を使っっちゃおう

  • date:2021.4.1
  • author:谷脇栗太

ラジオの魅力はアメリカで花開いた。四国学院大学・福永健一先生に聞く、声のメディア史

今回お話を伺った研究者

福永 健一

四国学院大学 社会学部 助教

関西大学大学院社会学研究科修了。博士(社会学)。専門はメディア史、歴史社会学、ポピュラー音楽研究。音響メディアを通した人間の声の文化に着目して、19世紀後半から20世紀前半のラジオをはじめとしたメディアを研究している。

みなさんこんにちは。ぽかぽか暖かい春の一日、いかがお過ごしですか? 大学や学問の楽しさをお届けする「ほとんど0円大学」、本日のお相手はライターのタニワキです。

 

……と、いつも違う調子ではじめてみました。というのも今回扱うテーマは「ラジオ」。深夜ラジオが青春時代のバイブルだったという方、あるいは最近テレワークでラジオを聴く機会が増えたという方も多いのではないでしょうか。「お耳の恋人」なんて言い回しもあるぐらいで、リスナーに寄り添ってくれるような親しみやすさがラジオの魅力のひとつ。ですが一体どのように今のようなラジオのカルチャーが出来上がってきたのかは意外と知りませんよね。

 

というわけで今回は、四国学院大学社会学部 助教の福永健一先生に、ラジオの魅力のルーツについて教えていただきましょう。

1920年代のアメリカで開花したラジオの魅力

福永先生は音響メディアについて研究されているそうですね。

 

「はい。1870年代にレコードと電話が発明されてから、20世紀前半にかけて拡声器やラジオ、トーキー映画といった音響メディアやテクノロジーが急速に発展し世の中に浸透していきました。これらは、音や声を録音したり、遠く離れた場所に届けたり、音量を増幅して大勢の人に一斉に伝えたりと、音や声をめぐる環境を劇的に変化させました。そうした技術革新によって、人々の感受性や社会、文化がどのように変化してきたのかを研究しています。その中でも、アメリカのラジオ放送初期の状況について着目して研究に取り組んできました」

20世紀初頭に発明された音響メディアのひとつ、拡声器(商品名はマグナボックス)。実演しているのは女優のフリッツ・シェフ

20世紀初頭に発明された音響メディアのひとつ、拡声器(商品名はマグナボックス)。実演しているのは女優のフリッツ・シェフ(出典:wikimedia commons

 

ふむふむ。なぜアメリカなのでしょうか?

 

「アメリカのラジオの歴史が面白いと思うのは、現在につながる“声”の文化が育まれていたと考えられるからです。現在でもラジオ独特の魅力といえば、多くの人がラジオの出演者に対する『親しみやすさ』を挙げますね。実はこうしたラジオの魅力は、1920年代のアメリカのラジオ放送で生まれたのです。

 

ラジオ放送が始まったのは1920年代のことです。当時、イギリスや日本をはじめ多くの国が公共放送だった一方で、アメリカのラジオは初めから民間による営利目的の商業放送としてスタートしました。このことが、番組の内容から出演者の喋り方に至るまで、独自のラジオ文化が発展することにつながっていきます」

 

商業放送からスタートしたというのはいかにも自由の国アメリカらしいですね。アメリカのラジオ放送の始まりはどんなものだったのでしょうか。

 

「第一次世界大戦期間中、アメリカは当時の最新技術だった無線電話を国有化し、軍事利用していました。終戦とともに無線電話や電波が民間に開放されます。そうすると、無線電話を介して音楽を流したり、それを誰かが聴いて楽しんだりという営みが草の根的に広がっていきました。そのなかから、これをビジネスにしようと試みるものが現れてきます。

 

その代表的な例として、1920年11月に開局したKDKAというラジオ局があります。KDKAはアメリカでラジオ放送を始めた最初期の局と言われていますが、実はKDKAはラジオの受信機器の販売を行うウェスティングハウスという企業が運営する局で、機器の宣伝のためにラジオ放送を始めたのです。その後、これを模倣してデパートなどの小売店をはじめあらゆる企業が販売促進や宣伝のためにラジオ放送局を開局し、1920年からわずか3年でアメリカに600もの放送局が開局するというカオスな状況が生まれました。さらに広告代理店がラジオ放送産業に参入するようになると、アメリカのラジオはさらに商業性を加速させていきました」

KDKAの収録スタジオ。大人数での演奏も可能な広々とした空間で、壁や天井にはエコーを抑える布が張り巡らされている

KDKAの収録スタジオ。大人数での演奏も可能な広々とした空間で、壁や天井にはエコーを抑える布が張り巡らされている(出典:wikimedia commons

 

いきなり600局も! 現在の日本全国の民間ラジオ局の数が100局程度ということですから、その数の多さが窺えますね。今でいえば企業が公式SNSアカウントを立ち上げるぐらいの感覚でしょうか。

 

「まさにその感覚に近いと思いますね。そして、そこからさまざまな番組スタイルが生まれていきました。草創期の番組といえば、歌手や楽団を呼んで音楽を楽しむ番組が6割程度を占め、ほかはトークやドラマ、天気予報や株式情報に関するニュースなどが放送されていました。1920年代の後半からは“バラエティ・ショウ”という、人気スターが司会者として番組を回しながら、様々なパフォーマーが登場して歌や話芸、トーク、寸劇を繰り広げるという番組形式が人気を博し定着していきます。これは、いまでいうテレビの『バラエティ番組』に近く、昔のラジオは現在のような小さなスタジオの密室的な雰囲気とはずいぶん異なるものでした。

 

このあたりで課題になってきたのが、多彩な出演者の個性をラジオの向こうのリスナーにいかに伝えるかということです」

 

姿が見えないとなれば、声で個性を表現するしかなさそうです。

 

「その通りです。それまでラジオの“声”は、言葉で情報を伝えるための道具にすぎないと考えられてきました。実際、同時代のイギリスや日本のラジオ放送では、話者の個性が出ないように抑揚をつけずに話すことが望ましいというルールがありました。一方で、アメリカでは敢えて出演者の声質や話し方の違いを前面に出すことで、リスナーに話者の人柄を想像させることが主流になっていったのです。そのほうが番組を聞いてくれる人が多くなるのでは、という聴取者獲得の戦略が背景にあったのです。

 

出演者の人柄が前面に出ることで、リスナーは声に汲み取れる人柄から親しみを感じ取ることを楽しむようになりました。当時の雑誌や新聞記事などをみてみると、1930年代にラジオ特有の魅力を表すワードとして“親密さ(intimacy)”という言葉が現れるのですが、これは、家庭という『親密な領域』で楽しむという意味と、『出演者への親しみを覚える』ことができるという二つの意味で用いられていました。1930年代は、とりわけ後者の意味で用いられています。いいかえれば、ラジオとは出演者の人間味を味わえることが魅力なのだと考えられていたのです」

 

声から滲み出る人柄に親しみを覚える、まさに今と同じラジオの楽しみ方が出来上がっていったわけですね。それでは、一体どんな声が当時のラジオを彩ったのでしょうか。

一世を風靡した、囁くような歌声“クルーナー”

「1920年代後半から30年代前半の世界大恐慌期、アメリカのラジオは産業的にも文化的にも最初のピークを迎えます。この時期、数あるラジオ局の中からNBCとCBSという2大ネットワーク局が台頭し、ラジオは多くの人の日常生活に欠かせないマス・メディアへと成長していきました。聴取率を争う両局は、看板となるような個性的な声をもつスターの発掘に心血を注ぎ始めます。ここから『ラジオ・スター』という存在が生まれていくわけですが、その最初期に登場したのが“クルーナー”と呼ばれる歌手たちでした。ここで、クルーナーの元祖であるルディ・ヴァリの歌声をお聞きいただきましょう」

 

ルディ・ヴァリ「Heigh-Ho! Everybody, Heigh-Ho!」

 

ちょっと脱力系というか、軽く口ずさむような歌い方が垢抜けていますね。雑な感想で申し訳ないですが、「昔の映画でラジオから流れてくる歌声」のイメージそのものです。

 

「ニューヨークの人気ダンスバンドのリーダーだったルディ・ヴァリですが、1928年にラジオに出演した時、彼の甘い歌声に女性リスナーから大きな反響が起こりました。彼は白人男性で、スリムで、イェール大学卒の秀才。当時の基準ではスターの資質を備えていました。とくに彼の声に惚れ込んだNBCの幹部はさっそく彼を雇い、“クルーナー(crooner=囁くように歌う人)”という二つ名で売り出しました。NBCの親会社はRCAという企業で、RCAビクターというレコード会社とRKOという映画会社も所有していました。ルディ・ヴァリは1929年にRCAビクターのレコード歌手、NBCラジオ放送の司会者、RKOの映画俳優としてデビューします。ヴァリは、その年にリリースしたレコードが売り上げ1位になり、ラジオ司会者としてもとりわけ女性たちから熱狂的に支持され社会現象的な人気を博しました」

レコード歌手、ラジオの司会者、映画俳優と、マルチに活躍したルディ・ヴァリ

レコード歌手、ラジオの司会者、映画俳優と、マルチに活躍したルディ・ヴァリ

 

クルーナーの声はラジオとの相性が良かったのでしょうか。親密さを感じさせる歌声だからこそ、自分のためだけに歌ってくれている……とリスナーが妄想することができたのかも。

 

「耳元で囁くような距離感が、当時の女性たちにとって非常にセクシーなものに聞こえたようですね。当時、歌手の活躍の場といえば劇場などのショーが中心で、地声で朗々と歌い上げるような歌唱法が主流でした。一方ルディ・ヴァリは、マイクロフォンを通して声を張らずに歌う歌唱法によって、ラジオという新しいメディアを中心に評価されていったのです。ヴァリの声は、ささやくような歌声という新しさだけでなく、声から想起される人柄でも絶大な人気を博しました。

 

ルディ・ヴァリが成功したことで、囁くような歌唱法は他の歌手の間でも模倣され、そうした歌手を指す言葉としてクルーナーの呼び名が定着していきました。女性の人気に支えられたヴァリに続いて、クールな男らしさで男女を問わずファンの心を掴んだビング・クロスビーがCBSから登場します。

時代を超えて愛される歌声、ビング・クロスビー

時代を超えて愛される歌声、ビング・クロスビー(出典:wikimedia commons

 

NBCの後を追うようにして、ライバル局のCBSも数あるパフォーマーからレコード歌手、俳優、司会者をつとめるに値するラジオ・スターを発掘し始めました。CBSも、NBCと同じようにコロンビアフォノグラフというレコード会社とパラマウントという映画会社を所有していました。ヴァリのクルーナー人気真っ盛りの1931年、CBSからビング・クロスビーという歌手がクルーナーとして売り出され、ヴァリを超える人気を博していきます。1942年に出た『ホワイト・クリスマス』で有名なあの歌手です。クロスビーも最初はクルーナーとして売り出されたのです。

 

ビング・クロスビー「White Christmas」

 

アメリカのラジオ・スターは、ラジオ司会者、レコード歌手、映画俳優というように、メディアを越境して活躍するマルチタレントであることが多かったのですが、これは先述したような二大ネットワークのNBCやCBSの産業構造が大きく影響しています。クルーナーはそうしたラジオ・スターのあり方の嚆矢と位置付けることができます。また、日本のアイドル、タレントといった『芸能人』もマルチタレントであることが多いですね。制度などの文脈は異なるものの、メディア・スターであるという点で、クルーナーは『芸能人』的な存在の元祖という位置づけも可能ではないかと考えています」

 

1930年代から40年代にかけて、フランク・シナトラもクルーナー・スタイルで人気を博し、ポピュラー音楽の歴史に名を刻むことになります。ロックンロールのような新たなスタイルが台頭する1950年代まで、クルーナー的な歌唱スタイルがポピュラー音楽のメインストリームだったのです。」

「親密さ」の政治進出

アメリカの初期ラジオ放送の話に戻りますが、ラジオ・スターの趨勢は、玉石混淆だったラジオが大衆を動かすマス・メディアへと成長していった過程とも重なりますね。歌手の他に、ラジオの「親密さ」が世の中に影響を与えた例はありますか?

 

「はい、ラジオの“親密さ”はエンターテイメントの世界だけでなく、1930年代から政治の世界でも注目されていきました。とくに、ラジオ放送を介した大統領の演説やイメージ戦略において、親密さは非常に重要視されていました。

 

ラジオ放送のスタジオから大統領演説を最初に行ったのは、1929年から33年まで大統領を務めたハーバート・フーバーでしたが、彼の演説は「冷たい」と不評を買いました。リスナーたちはラジオの声から人柄を感じ取れるようになっていたのです。続いて1933年から大統領を務めたフランクリン・ルーズべルトは、車椅子を使っていたこともあり、ラジオ演説を好みました。フーバーとは違い、彼はラジオが親密なメディアであることをよく理解して戦略的に使いこなしました。穏やかで親しみやすい人柄を声で巧みに表現することで、国民からの支持を強固にしていったのです」

マイクに向かうフランクリン・ルーズベルト

マイクに向かうフランクリン・ルーズベルト(出典:wikimedia commons

 

フランクリン・ルーズベルトといえば、国民に向けたラジオ放送「炉辺談話(fireside chats)」が知られていますね。ちょっと音源を探してみました。「Hi, friends」という呼びかけから始まって、語りかけるような調子が印象的です。

 

 

「ルーズベルトの登場以降、政治の世界でもラジオを介した“人柄のよさ”がイメージ戦略として重要なキーワードになっています。娯楽から政治まで、ラジオの親密さはアメリカの大衆に強烈に作用していったんですね。

 

なぜこういう戦略がとられたのかというと、1920年代や30年代というのは、そもそも、メディアを介して人間を経験するというのが、まだ新しかった時代だったからだと思います。それまで人々は、主に生身の人間から直接、あるいは新聞などで活字を通して色々な人の考えや、ふるまいを享受してきました。それが映画やラジオの登場によって、メディアを介して人物を直接経験するようになりました。メディアの向こうの人が自分に語りかけてくるわけです。ラジオはその人の姿が見えないわけですから、メディア上の人物というのは非常に断片的な存在に過ぎません。そうした生身の人間の経験には敵わない欠落したものを補うための戦略として、ラジオの場合は『親密さ』という答えに辿り着いたのだと考えます」

 

声の印象で政治家への評価が変わってしまうと考えるとちょっと恐ろしくもありますが、そもそも感じのいい声じゃないと民衆が耳を傾けなかったとも言えそうですね。いずれにしても、「親密さ」が政治でも世界を動かしていたのか……。

ラジオの本質は今も変わらない 

戦後は世界的にテレビが普及し始めます。メディアの覇権はラジオからテレビへ、そして現代ではテレビからネットへと移り変わっていますが、この変化をどう見られていますか?

 

「先ほどもヴァラエティ・ショウの話をしましたが、ラジオが開拓した娯楽がテレビに引き継がれていったという側面は大いにあります。その後、時代とともに聴取者の数は変遷し、若者文化の中心がラジオからテレビに移ってゆきました。今では、若者はテレビからネットへと流れています。

 

そうした盛り上がりや衰退というものはあるにしても、ラジオというメディアの本質は変わっていないと私は考えています。ラジオの良さは何ですか?と聞かれたら、誰でもすぐに答えることができますよね。ラジオ・パーソナリティへの親しみやすさとか、人柄がわかるのがいいんだ…とかですね。だから、時代ごとに番組形式のマイナーチェンジはあるにしても、ラジオの魅力自体の答えは揺るがないわけです。これはテレビでも同じなのではないでしょうか。YouTubeもそうだと思います。今は、いろんな人が試行錯誤を繰り返して、その魅力を模索している段階なんだと思います。

 

最近ではclubhouseというSNSが話題になっていますね。声のメディアの魅力が再発見されていけば、clubhouseだけでなくラジオもまだまだ盛り返していくと思いますよ。」

 

ラジオを聴くだけでなく、自分の声を発信する人も増えてきていますね。ますます広がってゆく「声」の文化、今後の展開も楽しみです。

福永先生のおすすめラジオ番組は、ニッポン放送の「テレフォン人生相談」と、ラジオ日本「タブレット純 音楽の黄金時代」とのことでした。

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