本屋に並ぶ色とりどりのファッション誌。今の流行や未来のファッションを提案するものとして確固たる地位を築いています。そういえばこういったファッション誌の起源はなんなのか? 実は昔から人々のファッションを提案する「ファッション・プレート※」がありました。このファッション・プレートについての荒俣宏氏の講演が神戸松蔭女子学院大学で4月30日に開催されましたので参加してきました。
※ファッション・プレート
当時の最新ファッションを伝える銅板手色彩の版画のこと。さまざまなファッション誌の付録として人気だった。
今回は荒俣氏の講演だけでなく、20世紀を代表するイラストレーター、ジョルジュ・バルビエのファッション・プレートの展示もあり、当時の華やかなファッションの世界をかいまみることができる貴重な機会でした。
起源は3万年前 「絵を描く」という発明から
ファッション・プレートについてのお話しの前に、そもそも「人はいつ絵を描くようになったのか?」についての話から、講演はスタート。
荒俣氏がいうには「人類が絵を描き始めてからおおよそ3万年が経つといわれます。1万年以上前のマンモスの写生画が現存していますが、これが実にうまい。ピカソがこの絵を見てうなったのは有名な話です」
当時、紙が存在していなかったため、洞窟などに壁画として描かれていたそう。岩肌の出っぱっている部分はおしりにするなど、でこぼこを活かした立体的な絵が描かれていたそうです。
そういった時代が続き、「人を描くにはどうすればいいか?」という疑問から「影絵をなぞればその人になるのでは?」という発見があり、これが現在の絵画に通じる「絵の発明」だったとされているようです。
生存戦略としてのファッションとコスチュームブックの隆盛
ファッションという単語そのものは「生存戦略である」ということが大きいとのこと。たとえば生き物の中にも、ファッショナブルになることで生存戦略に結びつけているものがたくさんいます。こういった性質はヒトにもあり、原住民の民族衣装や入れ墨などに見られます。
生存戦略として装う生物の例。セイテンベラの雄は雌を誘うため体に蛍光色の模様が浮かぶ
17世紀頃のヨーロッパでは中東のコスチュームに関心が向かい、民族衣装や現地の人々のコスチュームを写生し紹介するコスチュームブックが盛んにつくられるようになります。
南洋諸島のタトゥー文化などがコスチュームブックを通じてヨーロッパに紹介され、貴族の間で大きな衝撃を与えると共に、一大ブームを巻き起こしました。
コスチュームブックの一例。これらを取り入れた衣装やタトゥーも流行した
しかし、「こういったコスチュームブックはあくまで現実にあるものをそのまま写し取ったもの。20世紀に流行するファッションブックとは異なるもの」だと荒木氏。
ですがこのようなコスチュームブックの存在が後のファッション・プレートの基礎となったのは間違いないようです。
個人を特定する“コスチューム”から誰でも着られる“ファッション”へ
ファッション・プレートのはじまりとも思えるのが、当時の街にいた婦人たちの服を描いたウィンセスラウス・ホラの銅版画集に描かれた、顔を隠した貴族の女性。
当時は、身にまとう衣装を見れば、その人がどこの、どんな地位にある人かを推測することが容易な時代でした。さらに顔があれば、ほぼ個人の特定が可能です。
そこで正体がばれるのを防ぐため、顔を隠したのではと思われます。※1
ウィンセスラウス・ホラの描いた女性
実はこれまでのコスチュームブックとファッション・プレートの大きな違いが「個人が特定できるかどうか」なんだそう。
ファッションというのは交換可能であり、誰でも自由に身にまとうことができるもの。さらに、ファッション・プレートで主役となるのは衣装であり、それを着ている本人ではありません。
この銅版画でも、主役はこの婦人ではなく、身にまとう衣装そのもの。
ホラがこのような絵を描いた背景には、イギリス内戦のさなかで売れない絵を何とか売るためだったのではといわれています。しかしこの時期を境に、外の文化(コスチューム)を紹介するコスチュームブックが、衣装が主役となるファッション・プレートへと変化していくのだそうです。
文化の変容と隆盛するファッション・プレート
さて、この時代衣装といえば量産品ではなく個々人に合わせたオートクチュールでした。当時お金がある貴族の元にはミニチュアマネキンに着せた衣装見本を送り、仕立屋が訪れることが多かったそう。
しかし18世紀頃から貴族が凋落し、それまで貴族文化であったオートクチュールを一般市民に対して展開するようになります。しかし貴族と市民では数が違います。ミニチュアを量産することは難しいため、業者は服の見本を紙に印刷したカタログを送るという方法をとることにしたそうです。
この時代のファッションカタログには、正面の絵と共に後ろを向いた絵がかなり多く存在します。後ろ姿も掲載することで、カタログとしての役割を果たしていたようです。「新しく誕生した中流の人々が後ろ姿も気にするようになったことも影響しているのでは」と荒俣氏。
この時代から「あの人が着ている衣装を着たい」ではなく、「あの服が着たい」というように、服が主人公として人々の意識が大きく変わることになりました。
これがファッション・ジャーナリズムの勃興につながったといいます。
ところで、このようなカタログとしての印刷物、ファッション・プレートといえるものが日本にも存在します。日本ではマネキンが存在せず、かなり初期から錦絵によるファッションブックが主流だったそうです。
江戸時代頃に日本で刷られた衣装集。「雛型」「ひいな型」として刊行されたそう。着物の柄がよく見えるように工夫されている
「実際のファッション」から「ファンタジーとしてのファッション」へ
隆盛を極めたファッション・プレートは、少しずつ理想のファッションを描くもの、ファンタジーとして変化していきます。
20世紀、戦後と呼ばれる時代になり、心理学の概念がファッションの意味を変化させたことも一因にあるようです。
「たとえば、ジョルジュ・バルビエの描くファッション・プレートに『今日の幸福』※2というものがあります。これは実際に着用されている服を描いたものではなく、人々が身にまとうことで幸福になれる服をテーマに描かれたもの。このように、ファッションがただ着飾るものではなく、身にまとうことで幸福になるものという概念が付加されることになります」と荒俣氏。
この時代に描かれたファッション・プレートは先のカタログのようなものではなく、世界観をもって描いたものが増えます。
また、それまでは絵の中の女性も決まったポーズをとっているようなものがほとんどであったのに対し、着ている本人がうれしくなる、幸せであるということを示すような絵やさりげない動き、気取らないポーズが多くなります。
20世紀のファッション・プレートの一部。さりげないポーズや1枚の絵として完成度の高いものが多い
「物語挿絵作家などが出てきた時代とも重なり、その中にはファッション・プレートを描いた作家もいます。ファッション・プレートに物語を見ることができるようになり、非常におもしろいものになっている」と荒木氏。
ここから現代的意味のファッションになってきたのではないかと考えられているそうです。
講演のあとはジョルジュ・バルビエのファッション・プレートを見学!
講演は以上。その後図書館で開催されていたジョルジュ・バルビエのファッション・プレート展示を見学しました。
ジョルジュ・バルビエのファッション・プレートは神戸松蔭女子学院大学が所蔵しているもの。展示は常設ではないため、貴重な機会です。展示ではファッション・プレートのほか、同大学のファッション・ハウジングデザイン学科の学生による服飾デザインの展示も。こちらはジョルジュ・バルビエのファッション・プレートから着想を得たものだそう。ほかにも、同大学のプロジェクトで制作されているカレンダーなどもありました。
同大学が所蔵するジョルジュ・バルビエのファッション・プレート
こちらはジョルジュ・バルビエの絵を使用したクリアフォルダー(非売品)
ファッション・プレートから着想を得た衣装のデザイン(神戸松蔭女子学院大学竹丸彩花さんの作品)
衣装の蝶はすべて1枚1枚のモチーフを手でつなぎ合わせたそう。こだわりを感じる
講演と展示両方からファッションについて考えることができる非常におもしろい講演会でした。ファッション・プレートの展示などは不定期に開催されていますので、当時のファッションに思いを馳せてみてみるのも楽しいのではないでしょうか。
※1 顔を隠している理由には、作家自身の知り合いであったなど、諸説あります。
※2 ジョルジュ・バルビエの作品には、「今日の幸福、あるいは流行の雅」「今日の幸福あるいはモードの魅力」など、幸福をテーマにしたものが多数あります。