水素の同位体・重水素を深く理解し、医薬品などの分野で活用をめざす新しい学問領域「重水素学」。〈つくる〉〈わかる〉〈はかる〉〈つかう〉の4班体制で、領域を横断して研究に取り組んでいる。
重水素への理解を深めることをめざす〈わかる〉班のリーダー・石元孝佳先生(広島大学先進理工系科学研究科 教授)の研究は、ミクロな世界で起こる現象を計算によって理解することだという。なんだかとてもロマンがありそうだが、それ以上に難しそう……おそるおそるお話を聞いてみると、快活な笑顔で答えてくださった。
電子の分布を計算することで、ミクロな世界で起こる現象を理解する
石元先生のご専門分野について教えていただけますか?
「教科書的には量子化学や計算科学とよばれる領域になります。身の回りのあらゆる物質は分子で構成されていますが、分子は原子で、さらに原子は原子核とその周りを回る電子で構成されています。その電子の分布などを計算して、化学反応などミクロな世界の現象を解き明かすのが、私の専門である『分子シミュレーション』です。
研究の特徴として、化学と聞いて想像されるような実験器具を使う実験は一切やらず、PCさえあれば研究を進められます。また、計算できればなんでも対象になりうるので、生物、化学、物理、あらゆる分野を扱うことができるのも特徴です」
コンピュータ上でいろいろな化学反応をシミュレーションされているんですね。もう少し詳しく教えていただけますか?
「ミクロな世界の物理法則を記述するシュレディンガー方程式というものがあって、基本的にはこの方程式を実際の現象に当てはめて計算をしていきます。
例えば、水分子(H₂O)を絵で描いてみます。水素原子(H)が2つに酸素原子(O)が1つですね。その原子の配置に基づいて、電子がどう分布するのかを方程式を使って解いていくんです。電子の動きは直接観測できないので、『だいたいこのあたりにある』というふわっとした分布を関数としてあらわします。この電子の分布を正しく解いていくことで、分子のどの部分が化学反応しやすいかといったことがわかるんです。
ただし、計算だけで常に正しい結果を得られるわけではありません。水分子のHを重水素(D)に置き換えて計算してみると、普通は同じような計算結果が出てくるのですが、実験で観測するとDの方が電子との距離が短いという結果になります。こうした計算結果と実験結果を突き合わせながら、矛盾点を克服できるより精度の高い計算方法を模索していくわけです。式に当てはめて計算するだけでなく、計算手法自体を開発するという点がポイントですね」
水分子の電荷分布。赤がマイナス、青がプラスに電荷が分布している領域を表している。(winmostarで可視化)
計算と実験を繰り返すことで、分子の設計図のようなものを描くことができるんですね。その設計図が重水素学ではどんなふうに役立ってくるのでしょうか?
「これまで取り組んできたのは、医薬品が体内で代謝されるメカニズムですね。代謝も一種の化学反応なので、デューテトラべナジンという医薬品の構造の一部をHからDに置き換えたものを使って、HとDでどのような差が出るのか、その化学反応の違いを研究しました。現在投稿中のこの論文が、私にとって重水素学で1本目の論文です。
また、新しい理論を作るというのも計算科学の重要な仕事です。これから取り組みたいと思っているのは、重水素を導入することによって何がどう変わるのかという根本の理論を見出すことです。HをDに置き換えることで分子の結合が強くなるなどの実験結果がありますが、そうした物性の違いがなぜ起こるのか、電子の振る舞いに着目して明らかにしたいと考えています。こうした理論を打ち立てることができれば、例えば医薬品の分子のどの部分に重水素を導入すれば効果を得られるのかがシミュレーションできるようになり、開発にかける時間を大幅に短縮することができるでしょう」
実験結果を理論に落とし込んで、さらなる応用につなげる。重水素学の背骨ともいえるとても重要なポジションですね。
原子核と電子の波動関数の分布。水素・重水素分子では構造、電子状態が異なる。
料理人を夢見た少年が研究者の道へ
日常生活からは想像もつかないミクロの世界を研究されている石元先生ですが、小さい頃はどんなお子さんだったのでしょうか?
「小さい頃ですか(笑)。私は静岡県の山間部で育ちました。通っていた小学校と中学校が廃校になってしまったぐらいの田舎で、毎日山や川で遊びまわっていましたね。体を張った遊びが好きで、今になって振り返るとよく生きてるなと(笑)。中学の時は料理に夢中で、高校に進学せず料理人になりたいと思っていました。ただ、知的好奇心はすごくあって、NHKのアインシュタインロマンという科学ドキュメンタリー番組を観てミクロの世界に夢中になった記憶はありますね」
5歳くらいの石元少年、ハイキングでの一枚。
なんと、ワイルドな幼少期ですね。野山を駆け回り料理人に憧れた少年が、どんな経緯で研究者の道に?
「結局、周りに押されて高校に進学しました。当時は勉強ができる方ではなかったんですが、高校3年生の時の化学の先生が印象に残っていますね。水分子って酸素原子に水素原子が『く』の字になるようにくっついていますが、なぜそうなるのか量子力学を交えて解説してくれたんです。その話が面白くて、再びミクロの世界の虜になりました。大学は理学部に進んだのですが、そこで受けた量子化学の授業がまたすごく面白かったんですよ。よくわからないけど面白いなと思って、そのまま量子化学の研究室に入ってしまいました」
導かれるようにミクロの世界に足を踏み入れられたのですね。それから様々な研究に携わっていかれるわけですが、研究者として印象に残っているのは?
「現在でこそ重水素学をはじめさまざまな研究に携わっていますが、学位取得後に就職した産業技術総合研究所で関わっていたのは水素の計算方法の理論の開発など、もっぱら基礎研究の分野でした。そのあとに着任した九州大学で、工業系の応用研究に関わることになったことが、今につながるターニングポイントになりました。その中でも特に、自動車の排ガスの浄化や燃料電池などにも使われる金属ナノ触媒の働きを解明する研究が印象に残っています。触媒として使う金属ナノ粒子は2〜4ナノメートルの金属の粒なのですが、原子レベルで計算する化学の計算方法では、当時の計算機のスペックでは原子50個、粒子の大きさで言えば1ナノメートル程度までしか扱うことができませんでした。それでは小さすぎると実験の研究者に言われて、頭を悩ませた末に、物理の研究者が使う計算方法を取り入れることにしたんです。物理では原子一つ一つではなく、原子が集合した固体としての金属を計算で扱うことができます。スケールの異なる物理と化学の計算方法を組み合わせることで、原子2400個分、4ナノメートルの粒子の物性を計算することに成功しました。
大まかなイメージとしては、計算科学の中でも化学の計算手法は小さな対象を緻密に計算するのが得意で、物理学の計算手法は大きな対象をざっくり計算するのが得意なんです。いずれか一方に特化した研究者が多い中で、たまたま両方に足を突っ込む機会を得られたことは大きかったですね。現在も、化学と物理の長所を足し合わせたハイブリッドな計算手法の開発に取り組んでいます」
さまざまな分野を対象にできるのが計算科学の特徴ということでしたが、共同研究の面白さについてはいかがでしょうか?
「そうですね。ちょっと前だと、僕みたいな理論系の研究は『所詮バーチャルでしょ?』と冷めた目線で見られることもなくはなかったのですが、最近は実験系の人たちと一緒にいろいろなことをできるようになってきました。僕自身、重水素学では中先生をはじめとして薬学や生体関連の先生との関わりが深いですが、それ以外に触媒や固体物性など、いろいろな先生と共同研究しています。
実験で予想外の結果が出たときに、こちらはそのデータをもらって『理論的にはこうなっているんじゃないですか』と意見交換ができる。そうやってお互いに新しい知見を得られるというのが面白いところではないでしょうか。新しい理論を作る場合も、今までの理論ではうまく説明できない現象が見つかって、何とかそれを新しい方法で解釈しようとするところから始まります。そういう意味では計算科学はバーチャルな学問ではなく、あくまで自然現象にもとづいた学問といえるでしょう。
さらに言えば、そもそも今どきの科学というものが、一人でできるものじゃなくなってきているんです。いろんな領域との相互作用があちこちで起こっていて、一見関係なさそうな研究が実は繋がっているということが沢山あります。共同研究をやっていても、初めて聞くような相手の専門分野の用語が、量子化学ではよく知られた現象のことだったりします。同じ現象の別の側面を捉えているんですね」
共同研究先の分子科学研究所にて、分子分光実験のお手伝いをしている石元先生。
計算科学でものづくりに貢献したい
再び重水素学のお話に戻りまして、重水素や重水素学との出会いを教えてください。
「広島大学に着任する前に在籍していた横浜市立大学で、同僚だった立川仁典先生と一緒に研究を始めたのが重水素との出会いですね。その後、今から2年ほど前に岐阜薬科大学の佐治木弘尚先生から重水素学のメンバーにスカウトされて、その時点では中さん、澤間さん、前川さんの3人で学術変革(B)に申請しようとされていたので、4人目のメンバーとして加えていただきました。
重水素学に関わるまで、重水をトリックに使った推理小説などを読んで、重水素って身体に悪い印象を持っていたんですよ。それが医薬品にも応用できると知って、話が違うじゃないかと。それで実際のところはどうなのかと興味湧いたんですよね。仲間に加えていただいてありがとうございますという感じです」
石元先生が加わって重水素学の4班体制が完成したんですね。「わかる」班の最終的な目標を教えてください。
「これまでは、同位体の物性はほとんど違わないというのが常識とされてきましたが、研究によって重水素の場合は軽水素と明らかに違いがあることがわかってきました。この違いを理論として確立して、最終的には重水素化医薬品などの形で社会で活用されるところにつなげたいですね。
少し踏み込んだ話をしますと、重水素は、さまざまな元素の同位体の中でも特別な存在です。よく知られた同位体に炭素13や炭素14があります。炭素はもともと原子量が12なので、13や14になっても質量は少ししか変わらない。その点、水素と重水素はほぼ2倍の質量差があるため違いが明確に出ます。それに加えて、水素原子はとても軽いので、それ自体が量子的な振る舞いをすることがあります。例えるならば原子核が綿菓子みたいにふわふわしている状態なのですが、軽水素はこのふわふわの広がりが大きく、重水素はそれよりも重いので広がりが小さくなります。こうした特殊な側面も含めて、電子の分布やエネルギーの状態に関わってくるのです。そのあたりを突き詰めて、軽水素と重水素の違いの根っこの部分を突き止めたいと思っています。もちろん、時間はかかりそうですが……」
最後に、石元先生ご自身の今後の目標をお聞かせください。
「先ほどもハイブリッドな計算方法のお話をしましたが、化学と物理を跨いだ領域の計算科学を突き詰めたいと思っています。具体的には先ほどお話しした金属ナノ触媒などがそれに当たるのですが、重水素学では『つくる』班で重水素化物質を合成する際にも金属ナノ触媒を使っています。どんな金属を使うかによって、HとDの交換が起きたり起きなかったりするんですが、そのあたりを扱うのにハイブリッドな計算方法が適しているんです。金属ナノ粒子の働きを、HやDを含めてより深く理解したいですね。
もう少し大きな目標としては、計算科学の立場から人々の生活を変えるようなものづくりに貢献できればいいなと思っています。重水素学もそうですが、物性をよく理解して新しい材料を開発したり、機能を付加したりですね。基礎研究と応用研究のどちらかに集中するのではなく、双方の良いところと足りないところを承知した上で、両方に取り組むのがいいのかなと思っています」
研究室での一枚。