近年、映画や食文化を中心に日本でのインド人気が高まりを見せている。しかし、紀元前から文明を紡いできたインドに対して、私たちが持ち得る知識は、ほんの一部。そんな未知の領域ともいえるインドを知る上で、ヒントとなるのがインド哲学だ。宗教や心理学と地続きで、世界の本質や普遍的真理を追究しながら最終目標である解脱を説くインド哲学は、西洋哲学とは異なる切り口で人間の生き方に影響を与える。名古屋大学大学院の准教授でインド哲学の研究者である岩崎陽一先生に、インド哲学の成り立ちや西洋哲学との違い、現代におけるインド哲学の役割などについて話を伺った。
ニュー・アカデミズムへの傾倒を経てインドに開眼
さっそくインド哲学の話から始めたいところだが、まず気になるのは「なぜ、先生はインド哲学を選んだのか」。少年時代は吉本隆明、蓮實重彦や浅田彰などのニュー・アカデミズム、哲学者のジル・ドゥルーズなどに触れたという岩崎先生。そこからなぜ、インド哲学に?
「当時は周囲がみんなニュー・アカデミズムを褒めていました。自分もそれに染まりつつ、でも自分は少し違うぞと、ニューエイジなどに関心をもっていた。加えて音楽ではYMOや、精神世界をテーマにすることが多いプログレッシブ・ロックなどを聴くようになり、組み合わせ的にインドにハマるしかない宿命だったんですよね。大学でインド哲学に目をつけた自分はマイノリティというか、そこにかっこよさのようなものさえ感じて勉強していました」
ニュー・アカデミズムを離れてインド哲学にたどりつき、没頭するに至ったと先生は語る。
「自分の価値観にないものにあふれているというのが、インド哲学にハマった大きな理由です。私は今、世界が秩序だっていること、つまり物事に必ず原因が存在するのは偶然なのか必然なのかということについて研究しているのですが、こんなテーマはインド哲学に出会わなければ考えもしなかったと思います。もっとシンプルなところでは、サンスクリット語の文章を読むことが楽しくてたまらないんです。内容は学術書でも文学作品でも何でもよくて、遠い昔に書かれたサンスクリット語の文章を読んで、当時の人たちの考えを知りたいがためにインド哲学を学び続けているといってもいいでしょう」
学生時代からベンチャー企業で働いていた岩崎先生は、多忙な会社員生活から抜け出すため、24歳でインドに留学。大学時代に座学で得た知識と現地の状況との違いにカルチャーショックを受けた。
「インドには3年間留学しました。現地で最も驚いたのは教育のあり方です。大学では日本と同じように先生が大人数の学生に授業を行っていますが、インドにおける伝統教育では、師匠に弟子入りして個人指導を仰ぐというスタイルが普及しています。勉強の目的も研究ではなく、師匠からの知恵を受けつぐことが重要とされ、弟子は先生が言ったことを丸暗記して次の世代に伝える。優秀な伝言ゲームの参加者を育てる感覚ですね。私もインドの大学院で修士課程に在籍していましたが、大学が終わった後は1000年続く学者の家系の師匠のもとで個人指導を受けていました。
帰国後は特に研究者になる!という意識を持っていたわけではなく、気がついたら大学の教員に。私の取り組みは、師匠たちと同じく古代インドから伝承された知恵や倫理観を分かりやすい言葉で伝えていくことを主軸としています。しかし、それだけだとインド哲学の社会的意義が低いとみなされ予算も付かないので(苦笑)、研究や論文執筆も行っています」
宗教と地続きなインド哲学の概念
先生の話で、インド哲学がより気になってきたが、一般的によく知られている西洋哲学とインド哲学との違いは何なのか。岩崎先生は、「3000年の歴史を持つインド哲学を、西洋哲学と同じ枠組みで語ることにそもそも違和感がある」と語る。
「西洋哲学はソクラテスやプラトンが築き上げたものの伝統の上にありますが、私が研究しているインド哲学や中国哲学は、まったく違う文脈から生まれてきたもの。だから、哲学というのは西洋哲学のことであり、それ以外はそもそも哲学ではないと言われることもあります。私はそれでもいいと思っています。哲学的であることさえ認識してもらえれば、別に哲学と言ってくれなくてもいい。哲学(philosophy)という言葉がインドに入ったのは植民地時代のことで、使われるようになってせいぜい百数十年から数百年と新しい言葉です。インドの思想家たちからすると、自分たちのやっていることが哲学であるという自覚もなかったと思います。西洋哲学に通じるものがあるということで東洋思想も哲学の文脈で語られるようになり、かつてはたとえば西洋=有の哲学、東洋=無の哲学というようなくくり方をされることもありましたが、こうやって大雑把にくくることは生産性に欠けるかと。比較哲学で有名なハワイ大学で私が研究を行っていた時は、東洋と西洋の比較よりも、個々の思想や言説を丁寧に捉えて新たな知を産出するborderless philosophy(境界のない哲学)を実践していました」
インド哲学にはミーマーンサー学派、ヴェーダーンタ学派、ニヤーヤ学派、ヴァイシェーシカ学派、サーンキヤ学派、ヨーガ学派という6つの学派(六派哲学)があり、それぞれに異なる教えを説いているが、この学派の区分もインド哲学の全体像を示すものではないという。
「六派哲学はインド哲学の入門段階で必ずといっていいほど語られる項目です。この6つは2つの学派×3という感じでグループにわけられます」
「1つのグループはミーマーンサー学派、ヴェーダーンタ学派で、バラモン教の聖典であるヴェーダに書かれていることから知恵や理論を引き出します。2つ目のグループは、ニヤーヤ学派、ヴァイシェーシカ学派。私たちの経験や認識、言語など、人間の側に立ち、聖典の正しさすらも論証の対象にします。残りの1グループはサーンキヤ学派、ヨーガ学派で、私たちはどこから来たのかを考え、ヨーガ(瞑想)によりそこへ還る方法を追求しています。ただ、これら6学派がセットで語られるようになったのはごく最近のことで、インド哲学を捉える上でこの6つ以外の考え方がないわけではありません。これらを「学派」と呼んでよいのかも難しいところです。とはいえ、私もニヤーヤ学派に弟子入りし、ニヤーヤ学派の思想家の著作を好んで読んで、聖典や宗教的権威を絶対視せず、経験に基づいた論証こそが重要という反権威主義的な姿勢が気に入っています」
多様な宗教が混在するインドの中で、インド哲学と宗教はどのように関連しているのか。この課題についても西洋的な宗教の概念と現地の人々との間で乖離があることが伺われる。
「哲学と同じく宗教も西洋から持ち込まれた概念です。インドでは宗教と哲学が一体化しているというようなことがよく言われますが、それは当然で、異なるふたつのものがあったわけではありません。ですから、インドにおける知的現象を、『これは宗教、これは哲学』と分類するのは、あまり意味があるものではありません。たとえばミーマーンサー学派の聖典論も、ニヤーヤ学派の認識論も、きわめて宗教的であり、また哲学的でもあります。どちらも宗教かつ哲学であり、同時に、単なる宗教でも単なる哲学でもありません」
2つの方法で読み解く古代インドの思想
独自の宇宙観に基づいて真理を追究するインド哲学。研究においても、長い歴史の中で知的営みを紡ぎ、無限にも感じられる広がりを見せている。
「インド哲学の研究にはさまざまなアプローチがあるのですが、中でも文献学による研究と哲学的研究が代表的です。文献学は割合でいうと圧倒的にマジョリティです。古代の文献を可能な限り正確に読み解き、文献の内容と歴史を解明するのが文献学。私たちが読もうとしている、数百年、数千年前に書かれた文献は、たとえサンスクリット語ができたとしてもなかなか理解できません。読んでみて、何を言いたいのかちっとも分からない文献というのがいくらでもあります。これは、読者の学びが足りないことのほかに、テキストが伝承される段階で文章が改変されたり、保存状態が劣悪で、オリジナルのテキストがわからなくなるといったことが原因となっています。文献学では、多くの古文書を集めて、テキスト批判という方法に依拠してオリジナルのテキストを推定・復元します。このためにインド中の図書館を巡って写本を集めるのが個人的に最も楽しい仕事です。不勉強という点については、著者である古代インドの哲学者の知識に私たちが追いついていないことが原因。その溝を埋めるために、文献学では思想史研究も行います」
古代の思想文献から現代に生きる知恵を得るために不可欠とされるのが、現代の視点から古代の思想家たちの考えを分析する哲学的研究。しかし、その実践には主流派である文献学者から煙たがられるという壁が立ちはだかっている。
「文献学の目標は、文献に書かれている内容を明らかにすること。その先の段階に進み、古代の文献で問われている問題の本質を明らかにしたり、そこから普遍的な価値を得るためには、哲学による応用的な研究が必要になってきます。哲学的研究では、インド哲学以外の知見も取り入れて、さまざまな問題を論じます。私としては楽しく取り組めるのですが、これは、あまり深入りすると『それはどの文献に書いてあるんだ』『知りたいのは文献に書かれた思想であって、あなたの思想ではない』と言われてしまうことになります。こういう研究をやっていると、イロモノ、「あっち方面の人」として見られてしまう。しかし、古代の思想家たちが考えていた問題の本質や構造を明らかにし、現代に通じる知見を得ることは大切なことだと思います。どうにか文献学ともっと手を取り合って進められないかと考えています」
現実を受け入れ、人生を豊かにするインド哲学の考え方
戦争や大規模災害など、不安定な状況が続く世界情勢。現代社会は、ともすればネガティブな感情を連鎖させかねない危険に満ちている。インド哲学の思想は、このような社会で、どのように人々の心を前向きにさせるのだろうか。
「現在の社会が抱える不安定な状況は、インド哲学の考え方においては“やがて滅びゆく世界”の中で必然なこととして捉えられ、改善できるものではないとされるでしょう。末法の世は、いつか滅ぶようスケジュールされていて、その後、また新しい素晴らしい世界が始まります。早く素晴らしい世界が始まってくれればいいのですが、世界がずっとこのままで何百年と苦しみが続く場合はつらいですよね。でも、インド哲学には、この苦痛が続く中で私たちはどのように生きていったらよいか、という知恵があります。端的にいうと現実を『仕方のないもの』として受け入れ、世界の安定ではなく自分の安定、自分の心の平和を実現しようとする考え方です。そのために、不満やヘイトを撒き散らすのでなく、心を乱さずにやるべきことをやって、未来社会でなく未来の自分に希望をもつ。物質的な豊かさが破綻を迎え、価値観の変容が迫られる中で、インド哲学の考え方は、それほど幸せでない世界を生き抜くためのお手伝いができると思っています。私も小さな子どもを持つ身なので、子どもたちが将来、楽しい人生を送れるために頑張りたいと思います」
焦りやもがくことではなく、受け入れることから始めるというインド哲学の人生観。その教えは、さまざまな年代層に寄り添い、現代社会でよく聞かれる「生きづらさ」を解消するヒントも含んでいる。
「若い世代の人たちの間では“親ガチャ言説”や将来に対する悲観など、自分の生を失敗だと捉える考え方が流行する傾向があります。しかし、そこで生まれてきた現実を否定するのではなく、よりよい自分に向かうチャンスなのだと捉えたら自己否定にも走らないし、生きる指針を得ることができます。年配の方でも、人生の終着点を意識したときに『自分は歴史に残るようなことを成し遂げていない。これまでの人生は、いったいなんだったんだ…』と悩む方がいるかもしれません。しかし、インドの考え方で大事とされているのは、今ある世界を後世につなぐこと。自分がインパクトを残すよりも現状を維持して、良いものを残していくことが素晴らしいとされています。それが意義のある人生を過ごした証になるので、偉業を達成していないからといって人生を悲観する必要はまったくありません」
近代化の波を受け、急成長を遂げるインドで、現在も受け継がれるインド哲学。3000年の歴史が積み重ねた叡智は無限の広がりを感じさせるが、「映画を中心とするカルチャーに触れることでも、インドを知るきっかけにしてほしい」と岩崎先生は語る。
「最近の日本では、昨年大ヒットした『RRR』など、シリアスな南インド映画が好まれています。しかし、私は歌って踊って恋をしてみたいな陽気な北インド映画が好きなので、機会があれば、こちらもぜひ観ていただきたい。現地では、都市部の高層ビルのそばでヤギやロバが追いかけっこするような『Incredible India』(信じがたいインド)な光景がみられ、目の当たりにすると本当に価値観が変わります。今は治安の関係で若干注意が必要ですが、新しい世界を知りたいという人には、ぜひ、実際に訪れていただきたいと思います」